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原点は離島で暮らした幼少期 適切な医療を届けるために医師として取り組みます!/平成医療福祉グループ 医療政策マネジャー/坂上 祐樹先生

医療事業部2019.04.19
医療事業部

原点は離島で暮らした幼少期 適切な医療を届けるために医師として取り組みます!

グループに医療政策マネジャーとして携わる医師、坂上祐樹先生。グループ病院の運営・経営に医師としての立場で関わる坂上先生。前編では、長崎県の五島列島で育った幼少時代と、そこから離島での医師を志した理由や、その後、厚労省の医系技官に転身された経緯や、そのお仕事の詳細などについてお聞きしました!

のどかな五島列島
近所のおばあさんの元で育った幼年期

出身を教えてください。

長崎県の島原市です。半島で有明海に面していて、よく言えば自然豊かですが、悪く言えば田舎ですね(笑)。実家は島原だったんですが、両親の仕事の都合で小学生までは五島列島で育ちました。

五島列島も島がたくさんあると思うんですが、そのなかではどちらですか。

小値賀島っていう島で、当時は人口4000人くらいだったかな。島原よりもさらに田舎でしたね。コンビニもありませんでしたし、当時は空港もあったんですけど今は無くなってしまって。

だいぶのどかな環境ですね。

家からすぐ海という環境でした。遊ぶのもいつも海でしたね。

小値賀島と島原でまた全然雰囲気が違いましたか。

違いましたね。島では周りの人がみんな僕のことを知っていて、「ゆうちゃん、ゆうちゃん」って呼んでくれていて。

やっぱり距離感が密接なんですね。ご両親はどんなお仕事をされていたんですか。

2人とも教員でした。長崎県は離島が多いので、島に赴任することはよくあって、僕が生まれてすぐに異動で小値賀島に引越しました。共働きだったので、当時は親の知り合いのおばあさんに面倒を見てもらっていて。

ご親戚というわけではないのに、とても親切ですね。

もう亡くなってしまったんですが、実の孫みたいに育ててもらっていましたね。

おばあちゃん子だったんですか。

そうですね、島を出てからも会いに行っていましたから。今度もその法事で行くんです。

その後は島原に戻られたんですか。

そうですね、小中高校は家のすぐ近くに通っていました。

休みはほぼナシ!
剣道に明け暮れた高校時代

医師を目指したのはいつからだったんですか。

高校生になってからでしたね。それまではまったく考えていませんでした。

それまで、ほかに何かなりたいものというのは。

なかったんですよね。小学生から始めて大学時代までひたすら剣道ばっかりやっていたので。

長いですね。かなり熱心に取り組んでいたんですか。

めちゃくちゃ熱心にやってましたね。高校は島原高校という学校に通ったんですが、全国大会に行くような強豪校でした。部活の休みはお盆と元日くらい、っていうほど練習に打ち込む部活で。

それしか休みがないんですか!

だから高校時代は私服を持ってなかったですね(笑)。平日はひたすら遅くまで練習ですし、土日も練習か遠征でしたし、ジャージしか着ていませんでした。

それだけ詰まっていたら、私服を着るタイミングも無いですね。

一番多感な時期に私服を着てなかったので、今もどんな服を着たらいいのかって迷うんです(笑)。

「離島のために何かをしたい」
その動機から医師の道へ

その後、医学部に進路を定めたのは、何かきっかけがあったんですか。

高校2年生で進路を考える時、まず「将来何になろう」って考えて、漠然と「島に関わる仕事をしたいなあ」っていうのを思ったんですね。さらに、離島は医師不足だっていうことを知って、「じゃあ医師になって離島医療をしよう」って考えました。

医学への興味より、離島のことが先にあったんですね。それはやっぱり小さいときに小値賀島で過ごしたっていうことが影響として。

自然がいっぱいで良いところでしたし、みんなに優しくしてもらって、いろんな恩を感じていたのが大きなきっかけとしてありました。

実際医学部に入ってみてどうでしたか。

ついていけなくなるんじゃないかっていうぐらい、勉強が難しかったですね。

やっぱり各進学校から優秀な人がたくさん来るわけですしね。

しかも僕は化学と物理はすごくやってたんですけど、英語は苦手、っていう典型的な理系学生で。最初の授業が「ヒューマンバイオロジー」っていう、生物学を英語で学ぶ内容で、全然わかんなかったんですよ(笑)。必死で勉強したんですけど単位を落としてしまって。ヘコんだんですが、挽回しようとしてすごい勉強したら、次のテストではトップ10に入るくらい良い点数が取れちゃって。

