ひとプロジェクト 第65回【前編】 平成横浜病院/天辰 優太先生
平成横浜病院
天辰 優太 先生
Amatatsu Yuta
強く興味を持った、医療政策の仕組み
厚生労働省で医師として積んだ数々の経験が、大きな財産に
今回は、平成横浜病院で医師を務める天辰優太先生です。現在は外来や訪問診療を担当しながら、主には病院運営について携わる天辰先生。グループに着任する以前は、医療機関ではなく、厚生労働省で医系技官(※)として働いたというキャリアを有しています。前編では、なぜ医系技官として働くに至ったのか、また、どのような仕事に携わってきたのか、ルーツを紐解きながら、その経歴を中心に伺いました。ぜひご覧ください!
※医系技官:医師として保健医療に関する制度作りに携わる技術系の行政官。
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進路希望は当日の朝まで迷った…
医師のほかに目指した意外な職業
平成横浜病院へ入職されたのはいつですか。
昨年の11月なので、半年経ったくらいですね。
まだ割と日が浅いんですね。ちなみにご出身はどちらですか。
大分県の大分市に生まれました。食事がおいしいくていいところです。
鶏肉の消費が多いことで有名ですよね。
そうですね、あとは関アジ、関サバとか、魚介類もおいしいことで有名です。
今は横浜の病院で働いていらっしゃいますが、いつまで大分で暮らしていたのですか。
小学校を卒業してからは鹿児島県にあるラ・サール学園に入ったので、中学・高校時代は鹿児島県で暮らしていました。
おおっ、名門校ですね。地元を離れて進学する、というのはご自身の希望でしたか。
自分で希望しました。父親が歯科医で、祖父も医師というのもあって、親も理解があったというか。自分の周りにも同じように進んだ人がいたので、そういったところに進学して、医学部を目指す、という選択に自然となりましたね。
小学生の頃から勉強が好きだったのですか。
それよりは、野球が好きでした。小学生の時は自分でも野球をやっていましたし、プロ野球の選手名鑑を親に買ってもらって、それをずっと読み込んで、出身校とか年俸を覚えてプロ野球博士みたいになってましたね(笑)。
(笑)。かなりくわしくなっていたんですね。進学については、地元を離れるよりも、もっと野球をやりたいとか、地元の友だちと遊びたいという気持ちはなかったのですか。
プロを目指していたわけではなかったので、野球をそのままやっていくという気持ちはそこまでなくて、それより、医学部に行きたいという気持ちがありました。
そこで、よりチャレンジできる環境を求めて、地元を離れたわけですか。
そうですね、九州では有名な学校ですから、面白そうでしたし、せっかくなら高め合える環境に進んでみたいなと。
実際進学してみていかがでしたか。いきなり親元を離れるとなると、戸惑うことも多そうですね。
最初の1年半くらいは寮生活で、その後は姉が鹿児島の大学に進学したので、一緒に暮らしていました。寮生活は楽しいこともありましたけど、1年生から3年生まで一緒に暮らす8人部屋だったので、小学校を卒業したばかりだと、環境やルールになれるまでは大変でしたね。
やっぱり厳しい縦社会なんですか。
むちゃくちゃに厳しいというわけではないですけど、それなりには厳しかったです。「1年生は鏡がある風呂場を使っちゃだめだ」みたいなルールがあって。でも、今考えるとそういう経験があって良かったというか、勉強にはなりました。
礼儀とか社会性を身につける、というか。
あとは、寮内で自習をしないといけない時間も決まっているので、勉強には集中できる環境でしたね。
当時からもうずっと「医学を学びたい」という気持ちで勉強に励んでいたんですか。
もちろん医学部っていうのは希望としてあったんですけど、実は当時「証券マンになりたいな」っていう気持ちもあって。経済にも、もともと興味がありましたし、そういう仕事がやりたかったんです。なので医学部ではなく経済学部に進学するという道も考えて、悩んだことがありました。
金融の仕事は、どういうところに魅力を感じたんですか。
ある意味ダイナミックな世界ですし、そういうところで活躍するのは、楽しそうだしかっこいいなっていうことは学生ながらに思っていましたね。昔は証券取引所で、手でサインを出して取り引きをしていたじゃないですか。あれがかっこいいなって(笑)。
(笑)。確かに印象的な姿ですよね。
でももちろん、もともと医学部を目指していましたから、最終的には捨てきれずに、そちらを選びました。高校2年生の時、進路希望を文系か理系か選ぶじゃないですか。希望を提出する期限の当時の朝までずっと、どっちにするか悩みましたから。
かなりギリギリまで悩まれたんですね!
