病棟事務から総務の仕事へ 人前が苦手な青年が、事務長職にたどり着くまで!/印西総合病院 事務長/森元 厚志さん
病棟事務から総務の仕事へ
人前が苦手な青年が、事務長職にたどり着くまで!
印西総合病院で事務長を務める、森元厚志さんです。広島ののどかな米農家に生まれた森元さんは中学時代の体験を胸に、医療の道へと進みます。当グループに入職後、徳島、東京、千葉と各地でキャリアを重ねてきた森元さんですが、時には挫折も経験したと話されます。事務長を務めるまでの経歴を中心にお聞きしました。ぜひご覧ください!
タコの町の米農家に生まれた
特進コースで勉強漬けの日々
ご出身はどちらですか。
広島県の三原市というところです。尾道の隣ですね。
どんなところでしたか。
高校生までしかいなかったので実はそんなにわかってないんですけど、タコが有名ですね。
海の街なんですね。
そうですね。ただ実家は海から離れていて、農家をやっていました。お米を中心に、それ以外にもいろいろ作っていましたよ。
じゃあお手伝いされた経験も。
小さい頃はよくやっていて、楽しかったですよ。今は田植えも機械ですけど、当時は手でもやっていましたね。稲刈り後の田んぼにブランコを作ってくれたりして。
ブランコですか?
木で組んだ骨組みに、ロープ状にした稲を通して作ってくれたんです。それで遊んでた記憶はあります。
すごいDIYですね! その後部活などはされていましたか。
中学校ではバスケットボール部に入りました。ちょうど『スラムダンク』が流行っていた時期だったので友達に流されて。でも高校では、特別進学コースのようなクラスに入ったので、部活動に入れなかったんです。
だいぶ勉強熱心だったんですね。ではかなり勉強漬けの毎日だったのですか。
ん〜、特別熱心なわけではなかったと思います(笑)。ただ、平日は放課後も予備校と中継をつないでサテライト授業をやっていましたし、帰りに寄り道して遊ぶような時間はなかったです。
徹底してますね! 何か思うところがあってそういったコースに進まれたのでしょうか。
自分に勉強が必要だなと思ったんです。きっかけが、中学3年生の時の実習で、近所の保育園と、特養に行ってボランティアをしたとき、どちらも自分にとって楽しかったんですけど、特養に行った時の方がしっくりくるものがあったんですね。当時は今以上に内気で大っぴらに心を開ける性格ではなかったので、保育士は仕事としては難しそうだなと思ったのもあるかもしれません(笑)。
(笑)。ではその体験がきっかけになって。
そこから福祉や医療に興味が湧いて、それには勉強をしないといけないなと思ってそういうコースに進んだ記憶があります。実際に何の道に進むかは、3年の間に決めればいいやという気持ちでしたね。
勉強中心の生活だったと思うのですが、青春めいたことは何かありましたか。
ないですね〜、楽しいことがあったら何か覚えてるはずですから(笑)。三原に1つだけゲームセンターがあったので、友達とよく一緒に行ってました。
不真面目に過ごした大学時代を経て
グループ病院へ就職
その後は大学に進学されて。
迷いはしたんですけど、やっぱり医療・福祉系に進もうと考えました。ただ、介護や看護の現場の仕事をしよう、という風にはならなくて、岡山にある医療福祉系の大学の医療情報学科に進みました。
どういった学部なんですか。
4年間通うと、診療情報管理士の受験資格を得られる学部でしたね。基本はパソコンを使っての実技が多くて、Word、Excelの授業や、プログラミングなどもやりました。培ったパソコンの技術は、かなり今も役立っていると思います。
森元さんとしては診療情報管理士の資格は取りたいと思っていたのですか。
そのために入ったわけではなかったんですが、実際入って勉強するうちに、資格取得のためにがんばろうかなと思った時期もあったんです。
「あった」ということは実際は。
取らなかったです。ちょっと遊びに走ってしまって(笑)。悪い友達ができてしまったんですね。
では、ちょっと授業は控えられて。
