初めはなんとなく目指していた看護師 紆余曲折を経て、看護部門の部長になるまで/平成医療福祉グループ 看護部 部長/加藤 ひとみさん
初めはなんとなく目指していた看護師
紆余曲折を経て、看護部門の部長になるまで
グループの看護部門で部長を務める、加藤ひとみさん。キャリアのスタートは介護士だったという加藤さん。凛とした雰囲気の中にもやさしさがあり、部長として多くのスタッフに慕われています。前編では、香川で過ごしたちょっとやんちゃな幼少期から、世田谷記念病院に看護部長として移られるまでのキャリアをお聞きしました!
宿題はあえてやらない?!やんちゃな小学生時代
ご出身はどちらですか。
香川県の高松市です。
育ったところはどんな場所でしたか。
なんて言ったらいいんだろう、屋島ってわかりますか。
香川県の島でしょうか。
いえ、陸続きです(笑)。観光地ではあるんですけど。あ、子どもの時は栗林公園の近くに住んでいました。
そちらはわかります。市内の中心部にお住まいだったんですね。
小学生くらいまではそうでしたね。その後もずっと市内には住んでいました。
当時はどんなお子さんでしたか。
元気な方だったと思います。
やんちゃと言いますか。
分類をするならそっちの方に入りますね(笑)。
怒られたことはありましたか。
忘れ物はすごいしてましたね。宿題も全然してませんでしたし(笑)。
え、それは意図的にですか(笑)。
そう、意図的に。放課後は、帰っても家にあがらず、玄関にランドセルを置いて遊びに行ってましたし、当時は勉強が嫌いとかいうよりも、遊びの方が優先順位が高かったんですよね(笑)。でも中学生になったらさすがに宿題もしていましたよ。ただ成績が良かったのは体育でしたけども。
体を動かすのが好きだったんですね。部活は何をされていましたか。
中学時代はバドミントン部で、高校は弓道部でした。
弓道ってなかなか触れる機会が少ない部活ですよね。
入った高校にバドミントン部がなかったんです。私の選択肢には帰宅部は無かったですし、文化部はとてもじゃないけど性格的に続かないだろうなと(笑)。いちからスタートする部活がいいなって思って、弓道部にしました。
ちなみに高校時代は宿題は…。
その頃は普通に、怒られない程度にはやってました(笑)。
強い意志はなかったけれど
目指した看護師の仕事
そもそも、看護師になりたいっていうのはいつから考えていたんですか。
みなさんいろんな動機があると思うんですけど、私には「人のためになりたい」とか、「おばあちゃんが入院していた時の看護師さんに憧れて」とか、そういう良い話が全然なくて(笑)。
(笑)。どういうことがきっかけだったんですか。
小さい頃なので記憶が曖昧なんですが、家の近くに父親のかかりつけの診療所があって私もそこについて行っていたんですね。受付の奥を覗くと、看護師さんが、処方する粉薬を天びんで計って、紙で三角に包んで、っていうのを上手にやっていて、それが面白くてジーッと見てたんです。その場面がなんとなく頭の中にずっと残ったまま成長していったというのがあって。だから憧れたとかじゃないんですけど。
でもずっと印象にはあったんですね。
本当になんとなくですね。それで中学生の時に進路を考える時に「看護師かな」って思いました。
じゃあ高校進学の段階で、初めてちゃんと意識されたと。
「衛生看護科っていうものがあるんだ」って知って、そこからですね。
高校から看護の道に進んだのですか。
いえ、衛生看護科のある学校が、家から通える距離の場所になくて。私は寮に入ってでも通いたかったんですけど、当時は体が弱かったので、家族からは「無理だろう」って止められて、断念して普通科に通いました。
一旦は普通科の高校を出られたんですね。
卒業してから看護学校に行こうかとも悩んだんですけど、結局その時は行きませんでした。で、結婚して徳島に移ってきて、何か仕事をしたいなって思った時に、看護師になりたかったっていうこともあって、医療に関する仕事ができないかなと。だから医療事務の仕事につこうかとも考えましたが、ただ自分には向いていないなと思ったんです。
やっぱりご自身の性格としては、現場で体を動かす方が合っていた。
そうです。それでグループの博愛記念病院(徳島県徳島市)で介護士として働き始めて、介護福祉士の資格も取りました。
介護士からスタートした
医療人としてのキャリア
介護士として働くうちに、もともとやりたかった看護の方に興味が湧いたんですか。
