良い病院にしたい、でもできなかった…事務長職としての挫折がリスタートのきっかけを生んだ/平成横浜病院 事務長/日高 正明さん
良い病院にしたい、でもできなかった…
事務長職としての挫折がリスタートのきっかけを生んだ
平成横浜病院で事務長を務める日高正明さん。ケーキ屋の息子として育った日高さんは最初の就職先である病院では、旅館や農業など、なかなか経験できないさまざまな仕事をされました。しかし、その後体験した事務長としての大きな挫折が、当グループへの転身のきっかけとなったそうです。当時の奮闘ぶりやバラエティ豊かな仕事のエピソード、「開墾」「デコポン」など気になるワードが飛び出します。ぜひご覧ください!
ケーキが好きじゃないケーキ屋の息子
では出身から教えてください。
出身はあまりピンとこないです。引越しが多くて、幼稚園も小学校も3回くらいずつ変わっていて。
頻繁に引っ越されているんですね。差し支えなければ、どんな都合だったのでしょうか。
親が職人としてケーキ屋に勤めていて、その関係で異動が多かったんです。小学5年生くらいの時に群馬県の前橋市に自分のお店を持ったので、そこからは前橋に住んでいました。
ケーキ屋さんは今も前橋にありますか。
今もあって、もう30年は続いていますね。今でも年に1回、クリスマス時期には帰って手伝いをしていますよ。
ちなみに職人になってお店を継ぐということはなかったのですね。
全然なかったです。まず、甘いものが得意じゃなくて、ケーキもあまり食べないんです(笑)。
家業なのに、意外ですね(笑)!
それと手先が器用じゃないですし、ケーキに興味が薄いから商品開発もできませんし。
ご両親から、お店を継いでほしいと言われたこともなかったですか。
本心はどうかわからないですけど、両親は自営業の大変さを知っているので、同じ想いをしてほしくないという配慮から、そういうことも言われてこなかったのだと思います。
当時からお店の手伝い自体はされていたのですか。
一通りは手伝ってましたよ。学校が終わった後とか部活が終わってからとか。基本的にお店の仕事が終わってから家族そろって食事という感じでした。
なるほど、食事は必ずお店の仕事を終えてからだったのですね。そういう生活が当たり前だったと言いますか。
家が自営業の人って、そうじゃない人と感覚が違うと思うんですよ。仕事場も家も一緒なので、そこに差がないというか。育ちながらずっと仕事も見てるので、仕事とプライベートがそんなに分かれてないんです。それが良いとか悪いとかではなく、そういうものだと思っていましたね。
田舎から都会に憧れる学生時代…
ちなみに部活動はどんなことをやられていましたか。
中学時代はバスケットボール、高校時代はハンドボールをやっていました。
けっこうしっかり打ち込んだ方でしたか。
そうですね。ハンドボールは県3位でしたよ。
おお〜っ。
ただ、全部で12チームしかなかったので(笑)。でも県優秀選手にもなりましたよ。
おおすごい!
全体が少ないから、1年からベンチ入りさえしていれば、誰でも入れるんですよ。そもそも部員も少なかったですし(笑)。
(笑)。高校卒業後はどうされましたか。
大学に入学して、神奈川に引っ越しました。
では一人暮らしも始められて。大学生活はどんな感じで過ごされたのでしょう。
完全におのぼりさんでしたね。せっかく都会に出てきたし、遊びたいが先行していたわけですよ。
大学生らしい自由な感じですね。どんなことをしていたのですか。
バイトもしていましたし、あとはパチンコとか。
なるほど、ほどほどにギャンブルも嗜まれて。
ほどほどに…ですね(笑)。
え〜、この話はこのくらいにしておきましょう(笑)。
デコポンを作り、旅館のフロントもやった
なんでもありの総務職
大学卒業後はどのように進まれましたか。
当時は就職氷河期ですから、そもそも採用が少なくて、卒業時は内定がない状態でした。なので一旦、実家でも手伝おうかなと思って。ただ、2年くらいはそんな感じで生活していたんですが、このままじゃ良くないと。そこで、ある病院に経理として就職しました。
病院を就職先として選んだのはどんな理由がありましたか。
当時は不景気で会社がたくさん潰れて、企業に対する信頼感がなかったので「病院なら国に守られているから、それなりの規模のところは潰れないだろう」って、わかってないのでそう考えたんです。
安定を求めた結果だったと。実際入職されてみてどうでしたか。
いろいろ学ぶことがありましたね。まずはデコポンの作り方を教わって。
えっ、柑橘類の?
