理学療法士としてスタートしたキャリア 科学的なリハビリテーションを提供するために奮闘した日々!/平成医療福祉グループ 第一医療事業部 部長/田村 大輔さん
理学療法士としてスタートしたキャリア
科学的なリハビリテーションを提供するために奮闘した日々!
主に関東のグループ病院の管理・運営に携わる、第一医療事業部の田村部長。もともとのキャリアを理学療法士からスタートさせたようで、お仕事を志したきっかけや、当時の現場で戦ってきたエピソードなどをお聞きしています。しっかりと理論立てたリハビリテーションを提供するため、現場で奮闘した貴重なお話は必見です!
父親ゆずりのノリの良さ
お酒を飲んだら…?
出身を教えてください。
生まれは埼玉県です。ただ、田舎は大阪の堺市の上野芝というところです。今は堺平成病院として合併されましたけど、以前にグループの浜寺中央病院があった辺りで、縁があるなと思いました。少年時代は親の仕事の関係で引っ越しも多かったです。
どんなお仕事をされていたんですか。
父が木材の研究をしていました。合板がJIS規格の基準に通るように検査をする仕事で。
すごい堅そうなお仕事ですね。
本人は全然堅くないですけどね(笑)。
そういう血を受け継いだようなところはありますか。
まあ若干ありますね、お酒を飲んだらちょっとはしゃぐところとか(笑)。さすがに最近は抑えていますよ。
障害者福祉に携わる祖父からの勧め
リハビリの道へ足を踏み入れる
医療の道へはどうやって入られたんでしょうか。
うちの祖父が大阪の身体障害者福祉センターの病院長を務めていて、リハビリテーションに積極的に取り組んでいたんですね。
身近にそういうつながりがあったと。
よく話は聞いていて、仕事についても若干レールが敷かれていたところがあったんですよ。
おじいさまが医療職を勧められたのですか。
祖父と、親もですね。祖父は息子たちを本当は医師にしたかったという想いがあったようで、僕に合っていると思ったのか「医療関係の道に進んでもいいんじゃないか」っていう話はしていましたね。叔父が所沢にある身体障害者リハビリテーションセンターで義肢装具関係の部署にいて、そこへ見学にも行きました。
実際に現場も見られたんですね。
当時は興味がまだそこまで無かったんですが、何となくいいなと思って、専門学校に進みました。
終業後にレンジでお酒をチン!
衝撃の実習先
何の専門学校でしたか。
理学療法士(PT)の学校です。ただ学校が全然面白くなくて。例えば実習に行ったときも、教える人が悪い意味で職人っぽかったというか。
それはどんな意味でですか。
仕事が終わったら日本酒をレンジでチンして飲み始めるんですよ。
えっ!
で、「つまみを買いに行け」って言われて。
とても医療現場とは思えない環境ですね。
昔のPTはそういう人も多かったみたいです。「何でこんなことしなきゃいけないんだろう」って思いながら実習を受けて。仕事についても「見て覚えろ」っていうような時代でした。
本当に職人っぽいですね。まだ理論立てられていなかったと。
当時はそんな状況でしたね。「こんな教え方はしたくないな」って思いました。ただ、もうひとつ実習があって、そこで沖縄に行ったんですね。
ずいぶん遠くに行くんですね。
縁あって行かせてもらいました。そっちはとても楽しくて。沖縄の雰囲気が良かったのもありましたけど、そこで出会った先生たちが想いを持って仕事をされていて「リハビリっていいなあ」って思いましたね。最終的にはスタッフの方から「沖縄で働きなよ」と誘ってもらい、気持ちが傾いたんですが「もう少し自分の中で考えを固めてからでないとダメだ」と思って。
一緒に働きたい気持ちはあったけど。
もっと成長してから、あらためて一緒にできたらいいなと思って、泣く泣くお断りしました。みなさん本当に熱い想いを持って取り組まれていましたし、今もずっとがんばっています。
急性期病院でキャリアをスタート
しかし、再びぶつかる上司という壁
理学療法士のキャリアはどのようにスタートされたんですか。
急性期のリハビリテーションに取り組みたいなと思って、神奈川にある急性期病院に就職しました。28、9歳くらいまでは務めましたね。
けっこう長く働かれたのですね。
ここからは話すと長くなりますよ(笑)。
どうぞ(笑)!