親も心配したと思うんですが、最後はやっぱり医学部を目指して理系を選びました。
その瀬戸際で決断した決め手はなんだったんですか。
いやあ、でも今もしまた自分が同じ状況にいたとしたら、またどっちにするかで悩むと思います。本当に、その日の朝の気分だったというか、明確にこれがあったから、ということではないんです。
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弱くても勝てます
選手兼監督として弱小チームを強化いざ医学部を目指すと決めて、どのような選択をされたのですか。
ある程度自分が入れそうなところで、なおかつ一人暮らしをしたかったので、九州から離れたところに入ろうと思って、岐阜の大学に入ることができました。
岐阜での生活はいかがでしたか。
大学は岐阜市内ではあったんですけど、思いっきり郊外にあって、周りが田んぼだらけで思ってた以上にのどかだったんですよ。中学高校と男子校に通っていましたから、大学というと華やかなキャンパスライフを想像してましたけど…実際は田んぼの畦道を自転車で通学するような日々で(笑)。
それはだいぶ想像とは違いましたね(笑)。
それはそれでのんびりして良かったんですけどね。
大学生活で印象的なことはありましたか。
小学校、中学校と野球をやっていて、高校では離れていたんですけど、大学に医学部の準硬式野球部があったので、そこに入ってまたやり始めました。
また野球熱が復活したと。けっこう熱心にやっていたんですか。
そうですね、決して上手ではなかったですけど。医学部の野球部なんで、もちろん監督なんていませんから、各学年持ち回りでプレイングマネジャーとして監督もやっていて、僕の学年は僕1人だけだったので、やらざるを得なかったんですね。
選手兼監督もやっていたんですね。
それがけっこう面白くて、どうやったら勝てるかなっていうのをずっと考えてました。当時、東海地区の大学が集まった東海リーグっていうっていうのが、一部から四部まで入れ替え制であって。うちの部はそれまで基本ずっと四部にいました。ほかの大学のチームは元高校球児も在籍していて、体格が良い選手もけっこういるけど、うちは医学部生だけのチームで半分くらいが初心者でしたし、僕と同じくらいの小さい人も多くて、なかなか勝てなかったんですよ。
リーグ内でかなりチーム力に差があったわけですね。
ただ、よく見てみると、四部とか三部のチームって、そんなに練習してないところも多いんですよ。高校の時は良い選手だったんだろうけど、大学生になった今は、みんなバイトとか飲み会をして、半分二日酔いみたいな感じで試合に来たり、お腹もたるんできてたりして。
昔取った杵柄(きねづか)じゃないけど、高校球児の頃のように真剣に練習せずに臨んでいたと。
そこで、うちのチームはたまたま足が速い人が多かったので、機動力でかき回したら勝てるんじゃないかって思ったんですね。かなり真剣に練習して、自分がプレイングマネジャーだった時に、四部リーグで優勝して三部に昇格して、さらにそこでも優勝して、一気に二部まで上がれたんです。
おおっ、すごい快挙ですね!
医学部のチームが二部に上がったのは初めてだったみたいです。大変ではあったけど、当時はすごく面白くて、良い経験をしたなと思います。初心者ばっかりのチームでしたけど、一生懸命やって勝てたのは、達成感がありましたし、結束が強まって良かったですね。
プレーすることも好きだったとは思うんですけど、マネジメントする面白さ、みたいなことはそこで気が付いたんですか。
僕自身、足がめっちゃ遅かったんで、そこを基準にすると絶対ベンチなんですよ(笑)。でも、ベンチにいて采配を振るうっていうのも、めちゃくちゃ面白かったですね。
ご自身はそんなに出場しなかったんですか。
一度、代打で出場して、バントだけして。それくらいですね(笑)。
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臨床よりも強く興味を持った
医療政策の仕組み
医学部の学生としては、どんなことに興味を持ったのですか。
一般的には臨床をやっていくのが普通なんですけど、正直に言うと、もともと金融経済にも興味があったとお話した通り、どうやって今後進んでいこうかと迷ったところがありました。
臨床の道に進むことに迷いがあったと。そこからどのように決断されたのでしょう
大学6年生で岐阜県内の病院に実習に行った時に、現在はグループの世田谷記念病院で在宅医療部部長を務める佐方先生と出会って、僕の上級医として1カ月間一緒に働く機会がありました。佐方先生はその前まで厚生労働省で医系技官として働かれていたので、公衆衛生に関わることの面白さ、みたいなことを教えてくれたんです。
その出会いが、その後の選択に大きく関わったと。