病院にはオーナーがいたんですけど、病院のほかにも法人を持っていて、不動産やエステやロッジ、飲食店と、手広く事業を展開していて。
数ある事業のうちの1つが病院だったのですね。
500床以上ある病院だったので、それなりの大きさがあるところなら安心かなと思って。で、入ってみたら、入職時研修という名の農作業があったんですよ。地方に農地を持っていて、そこで新人が作業をするんですけど、山の高いところからオーナーが見守っているんですよ。
なるほど…そこでデコポンの作り方を学んだと(笑)。
そうこうしているうちに旅館事業が始まって、なぜかそれも担当することになって、仲居さんから「旅館業とは」を教わりながら、フロント業務もやりましたよ(笑)。
予想だにしない仕事ですね(笑)。それは病院の仕事もやりながら?
そうですね、病院のことをやりながら、月に何回かは旅館に行ってという感じでした。
全く違う仕事も振られて、大変ではなかったですか。
それはそれで面白かったですよ。カリスマ性のあるオーナーで、怖い存在ではあったけど、僕からしたら人間味があって魅力ある人でした。だから農作業にしても「今度これを植えよう」って嬉しそうに話されたら、もうやるしかないなと。その人がそうしてほしいって言ってるなら、やってあげようって。
そこで働くうちに、立場も上がっていかれたんですか。
そうですね。いろんな事業が増えるたび、なんだかんだ全部に関わっていて。市場への買い付けとか、フードコートの店舗管理とか。病院の仕事もしながら、やらないことはない、っていうくらいいろいろやりました。畑を作るために開墾もしましたから。オーナーから「あの山を開墾してこい」って言われて(笑)。
人生でなかなか言われる機会がないセリフですね(笑)。それだけたくさんの仕事を抱えて混乱しませんでしたか。
何かわからないことがあるたび、いろいろな部署に行って、わからないことを教えてもらっていましたからね。これを経験したからか、今も仕事が多くなっても、混乱することはあまりないと思います。
いよいよ病院業務に本腰
しかしそこで味わった挫折
そこでは事務長職もやられたのですか。
そうですね、いろいろあっていつの間にか事務長になっていました。
オーナーの方は「こういう医療がやりたい!」という方針はありましたか。
医師ではなかったですし、方針は現場に任されていましたね。なので、そんなに力を入れていたという感じもなかったです。で、そのうちにオーナーが代替わりしたことをきっかけに、病院のあり方を見直さないといけないなと強く感じるようになっていきました。
病院を本業として本腰をもっと入れていくと。
ただ、そこで変革したいなと思って働きかけたんですけど、僕と幹部たちのなかであまり考えが合わなくて…。僕としては、時代が変わっていくなかで、ずっと同じやり方ではやっていけないと考えたんですけど、なかなか提案も受け入れてもらえず…。
変革したい気持ちがあったけれど、全体には波及させられずに。
それと「良い病院」っていうのが漠然としていました。そこで、日本慢性期医療協会(日慢協)に入ったんです。このグループの武久代表が協会の理事長を務めていて、病院にとっては耳の痛いことをストレートに言うわけですよ。でも、それを聞いた時「その通りだな」って。
そこで聞いた話を現場に生かそうと。
でも、結局どうしてもうまくいきませんでした。僕も当時はその病院しか知らないので、事務長が自分だからうまくいかないんじゃないかって、最終的には思ったんですよ。少なくとも「変えられない」と思ってしまった人が事務長なのは良くないし、あらためて一から病院について学ぼうと思って、10年くらい働いた頃、病院を離れることにしました。
釣りをして一休み
新たな場所で医療を一から学ぶ
辞めた後はどうされたのですか。
釣りに行きましたね。
え、釣り?
釣りをしてみたかったんですよ。でもなかなか時間がなかったので。
せっかく時間ができたからと。釣れましたか?
