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大学卒業後に医療の道へ 「怖い先輩」「冷たい上司」になっていた過去/ココロネ淡路 施設長/平田 哲也さん

介護福祉事業部2019.11.29
介護福祉事業部

大学卒業後に医療の道へ
「怖い先輩」「冷たい上司」になっていた過去

兵庫県淡路市にある障害がある方に向けた就労支援施設「ココロネ淡路」の施設長をしている平田哲也さん。就職氷河期と平成の大合併の影響で大学卒業後の就職先がなかったことがきっかけで選んだ作業療法士という職業。専門学校で出会った仲間とのエピソードや、ココロネ淡路の施設長になるまでの真相についてお聞きしました。ぜひご覧ください!

地元で働くための選択が人生の転機に

最初に出身地をお伺いしたいのですが。

北海道の網走市出身です。高校まで網走にいて、大学進学のときに札幌に移りましたが、大学卒業までずっと北海道に住んでいました。

ずいぶん淡路島からは遠い場所のご出身なんですね。

でも、あと数年で今住んでいる徳島生活のほうが長くなります。以前は、北海道に戻って暮らしたいと思っていたのに不思議ですね。

もともと作業療法士さんだとお聞きしたのですが、大学が医療系の学部だったんですか。

いえ、普通の大学でした。スポーツ推薦で入学したのに辞めてしまって。

えっ!? 何をされていたんですか。

ボートです。高校でボート部に入ってスポーツ推薦で大学に入学しました。入学当初は、大学でもボートを続けるつもりだったんですよ。でも、大学で出会ったボート部の部員たちの体格差は想像以上でした。このまま続けても結果が決まっているように思えてしまい、札幌のキラキラした街並みで別の青春を楽しんでしまいました。

大学生活を謳歌されたんですね(笑)。

そうですね。ただ、僕が大学にいたときは就職氷河期でした。網走に戻って就職したかったので公務員を目指していたら「平成の大合併(※)」が重なってしまい、就職先がさらになくなって、しまいには採用募集を数年しないと言われてしまいました。「どうすれば地元に帰って働けるんだろう」って悩んでいたら、医療系の仕事に就けば網走で働けると教えてもらい、そこで「作業療法士」という職業を初めて知りました。

※平成の大合併…1999年から政府主導で行われた市町村合併。2005年前後に最も多く合併が行われた。

では、大学卒業から作業療法士の学校へ進まれたんですね。

そうですね。作業療法士になる理由は、地元に帰るための手段でした。そんなギリギリの時期に学生募集をしていた徳島の専門学校に惹かれて、北海道から徳島に渡りました。そこで今に続いていく、不思議な縁があったんですよ。

今に続くとなると、かなり長いですね。とても気になります!

僕は「作業療法学科」だったのですが、「理学療法学科」の同級生にリハビリテーション部の池村さん(※)がいました。

※リハビリテーション部 部長 池村 健さん インタビュー記事

えー! すごい偶然ですね。

ですよね、まさかの同級生です(笑)。当時、学生寮に住んでいたので学校が終わると寮に帰りますよね。そしたら、隣に住んでいる理学療法学科の友人が毎晩騒いでいて。朝になると決まって僕の部屋に謝りに来る人がいたんです。それが池村さんでした(笑)。

(笑)。当時から交流があったんですね。 

いえ、当時は学科が違っていたので隣に住んでる友人と同じの学科の人っていう印象のほうが強かったです。「平田くん、いつもごめんよ〜!」ってよく謝ってくれる池村さん(笑)。でも、当時からまとめ役のような存在ではありましたけどね。

その後、池村さんと同じようにグループ内の病院に就職されたのでしょうか。

いえ、僕がグループに入職したのは、今から7年ぐらい前です。ちょうど、リハビリ部内で教育制度の基礎を作り始めている時期でした。

何か、グループに入職するきっかけがあったんですか。

いろいろとありましたね。僕が以前勤めていた職場は、連続休暇が取得できない環境でした。最初は我慢できていたんですが、祖父の葬儀に参列できなかったことがきっかけで、親族のお別れにも行けない労働環境では長く働けないと思っていました。

それは辛いですね。

いろいろ考えた結果、当時の制度や環境は合わないと思い、退職の道を選びました。
退職してフリーターのような感じになって(笑)。友人に仕事の愚痴話をしていると「池村くんが平成医療福祉グループで改革してるから仲間に入ってみたら?」と言われました。ちょうど、就職先も探していましたし、僕が動く前に友人が池村さんと連絡を取ってくれて、入職に至りました。友人に恵まれた結果ですね。