その話を聞いて、厚生労働省の道に進むのが面白いんじゃないかと思ったんですね。臨床は、またタイミングが合えばできる機会もあるかなと考えて、なかなかできない経験ができる、医系技官の道に進んでみようと。その後、臨床研修をやって、そのまま厚労省に入りました。
周りは臨床医を選ぶ人の方が多かったと思うんですが、ご自身は周りと違う道を選ぶことに、心の揺れはありませんでしたか。
もちろん、臨床が面白いっていうことは思いましたし、患者さんの状態が良くなって感謝していただけた時に、やっぱりいいなって思うこともあったんですけど。当時は厚労省で「自分の能力を試してみたい」という気持ちが強かったので、そこに迷いはなかったですね。
その時は、実際どういうことをしたいと思って厚労省に入ろうと考えられたのですか。
医療行政の仕組みはどうなってるのかとか、医療行政を決定しているのはどういった人たちなのかとか、興味本位の方が強かったですね。自分が働いていたような病院の、行政ルールがどう決まっているのか知りたい、っていう気持ちです。
仕組みの方に興味があったと。
もともと、経済学部を目指すっていうことも選択肢にありましたし、官僚っていう仕事についても昔考えたことがあったので、自分に合っているかもしれないと思ったんです。それと大学の野球部での経験にもつながるんですけど、みんなで力を合わせてやるっていうところで、自分の力を発揮できるかなと思ったので、そういう観点で行政に携わったら面白いんじゃないかと思ったところもありましたね。
目の前にいる患者さんに向き合うのとはまた違った視点を持って仕事をしていくと言いますか。
そういう新しいチャレンジみたいなことは僕に性格としては合ってると思ったので、面白そうだなと思って進みました。
同級生でもなかなか進む人が少なそうなチョイスですよね。
都内の大学であれば、まだ多かったかもしれません。今も当時の同期と飲んでも、共通の話題が少ないんです(笑)。みんな手術や患者さんの話をするところで、僕がこういう仕事をしたっていう話をしても、なかなか理解はしづらいでしょうし、自分の親にしてもそうなんですけど、当然僕が臨床医になると思っていましたから。これは課題だと思うんですが、厚労省内で大変な仕事をしていても、なかなか理解されにくい部分なんです。
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大きな財産になった
診療報酬改定での経験
厚労省ではまずどういったところに配属されたのですか。
最初は介護報酬に関わりました。介護報酬の中でもリハビリの分野を担当したのですが、作業療法士の方とチームを組んで「介護においてリハビリはどうあるべきか」ということを、議論しながら進めていきました。当時はリハビリについてくわしくなかったので、その方に教えてもらいながら、けっこう大変だったんですけど、それで報酬改定に初めて携わりましたね。
当然それまではリハビリについてもそこまで知識はなかったと。
研修医としてもそこまでリハビリについては関わらなかったので、そこでリハビリのあり方、みたいなことを教わったのはとても勉強になりました。
経験にもなりますけど、最初は大変そうですね。担当する分野についての知識を入れながら、同時にアウトプットしてという感じですか。
そうですね。最終的には法律として通知できる文章にしないといけないので、いわゆる法令のプロである、本当のキャリア官僚の人たちと、正確な表現や解釈の揺れが起こらないようにしていく作業もあって、それはものすごい大変でしたね。
細かい調整が求められそうですね。
僕らが書いたものをそのまま出せるわけではないので、赤ペンをめちゃくちゃ入れられて。その分すごく勉強にはなりましたけどね。その次には、診療報酬改定も担当したんですけど、改定って本当に大変な業務のひとつで、それなりに労働時間も長かったですし、肉体的にも大変でした。
介護報酬と診療報酬と、どちらも担当してみて、関わり方は違いはありますか。
当然、制度や歴史が違いますが、基本的には同じですね。担当する分野によって、一緒に仕事をする人も変わって、診療報酬の時は看護師さんと一緒になって取り組んでいましたね。
その頃のお仕事のやりがいや醍醐味は、どういうところにありましたか。
改定で変わった部分によって、現場が良くなったというお声をいただいた時は「大変だけどやって良かった」と思えましたね。診療報酬を改定するということは、全国的にその変更されたルールに沿って動くことになるので、インパクトが大きいですから。
確かに、大きく報道もされますし、現場への影響も大きいものがありますよね。
なので、慎重に行わないと間違ったメッセージを伝えることになってしまうので、手が震えながらと言うと大袈裟かもしれないですけど、日々自問自答しながら、各分野の専門家にも意見を聞いて、慎重にステップを踏んでいました。
時には耳の痛い指摘を受けることもありましたか。