けっこうギャンブルできる場所が多い土地柄だったんですよ。地元から通っている同級生はそういったことにくわしい人が多くて…本当に親には申し訳ないですね(笑)。
就職はどうされたのですか。
かなりギリギリになってから動き出したんですが、そこでこのグループの博愛記念病院(徳島県徳島市)の面接を受けて、採用されました。
徳島県に就職したのは何か理由があったのでしょうか。
僕が入っていた大学のゼミから、博愛記念病院に先輩が何人か入っていたんです。
何かつながりがあったのですか。
それが特になくて、たまたまその大学から何人か就職していたようで、教授から「徳島にこういう病院があるけどどう?」っていう話を聞いて、面接を受けて、採用していただいたんです。
医療知識の基礎を身に付けた
病棟事務の仕事
キャリアのスタートはどんなお仕事でしたか。
まずは病棟の配属になって、診療情報管理士が行うような仕事を担当していましたね。
お仕事としてはどういったことになりますか。
例えば肺炎であれば「Jの〇〇」というように、病気に応じてコードが決まっているので、それを打ち込んで、統計学的に分析を行う仕事です。ただ、グループではちょっと特殊で、システム管理の仕事もして、何でも屋な部分もあります。
では最初はシステムっぽいお仕事も携わっていたのですね。
電子カルテの管理なんかもやっていましたね。配属の先に大学の先輩もいて、みなさん優しく仕事を教えてくれて、とてもありがたかったですね。そのうちに、医師の回診についていく、病棟事務の仕事に変わりました。
そちらはどんなお仕事になるのでしょう。
医師が患者さんを診て話した内容を電子カルテに打ち込んで、検査や点滴、薬のオーダーを代行で行うものですね。今では医師事務とも呼ばれています。仕事を通じて医療用語の知識をつけることができましたし、全く知識のなかった当時の自分にとっては、とても濃い内容の仕事でしたね。
そこで学んだことも多かったのですね。
最初は略語で言われても全然意味がわからないわけです。それをひとつひとつメモしながら学んで。先輩たちもそうですし、その時ついて回った先生も優しく教えてくれました。その経験で身につけたことは大きかったですね。
今につながる仕事の基礎になったと。博愛記念病院ではその後どんなキャリアを重ねられましたか。
そのうち、グループの副代表が、当時博愛記念病院に医師として入ってきて、私が病棟事務を担当することになりました。1年くらい担当した頃、グループが東京に世田谷記念病院を開院するということで、副代表も準備のために東京に移ると。そこで僕にも、東京に行って手伝ってくれないか、という話をいただきました。
そこで東京に異動することになったのですね。
驚いたのですが、行ってみようと思いました。そこで初めて病院総務の仕事に携わることになったんです。
病院総務として東京へ
心が折れた時は外に走った
病棟事務の仕事から、今度は総務の担当に。
初めは何をしたらいいのか全くわからなかったです(笑)。なのでひたすら当時の事務長から頼まれた仕事をやって、とにかく当時は準備準備でバタバタしていましたね。
開院してからはどんなことをされていましたか。
いろいろルールを決めたりという仕事もありましたし、僕は売店の担当になったので、商品の発注をしたり、とにかく世田谷記念病院ではいろいろやりましたね。
幅広い仕事に携わっていたのですね。
カルテが博愛記念病院と同じだったので、それを現場で教えたり、システム管理者の仕事もしたり、本当に何でもやりました。スタッフさんからの相談窓口にもなりますし、多岐に渡っていましたね。
総務の仕事をやられてみていかがでしたか。
仕事の内容自体は楽しかったんですが、けっこう挫折もありましたね。
挫折…どんなことがありましたか。
ベッド稼働状況のことや、ほかにもさまざまな問題があり、そこで何度か心が折れたんです…。一度、副代表から指摘を受けた後に「もう無理だ!」って思って、走って外に出ていったことがありました(笑)。