仕事を始めてみると、やっぱり葛藤が出てくるんですよ。
それはどういう気持ちなんですか。
「面白くないな」ってまた思ってしまったんです。実習の時と同じで、その職場の上司には悪い意味の職人っぽさが残っていて。
またそういった現場に当たってしまったと。
ただ同僚はけっこう熱い人が多くて、そこからの紹介で、とても良いリハビリの先生と知り合ったことがとても大きかったです。PTをしながら、大学でもリハビリを教えられていて、同僚のつてでその先生の勉強会に参加させてもらったんですが、理学療法を学問にしたい、という考えを持った人でした。今でも尊敬している先生です。
具体的にどういった考えだったのでしょうか。
ただ「マッサージする」「歩いてもらう」ではなく、科学的なアプローチをしていました。検査データや脳画像から評価をしっかりして、そこから理論立てるシステマティックな考えに初めて触れたんです。
当時の田村さんには新鮮だったんですね。
そういう話を聞くと「このままじゃダメだ」という想いが出てきまして。入職して2、3年目だったんですけど、機械工学の大学に入り直したんです。
働きながら大学へ入学!
理学療法に機械工学の理論を生かす
大学へは働きながら通われたわけですよね。かなり大変になったんじゃないですか。
週6で働きながら、1時間くらい早く帰らせてもらって、夜間の学部に通って勉強を続けました。理系なのでもちろん研究もして。かなり辛かったですけども。でも負けず嫌いな気持ちもありましたし、「ここで手を抜くのは止めよう」と思って、必死に取り組みました。
機械工学を学ぼうと思ったのはどういう理由からでしたか。
バイオメカニズムに興味を持ったんです。人はなぜ動くんだろう、なぜ回復するんだろうと考えたときに、そこには力が関係してくるわけです。人の動きを3次元のモデルやロボットで解析すると、例えば関節がダメになったときのシミュレーションができる。そこから、リハビリをすることによって患者さんがなぜ良くなっていくかがわかるようになるわけです。
どのリハビリが体にどう作用していくかがしっかりとわかるようになるんですか。
そうやって、なぜこのリハビリが良いのか、っていうことを言語化できないと、再現性が無いですからね。
それを現場でも生かしていったんですか。
同僚もそうやってがんばっていましたし、感化されましたね。
周りの環境がそうさせたところもあったと。
いい意味でウザいやつらが多かったので(笑)。その同僚たちと、物事の捉え方とか評価基準についてとか、喧々諤々と日々話し合っていましたからね。ただ上司からは完全に排除されていました。
良く思われてなかったんですね。
休みを返上して学びに行っていたし、患者さんもちゃんとみていましたが、新しいリハビリに取り組もうとする僕らに対して、上司からの風当たりは強かったですね。それに対してつい僕も抗うような態度を取ってしまっていました。
ぶつかってきたんですね。
そこで病院の現場から、訪問看護に異動になりました。それが27歳くらいで、大学を卒業する頃でしたね。もうその時は病院を辞めて大学院に進学して、研究だけやろうと思っていましたから。ただ、いろいろな大学院を受けたんですが、やっぱり難しくて。
相当高いレベルだったわけですか。
実際勉強をしていると、過去にやってきた人たちの後追いで、先に進めないんです。そこで「向いてないな」と思いました。
研究だけやっていくのは合わないと。
何となくそう考えていた頃に、このグループと関わるきっかけがあったんです。
訪れた転機
多摩川病院のリハビリ責任者へ転身!
何か転機が訪れたのですか。
先ほど話したリハビリの先生から「知り合いが多摩川病院にリハビリ部門を立ち上げるにあたって責任者を探しているから、田村やらないか」という話をもらったんです。ちょうど迷っていた時なので、せっかくなので受けようと思って、移ることにしました。
リハビリテーションの役職者として立たれたんですか。
はい、5、6人の少人数体制ではありましたけどね。
当時の多摩川病院は、まだ平成医療福祉グループに加入する前ですか。
そうなんですよ。そこがまた面白いところなんですが(笑)。
どういうことでしょう(笑)。
2010年の1月頃、多摩川病院に移ったのですが、当時コンサルタントとして病院経営に入っていた人が厳しくて。新しくリハビリテーションの外来を始めるので、内容をどうするか詰めたり、集患方法をどうするか考えたり、日報を送ったりしていくなかで、どうしてもウマが合いませんでした。僕も生意気でしたし「なんだこいつは?」っていう風に見られていたんです。今思えば当然のことなので、僕が未熟だっただけなんですが。
けっこう戦ってこられたんですね。当時は外部からコンサルタントが入っていたのですか。
そうやっていたんですけど、経営状況があまり良くはなかったんでしょうね。どういう流れかは詳しくわからないんですが、結局その年の10月に法人が変わったんです。
それが平成医療福祉グループだったと。ちなみに当時のリハビリ現場ってどういう感じでしたか。
多摩川病院に移ってからは、治療について理論立てて考えながら、っていうことは実践でき始めていました。