当然そういうこともありました。でもそれも必要なことですし、問題が生じていることは確かなので、そこから改善点を見出して、できることは取り組んでいくというのが大事だと思いました。仕事としては肉体的に大変なこともありましたけど、やりがいはすごくありました。
やはり大変は大変だったのですね。
僕は入省する面接の時に、アピールポイントがそんなになかったので「部活もやっていたし体力には自身あります」って言ってしまったので、それでいきなり体力枠として、介護報酬改定の担当になったんだと思ってます(笑)。だから、その後も2回診療報酬改定に関わらせてもらえたのかなと。ただ、そのおかげで財産になるような経験はできましたね。
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厚労省は常に新しいチャレンジができる環境
その後はどのようなお仕事に関わったのですか。
国立ハンセン病療養所の医師確保に関わったり、医師の働き方改革について関わったりしました。
ハンセン病療養所は、なかなか医師のなり手がいなかったと。
全国に十数箇所あるんですが、なかなか知ってもらうこと自体が難しかったんですね。刑務所で働く矯正医官もそうですが、行政に関わる医師の仕事はいろいろあっても、普通に働いているだけではなかなか目にする機会がないんです。
求人サイトに出るようなお仕事ではないわけですよね。
なので、例えば大学を回ったりとか、各都道府県庁にお願いをしに行ったりなどして、知ってもらう工夫もしていました。
医師の働き方改革については、最近もよく報道で目にしますし、引き続き話題になっているテーマです。
政府として、医師に限らず働き方改革を推進するという流れがもともとありましたが、医師は当直をやらないといけないですし、長時間の労働がベースにはなっているという特殊な労働ですから。医師が患者さんを守るためには、まず医師自身の健康や働き方も守らないといけない。そのため、ある程度地域の医療を維持できながらも、働き方のルールを作るっていうことをやっていました。
地域によっては医師の数が足りていない状況で、働き方も改善するとなると、難しいバランスと言えそうです。
まさに、救急体制を維持しながら、必要な医療を地域のみなさんに提供できるっていうことが大切なポイントですから。そことのバランスや、ルールをどうしていくかとか、これはかなり苦労したことで、検討会も何度も開いて調整していましたね。
医師の需給とも絡んでくるわけですね。
それと同時に、地域医療構想ともセットで考える必要があります。ほかにも考えないといけないことがたくさんあって、単純に医師の労働時間を制限するっていうことだけでは地域の医療に影響が出てしまいますから、大学病院や自治体と、うまくセットになっていけるようなパッケージを組めるように取り組んでいました。
ここまで聞いたお仕事については、やはりその時その時でのやりがいがあったのでしょうか。
厚労省の仕事は、2年に1回周期で人事異動があるので、長くは関われないんですけど、それぞれ課題があって、常に新しいチャレンジができるっていうのが面白かったですし、自分には向いていると思いましたね。
厚労省でのキャリアを通して特に印象的だったお仕事はどんなことですか。
特に印象に残っているのは、診療報酬改定ですね。診療報酬と一口に言っても、いろいろな職種の方が関わるような点数がたくさんあるので。看護師の方やリハビリスタッフの方、薬剤師の方とか、さまざまな方と話をしたり聞いたりして「こういう仕組みにできたらいいよね」と話しながら進められたのは、やりがいもありましたし、楽しかったですね。
大変だった分、印象にも残っているんですね。
臨床医だと、治療に携わっているその瞬間瞬間で反応が見えることも多いと思うんですけど、厚労省で関わってきた仕事は、効果が見えるまでの期間も長いんです。良い反応をいただけたときはかなり嬉しいんですけど、忍耐力は必要ですし、種まきみたいなところはありましたね。
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後編を読む

平成横浜病院 天辰 優太先生(あまたつ ゆうた)
【出身】大分県大分市
【専門】内科
【趣味】読書、キャンプ
【好きな食べ物】ラーメン(岐阜の麺屋白神がおいしい)
病院情報

神奈川県横浜市戸塚区戸塚町550番地
医療法人横浜 平成会
平成横浜病院
内科・神経内科・呼吸器内科・消化器内科・循環器内科・外科・泌尿器科・皮膚科・整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科・歯科・歯科口腔外科・麻酔科・脳神経外科地域に根ざした病院として、一般病棟、地域包括病棟を備え、回復期リハビリテーション病棟を新設しました。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。2018年6月には、総合健診センターがリニューアル。地域の健康を支えていけるよう努めています。