えっ(笑)! みんながいる前でですか。
いえ、気づかれないようにスーッと出て行って、頭を冷やすためにその辺を少し歩いて、また戻って仕事をしました。
頭のなかがいっぱいいっぱいになってしまった。
けっこう1人で抱え込む性格だったんですね。結果的にそれで報告が遅くなることが多々ありました。
どうやってそれから気持ちを保たれたのですか。
そういうことがあってから、副代表が「自分1人だけでできることは限られているから、周りのみんなに振り分けていこう」っていうアドバイスをくれたんです。「確かに自分1人じゃ何もできないな」と思って、すごくしっくり来ました。自分で抱え込んだところで、結果が出せないなら意味が無いですし、そこからまたがんばれるようになりました。
その後は仕事のやり方も少しずつ変えていかれて。
今もなんですけど「大きな問題があったら、まず一個ずつやっていこう」っていうことを、周りのスタッフみんなにも口癖のように言ってます。大きいものを抱えすぎると、何からやっていいのか見えなくなってしまうので、どうしようと思っている間に時間が経ってしまう。まずやることをリスト化して「最初にできることはなんだろう」っていうことを考えて、順々にやっていきましょうと。
こうした一件が働き方を考えるきっかけになったのですね。
そうでないと続けていけなかっただろうなと思います。
ついに印西の地へ
そしてまさかの事務長へ
印西総合病院へ移られたのはどんな事情だったのでしょうか。
当時、印西総合病院が、このグループに経営譲渡されることが決まって、開院準備が進んでいたんですが、なかなか忙しくて手が回らなくなってしまっていたようで、手伝ってきてほしいと話を受けたんです。
元々はどんな病院だったのですか。
小児科と産婦人科の病院で、総合病院化する準備をしていたタイミングで経営が変わることになったようでした。
森元さんは移ってどんなお仕事をされましたか。
指示を受けながら、また総務として開設準備に携わりました。改装も必要でしたのでその手配や、行政などへの届け出についても、その時初めて教わりました。そのことを通じて、総務としての経験はかなり積めたとは思います。当初はグループでの経験者が一緒にやってくれましたので、一つひとつ教わりながら。
周囲にもそういった方がいて。
恵まれていたと思いますね。これについてわからなければ、この人に聞けばいい、という環境が揃っていましたから。グループの強みだと思います。
特に土地勘のないところに移られて、不安もありそうですね。
僕自身、当然この近辺の情報が何もわからなかったのですが、前身の病院から残ってくれた事務スタッフさんにいろいろ聞いて教えてもらっていましたね。
事務長に就いた経緯を教えてください。
開院して2ヵ月くらい経ったところで、「事務長をやらないか」という話が僕に回って来たんです。
話を受けてどう思いましたか。
「無理です」って言ったんですけど、「できるできる!」って説得されて(笑)。
ずいぶんシンプルな説得ですね(笑)。
ただ、評価してくれてたっていうことではあるのかなと思いました。とは言え、その時はまだ事務主任で、僕の性格上、人前で話すのも苦手ですし、旗振り役をするのも苦手でしたから、不安ではありましたね。
でもそこで引き受けられたんですね。
一度持って帰れば良かったのに、その場で「やります」と答えたのが失敗でした(笑)。でも基本的に「やってみないか」と聞かれて、「やらない」とは返事しないんですよね。これもチャレンジだなと思いました。
「嫌われてもいい」を胸にしまいながら
自分に合った みんなを巻き込むスタイル
実際に事務長になってみていかがでしたか。
最初は人から嫌われることがすごく怖かったんですね。そこで一度気持ちが折れました(笑)。立場的に、下からも言われるし上からも言われるし、でも言わないといけないことは言う必要がありますし。
難しい立場の役職ですよね。どう対処されたのですか。
副代表が「ご飯食べに行こう」ってお寿司屋さんに連れて行ってくれて、悩みを聞いてくれたんですね。
