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高校生の延長線として看護学校へ 周囲の意見に流されて育った学生時代/東浦平成病院 看護部長/小林 さおりさん

看護部2020.07.10
看護部

高校生の延長線として看護学校へ
周囲の意見に流されて育った学生時代

兵庫県淡路市にある東浦平成病院の看護部長、小林さおりさん。
看護師を目指した理由から、新人看護師時代のこと、また「初めは何のことかも知らなかった」という「EPA(経済連携協定)」(※1)に基づく外国人看護師候補者の受け入れに責任者として関わり、奮闘した話などをお聞きしました。ぜひご覧ください!

※1 EPA:特定の国との間で人材の移動や投資など幅広い分野で経済関係を強化していく取り組み。平成医療福祉グループのEPAの取り組みについては、こちらをご覧ください

※2:本取材は2020年3月に行われたものです。

「看護師」は母親がなりたかった職業

ご出身はどちらですか。

徳島県の吉野川市です。今も徳島から淡路島まで車で通勤しています。

車通勤なんですね。

そうですね。車で隣の県まで通勤していると聞くと、大変なイメージがあるかもしれませんが、徳島市内の病院に通勤していたときのほうが朝の渋滞がひどかったので、心の負担は少ないんですよ。

就職されてからずっと車通勤だったんですか。

いえ、新卒で就職した病院は京都でした。就活中に友人が「京都の病院に就職する」って言うので、「じゃあ私も」って(笑)。

あっさりと京都行きを決めたんですね。

そうなんです。当時は、その場の流れに乗ってしまう癖があったんです。看護師を目指した理由も母親にすすめられるままってぐらい。

10代で人生設計を迫られるのは難しいですよね。

憧れの職業が特になかったので、母親から「お母さんは看護師になりたかった」という話を聞いているうちに、看護師が気になるようになって。部活でケガをして入院したときも、母親と看護師さんの働く様子ばかり見ていました。

入院中は看護師さんのことが気になりましたか。

見てましたね〜親子で(笑)。私の担当が新人の看護師さんで「きっと泣いたんだろうな」って子どもながらに察する日もあったり、なぜか部屋に顔を見に来てくれることも多くて、不思議な職業だなって思いました。でも、そのまま看護学校へ進学しました。

看護学校時代や新人時代がハードだとお聞きしますが、いかがでしたか。

う〜ん。看護学校時代にインパクトが強い患者さんの受け持ちを体験したことはありましたけど、私にとっては高校生活の延長みたいな楽しい青春でした。その分、新人になってから苦労しました。配属先がICU(集中治療室)だったので、ちょっとピリっとした空気が漂っていて、人生で一番勉強したし…実は泣きながら仕事していた日もありました。さっきの新人看護師さんのことを言えないですね(笑)。

看護師人生を変えた偉大なる先輩との出会い

当時の職場はどんな雰囲気だったんですか。

私の教育担当だった先輩は、オールラウンドプレーヤーでした。仕事はできるし、教え方も私に合っていました。県外就職として来たスタッフは部署に私だけだったので、最初はぎこちなかった生活が、先輩のおかげで非常勤の先生とも仲良くなれたり、仕事もプライベートもお世話になっていました。

先輩からはどんな指導を受けたのですか。

業務に対する宿題を出されて、次の日に答える形で仕事を覚えていったんですけど、聞かれたことの表面だけを答える私に「そんな状況じゃ担当させられない」と勉強不足を見抜くような先輩でした。ちゃんと根っこまで理解していないと、携わりたい仕事には就かせてもらえないので、必死に勉強していました。

鋭い指摘を受けたこともあったんですね。

ありがたいです。その先輩に「勉強したい」って言えば、医学系の参考書が揃っている本屋さんに案内してくれるんですよ。私、地下鉄の乗り方も知らなくて(笑)。私のことを気にかけてくれる思いやりのある人でした。その先輩が、私の原点ですね。

仕事中以外でも頼れる先輩だったんですね。

そうなんです。先輩からBBQに誘われたこともあって、顔を出したら、普段の現場だとあまり話す機会がない医師やコメディカルスタッフも参加していて、BBQしながら大勢で話せたことで、次の仕事から妙な緊張をせずに声がかけられるようになりました。面倒見のいい先輩でしたね。

きっかけがあれば、距離はぐっと縮まりますよね。

仕事をがんばるためのモチベーションって大事だと思います。教育する立場になったら、私自身が嬉しかった体験を土台にして教えようと思っていました。

離職率が一桁台
地元から選ばれる病院にしたい!