新しい取り組みがスタート
改善したい気持ちが逆効果を生むことも

満を持して入職したリハビリテーション部はいかがでしたか。

当時、今のような教育プログラムが完成する前でした。僕はすでに教育プログラムを導入していた病院で勤務した経験があったので、以前のような環境を変えたいと勢いづいていました。そんなときに、池村さんから「僕がいなくても、その場をピリっとさせる存在が欲しい」という話を聞いていたので、僕が自ら演じていくようになりました。

場をしめる役割を担うことになったんですね。

上から言われたわけじゃなかったので、虚勢を張っていた部分もありました。こうやって振り返ってみると、当時の現場の方にはご迷惑をかけていたなぁと思います。

今の雰囲気からは想像できませんが…。

恥ずかしいですね(笑)。優しく柔らかく後輩を指導することもできたかもしれませんが、間違いをきちんと注意して怒る係をしなきゃいけないときってあるじゃないですか。その役を自分がしないとって思い込んでいました。そうやって厳しい先輩風を吹かしていたときに、兵庫県の南あわじ市にある平成病院へ管理職としての異動を打診されました。

徳島から病院を異動されたんですか。

そうなんです。ただ、僕は徳島から引っ越すつもりがなかったので、異動先の平成病院が「地元」にはならない。言い方がまずいかもしれないんですが、「地元」のスタッフがずっと働き続けるほうが、スタッフにとっても患者さんにとっても最良の環境だろうと考えていました。管理者としてスタッフ育成がある程度できたら、自分のポストを「地元」のスタッフに譲れるようにがんばろうって決意して淡路島に行きました。

目標を定めたうえで、また厳しい平田さんになったと。

(笑)。結果としてそうなっていましたね。決めた目標があったので、2年ぐらいを目処にして現場を整備するつもりでした。厳しく指導しすぎたこともあったと思いますけど、今となっては、病院のスタッフから「自分が平田さんの立場になって理解できたことが多かったです」って言ってもらえたことが、励みになっています。

監督のつもりで見ていた
ココロネ淡路の開設準備

ココロネ淡路の開設のために平成病院を離れることになったんですか。

実は、先頭を切ったのは僕じゃなくて、もっと若いスタッフでした。奮闘できるように病院の管理職と並行しながら裏方で支えていくつもりだったんですが、ココロネ淡路が開設する直前に僕が責任者になりました。

今だから言える苦労話をお聞きしてもいいですか。

たくさんありますよ(笑)。まずは「知らない」っていう問題が大きかったです。実は、ココロネ淡路の責任者になるまで、障害者福祉のことを全く知りませんでした。医療と介護はすごく近い距離で携わることがありますが、福祉になると、ものすごく医療とは遠いところにあるような感覚でした。

なんだか大変そうな雰囲気が漂ってきました。

そうなんですよ。医療とは違う福祉の分野だけじゃなくて、「商売になるか」「継続的に稼げるか」ということを考える日が来るとは、想像もしていませんでした。結果的に決まった「つながる」っていうキーワードにたどり着くまでも長かったですし、これからの活動を「つながる」と関連づける覚悟も必要でした。

「つながる」というのは、何を第一に考えたものだったのですか。

年齢や性別、障害の度合いに関係なく「地域とつながれる場所」を目指そうと思いました。ココロネ淡路は、3障害(身体障害・精神障害・知的障害)すべての方を受け入れているので、垣根なく「つながれる場」であることを念頭に置いて決めました。

「ココロネ」という名前の由来についてもお聞きしたいです。

ココロネは、「心の根」が語源になっています。心の奥にある根っこを大切に育てたいという意味と、地域に根をはった活動ができる施設を目指したいという想いを込めました。グループには、ココロネ淡路以外にもふたつの障害者福祉支援施設がありますが、どちらも都心部にあります。そういった意味でも、立地面の弱みを強みに変えて継続していきたいと思っています。

グループにある障害者福祉施設とのつながりはあるのでしょうか。

大阪にある「淀川暖気の苑」は、障害者福祉事業の活動歴が長く、多方面での活動実績があります。商品開発をするためにいろいろとアドバイスをもらいました。東京にある「OUCHI」は、精神障害の方が地域に戻るための就労サポートをメインにしている施設です。ここは、大内病院が母体になっているので、医療機関との連携という意味で、これから参考にすることが増えていくと思います。グループでさまざまな取り組みがあることが強みや支えになっていますよ。