どんなアドバイスがありましたか。
「嫌われて何が悪いの?」って。「それよりも、1人大事な人がいて、その人に信頼されていればがんばれるんじゃないかな」っていう風に言われました。僕もチョロいので、それで「確かに」って思い(笑)。嫌われても仕方ないなって思いながらストレートな物言いをしていた時期はありましたね。だからこそ反発もあったと思いますし、実際に嫌われていた気もします。
またそこから仕事の仕方は変えていったんですか。
やっぱりこのスタイルは自分には合ってないなと思って、無意識かもしれないですけど、徐々に変わっていきました。
どういう風に変わっていったんですか。
正直、事務長として僕に何ができるかっていうと、先頭に立って「ついてこい!」っていうタイプではないと思うんです。どちらかと言えば、みんなを巻き込みたい。僕は事務上がりで、ほかの事務長さんより数字や医療的なところには強くはないですから。なので、みんなに聞きながら、ひとつずつ一緒にやっていく、っていうタイプだと思っています。
問題があっても、自分だけで解決するのではなく。
「一緒に考えよう」という姿勢ですね。なので、時間はかかると思うんですけど、信頼関係もできていきますから。
話し合って解決できれば、その分みんなの満足度は高いかもしれないですね。
片方の意見を聞きすぎるのも良くないので、まずはどちらの話も聞いて、引っかかった部分をすり合わせていきながら調整して、結論を導いていく。結果、患者さんのためになるのはもちろん、みんなが楽しく働けるようにっていうのが一番いいと思っています。
徐々にそういったスタイルに落ち着いていったのですね。
スタッフに「一時は話しかけにくい事務長だったけど、今は話をよく聞いてくれる」って言われて、やっぱり自分にはこっちの方が合っているんだろうなと思いました。
全員がそのやり方ができるわけではないかもしれないですね。
でも「嫌われてもいい」っていうことは、いい意味で自分のなかでは残っていると思います。どうしても言わなければいけないっていう時は、それを思い出して、言うようにしていますね。この言葉で救われたと言うか、こういうアドバイスがなかったら続いていなかったかもしれません。
地域ニーズに対応できる病院へ
印西市の患者さんのために機能を充実
印西総合病院を開院から見られていると思うのですが、どのような変化を辿ってきましたか。
外来については、常勤医師が担当するようになっていくうちに、地域の患者さんに信頼していただけるようになって、段々と軌道に乗ってきたなと思います。新型コロナウイルスの問題が起きるまでは、外来患者さんの数は右肩上がりでした。印西市の人口増加にも伴って、というのもありました。
入院はいかがですか。
最初は入院患者さんに来ていただくのに苦労しましたけど、こちらも病棟の機能を変えて、充実化を図りました。回復期リハビリテーション病棟と医療療養病棟に加えて、今は地域包括ケア病棟もできました。それに伴って、地域連携室のスタッフが営業活動に取り組むうち、徐々に信頼をいただけるようになったと思います。急性期病院から入院患者さんをいかに早く受け入れて、いかに早くご自宅に復帰してもらうか、という一連の流れが、当院でできるようになってきたと思っています。
病床の機能変換というのも高齢化などの地域の実情に合わせてということですか。
実は印西市は高齢化の進みが少し遅いんです。駅前の開発が進む地区は特に若いファミリー層の移住が多くて、旧市街と呼ばれる、以前から多く人が住まれているところは、ある程度高齢化が進んでいるという状況です。
高齢化がが進むことを見越した機能の変更なのですね。
なおかつ、旧市街側は少しここから離れているので、病院に通うのが難しいこともありますから、そのために訪問リハビリを早い段階で始めたんです。さらに、介護部門を通じて印西総合病院を知ってもらいたい、という思いもあって、デイケアも同じように始めました。