今の職場に転職されたときは、管理職として入職されたんですか。

いえ、違います。ほかのスタッフが後輩指導する様子を隣で見ているような普通のスタッフでした。数年勤務してからブランク期間があって、戻ってきた2年後ぐらいに主任になりました(ちょっと嫌そうに言う)。

今、とっても嫌そうに見えました(笑)。

(笑)。主任って葛藤の連続で大変なんですよ。現場のスタッフと同じように患者さんを持っているのに「主任」の役割がときどき降ってくるし、自分でやっちゃえばすぐ終わる仕事を別のスタッフに振って覚えさせなきゃいけない…。その記憶が(笑)。

少しずつ立場が変化していったんですね。

主任の葛藤の後に係長になって師長や副部長を経て、今の役職になりました。管理職になってから、知らないことは全部、現場のスタッフに助けてもらったおかげで乗り越えられました。ここは地方病院なので、スタッフに恵まれていないとここまで仕事を続けられなかったと思います。

都市部と地方には何か違いがあるんですか。

人員の差が大きいです。都市部だと求人募集をすれば応募・選考・面接をして充足することが多いですけど、地方だと求人応募数がまず違うので、欠員を出さないことが大切なんです。退職者が出ないように、離職率を下げることが重要。でも…都市部との違いはそれぐらいになったと思います。

昔はもっとあったんですか。

「行きたい研修が遠くて行けない」「参加費よりも交通費が高い」とか、いろいろありましたね。IT化が進んだので、オンライン研修も増えましたし、ネットで物品購入もできて、地方だからできない、という部分は減りました。看護部の離職率を毎年算出していますが、昨年は6%、今年は定年退職のスタッフを含めて11%でした。

離職率がすごく低いんですね。

ただ、ここから先は難しいですね。女性が多いので結婚や出産・子育ての期間もありますし、当院はEPA候補者が帰国する想定もあって。でも、来年こそ6%を切れるようにがんばりたいです。

EPA候補者のこともお聞きしたいのですが、担当された時期はいつ頃ですか。

主任のお話をいただいたときなので、今年で8年目です。新しく受け入れる予定になっていたフィリピンからのEPA候補者を担当したことが始まりでした。

以前からEPAに関する活動に興味をお持ちだったんですか。

それが…全く無知でした。英語も話せないし、EPA候補者って聞いても何を指すのか明確にわからなくて。最初は「無理です!」って(笑)。

適任だった?
EPA候補者のお姉さん役とお母さん役

EPA候補者との初仕事は覚えていますか。

忘れないです(笑)。名古屋で顔合わせをしたんですが、何を話せばいいのかわからなくて、ずっと黙ってました。だから、初めて会った候補者たちは、私のことが怖かったみたいですね。

お会いしたときにはすでに入職が決まっている状況だったんですか。

彼女たちの場合は、そうでした。一般的な受け入れの流れとしては、まず現地で先に合同の就職説明会のようなものが行われて、各病院がブースを出すんですが、そこをEPA候補者が回って病院を選びます。

選ばれる側なんですね。みなさんには選んだ理由を聞かれましたか。

全員、日本のアニメが大好きで、一番のお気に入りだった「NARUTO」の舞台に近かったから気軽に聖地巡礼ができると思って、当院を選んだと聞きました。でも実際は東浦平成病院から、ちょっと遠いんですよね(笑)。

それは知ってしまうとショックですね。

でも、一緒に聖地巡礼しましたよ。私が新人のときに先輩から「がんばったご褒美」を用意してもらったように、EPA候補者たちが行きたいと思っている観光スポットは「がんばったご褒美」にしました。最後の方は病棟のスタッフもメンバーに加わって団体旅行みたいでした(笑)。

日本語はどうやって教えていたんですか。

当時は、今ほどグループ内で統一の教育マニュアルもできあがっていなかったので、小学校の勉強と同じようなやり方でした。漢字ドリルをコピーしてテストするような「国語の勉強」をしていたんですけど、途中でやめました。