そうですね。介護の仕事も楽しかったんですが、やっていくうちに興味が移っていって。当時、仕事をしながらでも通える徳島県立看護学院(現・徳島県立総合看護学校)っていう看護学校があって、博愛記念病院からもそこに通ってる人がたくさんいたので、それを見て「あ、行けるんだ」って思ったのもあります(笑)。
でも大変ですよね、仕事をしながらっていうのは。
大変でした。午前中に学校に行って、午後から介護士の仕事をして、当時は子どもも生まれていたので、家に帰ったら世話もして。
わー、それは慌ただしそうですね。
そうですね、まだ子どもも小さかったですし。
学校は何年間でしたか。
准看護師の学校は2年でした。しばらく准看護師として働いて、正看護師の資格を取るために、さらに2年通いました。
その間、ずっと博愛記念病院で働いていたんですか。
そうですね。正看護師の学校に通っている時は、もう1日中授業があったんで、夏休みや土日だけ働いていました。ただ、学校を卒業して正看護師の資格を取れた時に、違うところも見たいなと思って、博愛記念病院を離れました。
一度グループから離れて働かれたんですね。
そこも良い病院ではあったんですけど、自分のしたいことが違うというか、しっくりこなかったんですね。1年くらい働いて、また博愛記念病院に戻りました。
まさかの朝礼での波乱!
戸惑いながらも管理者の立場に
戻られた時は、キャリアでいうとどのくらいでしたか。
准看護師から含めて、5年目を迎える頃でしたね。配属されたのが、その当時たまたま師長さんがいない病棟でした。しかも主任さんが結婚か出産で退職されて、別の病棟の師長さんが兼務していました。そんな状況だったので、勤務表もスタッフが作っていたんです。
ちょうど人が少ないタイミングで戻られたんですね。
そのうち私が勤務表を作るようになって、なんだかんだと戻って2年くらいで師長になったんです。
それは一般的に考えたら早い方になりますか。
早かったと思います。なので、最初に役職の話をもらった時は「無理です」って固辞していたんですけど、「みんなでフォローするから大丈夫」って粘り強く説得されて、引き受けることにしました。
けっこう迷ったうえで決断されたんですね。
ただ、私はてっきり師長の下にあたる主任に任命されると思ってたんですよ。そしたら、その辞令が交付される朝礼で「辞令、加藤ひとみを看護師長に任命する」って言われて、「あれ!」って(笑)。
えーっ、そこで初めて知ったんですか(笑)!
まだ戻って2年と経ってないのに、いきなり師長になると思ってなくて、主任になるものだと決め込んでいたんです。事前にちゃんと確認してなかった自分も悪かったんですが(笑)。主任になることを想定して挨拶を考えていたんですけど「全部師長に変えないと」と思って、頭の中で変換してから挨拶をしました。
でも、経験年数に関わらず、実力に応じてキャリアアップの機会があるっていうのは良いとも言えますね。そこからは管理者として働くようになっていくわけですか。
そうですね。最初は医療療養病棟にいて、その後、障害者病棟の立ち上げがあったので、そちらに師長として移りました。そこで多分2年くらいいたのかな。今度は「病棟ではなく全体を見てほしい」ということで、地域連携室に移って病床管理をやりました。その時は総看護師長という肩書きでしたね。
キャリアアップのスピードが早いですが、その都度戸惑いはありましたか。例えば「もうちょっと現場の仕事をやりたかった」ですとか。
現場の仕事をやりたい、っていうのは思いましたね。当時も今もそれはあります。今でもたまに呼ばれてやることがあると「やっぱりいいな」って感じますから。
だからといって「現場ができないなら辞めよう」という考えにもなることなく。
現場から離れたのが嫌だっていう感覚もなかったです。もともとが飽き性なんで、いいタイミングで違う仕事がやってくるのがちょうどよかった、というのもありましたね。
一番辛かった…
看護部長として苦労の日々
いま現在はお仕事の拠点は徳島ではなく東京にあるかと思うのですが、どのような経緯で移られたのでしょうか。
まずは、2012年にこの世田谷記念病院を立ち上げがあり、手伝っているうちに看護部長に任命されたんです。最初はオープニングスタッフの研修をするから手伝ってほしい、ということだったので、ちょっと長めの海外旅行に行くぐらいの感じで旅行バッグひとつ持って東京に出てきていたんですけど(笑)。