一連の流れ、ということで言うと、訪問サービスがあることでご自宅に戻ってからの安心にもつながります。
今は訪問事業である「てとてと印西」もスタートして、訪問看護もご利用いただけるようになりました。在宅部門はより強化していきたいです。訪問診療の医師も増えましたので、タッグを組めばかなり強いですね。今後は24時間対応化して、さらなる充実を図りたいと思っています。
健診センターの機能も備わっていますね。
以前の法人から続いているものなんですが、受診される方も徐々に増えていますね。新型コロナウイルスの影響で検査数が落ち込んではいたんですが、感染予防対策の実施とともに、総務スタッフが営業に力を入れてくれたおかげで、徐々にまた増えてきています。
今後も地域のニーズに応じた医療の提供を続けていくと。
以前、当院の原崎院長もこのインタビューでお話ししていましたけど(※)、印西市内では今も総合病院が当院と日本医科大学千葉北総病院だけですから、機能の充実は命題だと思っています。
※印西総合病院 院長/原崎 弘章先生 インタビュー記事
新型コロナウイルス感染拡大による
病院への影響は大きかった
新型コロナウイルスの影響のお話が先ほど出ましたが、実際のところいかがでしたか。
入院も外来も患者数が減少しましたね。外出を控えるために外来への来院が減ることで、外来受診からの入院という流れも、伴って減りました。そもそも病院に行きたくない、という方も増えましたし、訪問サービスについても「今は控えたい」と断られる方もいました。
今は感染予防を優先したい、というお気持ちですね。
例えば訪問リハビリなら継続して行った方がいいですし、身体のためには必要なことではあるんですけど、どうしても時期的には難しかったですね。
5月の終わりに緊急事態宣言の解除された後はいかがでしたか。
一時期は外来受診される方も以前の半分くらいまで落ち込んでいたんですが、外来スタッフのがんばりもあって少しずつ戻ってきていて、7月時点で7、8割程度までは戻ってきました。デイケアも同じような状況ですね。また感染者数が増えていくと、今後どうなるかはわからないのですが。
入院に関してはいかがですか。
以前は稼働率が100%を超えていたんですが、こちらもだいぶ落ち込みました。ただ、地域連携室のスタッフが今回すごく力を入れて、急性期病院を中心に紹介をお願いしてくれました。医療的に難しいケースであっても、院内と調整しながら受け入れを進めてくれて。病棟スタッフも相当がんばってもらった結果ですね。
大変ではあったけど、そういった奔走が功を奏したと。
そういった受け入れを重ねてできた信頼が、さらに紹介につながっていったのだと思います。あとは他の病院への声がけ自体も頻繁にしてくれていたので、それも良かったみたいです。7月時点で9割くらいまで戻ってきました。これについては、地域連携室にいる師長さんが事前に動いてくれました。
素晴らしい先読みですね。地域で名前を知ってもらうということの重要性も伝わります。
地道な作業の積み重ねが重要だということが、今回よくわかりました。外来、入院、訪問と、引き続き感染予防の対策を徹底しながら取り組んでいきたいと思っています。
また、新型コロナウイルスのPCR検査もやられているとお聞きしました。
また、新型コロナウイルスのPCR検査もやられているとお聞きしました。
検査を受ける方と一般の患者さんとの動線は分けられているのですね。しばらくは検査体制を続ける予定ですか。
検査を受ける方と一般の患者さんとの動線は分けられているのですね。しばらくは検査体制を続ける予定ですか。
これも地域で必要な役割、ということでしょうか。
保健所としても、地域で検査体制や外来の受け入れ体制が整っている医療機関があるのは良いことかなと思います。
対応されるスタッフさんも大変なことが多そうですね。
固定のスタッフ6人ほどに担当してもらっているのですが、本当に大変な苦労をかけていますし、各部署からもそのために人を出してもらっているので、各方面の協力で成立していることだと思っています。
