病院の厨房に明かりがつくのは、夜が明ける頃。帽子にマスク、調理服を身につけた調理師たちは、それぞれの持ち場について朝食の準備にとりかかります。手際良く調理、盛り付けを進めて、7時45分には配膳車を病棟へ。ひと休みすると、朝9時から出勤した調理師たちも加わって昼食の準備です。仕込み室から下処理を終えた食材を受け取ると、調理室のスタッフはそれをホテルパンに並べてオーブンで焼いたり、大きな回転釜で煮炊きしたり。11時前後にもなると、忙しさはピークを迎え厨房全体にピーンとした緊張感がみなぎります。
「患者さんが待ってくれているので、食事を遅らせるわけにはいきませんからね」
と和やかに話すのは、泉佐野優人会病院の調理師・柑本光彦さん。同病院では、平日は職員の昼食含めて約700食(!)もの食事をつくっているそうです。病院で働く調理師の仕事、同グループの調理に関する取り組みを聞かせていただきました。
<プロフィール>
柑本光彦(こうじもと・みつひこ)
調理師。泉佐野優人会病院 料理長。平成医療福祉グループ 栄養部 業務支援課課長。調理業務支援課 課長。
365日3食すべて違う献立をつくり続ける
平成医療福祉グループでは「みんなに嬉しい食事を」をコンセプトに、365日3食を違う献立を用意しています。和・洋・中だけでなく、47都道府県の郷土料理と5カ国の料理、さらには年間20回前後の行事食などもあります。食材は旬のものを中心に使用。グループ全体で一元管理されたメニューを全病院・施設で提供するため、センターで一括購入してコストを抑えています。
柑本さん「病院調理師の仕事は、管理栄養士さんがつくる献立に沿って食事をつくり、入院している患者さんに提供すること。毎日献立が違うので、毎日の段取りも違ってきます。献立によって動きが変わるのは、厨房としては難しいところではあるのですが、それが楽しい部分でもありますね」
調理の仕事は、厨房に届いた食材が傷んでいないかをチェックする検品からはじまります。魚を捌いたり、野菜を切ったりするのは仕込み室。下処理した食材はパススルー冷蔵庫を経て調理室へと運ばれます。加熱前の食材を扱う場所と加熱後の食材を扱う場所を分け、さらに人の出入りによる交差汚染を防ぐためです。
同グループでは、下処理から調理までを一貫して行う手づくりの調理提供にこだわっています。調理師は、野菜の切り方や盛り付けをできるだけ美しく仕上げる努力を惜しみません。その背景にあるのは、「患者さんの最後の一口を後悔させない」という強い思いです。
柑本さん「大量の千切りやみじん切りをするときはさすがに機械を使いますが、基本的には包丁で手切りしています。その方が見た目がいいですし、野菜の繊維がきれいに切れて、水分が抜ける量が少なくできあがりもきれいなんです」
病院の食事は、衛生管理の観点から事前の作り置きはしません。大きな病院になると、数百食を数時間で仕上げるのでまさに時間との戦い。厨房スタッフは段取りを共有して役割分担をして、各自が優先順位を考えながら、チーム全体で力を合わせて調理の流れをつくっていきます。
さらに、同グループの食事は患者さんの嚥下力や栄養状態によって、複数の食形態で提供されています。献立通りの「常食」に加え、噛む力が低下している人のための2種類のソフト食、嚥下開始食(ゼリー、とろみ)、嚥下訓練食(ゼリー、ペースト、とろみ)などもあります。また、患者さん一人ひとりの体調に合わせて、「ヨーグルトにプロテインを追加してほしい」「付加食の温泉卵を追加してほしい」など、管理栄養士から伝えられるきめ細かなオーダーにも対応しています。管理栄養士から、昼食のオーダーが伝えられるのは午前10時半。数百食の調理と並行して、患者さんごとに異なる食事を間違いなく整えるのは、非常に注意力が求められる作業です。
よりおいしい食事のために
調理師の技術向上のための取り組み
同グループでは、2012年から「献立・調理コンクール(以下、コンクール)」を実施しています。入賞した献立をグループ内で提供。患者さんに楽しんで食べてもらえるメニュー開発のための取り組みである同時に、管理栄養士と調理師が調理の腕を競い合い、技術を高め合う場でもあります。
コンクールでは、各病院施設の管理栄養士と調理師がタッグを組んで献立を考案。書類審査を通過した10施設が決勝へと進出します。決勝では、審査員の前で順位を競います。柑本さんは、第1〜3回のコンクールに参加。最初の2回は2位、3回目でみごと優勝を勝ち取りました。
柑本さん「調理師なので、自分でメニューを考えてつくるのは基本的に好きなんです。2年連続2位だったので、3年目は優勝できてホッとしたしうれしかったですね。優勝メニューは、鳥のトマト煮込みと大根ステーキ、小海老のタルタル、スープ、チョコレートのデザートでした」