道具も色々買ってみて、海に行ってみたんですけど、全然釣れませんでした(笑)。ちょうど時期が冬で寒かったですしね。
時期が悪かったですね(笑)。そこから転職活動をされて。また医療系で探されたのですか。
その頃にちょうどこのグループの事務長候補の求人が出てました。実際に、日慢協で話を聞いて共感したところがあったので、応募してみよう、と思ったんです。
事務長経験をこのグループで生かそうと思われて。
でも、別に事務長が絶対やりたかったというわけではなかったです。やっぱり「自分は事務長として、変えていけなかった」という意識がありましたから。前職でいろいろなことをやらせてもらいましたけど、次は医療に専念しているグループで、病院のことをちゃんと勉強したいと思いました。
悔いのような気持ちが自分のなかに残っていたのですね。
変えたい気持ちがあったのに変えられなかったので「どうしたら病院が良くなるんだろう」ということはずっと考えていましたね。
グループならではの
横のつながりを実感
このグループに入職してからのことを教えてください。
まずは第一医療事業部長の田村さん(※)に一緒について回るっていうことで、当時ちょうど足立区に平成扇病院が開設される時でしたから、最初はそこに行ってグループのことを学びながら、開設のお手伝いをしました。
ちょうど入職時期が開設のタイミングだったのですね。
その後、この平成横浜病院で仕事をすることになったんです。当時はまだ前任の事務長もいたので、病院のことを教わりながら一緒に動く感じでしたね。ただ、体調を崩されてその事務長が急遽退職することになったので、後を受けて事務長になりました。
当時はどんな状況だったのですか。
その頃、総合健診センターのリニューアル、病床の増床、医療と介護の同時改定と大きな変革が控えていたんですが、事務長になった時は、その計画実行初期の段階でした。
なかなかハードそうな時期にバトンを受けたのですね。
もう必死でしたね。当時を思い出せないくらい(笑)。でも、職員みんなでがんばって、昨年の6月には総合健診センターはリニューアルオープンができました(※)。前職の単体病院の頃と違って、グループからの応援が得られるので、とてもありがたかったです。
医療現場を一から見たいと考えて転職されて、実際このグループに来てどう感じましたか。
特に良いと思ったのは、みんな勉強熱心だなっていうことですね。勉強したいというスタッフが多いし、グループもそれを後押しするところがいいなと。
教育については各部門で体制がありますからね。
職種を問わないグループ学会も開催してますし、グループだからこそ、みんなで知識共有ができるっていう強みを感じます。ある病院の部署のレベルが上がったら、ほかの病院でも同様に上げることができるわけですから。
部門でノウハウを共有しているのは大きいですね。
単体の病院でがんばってきた身としては、特にいいなと思った部分ですね。グループで誰かのレベルが上がれば、それが全体に波及していきますから。
横のつながりがあるからこそと言いますか。
僕自身、ここでわからないことがあっても、グループのほかの事務長やそれぞれの本部スタッフに直接相談できますからね。
ケーキ屋のお手伝いから身についた
目的思考の仕事スタイル
事務長に就く前と後で、仕事はどう変わるものでしょうか。
決定的な部分としては、「判断」と「決定」をしなければならないといったところでしょうか。ただ、事務長としての責務が増えるのは当然ですが、僕としては「自分が事務長だからこれをやらないと」と考えて仕事をしているわけではないですので。それよりも「これをやったら面白い」「これは病院のためになる」っていうことを考えています。
そうやって仕事をしているうちに、後から役職がついてくると。
働きを認めていただけるのは、ありがたいですよね。ただ、僕は変わり者なので、程度はあるでしょうが「役職がなければ何かができない」とは思えないんですよね。僕としては、あくまで役職は責務を果たすうえで、組織から与えられるひとつの武器だと思っています。
事務長としての仕事の仕方は、前職の頃とは変わりましたか。
うーん。良くも悪くもスタイルはあまり変わってないかも。自分のコアとなる部分や感覚は前からあって、職場が変わったとしても、そこで自分が変化していけばいいというか。
そういったスタイルはいつから備わったのですか。
