アメリカでの大きな経験を胸に、印西の地で総合病院の構築を目指す/印西総合病院 院長/原崎 弘章先生
アメリカでの大きな経験を胸に、印西の地で総合病院の構築を目指す
心臓外科医としてキャリアをスタートさせ、70年代から長くアメリカで医療の現場に携わった経験のある原崎先生。その多彩な経歴はまさに歴史そのもの。穏やかな話しぶりの中にも、熱い思いが溢れるインタビューとなりました。
父親の姿を見て目指した医師への道
ご出身はどちらですか。
父が満州の大連日赤病院に医者として赴任していましたので、大連で生まれました。
終戦後に日本に戻られたわけですね。
昭和23年に佐賀県の唐津に引き上げてきました。そこで父が診療所を開きました。
医師を志したのはいつ頃ですか。
小学生の頃になります。ずっと医師として働く親父を見てましたから、その影響ですね。親父は毎日、午前・午後の診療の後、16時ごろから往診に行って、それから帰って19時ごろにはまた患者さんが診療所にいる。その診察が終わって、やっと22時ごろに夕飯を食べる、という生活をしていました。産婦人科が専門でしたから、お産のときには昼夜の別なく働き、さらに月に2回は徹夜をしていました。
「大変そう」とは思わなかったですか。
そうは思いませんでした。町の人たちが親父に感謝の気持ちを持っていて、僕らにそれを伝えてくれたんです。自然と医師を志すようになっていましたね。
心臓病の患者を救うため、70年代にアメリカへ
先生の経歴の中ではアメリカでの生活が長いですが、どのような経緯で行かれたんでしょうか。
当時、全世界的に心臓外科では、複雑先天性心疾患(ファロー四徴症など)の心臓手術死亡率が高く、20%もあったんですね。今では1%も切るほど下がっていますが。みなさん良くなるために手術を受けるのに、その中の5人に1人が亡くなってしまうのは、とても残念なことだと思いました。
私が行ったクリーブランドクリニックは、心臓手術で世界一と言われていましたし、人工心臓の研究も盛んでした。だからそれを学びたいという気持ちがずっとあったんです。そしてチャンスがあり、1976年に渡米することとなりました。
その頃、先生のように海外に留学に行かれる方はいましたか。
当時ですからそう多くはなかったですね。僕が若い頃はアメリカっていうのは豊かな国で、特に当時は輝いていましたし、憧れでした。しかも医学の世界もリードしていましたので、行きたい気持ちが大きかったですね。
クリーブランドクリニックではすぐ現場に立たれていたんですか。
そうですね。2002年までいて、最初はフェローとして行ったんですが、後々、助教授・准教授・教授になることができました。
アメリカと日本の医療現場で、どのような違いを感じましたか。
患者さん中心の医療、「Patient Centered」ということですね。クリーブランドクリニックには世界レベルの医師がたくさんいたんですが、その先生たちが1人の患者さんを診るためにみんな協力してくれるんです。アメリカは医師の専門が縦でハッキリと分かれていますが、横の連携は非常に良いので、まさに患者さんを中心として専門家が集まってくるんです。これは従来の日本の医療とは逆の考えです。
それは先生が印西総合病院でも目指されているところでしょうか。
当然そうです。患者さんを中心とし、各専門医・コメディカルの力を結集した、高いレベルの医療を、また当グループの理念である、「絶対に見捨てない医療」を目指します。もしほかの医師が断る患者さんがいても、僕が診れる疾患・患者さんであれば、絶対率先してお世話します。
学生には「自分を燃やし尽くすほどの経験」をしてほしい
アメリカでは教鞭も執られていたそうですね。
クリーブランドクリニックの他にも、すぐ近くにあるノーベル賞受賞者16人を排出したケースウェスタンリザーブ大学の医学部と工学部の准教授にしていただき、アメリカの教育にも深く関わりました。
アメリカと日本で教育現場の違いはありますか。
アメリカの大学では勉強をしていないとついていけません。特に医学部の学生はよく勉強します。臨床研修が終わる頃のアメリカの学生の実力は、日本の2年目の研修医くらいはあると感じていました。また、大きな違いは、学生が事前に予習をしてくるのが当たり前ということです。授業はだいたいディスカッションを中心に進行します。
みんな知識がある状態で、踏み込んだ話をするわけですね。
そういうことです。あるテーマについて話を聞いていくと、みなさん手を挙げて議論にどんどん参加するし、興味を持って答えてくれるんで、教えていても楽しいですね。また、アメリカの医学部は、四年制の大学を卒業した色々な分野の学士の資格を持つ学生しか入学できません。そのためか、人間性に幅がある人が多かった印象があります。
現在医療を学んでいる、もしくはこれから医療を学ぼうとしている方にアドバイスはありますか。
大学というのは今からの人生のポテンシャルを作ってくれるところなんです。学生のときもそうですが、卒後研修の場で、また、自分のキャリアを作っていくうえで、自分を燃やし尽くすくらいの、「精一杯やった」と思える経験をしてほしいと思います。それでこそ「自分自身が生きる人生」ができると思うんですね。医療に限らずどの分野でも一緒だと僕は思います。
先生ご自身が学生から刺激を受けるということもありますか。
それもありますよ。若い人と会話するのは本当に楽しいことです。ただ、日本の若者言葉がわからないことがたまにあります。
(笑)。どんなことがありましたか?