図らずも看護部長に任命されたと(笑)。そこで博愛記念病院から世田谷記念病院に移られたわけですか。
そうですね。自分も立ち上げに関わって、思い入れも強く持っていたので、本腰を入れて取り組もうと思って、看護部長を受けることにしました。
そこはスッと受け入れられたんですね。
新しいお仕事でしたし、きっと楽しいだろうなと思いましたね。博愛記念病院にいた当時は、グループの看護部門の部長もそこにいて、何かあればすぐ相談に行ってましたから、自分の意識のなかで、その病院のトップを任されてるっていう認識は薄かったかもしれないです。ただ、新しい病院ではそうはいかないので、そこで意識も変わりましたね。
そういう責任ある立場っていうのは、進んで自分からいくタイプでしたか。
いや、昔からそうなんですけど、前に立つよりは後ろで楽に過ごしたいタイプです(笑)。
今みたいな立場ですと、真逆ですよね。
今はもう腹をくくりましたね。ただ、世田谷記念病院で看護部長を始めた当時は、精神的に大変でした。
がんばりすぎて無理をしていた、みたいなところがあったんでしょうか。
というよりは、今よりもまだ打たれ弱かったですね。当時、世田谷記念病院にはグループの副代表がいたので、いつも弱音を吐いていました。強くなったのはここ最近かもしれないですね(笑)。
だいぶ苦労しながらやっていた感じだったんですね。
最初は看護部長の業務というのが、何をすればいいのかわからなかったんですよね。人の管理や数字の管理については、教えてもらったわけではなかったので。どんな数字を知っておかなきゃいけないのかもわからなくて。
今までのキャリアの中で一番苦労したなって思えるのは…。
その頃かもしれませんね。そこからグループの組織がだんだんしっかりとできてくるうちに、グループ病院の看護部長同士とか、事務長とか他の部門の部長とか、やり取りする機会が増えてきて、仕事のやり方もわかるようになってきたというか。でも書類なんかは、今もがんばって作っても直されることはありますけど(笑)。
グループの看護部門の部長として
まずは教育体制を整える
現在はグループの看護部長という、看護部を統括する立場ですが、任命されたときはいかがでしたか。
「自分にできるのかな」って思ったのが半分、「いろいろ取り組める」って思ったのが半分でしたね。
不安半分、期待半分だったんですね。
それまではしっかりとした教育体制がなかったのでどうにかしたいなと思っていたのと、ほかにもやりたいことがあったんです。特に教育については、新人も中途も、採用する以上は責任を持って育てていかないといけないと考えていました。
どのように取り組んでいったんですか。
年間で集合研修を組むことにしました。ただ、その研修をするためには、私一人ではどうもできないので、初めてグループ内でエリアを分けました。
看護部内を組織立てたんですね。
関東、関西、淡路、中四国という4エリアに分けて、それぞれにエリア長を立てて、研修もそれぞれで行えるようにしました。最初のマニュアルは私が作ったんですが、そこから年々みんなで見直して、研修の内容もブラッシュアップして。さらに、教育委員会、業務改善委員会と、部内でも部門を作っていきました。
積極的に役割を分担していかれたと。
私一人じゃできないですからね。e-ラーニングの導入もはじめました。集合研修は、行った人しか受けられないっていう問題があったので、インターネットを通じてスタッフ全員に平等に研修を受けられる機会を設けました。
グループの部長になってから、いろいろと変えていった部分が多そうですね。
だいぶ変わったと思います。研修についても、興味のある分野で希望するものがあれば、一部または全額補助が出るようになりましたし、スキルアップをサポートする体制ができました。
成長したい人にとってはいい環境と言えますね。
そうですね。こういった取り組みも、助けてくれる人がいて、できていることだと思っています。みんながしっかりやってくれているので、仕事も任せていけますし。
じゃあ今は少しずつ、仕事を手から放しているような感じですか。
ただ、仕事の分担はしてるんですけど、仕事量が減ってるという感じは全くなくって(笑)。
えっ(笑)。
ひとつ任せたとしても、例えば今年だったら「在宅看護の部門を強化してみよう」とか、新しいことが出てくるんです。