実家がケーキ屋という家業をしていたことが大きいと思います。お店のことを手伝っているうちに「どうやったら効率良くなるんだろう」と小さい頃から考えるようになるんです。
自然と仕事の効率を考えるようになっていたと。
もうちょっと具体的に言うと、「どうやったら早くご飯食べられるかな」っていうことを考えていました。
ご飯! どういうことですか。
いつも、お店の仕事を終えてから、家族そろってご飯を食べていました。「なるべく早くみんなで食卓を囲みたいな」と思ったら、仕上げをする父親のために道具を先に出しておく、不必要な道具を片付けておく、手が空いているうちに別の仕事をしておく、とか、仕事が早く進むようにっていうことを、小学生ながら常に考えるようになるんです。
かなり早い段階で身についたことだったのですね。
「目指すもののために自分は何をすればいいか」っていう目的思考がいつの間にかできるようになっていましたね。僕にとっては目的にきちんとたどり着けることが大事なので、そのための方法についてはこだわりが無いんです。
ゴールにたどり着くまでの過程は柔軟に選択していくわけですね。
自分がいなくても回っていく病院に
これからの課題は組織化
事務長と一口に言っても、求められることも幅広そうですね。
基本的には何でも屋だと思っています。その病院ごとで求められることや、立ち位置も違いますから。本当に事務、裏方として仕事をする人もいるだろうし、調整役に徹するっていう人もいれば、リーダーシップを発揮する人もいるでしょうし。
ご自身ではどんなタイプだと思われますか。
う〜ん、どうなんでしょう。結局全部やるかも(笑)。でも、少なくとも自分がいないと病院の仕事が進まないということがあっては良くないなと。
誰が抜けてもちゃんと運営が滞らないような体制ですね。
それが「組織化」ということなんだろうなと思います。この病院って、今までずっと駆け抜けてきたと思うんです。2013年に運営がこのグループに変わって、総合健診センターもリニューアルされて。僕自身も駆け抜けてきたし、病院全体もそう。以前は病床も95床でしたけど、徐々に増やしていって、この12月からは183床ですから。
倍近くになったんですね!
これで、病院として目指すべき金型がやっとできたと考えています。卵が先か鶏が先かという話なんですけど、なかなか外身と中身を同時に完成させるのは難しいですしね。これからはさらに医療サービスの質向上に向けて、本格的に取り組んでいければと思っています。
自分の代わりとなるような事務長スタッフの育成も考えるのですか。
あまりそういう風には考えていないかもしれないです。一緒に切磋琢磨できる仲間を増やしたいなというか。そういう仲間が何人もいたっていいですし、その環境からその仕事をやるのにふさわしい人が育てばいいですから。
必ずしも自分である必要はない。
この病院にとって良ければ、それでもいいと思っています。それを基準に考えていますね。
求めるのは「最大多数の幸せ」
病院にとって「良い」ということは、どんな基準で判断されていますか。
「最大多数の幸せ」です。
なるほど、それは患者さんもスタッフも、みんなが幸せになるっていうことですか。
そうです、だからいろいろな視点を持って、広範囲を見る必要があります。ただ、全員ハッピーになれるのが間違いなく一番良いんですけど、基本的にそのプランってすごく難しいわけです。
そういう時はどう判断されるのですか。
ベストを求めて歩みが止まるなら、ベターでも行動するようにしています。もちろん「より良いものがほかにあるんじゃないか」っていうことは常に考えながらですね。
ベストを求めながら、場合によってはベターも選択肢として取られて。
事務長としては常に決断の連続なので、そうしたことが判断基準になります。もちろん、患者さんファーストではあるんですけど。さらに、スタッフのこと、経営のことなどを考慮しながら、病院としての価値が上がるのかを考えています。
病院の価値とはどのように上がるものなのでしょうか。
例えば、どこかを改装したいという話があったとして、必要があるならもちろんやった方がいいと思うんですが、改装することで患者さんへのサービスをどうよくできるかってことを行動レベルで現場のスタッフがしっかりイメージできていることが大事ですね。「自分たちがやりたいからやる」「普通はこうだ」ということではなくて、現場のスタッフから要望が挙がってきたときに、別の視点から見てどうだろうと一緒に考えています。病院の価値が上がる要素のひとつは、そうやって各セクションが自ら考え、改善することの積み重ねだと思っています。