おおすごい! 一気に取り返したんですね。

でもそこから調子に乗って勉強しなくなって(笑)。あまり授業に出なくなりました。

(笑)。医学部って授業に出なくてもどうにかなるものなんですか。

当時は試験で点が取れれば何とか帳尻があったので(笑)。出席が必要な授業は出て、代返を頼んだり、出席票を配りに来る職員と仲良くなって、紙を事前に多めにもらったり…。

今だから言える話ですね(笑)。そこから実際に離島の医療にも関わるようなるわけですか。

そうですね、研修医として五島列島に行きました。

それは志願したらすぐにいけるものなんですか。

すぐ行けます。やっぱり離島は人気がある研修先ではないので。

珍しがられたんじゃないですか。

同級生から「本当に行くの?」って聞かれました(笑)。

それでも最初に志した気持ちは変わらなかったんですね。

入学後も、離島で医療に携わりたい気持ちはずっと持っていました。それと、大学って学問としての「医学」を学ぶのがメインなんですよ。人も多いので、実際の手技を学べる機会が少ない。勉強は好きじゃなかったですし、それよりは何でもやらせてもらって早く技術を身につけたかったっていうこともありましたね。

人手の少ない環境だと、何でもやらないといけませんもんね。

2年間でいろいろとやらせてもらいましたね。手術もしましたし、お産も取らせてもらいましたし。

お産も!

人がいませんからね。研修医と言えど医師免許を持ってますから。

島の温かさに触れつつも
次なる目的のため厚労省へ

そもそも医師は病院に何人いたんですか。

五島列島のなかの中核病院ではあったので、20人くらいはいました。でも、外科が3人、内科が5人とか、各科で見ると少なかったですね。

やはり島は高齢者の方も多かったですか。

本土より割合が多かったです。それなのに、一番大きい福江島でも介護施設は本土より少ない状況でした。救急患者を受け入れられるのも僕がいた病院だけでしたしね。

例えば以前住んでいた小値賀島で救急患者さんが出たってなると、船で福江島まで行くことになるんですか。

そうですね、船でほかの島か本土に行くか、本当に緊急な時はドクターヘリで本土の病院に運んでいました。

なかなか厳しい現場ですね。

病院にヘリポートがありました。僕自身もヘリコプターの訓練とか洋上訓練もしていましたし、船で島に往診にも行っていましたよ。

患者さんとの関係性がより近そうですね。

医師が少ないんで、「先生、先生」って言って、かわいがってもらいましたね。

余談としてお聞きしたいんですが、島に住んでいると、近所の方から魚をもらうことってあるんですか。

めっちゃありました(笑)。築地とかで見るような青い大きな発泡スチロールを漁師さんが「食うてくれろ!」って言って持ってきてくれるんですよ。ゴソゴソ音がするから何かなと思ったら、伊勢エビが入っていました。

え〜すごい(笑)。

あとはウニの時期になると、生ウニをたくさんもらうんですよ。ただ僕だけじゃなくて、みんながもらうので、その時期は医局の食堂に「ご自由にお食べください」って生ウニが置かれてましたね(笑)。

うらやましい(笑)! 顔と名前もすぐ覚えてもらえそうですね。

プライバシーは基本的になかったですよ。「先生、昨日誰かとご飯食べてたでしょ」とか(笑)。

五島列島での研修を終えた後はどうされたんですか。

医系技官(※)として厚生労働省に入りました。

※医系技官:医師として保健医療に関わる制度作りに関わる技術系の行政官。

そちらに進もうと思われたきっかけを教えてください。

研修が終わる頃に次の進路を真剣に考えて「自分が医師でいるだけでは、やれることが限られてるな」と思いました。五島で赴任していたのは急性期病院だったので、患者さんを治して退院させてあげたくても、このグループが運営しているような回復期の病院とか介護施設もないし、人もそもそも少ないために、自分1人の力ではどうにもできない。この状況を変えるためには「国の仕組みを変えないといけないんじゃないか」っていう青臭い想いを持つようになったんです。