みなさん、言葉を短くされるんですね。例えば、ニューヨークで「グラセン」って言うんですよ。何だろうなと思ったら「グランドセントラル駅」の略なんです。また看護師さんが「この患者さんはハイパテがありまして」って言うので、何かと思ったら「ハイパーテンション(高血圧)」のことでした(笑)。
なるほど(笑)。先生もそういった略語を使われるんですか。
ほとんど使いませんね(笑)。
まさかの事態! 渡米の初日にCAさんに…
先生は、アメリカに行かれるときはもう英語を喋れるようになっていたんですか。
「かなり喋れる」と自分では思っていました。というのも、大学生の頃は福岡のアメリカの領事館で英会話教室に通っていましたし、当時福岡にあった米軍基地の方とも仲良くなって英語で話していました。さらに大学を卒業してすぐECFMG(※)に合格していましたから。これだけ聞いたら、どんだけ英語が喋れるんだって、思うじゃないですか。
現地でも通用しそうですね。
ところがアメリカ初日、ロサンゼルスからクリーブランドに行く飛行機に乗ったときのことです。飛行機からは雄大なグランドキャニオンの景色が見え、それはもうすごいんです。そうなると、つい一杯飲みたくなるじゃないですか(笑)。そこでCAさんに声をかけてお酒を頼みました。しかし、そこで何かをベラベラと言われまして、わからないままウンウンと頷いたんです。そこで何が出てきたと思います?
えーっ、なんでしょうか?
まさかのトマトジュースですよ!
(笑)。予想だにしないものが出てきたんですね!
それがアメリカの1日目。大好きなお酒が出てこない。さらに悔しいのは「これは違う」と言えないことですね。ちびちびとトマトジュースを飲みながら「情けないなー」と思いましたね。
自分を受け入れてくれたアメリカ、その経験が大きな糧に
アメリカ時代に苦労したことはありますか。
いっぱいありますけど、やっぱり向こうの病院に行っても競争なんですよね。僕は言葉のこともあって、アメリカ人の同僚の3倍は勉強しなきゃいけないなと思っていつも覚悟していました。そこが、苦労した点であり、同時に楽しみでもありましたね。
それは知識欲というか好奇心というか。
いやあ、やっぱりアメリカ人に負けたくなかったからですね(笑)。
負けず嫌いなところもあるんですね(笑)。
ただ、たった1人、日本人として飛び込んだ場所とはいえ、やっぱりプロとプロ同士ですから、そういう競争相手であっても友達になるんです。メジャーリーグに行った大谷さんを見てもわかるように、実力があればちゃんと評価されますよね。
他にアメリカで印象的だったことはありますか。
NIH(※)という、アメリカの生物医学の研究の総元締めのような機関があって、アメリカ全土の医者が自分の研究に使う費用の申請をしてくるんですが、外科/生体工学部門の審査員を一時僕が務めていたんです。日本人の僕がですよ!
えー、すごいですね!