地域のみなさんに
もっと選んでもらえる病院になるために
今後の平成横浜病院の目標を教えてください。
この病院は急性期病床の機能もあるし、回復期リハビリテーション病棟、地域包括ケア病棟もあって、昨年開院したグループの堺平成病院のような「地域密着多機能病院(※)」の実践がまずは使命だと思っています。
※地域密着多機能病院:地域に密着し、地域が必要とする医療を提供する病院。くわしくは堺平成病院のサイトをご覧ください。
グループの命題とも言えるものですね。
それと、神奈川県はグループの介護施設が多くあるので、そのセンター基幹病院っていう役割も持っていかないといけません。そのためには、介護分野への協力も大切です。施設への医療的フォローや、施設から病院へのバトンタッチもあると思いますし。
県内のグループ施設にとって、中心的な役割を担う病院になっていくという。
今も平成横浜病院は過渡期なんだと思います。もともとは社員の福利厚生のための企業立病院として始まった歴史がありますが、運営が平成医療福祉グループに変わったことで、より地域に開いた病院として、選んでいただけるようになっていかないといけません。
病床が183床に増えるというのもその一環ですか。
そうですね。これまでは拡大期だったというか、この病床数になったことで、ある程度自分たちのスタイルが固まりましたね。今までももちろん手を抜いていたわけではないんですが、これからが充実期に入っていくところだと考えています。
先ほどもお話ありましたが、中身の充実を進めていくということですね。
そのためには、外を見ていくことが必要です。この地域がどうなっていて、自分たちはどういった位置にあるのかということを理解しないといけません。
自分たちの位置付けについてはどうお考えですか。
少なくとも、特定の治療を受けるために、遠くから電車を乗り継いで来てもらう、という病院ではないと思います。それより、地域にお住まいの方にとっていかに使いやすい病院であるか、ということが大切です。
わざわざ遠方から予約取って訪れるということではなく。
だからそ、この地域に必要なことをやっていくと。リハビリテーションの分野に強く、急性期の機能を持った病院は意外と少ないと思いますし、そういった対応できる幅があるのが、この病院の強みだと考えています。
実は無水カレーを作るくらいの
凝り性タイプ
休みの日はどうお過ごしですか。
出かける時もありますし、寝てる時もありますし、料理する時もありますよ。
料理についてはケーキ屋での経験も関係しているんですか。
そうですね、作ることに抵抗は全然ないです。レシピサイトを見ながら作るのは、プラモデル作りと同じような感覚があると言うか(笑)。
わかる気がします(笑)。どういうものを作られるんですか。
作ったことないものを作るのが好きですね。鶏の水炊き鍋を、長い時間かけて、出汁からじっくりとって作ってみたり、トマトと玉ねぎで無水カレーを作ってみたり。
けっこう手がかかるものを作られるんですね! 味はいかがでしたか。
酸味は強めでしたけど、おいしかったですよ。好みがあるとは思うんですが。
仕事以外でやりたいことはありますか。
う〜ん、なんだろう…猫を飼いたい。
どんな猫がいいですか。
三毛猫ですね。雑種っぽいのがいいなあ。顔がまん丸ででかいやつですね。
では最後に、好きな食べ物を教えてください!
蕎麦ですね。ザル蕎麦。
お気に入りのお店はありますか。
えーと、ないです(笑)。
ありがとうございました(笑)。
プロフィール
平成横浜病院 事務長
日高 正明
ひだか まさあき
【出身】群馬県前橋市
【趣味】作ったことのない料理を作る(今は)
【好きな食べ物】蕎麦(ザル)
病院情報
医療法人横浜 平成会
平成横浜病院
内科・神経内科・呼吸器内科・消化器内科・循環器内科・外科・泌尿器科・皮膚科・整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科・歯科・歯科口腔外科・麻酔科・脳神経外科
地域に根ざした病院として、一般病棟、地域包括病棟を備え、回復期リハビリテーション病棟を新設しました。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。2018年6月には、総合健診センターがリニューアル。地域の健康を支えていけるよう努めています。