名残惜しい気持ちもあったんじゃないでしょうか。

もちろん、その気持ちもありました。患者さんからも病院スタッフからも「残ってください」って言ってもらえましたし、楽しかったしやりがいもあった。でも、「厚労省に入ってやりたいことがある」っていうことを伝えると、逆に「がんばって」「島の声を国に届けて」って言って応援してもらえましたね。

膨大な時間がかかる診療報酬改定
グループとの意外な接点

ちなみに医系技官は、どういう動機でなる方が多いんですか。

何かしら現状を変えたいっていう気持ちを持った人が多いですね。小児科医になったけど、小児医療に関する行政に関わりたい、とか。

何かしらの想いがある人が入ると。

やっぱり仕事量も多いですし、医師時代より給料も下がることがほとんどなので、想いがないとできない仕事ですね。実際、僕自身も減りましたし(笑)。

携わるのはどんなことになるんですか。

いろいろあるんですが、診療報酬改定などですね。診療報酬は2年に1回改定されるんですね。なぜかというと、2年経つと、新しい医療技術が出てきたり、社会情勢も変わるので、実情に合わせる必要があります。

なるほど、アップデートしなければならない。

点数を動かすと何億円っていう金額の影響があるので、その上げ下げの判断や、まだ保険適用されていない新技術に医学的な妥当性があるのかとか、見極めながらですね。あとは関係者がたくさんいるので、その調整ですね。結構膨大な時間がかかる作業になります。

診療報酬の冊子ってとても分厚いですもんね、気が遠くなりそうです…。何人くらいで作業に当たるんですか。

医師は10人くらいでした。それぞれ担当分野に振り分けられるんですが、僕は慢性期医療と在宅医療を見ていて。ちょうど、6年に1回の医療と介護の同時改定に当たるときで、このグループと出会ったのも、その頃でした。

どんな形での会い方だったんですか。関係性としては、意見される側とする側ですよね。

慢性期医療について議論をする国の会議があって、グループの武久代表が、日本慢性期医療協会の会長として出席していたんです。僕自身、急性期病院の経験しかなかったので、慢性期医療の現場を知らなかった。そこで「慢性期の病院を見学させてください」ってお願いしたのが初めての接点でした。

その時はどういう印象でしたか。

緑成会病院と多摩川病院に行きましたが、面白い取り組みをしてるなっていうのは思いました。例えば栄養管理にとても力を入れているところとか。

当時から病院の中で食事を作るっていうことにも取り組んで。

その頃、病院食は外注する方が主流だったので、自前で作っているのは珍しかったです。しかも付加食(※)の種類も多くて、自前でパンを作っている病院なんてなかなか無かったですしね。そのパンもおいしかったですし、「面白いな」と印象に残りました。

※付加食:食事が十分に取れない方や、取れていても栄養量が不足している方への栄養補給のため、食事に付加する栄養補助飲料やゼリー。

災害医療の現場にも携わる
熊本の被災地のために奔走

厚労省時代、これは大変だったなっていうのはほかにありますか。

2016年に起きた熊本地震の対応ですね。

実際どういったことを担当していたんですか。

当時災害医療を担当する部署のトップだったんですが、災害が起きるとDMAT(※)をどう派遣するかっていうことを考えるんですね。

※DMAT:※Disaster Medical Assistance Teamの略。大規模災害や事故の発生時に活動する、専門的な訓練を受けた、医師・看護師・業務調整員からなる医療チーム。日本DMATは2005年、厚労省により発足。