何か思うところがあったんですか。

最初はドリルに沿って「しんにょうの書き順」とか「さんずいの成り立ち」も教えていました。でも、国家試験には「書き順」も「漢字の成り立ち」も絶対出ないんです。診療科の前で、漢字の読み書きを覚えてもらう方が圧倒的に早いので、現場実践型に変えました。

そのEPA候補者が国家資格を取得されたのは、いつ頃でしょうか。

来日から3年です。また、ここからが大変だったんですよ(笑)。

感動の合格から一転、葛藤の日々に

担当したEPA候補者から初の合格者が出た時は、どんな雰囲気でしたか。

受験前は、病棟のスタッフが国家試験の勉強に付き合うほどみんなで協力していました。最後まで本人たちも必死に勉強していました。国試の発表はインターネット上で確認できるので、合格発表の時間になってパソコンの前で受験番号を確認して…合格がわかった瞬間は、大声で「やったー!」って叫びました。

感動の瞬間ですね!

すごく嬉しかったです。そのあと、合格したEPA候補者と各部署に「受かりました」って報告するとお祝いを用意している部署まであったりして…泣きながら報告してるとスタッフがもらい泣きして、また次の部署でもみんなで泣いて(笑)。忘れられない1日でしたね。

スタッフのみなさんに報告されたんですね。

はい、一緒にほぼ院内の全部署を回ったと思います。でも、大変だったのはその後でした。国試に受ければ当然、院内の看護師と同等です。給与も候補者の頃とは違いますし、看護師として患者さんやご家族にも携わる回数が増えます。合格を喜んでいたはずの病棟スタッフも、徐々に状況が変わってしまいました。

「厳しい意見もあった」ということですか。

不安だったんだと思います。以前は「しなくてもいい立場」だったのに、国家試験に受かって正看護師になったので「してもらわないと困る」状況になったけど、患者さんやスタッフとのやりとりが完璧にできているわけでは…ないんです。努力を見てきたから本人には強く言えない。でも、伝わらないもどかしさや、不安な気持ちを解消してほしいと私のもとに迫って来るスタッフもいました。

そんなときは、どうされていたんですか。

スタッフの意見を否定せず聞きました。どちらの気持ちもわかるんです。現場のスタッフが困惑する気持ちもわかるし、EPA候補者がその雰囲気を察して、戸惑っていることも知っていました。私ができることは引き受けつつ、私の意見も聞いてほしいって頼むことにしました。

例えばどんなことですか。

「今はできていないけど、絶対にできるようになるでしょ」と伝えていました。患者さんやご家族の方に不安が出ないように、入院日当日にEPA候補者がいることや、看護師免許を取得して業務にあたることを伝えたこともありました。そういう資料を作ってお渡ししたり、説明することもありましたね。

理解を求める工夫もされていたんですね。

最初は、患者さんだけじゃなくて一緒に働くスタッフに対しても丁寧な対応が必要だったと思います。でも、最初に合格した元EPA候補者は、正看護師からEPA候補者の教育をするリーダーになって20人ほどのEPA候補者をまとめる責任者として活躍するほどの急成長でした。

差をなくしたい!
どこでも誰でも平等な教育を浸透させたい

不安は解消されたんですね。

私が想像したよりも本人たちの努力がすごかったことと、そんな努力を見ていると周囲のスタッフも刺激されますよね。サポートした現場の努力も相乗効果を生んだと思います。この病院のスタッフの長所なんですよ。

試行錯誤の時期を越えて、EPA候補者に関する仕事も変化しましたか。

新しく経験できたこともありました。2019年の秋にベトナムで開かれた、現地説明会に参加することができたんですが、育った環境の違いを否定せずに、少しでも歩み寄ると相手の反応が劇的に変わる可能性があるんだと現地で学びました。

当時と今では、また少し見え方も異なりそうですね。

そうですね、看護部長になったことも変化のひとつでした。平成医療福祉グループの看護部内に「教育」を専門にする委員会があって、その委員会に所属できるようになりました。私がこの病院に入ったときは、教育方針の土台がまだ定まっていなかった時期なので、これから迎える新しいスタッフやスキルアップを目指すスタッフの支援ができればと思っています。