2017年からは、調理技術の向上を応援するオリジナルライセンス制度も設けています。給食の調理知識に関する筆記試験と、「魚の下処理・盛り付け」「お寿司づくり」「卵料理」「デザート」「タイムトライアル」の5種類の実技試験をクリアすると「平成フードマイスター」の称号が与えられます。
試験は半年に一度実施され、一度につき二科目まで、あるいは一度に全科目を受けてもOK。ただし、求められる技術レベルが高く、合格率は10〜20%、グループ内でマイスター資格を持つ調理師はまだ10人ほどしかいないそうです。柑本さんは、ライセンス制度がはじまると同時にマイスター資格を取得し、現在は審査員を務めています。
柑本さん「試験ではすべて献立で使う技術に加え、調理師として習得していてほしい技術や知識に関する課題を出します。たとえばデザートならスポンジの膨らみ具合やデコレーションの生クリームがきれいに絞れているか、字がきれいに書けているかなど、出来上がりに対する評価をします。魚の下処理・盛り付けは、切り方や見本通りの盛り付けができているかどうか。卵料理は焦げさせずに焼けているか、錦糸卵はミリ単位でチェックしていますね。どの課題にも制限時間があり、時間内にチェックポイントをクリアしなければなりません」
ライセンス試験に挑むための練習は、調理師のスキルアップの機会にもなっています。そしてもちろん、調理師の技術向上は、患者さんによりおいしい食事を届けることにつながります。
調理の知識と技を共有するしくみづくり
柑本さんは、泉佐野優人会病院での調理の仕事と並行して、2017年に発足した同グループ栄養部の調理業務支援課(以下、支援課)にも所属。現在は同課課長として、グループ全体の食事の質向上や献立立案、労働環境の改善を考える責任も担っています。
柑本さん「業務支援課では、月一回の会議で各病院から受ける相談をもとに厨房業務を改善するほか、コンクールやライセンス制度の運営も行ってきました。立ち上げから6年で支援課のメンバーは11名に増え、病院内の他職種の方たちとのつながり、各病院の調理師さんとの横のつながりも生まれています」
同課での取り組みのなかで、管理栄養士を中心とする厨房管理のあり方を、調理師主体へとグループ全体で変えていくことに。「管理栄養士さんの本来の仕事はやはり栄養管理。厨房の衛生管理やシフト管理は、調理師主体でやるほうがいい」と柑本さん。新たにエリアごとの調理師が集まる「厨房責任者会議」も発足させ、病院・施設の枠を超えて厨房のあり方を話し合う体制も整えました。
柑本さん「それぞれの厨房の困りごとを吸い上げて、各エリアの料理長がまとめて対応していくので、労働環境の改善に向けて風通しがよくなったと感じています。交流の場にもなっていて、お互いに調理のやり方や知識を情報交換できるようになりました。他の厨房での調理方法を伝え合うことを通して、それぞれに仕事の幅も広がっていくのではと期待しています」
どうすればもっと魚がしっとりきれいに焼き上がるのか。卵焼きの表面や内部に気泡が入らないようにするには、何℃で何分くらい焼くのが適切なのかーー調理師たちは、日々の業務のなかでよりおいしく、より美しい食事をつくろうと努力を重ねています。患者さんたちに少しでも「食べたい」と思ってもらえるようにしたい。もしかしたら、その食事は「最期の食事」になるかもしれないという思いもあります。
柑本さん「病院の食事は治療食でもあります。患者さんに食べたいと思ってもらうために、僕らにできるのはよりおいしくつくること、食欲をそそるようにできるだけ彩りよくきれいに盛り付けること。ひと口でも食べて『おいしい』と思ってもらえたら食が進むかもしれません。だから毎日毎食を妥協せずおいしいものをつくろうとしますし、できあがったものに対しては『もっといい方法はないかな』と常に考えています」
厨房は病院の地下にあるため、患者さんと厨房にいる調理師が顔を合わせる機会はほとんどありません。だけど、患者さんが「おいしい」と感じるとき、調理師の気持ちは届いているのかもしれません。
365日3食、休むことなく食事をつくる調理師たちは、今日も夜明けとともに厨房のドアを開けて、病院で日々を送る人たちのために食事をつくっています。
プロフィール
フリーライター
杉本恭子
すぎもと・きょうこ
京都在住のフリーライター。さまざまな媒体でインタビュー記事を執筆する。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)。