商品開発に奔走!
悩みに悩んだ商品決め

開設直後のことも教えていただけますか。

最初は、建物が先にドンっとできたのですが、まだ商品ができていませんでした。クラフト素材とコーヒーを商品として決定したのが11月だったので、2ヵ月ぐらいは、利用者さんに請け負ってもらう作業が清掃業務ぐらいしかありませんでした。

今は、クラフト素材とコーヒーの販売を始めていますよね。

そうですね。でも、商品が完成するまでが大変だったんですよ。PALETTE やOUCHIのように、すでに明確なコンセプトがあったわけではないので、まずは思いつくものを提案していく形からスタートさせました。っていうと聞こえがいいですが、商品化をするためのアイデアが浮かばなくて。

相当悩まれたんですね。

めちゃくちゃ悩みました。いくつかアイデアが閃いても、少し時間が経つと「絶対無理だ」って思えてきたり(苦笑)。作業療法士とは全く違う目線で物事を見たりアンテナを張ったりする毎日が来るなんて、想像もしていませんでした。最初は、悩んでいることをどうやって伝えればいいのかもわかりませんでした。数ヵ月前までは作業療法士だった僕はどこに行ったのかな…ってぐらい、全然違う世界ですね。こんなに生みの苦しみがあるとは知りませんでした。

落ち葉の可能性に込めた想い

クラフト素材とコーヒーに絞られたきっかけは何かあったのですか。

このふたつに絞るまでに候補はたくさん出たのですが、コンセプトになっている「つながる」と結びつけるために潜在的な需要があるものを選ぶ必要があるということになりました。人が集まる場所のなかに入っていくものを商品にすることで「つながり」が生まれると考えていました。あとは、施設の場所を活かせるものを。淡路島が持つ自然の豊かさをPRできる商品である必要もありました。クラフト素材であれば「花」以外にも「松ぼっくり」「どんぐり」「落ち葉」などもあって、始めやすいと思っていました。身近で四季を感じられるし、集めたり観察したりできる良さも魅力的でした。

確かにそうですね。

小さい子どもは、落ち葉を見つけたら宝物を拾ったように喜んでますからね。同じ木から落ちても、大きさも形も色づきも違っていて同じものはなく、無限の広がりがあります。

落ち葉も素敵な作品になりますよね。

活用できる可能性はたくさんありますし、自然を相手にすることで、自分たちの手で仕事を生み出せる良さがあります。与えられた作業をするのではなく、利用者さんが生み出す仕事を提供していきたいです。

優しい商品を目指して
奮闘したコーヒーづくり

クラフト素材のようにコーヒーにも何か意味が込められているのでしょうか。

クラフト素材のようにコーヒーにも何か意味が込められているのでしょうか。

ここに注力したというポイントはありましたか。

「病院でも手軽に飲めるコーヒー」という想定を設けました。なので、ココロネのコーヒーはドリップ式のコーヒーじゃなくてバッグ式を採用しています。

この形は珍しいですよね。

ドリップ式のほうが流通していますし、香りが広がりやすいんですけど、入院先でポットしかなかったらドリップ式だと作るのに苦労しそうじゃないですか。点滴中だったら片手がうまく使えないかもしれないし、どんなコップで飲めるかわからない。だったら、紅茶や緑茶みたいにバッグ式だとお湯を注ぐだけで手間が少ないだろうと考えました。

細部にまでこだわって商品開発をされたんですね。

ただ、バッグ式に決めたことで網目がとても細かいバッグを取り扱っている会社を探すことになって、一歩進んだのに二歩下がったような感覚でしたけどね(笑)。

あ〜、それは何とも難しい…。

何も考えずにコーヒーを淹れて飲んでいたのに、すごく商品を観察するようになりました(笑)。僕だけじゃなくて、ココロネのスタッフ全員がコーヒー豆に詳しくなりましたし、淹れたコーヒーの色や香りについて話すこともありました。

開発の大変な部分ですね。

でも、こうやって壁にぶつかって心が折れそうになると絶妙のタイミングで「それだったら、〇〇に詳しい人いるよ〜!」って教えてもらって、二歩下がった足が一歩ずつ進んで。進むとうれしいから、気合いが入って(笑)。

頼もしい助っ人がいたのですね。

そうなんです。あらためてグループの強みを知りましたね〜。職種の壁も関係なく、どんどん交流が深くなっていきました。

新しく交流が増えた部署などはありますか。

たくさんありますよ。例えば、介護福祉事業部(※)のなかに今年から新しく「企画課」という部門ができて、僕が苦戦していた「アイデア出し」は、この企画課が担ってくれるようになりました。こちらの意見を伝えたり、向こうから提案があったり。