グループに加入して、どのような変化がありましたか。
僕の中では変わりませんでした。もともと方針として、本当に良くしたいっていう想いが強かったですし、グループの「絶対に見捨てない」という理念についても共感できるところが大きくて、あまりギャップはなかったですね。そこは今も現場では変わってないですよね、リハビリテーションも患者さん第一で考えていますし。
最初は感じていた
管理者として立つ葛藤
田村さんが現在のような管理側に立つようになったのはいつからですか。
リハビリテーション部門のスタッフが徐々に増えていき、それをまとめているうち、病院の事務長の補佐もやるようになっていたんです。
管理業務もしながら、現場に出てもいたわけですよね。
患者さんを午前中に対応して、午後には書類仕事をして、っていう感じでしたね。いつの間にかそうなって、徐々に患者さんをみる割合が減っていきました。
管理に回ることについてはどう思ったんですか。
実は最初はちょっと嫌でした(笑)。
現場から離れる寂しさもありましたか。
葛藤がありましたし、その時が一番辛かったかもしれないです。マネジメントについてはわかりませんでしたし、立場上、板挟みにもなりやすい。しかも現場の何十人をまとめなければいけませんでした。だからこそ必死でしたね。当時、事務長が複数のグループ病院を掛け持っていて、多摩川病院にいない時もありましたので、僕がほとんど事務長のような動き方をしていたと思います。
リハビリ職でありながら、幅広く担当されていた。
その代わり、なんでもできるようになりましたね。
その流れで多摩川病院の事務長になったんですね。
そこから1、2年は担当しました。その頃、グループの副代表が診療体制をチェックするために多摩川病院に視察に来て、また少しやり方も変わっていきました。ある程度トップダウンで指示された方が、現場をいい方向に変えていけると思いましたね。厳しかったですけど、どれも当たり前のことでしたし。
理にかなってたから、厳しくてもやっていけたと。
理不尽なことを命じられるのは辛いですが、理にかなっていることを言われるのは苦ではないですから、その点は感覚が合っていましたね。
医療事業部として
事務長と一緒に二人三脚で取り組む
医療事業部という組織はどのようにできたのですか。
グループ内をしっかりと組織立てようという流れで、最初に病院支援部という部署ができました。当初はエリアを東と西に分けていて、僕が東の担当になったんです。後に、エリアがもう少し細かくなって、第一〜第三というように分かれました。第二医療事業部の担当が、以前インタビューに出られていた松木さん(※)ですね。
それ以降、関東エリアの病院全体を見られるように。
その時から、事務長を兼務しながら見始めるようになりました。
実際に管理とはどういうことをされるんですか。
それぞれの事務長が持っているタスクを見ながら、実際どんなものを抱えているのか、どういう優先順位でやっているのかをチェックしています。スケジュール通りに遂行されているのか、目標に対して遅れているとか、目標値を下回っているなどを見て、現状の分析と、問題解決を一緒に考えて、解決策の提案もしていますね。
二人三脚じゃないですけど、事務長と一緒になって取り組まれるんですね。
まだまだ足りない部分も多いですが、それぞれの事務長や事務長代理ががんばって取り組んでくれています。本当は直接足を運びたいのですが、今はテレビ会議のシステムが整ったので、基本は遠隔で対応しています。それとグループ内の数値データ管理がしっかりしてきたので、現状が見える化されて、やりやすくなりましたね。
例えば病院の経営状況が悪化したという時は、どのように改善策を練っていくのですか。
まずは運営・経営指標の数値データと経験則から、経営状況が悪化している要因について仮説を立てます。次に現場の状況を確認して数値データとの因果関係を探り、主な問題に対してアプローチを進めるといった流れです。問題は人の問題もあれば、組織や仕組みの問題、または建替えや改修、病床機能や病床数の再考など、根本的な改善策が必要なものまでさまざまです。
幅広い視点から検討が必要になってくるのですね。事務長さんたちをまとめるのに何か心がけはありますか。
仕事上、言うべきことは言いますが、理不尽なことを言わないように気をつけています。そうなると付いてきてもらえなくなってしまいますから。でもみんな一生懸命仕事に取り組んでくれています。
難しいですが大事なことですね。
これは、事務長に関わらず、どんな職種にも言えることですが、厳しい指導があったとしても、そこには大切なことがエッセンスとして含まれています。僕自身も、気づけないことがたくさんありましたが、奮起してやってきたので、諦めずに挑戦し続けてほしいですね。
リハビリテーションとも通じる
事務長のお仕事
そもそも事務長というお仕事は、どんなところにやりがいがありますか。
グループとしての方針はもちろんあるんですが、その病院としての方向性を最初に考えられるところです。全体を見ながら、いろいろな部署と関わって、全体を動かすというところに魅力があると思います。