京都での新人時代に出会った先輩からの教育が印象深かったとお話していましたが、教育とのご縁がありそうですね。

そうですね、やっぱりその先輩の影響は強いですね。今、管理職として一緒に働いているメンバーも年齢を問わず仲が良いので連携が取りやすいですし、最近は趣味も共有するようになって、姉妹みたいな存在です(笑)。

管理職になって得た「趣味」

管理職のみなさんで共通の趣味があるんですね。

そんな感じで聞かれると恥ずかしいんですけど、管理職になりたての頃に「疲れた〜」って同僚の前で口にしたら、「これを観れば元気が出る!」と嵐のライブDVDを渡されたんです。私、芸能人とかにハマるタイプじゃなかったんですけど、ライブDVDを観たら…見事に心を鷲掴みにされまして(笑)。

嵐が仕事の疲れを吹き飛ばしたんですね。

ですね(笑)。同僚とコンサートに行って発散するようになって、そのうち県外にも友人ができて、デビュー15周年のハワイライブにも行きました。完全にハマってますね。

(笑)。みなさんのブームはほかにもありますか。

食パンですね。遠方に外出したときのお土産で渡したことがきっかけで、食パンの試食会を開くようになりました。遠方に外出したときには、必ず高級食パン店に立ち寄って大人買いしています。買う前に電話して、何本買うのか相談したり(笑)。

いろんな団結力が芽生えそうですね。

おいしいご褒美を食べるために、がんばって働くスタイルなんです。去年は、私が研修に出ていることも多くて、ご褒美がないと心折れそうだったんですよ。

何か受講されていたんですか。

特定行為に関わる看護師の研修制度(※)を修了して特定看護師になりました。看護師として医療行為に携われる幅が増えたので、後進の育成もがんばらないと。

※看護師の特定行為研修制度:今まで医師の指示のもと行っていた「診療の補助」の範囲をさらに広げるため、特定の分野において医療行為を看護師が実施できるようにする制度。厚生労働省が指定する研修機関で、特定行為研修を受ける必要がある。

そうだったんですね。その特定看護師さんは院内に何人いらっしゃいますか。

特定行為研修を修了した看護師は、私を含めると2名です。現在も2名が受講中で、少しずつ当院でも人員を増やしていければと思っています。

看護部としての目標もお聞きしたいです。

もう一歩、離職率を下げたいです。現状よりも低い数字を出すために病院全体で考えていきたいですね。あとは、もっと地域のみなさんに選ばれる病院を目指したいです。地元のスタッフを積極的に採用して、働き続けられる環境も提供したい。患者さんと接する時間が最も長い看護部から取り組んでいかなければと思っています。

忙しくても絶対に作り続ける
感謝のお弁当

最後に仕事の顔以外の姿もお聞きしたいです!

管理職になってから出張や外出の機会も増えて、どうしても帰りが遅くなってしまう私を応援してくれている、かわいい愛犬がいます!

いいですね〜。でもそっちじゃなくて…。

旦那ですよね(笑)。お互いに仕事で忙しくしてしまう家なので、家に帰って一緒に食事をする時間が取れないこともあるんです。共働きって感じですね。1日20分ぐらいしか顔を合わせることがない日もあります。こんなに仕事ばっかりしている私を応援してくれる貴重な存在なので、感謝していますよ。

短い時間のなかでお2人が日課にしていることはありますか。

毎朝、お弁当を作っています。私は病院で昼食を摂るので、お弁当をひとつ作って出勤するのが日課です。旦那はそれを食べるのが日課ですね。

愛妻弁当ですね!

そんな言い方をされると(照)。すっかり仕事が好きになってしまって、家のことも含めて迷惑をかけている部分は少なからずあると思うので、お弁当ぐらいは感謝の印に。

では最後、旦那さんにぜひ一言(笑)。

言わせようとしてる(笑)。でも、疲れて帰って来ても、楽しそうに帰って来ても、いつでも応援してくれている旦那には、感謝してます。絶対に、これを見ないと思うので言えますけど(笑)。

プロフィール

東浦平成病院 看護部長

東浦平成病院 看護部長

小林 さおり

こばやし さおり

【出身】徳島県吉野川市
【職種】看護師
【趣味】嵐のライブに行くこと
【好きな食べ物】食パン(高級食パンをみんなで試食する)

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