救急、訪問機能を強化して
地域密着多機能病院のモデルケースに
ここまで目まぐるしく病院も変化してきたと思うんですが、今後はどういった展望をお持ちですか。
今時点では新型コロナウイルスの影響からの回復を目指すことが大きいですね。さらに今後は、救急患者さんの受け入れに力を入れていきたいと考えています。やっぱり救急対応をお断りしては、地域に根ざした病院とは言えないですから。完全にはまだ体制が整ってはいないので、徐々に整備を進めて、受け入れ件数を増やすことを今年の目標にしています。
なかなか時間のかかる取り組みではあるのですね。
徐々に進めてはいますが、達成が難しいですね。印西市内で受け入れができないと、隣の白井市の病院に搬送されるんですが、印西市の患者さんであれば、やっぱりご自身が住んでいる市内で診られる方がいいと思いますので。目標を立てて3ヵ月ごとに見直しをして、受け入れを増やしていきたいですね。
救急以外に今後強化したいところはありますか。
今やり切れていない部分を、もっとしっかりやり切りたいというのが一番ですね。訪問サービスもそうですし、デイケアもまだまだできる部分がありますので、もっと力を入れていきたいです。できれば、よくグループで言われる「地域密着多機能病院(※)」のモデルケースのようになりたいですね。「『地域密着多機能病院』と言えば印西総合病院」と言われるようになれたらいいなと思っています。
ドライブとテーマパークで仕事を忘れる
今後求めるのは「安定」
プライベートのことを伺います! お休みはしっかり取れていますか。
基本は土日にちゃんと休んでいますよ。
どんなことをされていますか。
以前は平日に録りためた番組をひたすら見ては寝るっていうことを繰り返していたんですけど「それは良くない」と周囲から言われまして(笑)。ちょっと前に車を新しくしてから、ドライブにいくようになりました。
アクティブになりましたね(笑)。どういうところに行くんですか。
全然知らないところに行きますね。漠然と「あっち方面に行ってみよう」みたいな感じで。運転すること自体が好きなので、遠出も苦にならないんです。
車に乗ること自体お好きなんですね。
仕事から離れられる環境だからかもしれないです。あと最近は行けてないですけど、テーマパークも好きで、ディズニーランド・シーもよく行きましたし、USJも以前はよく行きました。水族館も好きですね。ディズニーランドなんて、行くと仕事の辛さがなくなるじゃないですか、そういうところが良いんですよね。
まさに夢の国ですもんね。ちなみにお1人で行くわけでは…。
1人じゃ行きませんよ! 以前は一緒に行く人もいました…(笑)。
なるほど…(笑)。今後、個人的な目標はありますか。
ん〜「安定」が欲しいです。
え、それはどういった意味で。
家庭が欲しいですね(笑)。
その意味での安定ですね(笑)。
周りの先生から「結婚すると、より仕事ががんばれますよ」って言われて、思わず「なるほど」って思ったんですよね。
何かこうアピールするとすればなんでしょうか。
シャイなので、つい自分から心を開くのは時間がかかるんですけど…聞き役は好きなんですよ。
お仕事でもプライベートでも、人のお話を聞くのがとても大事にされているんですね!
プロフィール
印西総合病院 事務長
森元 厚志
もりもと あつし
【出身】広島県三原市
【趣味】ドライブ、旅行
【好きな食べ物】甘いもの全般(エクレア、スイートポテト、プリンなど)
病院情報
医療法人 平成博愛会
印西総合病院
救急外来・整形外科・リハビリテーション科・内科・小児科・循環器内科・神経内科・外科・脳神経外科・皮膚科・眼科 ・耳鼻咽喉科・泌尿器科・乳腺外科・婦人科・形成外科
安全で質の高い医療を継続して受けられる後方病院としての機能を充実させ、総合病院としての機能を果たすことを目標としています。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。