さまざまな職種とのハブになって、大きな目的へ向かっていくと。
今はリハビリテーションの現場からは離れましたが、組織を良くしていくという点では同じだと思っています。「絶対に見捨てない。」という高い志に向かって、悪いところはテコ入れして、良いところは伸ばしていく。組織のなかでの悪い部分を、事務長を中心に、もしくは事務長を介しながら改善して、全体が同じ方向に向かって最大の効果を出せるようにしていくわけです。
組織という体をうまく機能させる役割があるんですね。
アプローチした結果によって、組織が良くなったり、病院サービスが向上したりするわけです。グループではQuality Indicator(※)も始まりましたし、そういったことで診療の質が上がって行くっていうのが喜びだと僕は思っています。
※さまざまな評価項目と明確な指標を設けて「診療の質」を視覚化する取り組み。 グループの診療の質向上への取り組みについてはこちらをご覧ください。
患者さんに「良かった」と言っていただけるのが一番ですよね。
取り組みが地域から認められて、喜んでいただけるのが何よりですし、グループ全体がそうなればいいなと思います。
どんな人が向いていると思いますか。
数字やデータの扱いっていう、机上のことに長けているだけでなくて、実際に現場に足を運んで動けることも大事です。スタッフはみんなそれぞれ想いを持って仕事をしている、その想いを大事にしながらも、グループとしての方針も進めていく。そこで軋轢を生まないバランス感覚を持てることですね。
グループ病院としての課題はどんなことだと思いますか。
スタッフの教育だと思います。これからは全部署で役職者を育てていくことが必要です。グループの方針を現場にしっかりと落とし込める人材が、各所に枝葉としていることが大事です。
そういった教育面も意識されて、事務長さんとも接しているのですか。
意識してあたっています。学問的なこともそうですし、心構えについても「こういうことが必要だよ」っていうのは仕事で伝えているつもりではいます。いずれは教科書じゃないですけど、形としてまとめられたらなとも思っているんですが、なかなか手がつけられていないです(笑)。
車内で刻むビート
テンションを上げる音楽とは
お休みの日の過ごし方を教えてください。
上が小学校6年生、下は小学校2年生になる子どもがいるので、家族と過ごすことが多いですね。
上のお子さんは来年中学生なんですね。距離感はいかがですか。
まだ大丈夫ですよ!臭いとも言われてないですし、好かれていると自負しています(笑)。
(笑)。趣味はありますか。
あんまりないんですが、音楽ですかね。昔はメロコアを聞いていたので、CDなんかもいっぱい持っていましたけど。今でもテンポが速い音楽が好きです。
どんな音楽が好きなんですか。
EDMっていうんですか。音が少しずつ増えていって、その裏の音をずっと追うのが好きなんです。いろんな音が増えて重なっていくところがいいんです。
サビでワーッと盛り上がって。
そう、あとリズムが変わるところがあると、そこも「おおーっ」て盛り上がります(笑)。
(笑)。どういう時に聞かれるんですか。
運転中に聞いてますね。通勤の車内で聞いて、仕事前にテンションを上げています(笑)。インドネシアのファンコットっていう音楽もすごく好きです。
インドネシア発の独特なダンスミュージックですよね。
そうです。やっぱり速くてキレのあるものがいいですね〜。
日々の癒しは何かありますか。
家族はもちろん、あとは家で飼っている猫ですね。2歳のブリティッシュショートヘアなんですけど、かわいいですね〜。
いいですねえ。名前はなんていうんですか。
もふです。
「もふ」はひらがなですかカタカナですか。
特に決まってないんですが、「MOF」だと思ってます(笑)。
かっこいいですね(笑)。最後に、尊敬する人はいますか。
僕に学問としてのリハビリテーションを教えてくれた先生です。人生に大きな影響を与えてくれましたね。
どういったところに影響されたのですか。
それこそ「絶対に見捨てない。」という熱量を持っているんです。現場で学びながら、現場から変えていこうという気持ちが強くて。僕もそういった想いを持って仕事をしていきたいです。
プロフィール
平成医療福祉グループ 第一医療事業部 部長
田村 大輔
たむら だいすけ
【出身】埼玉県
【職種】理学療法士
【好きな食べ物】天下一品のラーメン(もちろんこってり)
病院情報
医療法人社団 大和会
平成扇病院
内科・リハビリテーション科・精神科
2016年4月に開院。内科病床と精神科病床を有していましたが、地域の医療ニーズに応えるため、2020年4月に内科病床を中心とした、医療療養病棟60床、回復期リハビリテーション病棟60床の病院機能にリニューアル。積極的なリハビリテーションはもちろん、脳血管疾患後の高次能機能障害の神経学的な鑑別など、引き続き『こころとからだ』の両面に対して幅広いアプローチを実践、地域のみなさんが安心して在宅で生活できる後方支援病院を目指します。