ひとつ任せると、またひとつ新しい取り組みができると。
だから業務量自体は変わらないですね。ただ、任せられることが増えてきたからこそ取り組めていると思ってますので、その点では充実していると思います。
台風被害時に発揮された 看護部のグループとしての強み
このグループの看護部の特長はどんなところだと思いますか。
このグループの看護部の特長はどんなところだと思いますか。
このグループの看護部の特長はどんなところだと思いますか。
組織がきっちりできてきたことで、病院同士の協力体制が作れている点ですね。
どういうときにそれを感じますか。
今年の夏にあった台風20号(2018年8月に発生)で、関西を中心に大変な被害が出ましたが、グループでも停電が起きた病院があったんですね。復旧までに時間を要したんですけど、そこでの必要な物品のやりとりとかも関西の病院同士でスムーズにやってくれました。どこに何が足りなくて、どこが何を持って行くのか、ぐちゃぐちゃにならないように、共有しながら一斉にやって。そういう横のつながりが、かなりできてきましたね。
グループならではという感じですね。
そうですね。うちのグループに後から入った病院であっても、協力し合って動けています。
後から入って、なかなかやり方に馴染めない、ということもなく。
反発もなく、みんな協力的です。全体でこういうことをやっていこう、といったことについても、一生懸命に取り組めていますね。
今後、力を入れていきたいと思っていることはどんなことですか。
看護部としてこういう方向に持っていきたいって思っていたことに関しては、だいぶできてきていると感じています。これからのことだと、特に在宅看護に力を入れていきたいです。例えば世田谷記念病院には、在宅支援看護師がいるんですが、専任として取り組めている病院ばかりではないので、そういった後方支援をもっとやっていきたいですね。
ほかには何かありますか。
チーム医療についても、もっと職種間の連携を強めていきたいです。病院によって連携はまだまちまちなので、職種の垣根を越えて、病棟の一員として患者さんのために動くっていう意識がさらに強くなればなって考えています。
加藤さんの仕事のモチベーションはどんなところにありますか。
このグループの病院を、慢性期医療だけでなく、急性期医療の病院も含めた中で、トップクラスの病院にしていきたいなと思っています。そのなかでも、このグループって看護部が支えているよね、って言われるような部署にしたいです。その点はまだまだだと思うんで、そういう風になれたらいいですね。
「あなたで良かった」と
思ってもらえる看護師が理想
加藤さんの思う、理想の看護師像みたいなものはありますか。
患者さんに「あなたで良かったです」って思ってもらえる看護師がいいですね。
そう思ったきっかけがあったんですか。
准看護師時代の実習で最後に受け持った患者さんなんですけど、大腸の検査をされていた方でした。けっこう大変な検査で、下剤を飲んだりして苦労されていたのでとても印象に残っていて。実習が終わるときにお手紙を書いたんです。「今日で実習は終わりです。ありがとうございました」って。それをお渡ししたときに、言葉が少し出づらい方でしたけど「担当してくれたのが、加藤さんで良かった」って、言ってくださったんです。
それはとても印象深い出来事ですね。
それが自分の中にずっと残っていて。だから、大きく「看護師さん」として認識されるんじゃなくて、「あなたで良かった」と、対個人で思ってもらえる看護師がいいなと思っています。
患者さんと向き合ったからこそいただけた言葉ですね。
例えば1年目であれば、いろいろ技術や知識をつけていっている途中だと思うのですが、そこにやっぱり心も伴っていかないと、立派な看護師にはなれないと思うので。
やっぱり心が伴うのが大事なことなのですね。
もちろん、最低限の技術と知識は持っていないと患者さんに害を与えてしまうので、そこは前提として。
もともと持っているものも大きいでしょうか。
いろんな患者さんと接するうちに成長していく部分も大きいと思います。私もそうでしたが、印象に残る方と出会うっていうのが、きっかけのひとつにはなると思います。
考えなしの行動はしない
看護師として求められることとは
このグループで働くにあたって、どういった方が向いていると思いますか。