ちょうど先日、堺平成病院の定光先生(※)に、DMATで副事務局長をやられていたお話を伺いました。

実は定光先生ともその時に出会っていたんですよ。現地にDMATを派遣するところで連携をしました。

※定光大海先生 インタビュー記事

そうだったんですね! その後、同じグループにいるというのも縁ですね。現地入りもしていたんですか。

最初は厚労省にいてずっと指示をしていたんですが、少し落ち着いた5月くらいからは復興のステージに入ってきて現地入りして対応に当たっていましたね。

予断を許しませんし、とても大変そうですね。

そのほかに、災害情報や被災した病院の情報を集めて、どう復興していくか調整役をやっていましたが、ずっと働きづめだったので、さすがに倒れるかと思いました。

厚労省のノウハウを持って医療の現場へ
グループ転身のきっかけは、偶然のお誘い

厚労省を離れた時はどういうお気持ちだったんですか。

10年でやりたいことも割とやらせてもらったし、違うことがしたいなと思うようになっていました。

そこで次に移ることになったのが平成医療福祉グループだったと。

離島医療に携わって、次は国に入って制度を良くしたいと思って厚労省に入ってやってきたんですが、実際それを運用するのは病院・施設じゃないですか。10年間学んだノウハウを持って現場に入って、また医療を提供する側に行こうと考えたんです。

実際、どうやってこのグループにたどり着いたんですか。

厚労省を辞めてから、ありがたいことにいろいろなところからお声がけをいただいたんですが、グループの武久代表からも「食事に行こう」と連絡があったんです。ただ、こちらから辞めることは特に知らせていなかったので、偶然の連絡だったんです。

たまたまだったんですね! どんな仕事をするっていうことでグループに誘われたんですか。

「病院がたくさんあるから、好きにやってほしい」みたいな感じでしたね。

ざっくりしていますね(笑)。細かく「これをやってほしい」という話ではなかったんですね。

ただ、臨床から離れて10年経っているので、「最初は臨床をやり直してほしい」っていうのは言われました。これから病院ができる時に、現場に入ってやらなければならないこともたくさんあるだろうから、その時にやっぱりわかってないといけないので。まずは半年、徳島の博愛記念病院で、みっちりと臨床をやって勘を取り戻しました。それから、「いろんな病院を見て回ってくれ」と。

病院を「見る」っていうのは、実際には何をどうしていくんでしょうか。

一例として、病院の経営状況を見て、改善策の提案などがあります。病床機能を転換して回転率を上げよう、というような指示を行っていくわけです。それと先日開院した堺平成病院のように、新病院が立ち上がる時は、そのお手伝いをします。病院移転の準備や、そのスケジュールを詰めるとかですね。

けっこう中まで入って経営に手を突っ込むことになるんですか。

そうですね。具体的に「こうしてほしい」っていう指示はないので、まずは現場に入って、何が問題なのかっていうことから探します。

経営に限らず、もっと細かいことにも関わることになりそうですね。

本当に、「よろず相談」みたいな感じで、何でも話を聞きますよ。

海外にクリニック建設
インドネシアにリハビリテーションを広めたい

坂上先生は海外事業部長として、インドネシアでのクリニック開設にも取り組まれているそうですが、どういう経緯で始まったのでしょうか。

毎年、グループでEPA(※)候補者を受け入れているなかで、インドネシアからの候補者が一番多いんですね。ただ、せっかく来てもらっても、研修後に帰国してしまう候補者も一定数いて。これから新たに来てもらう人たちのためには、現地にも受け入れ先があったらいいんじゃないか、っていうことがまずひとつありました。

※特定の国との間で人材の移動や投資など幅広い分野で経済関係を強化していく取り組み。
平成医療福祉グループのEPAの取り組みについては、こちらをご覧ください。

このグループで学んだことを、母国で生かせるわけですね。

母国に拠点があることで、日本に来るハードルも下がります。もちろん、インドネシアではまだまだリハビリテーションというものが普及していないので、クリニックを通してそれを広めることも目的です。