(NIH時代の写真を指差しながら)僕ここにいますけどね、一流の人しかいませんでした、僕以外は(笑)。審査員になったのが渡米して8年目くらい。これを日本に置き換えて考えてみると、海外から医者が来て8年在住して、文科省あるいは厚労省の研究費の審査する権限を果たして与えるでしょうか。考えちゃいましたね。アメリカには懐の深いところがあります。
日本ではちょっと想像しづらいですね。 ご自身の成長に関してはアメリカでのご経験が大きかったんでしょうか。
そう思います。まあアメリカは悪いところもたくさんたくさんありますが、いいところもたくさんあるんですね。だから自分でいいところだけを選んで学べばいいことなんじゃないかと思いましたね。
印西市の医療のために、 大事な基礎を固める時期
現在のお仕事に振り返ってお話を聞きたいのですが、印西総合病院の現状を教えてください。
印西市は東洋経済が発表している「住みよさランキング」で、6年連続でトップに選ばれているように、多くの人たちにとって住みやすいところなんですね。ただ、市内にはほかに日本医科大学千葉北総病院しか総合病院がありません。ですからまずは一つの目標として、総合病院の機能をしっかりと持つこと。さらにもう一つは、その医療レベルが世界のスタンダードに達するような高い基準のものをご提供できるようにしたいと考えています。これは5年、10年かかることだとは思います。
では今まさに基礎を作っているところですね。
そうですね。また、印西市っていうのは56%の救急車が外の自治体に行ってしまっています。これは恥ずかしいことです。救急の患者さんは、本来私たちと日医大とで受け入れないといけないわけですから、その救急システムを作る必要がある。そのためには医者を集めなければいけないですし、医者を集めるためには、病院の経済的基盤を作らなければいけない。今まさにそこを構築しているんです。
そのほかにどのようなことが重要でしょうか。
日本は今、誰も経験したことがない、少子高齢化社会を迎えようとしています。それに対応した新たな医療、環境の構築が必要です。私たちの病院も、そのように変化に順応するのみではなく、一歩先を進んだ病院になりたいと考えています。
若者が、夢を持って働ける環境を
印西総合病院の働きやすさについてはどうお考えですか。
病院に限らずどんな組織でも、顧客が満足するのは当然なんですけども、もっと大切なのはスタッフ満足度が高いことなんですね。僕がいたクリーブランドクリニックは、スタッフ満足度が全米平均と比べてもとても高かったんです。そうした経営を見てきた経験も反映できればと思っています。日本に帰って16年が経ち、いくつかの病院を見てきましたが、印西総合病院は最も楽しく働くことができると感じています。これもスタッフ皆さまのおかげです。
満足度を高めるために具体的にどのようなことに取り組まれていますか。
一番大切なのは人事考課です。人はやはり自分が認められている場所でしか本当は働けないんですね。「精一杯、燃え尽きるぐらいやってみろ」って言ったってね、評価されていなければできないことですから。そこでキチッと人を評価する、というのが一番大切だと思います。そして当然お給料はどなたにとっても大切なものです。これがしっかりお支払いできて、いい人に来ていただけるようにしたいと思っています。
評価と対価がしっかりとしていることは、とても重要ですね。
あと大切なことは、人には「夢」がないといけません。やっぱり一人ひとりに夢を持って働いてもらいたいんです。僕が「人工心臓を作って、日本に持って帰って患者さんに使う」という夢を持ってアメリカに行き、それをある程度実現することができたのは、本当に幸せなことだったと思います。それと同じように、若い人たちの夢を実現できるようにして、できれば印西総合病院でずっと働いていてもらいたい。そして、ここで働くことを「嬉しい」「誇らしい」と言ってもらえるような病院にしたいんです。
働く者としてはそれが何よりだと思います。
これは真剣に考えています。ですから、一人ひとりの職員の人生の半分を預かっている、という気持ちでいますし、その責任はすごく重たいです。来ていただく人たちに「ここで働けて良かった」と思ってもらえるような場所を作るのが、僕の役目だと思っています。
やはり、ひいてはそれが患者さんのためとなるということでしょうか。
もちろんそうです。満足している人は仏頂面をしません。満足している人は人に対して優しくなり、親切になり、人のために尽くすことができます。
旅行で必ずする 「特別なお願い」とは
お休みの日はどのようにリフレッシュされますか。
自分の健康維持のため、ジムによく行きますね。ほかにもトレッキング、音楽、読書が趣味です。
旅行などは行かれますか。
外国で生活をし、夫婦2人で子を育て家庭を作ってきましたから、家族の絆をずっと大切にしています。そのために、家族旅行をできるだけするようにしていました。日本にいる間は、富士山が見たいですから、河口湖のそばの温泉に時々行きます。そのホテルのマネージャーと仲が良くて、子どもたちが日本に帰ってきたときもそこに連れて行くんです。僕はそのマネージャーにいつも特別なリクエストを出すんです。
どんなことですか。
「今度行きますから、また富士山がちゃんと見えるようにしてください」とお願いするんです。そうすると、「わかりました、頼んでおきます」って言ってくれますね(笑)。
天気の要望なんですね(笑)。
今のところ毎回見えています、はい(笑)。
プロフィール
印西総合病院 院長
原崎 弘章
はらさき ひろあき
【生年月日】1944年2月23日
【出身】満州国大連市
【専門】心臓外科
【所属学会】アメリカ医学会/アメリカ心臓病学会/日本医師会/日本慢性期医療学会
【趣味】山登り(国内、アメリカでも)、音楽鑑賞、読書
【好きな食べ物】日本食、特にお寿司