※グループの介護福祉事業部について、くわしくはこちらをご覧ください。

グループの強みですね。

そうですね。職員数が多くても全員が同じ場所にいるわけじゃないので、ひとりずつに声をかけられないし、みんながココロネの存在を知っているわけじゃないですが、困っているときには別なんだなぁ〜って。仲間の存在は本当にありがたいです。僕たちの想いを聞いて「協力できることがあれば」「詳しい人を探してみるよ」というサポートに何度も助けられました。同期の存在も心強くて、うれしかったですし、感謝しています。

ココロネ淡路の商品が旅をする?
すでに広がりはじめた出来事とは

ココロネ淡路の商品の近況を教えていただけますか。

「クラフト素材」はかなり活動が活発になりました。グループの各施設が実施している園芸療法では、使う素材を現地でピックアップするケースもありますが、ココロネの素材を使ってもらうことも増えました。クリスマスリースの枠やお正月のしめ縄の稲とか。ここで梱包した素材が、園芸療法士さんに渡って、患者さんが使って…。なんだか旅みたいだなぁって思っています。

クラフト素材が渡り歩いていく感じですね。

面白いでしょ(笑)。ダンボールにカメラでも入れてたら物語になりそうだなぁって。利用者さんが稲の穂をきれいにしているところから、園芸療法でしめ縄になって、患者さんが退院して家に持って帰って…みたいな(笑)。いろんな方向に「つながる」可能性を想像するだけで、すごいな〜!って思います。

クラフト素材はすでにいろんなところで活用されているんですね。

そうですね。より良いものができればという気持ちが利用者さんにも芽生えていただけるようにサポートしていく予定です。あとは、地元の方との交流も増えて「ここの植物を使っていいよ」と声をかけてもらえるようになりました。地域との「つながり」も増やしていきたいです。

ますます活発になりそうですね。来年以降も新しい取り組みを計画されているのでしょうか。

そうですね。来年は商品化したコーヒーの販路拡大に取り組みたいです。現状のコーヒーづくりを利用者さんが安定して作れるようになってきたので、来年以降は生豆から仕入れて、ここで焙煎をした完全オリジナルのコーヒーを計画しています。コーヒー豆を焙煎すると香ばしい香りが広がるので、香りを届けつつ、近隣住民のみなさんにも販売して「ココロネ淡路」の取り組みをさらに押し出していきたいと思っています。

仕事モードからお父さんモードへ
家族と過ごすリラックスタイムとは

仕事が終われば、徳島まで車で帰宅されているんですよね。

そうですね〜。ひとりになれる貴重な時間です(笑)。

それはどういう意味ですか(笑)。

(笑)。そんな深い意味はないです。家に帰ると家族がいて、子どもの賑やかな声もあるじゃないですか。でも、車のなかは僕ひとりしかいないので、頭のなかを整理しながら仕事モードをオフに切り替えて帰っていきます。疲れたな〜って思ったら、ちょっとサービスエリアに寄りながらリフレッシュして。

お子さんはおいくつなんですか。

中学生の長男と小学生の長女がいます。長男はバスケットボールが楽しいみたいで、部活に熱中しています。その姿を見ると何だか成長を感じますね〜。楽しそうにバスケに燃える姿がいいですね。

パパの顔ですね。休日のリフレッシュ法はありますか。

家族でキャンプに出かけます。もともとキャンプが好きなんです。自然のなかで食事をする楽しさと、自然のなかで過ごす時間が最高です。子どもも大きくなったので、気軽にキャンプへ出かけられるようになったことも大きいですね。あとは、おいしいものを食べに行きます。

お好きな食べ物があるんですか。

麺類(笑)。麺類っていうか、主にラーメンですね。

北海道の味が恋しくなって食べに行く感じですか。

あ〜、いや実は、すっかり徳島県民に馴染んでしまって。北海道よりも徳島ラーメンの細麺のほうが好きなんですよ。

そうなんですか! かなり見た目も味も違いそうですね。

味覚が徳島県民になっちゃって…(笑)。でも、年に何度か家系ラーメンや北海道ラーメンが食べたいって思う日もあるんですよ。でも、けっこう遠方まで行かないと店舗自体がないので、すっかり徳島の味が染み付いてきたんでしょうね(笑)。

※家系ラーメン:豚骨醤油ベースで太いストレート麺を特徴とするラーメン。神奈川県横浜市が発祥とされる。

プロフィール

ココロネ淡路 施設長

ココロネ淡路 施設長

平田 哲也

ひらた てつや

【出身】北海道網走市
【趣味】家族とキャンプに出かける
【好きな食べ物】麺類(ラーメンは徳島ラーメン派)

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