進行状況を教えてください。

今はクリニックの物件が決まって、これから内装工事が始まります。あとは現地スタッフの求人募集や機器の準備中です。

外来は実際どういった感じになるんですか。

リハビリテーションがメインですね。例えば、脳卒中の治療後の方とか、骨折した方の機能回復ですね。

インドネシアではリハビリテーションの普及はまだこれから。

必要とされている方はかなり多いんですが、医療において「機能を回復させる」っていうところまではまだ至ってないんです。

医療は、まずは命を救うものっていう認識なんですね。

ただ、救ってからあとが無い。だからこそ潜在的なニーズはあるんです。そこにアプローチして、まずはリハビリテーション自体を広めていけたらいいなと思っています。

経営・運営に携わる医師は
時代に求められている

坂上先生は、経営や運営に関わっているわけですが、そういうことがしたいというのは、もともと考えられていたのですか。

厚労省を辞めようとした時、そう思いましたね。10年間、患者さんを診ていなかったので、一流の臨床医になるにはブランクがあり過ぎる。でも、その分医療の制度とか仕組みにはくわしくなって、さらに組織のマネジメントについても学ぶことができた。医師の視点でマネジメントを行うっていうことに関しては、自分にアドバンテージがあると思いましたし、そういうことをやりたいなと思いました。

厚労省で働いていて思うところもあったのでしょうか。

地域の実情と合わなくなって、経営が立ちいかなくなった病院をたくさん見てきました。しょうがない部分もあるんですが、優秀な臨床医の方がトップに立って、自分の専門分野に注力する、そのことで地域のニーズと乖離してしまう、という例も多かったです。

経営が厳しくなった病院が、M&Aで合併吸収されてということも多くなってきていますよね。

そういったグループ化は、医療業界を含め、さまざまな業界で進んでいるんですが、マネジメントをする手が足りないんですね。臨床する医師が大事なのはもちろん、組織にとっては経営の視点を持った医師を増やすことも大切になってきています。

今後のグループにとっても課題だと思うのですが、どのように人材を見つけていくのがいいんでしょうか。

難しいですよね。僕自身、厚労省にいたからこそ学べたことだと思っています。中から育てていくか、もしくは医療ではない分野で活躍してきた方に入ってもらって、医療を学んでもらうということもあり得ますね。

その際、どういう感覚が役立つと思いますか。

外部から入る場合は、即戦力としてマネジメントの経験を生かしてもらいたいと思います。特性としては、何にでも興味を持てるっていうことですね。組織が大きいから、いろんなことが起こり得るわけです。そういう時に「それはやれません」「やりたくないです」って言っていると、仕事にならないですからね。

臨機応変に対応できることが大切ですね。

理念に共感して、患者さんのためにいいものを作っていきたいと思えるかっていうのも大きいです。それがベースにあって、あとは努力次第でどうにかなるんじゃないかなと思っています。

このグループでの先生の目標を教えてください。

平成医療福祉グループを、診療の質であれ経営であれ、いろんな意味で「日本一だよね」と言ってもらえる存在にしていきたいです。いい病院を作ると、地域が良くなるし、地域が良くなることは、日本が良くなることですから。グループの医療を良くして、日本の医療を現場から良くしていきたいな、っていうことを、漠然とですが思っています。