もちろん「絶対に見捨てない」という理念に賛同してほしいですし、それに向かって努力してくれる人であってほしいです。それと、考えて行動できる人を求めています。「マニュアルにあるから」とか「前の病院ではこうだったから」ということではなく、「この患者さんにとっては何がベストなのか」っていうことを一つひとつ考えられることが大事ですね。
働いていると、ついついマニュアルや前例に考えがとらわれてしまいがちです。
やっぱりそう考えるのが一番楽なんだと思います。例えば、患者さんへの身体抑制ひとつをとっても、「前の病院では抑制してたから」「この人は暴れる人だから」って、言ってしまえば、それまでになってしまいます。そういうことではなくて「この人は何でそういう行動をするんだろう」って考えることが重要です。
それは加藤さんが常々言われることなんですか。
言ってますね。どう考えていいのか、わからないときには一緒に考えてきっかけを作ってみたりもします。
まず疑問に思わない、っていうこともあるかもしれませんね。
スタッフも別にやりたくてやってるわけじゃないけど、仕方ないから、って思っちゃっているところが大きいですね。
誰も幸せにならないですね。
やりたくて縛ってる人なんて誰もいないですからね。方法を一緒に考えたり、違う方法で誘導したりしてあげるといいのかなと。
忙しいなかのリフレッシュは
喫茶店でのひと休み
お忙しそうですが、お休みはちゃんと取れていますか。
もちろん、イレギュラーなことさえなければ、ちゃんと休んでいますよ。
休日はどう過ごされているんですか。
もともと家は徳島にあって、隔週でそっちにも帰ってます。もう子どもたちも社会人になっているので、家に帰っても誰もいないときもあるんですけど(笑)。東京にいる隔週のどちらかでは、美容室に行くことが多いですね。銀座で美容室に行って、とりあえずぶらぶらして、買い物することもあります。その合間に休憩するのが私の楽しみで。
こだわりがあるんですね。
銀座だと昔ながらの喫茶店も多いじゃないですか。いわゆるカフェではなく、ああいうところに行くのが好きなんです。普段はスターバックスのようなカフェに行くこともありますが、銀座に行ったときだけは、そういうところを探して入ってます。
好きな食べ物を教えてください!
好きなのは、パン。パンが好きなんですよ
好きなお店とかありますか。
ポンパドウルの塩パンが最近好きで。デパートとかにも入っているお店で、たまに食べています。
仕事以外で個人的な目標はありますか。
ん〜、全くないですね(笑)。
(笑)。例えばどこか行きたい、とかありますか。
もし海外に行くなら、エジプトに行ってピラミッドが見たいですね。海外は仕事絡みで行くことが多かったんで、そうじゃない旅行で行きたいです。
普段お酒を飲みに行ったりはしないんですか。
私はそんなにお酒を飲むのが好きっていうわけではないので、自分から飲みに行くっていうことはないですね。
看護師のみなさんはお酒を飲む人が多いっていうイメージがありました。
それはきっと、前にこの記事に出ていた岩原さん(※)みたいな人をイメージしているんじゃないですか(笑)。
そうかもしれません(笑)。
もちろん、飲みに行こうってなったら行くし、2、3杯は飲みますけど。
ちなみに「ひとプロジェクト」つながりでいくと、前回この記事に出られた池村さん(※)とは、一緒に働いていたんですよね。
池村さんは私が博愛記念病院で働いていたときからの付き合いなので、けっこう長いですね。仲良いっていう言い方が合っているかわからないですが、タイプが似ていると思っています。
似たところがあるんですね!
性格診断みたいなのを見たら、やっぱり似てました。なんて言うか、普通なんですよ。でも、周りからしたら「違う」って言われるんですけど(笑)。
プロフィール
平成医療福祉グループ 看護部 部長
加藤 ひとみ
かとう ひとみ
【出身】香川県高松市
【資格】看護師
【好きな食べ物】ポンパドウルの塩パン
【最近食べて美味しかったもの】北海道で食べたジンギスカン
【尊敬する人物】グループの副代表(相談しやすい存在)
病院情報
医療法人 平成博愛会
世田谷記念病院
内科・整形外科・リハビリテーション科
急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリテーションにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。