それこそ離島まで届くといいですよね。地元にも作れたらっていうことは考えますか。

まず九州にできたらいいなと思います。いずれは作りたいですね。

癒しの温泉は
雪深い「秘境」に

坂上先生はお休みをどう過ごしていますか。

基本は寝て、あとは家事をして…あまり面白くはないですね(笑)。時間がある時はプールに行くこともあります。最近あまり行けていないですが…。

お忙しそうですね。

時間があれば、喫茶店でのんびりしながら本を読むこともありますよ。

今後、個人的にやりたいことがあれば教えてください。

旅行が好きなので、行きたいですね。秘境の温泉が好きで何度か行っているんですけど。

「秘境」。とても気になります。実際行ってよかったところはありますか。

ちょっと前に青森県の「ランプの宿」というところに行ったのですが、すごい良かったですね。かなり山の中で、冬は雪深いので自家用車では行けないところにあるんです。

まさに秘境ですね。どうやって行くんですか。

宿の手前にある道の駅から、用意したフル装備の車に乗って向かいます。宿に着くと、名前の通り明かりが全部ランプなんです。

素敵ですね〜! 秘境が好きっていうのは何か理由があるんですか。

あまり都会が好きじゃなくて。田舎から出てきたからっていうのもあるのかもしれないですけど、東京もあまり好きではなくて(笑)。

そうなんですね(笑)。じゃあ住むなら田舎の方がいいんですか。

住めるなら離島に住みたいです。きれいな海の近くの、のんびりしたところがいいです。

社会と関わる医師
原点は長崎の恩師

最後に、尊敬する人はいますか。

長崎大学の時の恩師ですね。

どんな方だったんですか。

長崎県は原爆が落ちた場所なので原爆後の放射線研究の施設があって、そこの教授を務めていました。

どんな点で尊敬されたんでしょうか。

一言で言うと、自分の視野を広げてくれた人でしたね。その先生は、チェルノブイリの原発事故(※)で最も被害を受けた、ベラルーシに海外協力でずっと行かれていて、僕もそこに短期留学で連れて行ってもらったんです。それが初海外の経験で。

※チェルノブイリ原発事故:1986年に起きた、ソビエト連邦(現 ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で起きた事故。30人以上の死者と、多くの被害者を出した。ウクライナと国境を接するベラルーシも大きな被害を受けた。

初めてでなかなか大きな体験ですね。

そこで「医師って目の前の患者さんを診るだけが仕事じゃないんだ」っていうことに気がついたんですね。間近で見て、視野が広がりましたね。

今の坂上先生につながるような、原体験みたいなものがあったと。実際にどういったことをベラルーシではされていたんですか。

教授は現地の患者さんも診ていたんですけど、ベラルーシにおける放射線による影響をどうするか、っていうことについて取り組んでいました。検診の仕組みを作ったり、現地でそういう疾患を診られる医師を育てたり、日本にも連れてきて研修を受けてもらったりもしていて。

臨床だけでなく、社会全体で放射線被害への対策に取り組む手助けをされていたんですね。現在も教授を続けていらっしゃるんですか。

長崎大学は先日退官したんですが、今は福島県立医科大学の副学長を務めていらっしゃいます。福島県の原発事故があった時も、すぐに現地入りしていました。退官の挨拶をする時に「こういう事故があった時に生かすために学んできたんだから、福島に骨を埋めてがんばる。それが自分の天命だ」と話していましたね。

長年携わってきたからこその、重みのある言葉ですね。

国の仕事にも多く携わっていましたし、厚労省のことを教えてくれたのもその先生なんですよ。入るのに必要な推薦状も書いてくれました。

きっかけを作ってくれた方なんですね。厚労省を辞めて、このグループに入ると伝えた時はいかがでしたか。

辞めると伝えたら、「バカタレ」と言われました(笑)。

(笑)。

でも、「こういうことをしたいんです」と話したら、「そこでお前が必要とされてるのか」と聞かれたんですね。そこで「そうだと思います」と答えると、「自分が必要とされているところで働きなさい」と言ってくれましたね。

とてもいい先生ですね。

先生は、医師として初めてWHO(※)での仕事にも携わったんですね。その時は、WHOで仕事をする理由を「お前たちに道を作るためだよ」って言ってくれました。

※WHO:世界保健機関 (World Health Organization)。「全ての人々が可能な最高の健康水準に到達すること」を目的として設立された国連の専門機関。

言うことが全部かっこいいですね(笑)。坂上先生自身はどういうモチベーションで仕事を続けているんですか。

「人のために良くしたい」「人のためになりたい」って言っていると行き詰まるので、自分がやりたいこと、楽しいと思うことをやって、結果的に人のため世のためになればいいと思っています。

そうじゃないと続かないところもありますよね。

好きなことじゃないと続かないんです。好きなことをやれているから幸せなんだと思うんですけどね。

じゃあ最近は幸せを感じられているんですね!

……。いやぁ〜(笑)。

プロフィール

平成医療福祉グループ 医療政策マネジャー/海外事業部長

平成医療福祉グループ 医療政策マネジャー/海外事業部長

坂上 祐樹

さかがみ ゆうき

【出身】長崎県島原市
【専門分野】医師/医学博士
【好きな食べ物】蕎麦(戸隠で食べたのがおいしかった)