優しかった看護師さんに憧れて 山口県で長く医療を見守る看護部長に聞きます!/山口平成病院/看護部長/山本 さゆりさん
優しかった看護師さんに憧れて
山口県で長く医療を見守る看護部長に聞きます!
山口平成病院の看護部長、山本さゆりさんは、もともと沖縄のご出身。関東での生活を経て、山口県岩国市にある山口平成病院にたどり着きました。山本さんの看護師経歴を中心に、看護師を目指したきっかけや、今では珍しい、住み込みでの学生時代のこと、山口で仕事を始めて感じた葛藤などについてお話しされています。ぜひご覧ください!
沖縄で過ごした
元気で真面目な学生時代
ご出身はどちらですか。
沖縄県の沖縄市です。
地元は沖縄なんですね! どんなところでしたか。
沖縄市の中心のコザと呼ばれるところでした。基地が多い場所なのでアメリカの方も多くて、街並みもアメリカっぽさがありましたね。山口平成病院がある岩国市にも米軍基地がありますけど、その近くにも雰囲気が似たお店が多いですね。
最近も沖縄に帰ってますか。
年に4、5回は帰っていますよ。岩国錦帯橋空港ができたので、頻繁に帰るようになりました。今までは福岡を経由して帰らないといけなかったんですが、沖縄直航便ができて便利になりましたね。
沖縄での学生時代はどんな風に過ごしていましたか。何か部活動などは。
陸上部に入っていて、100mハードルの選手でした。
障害走だったのですね。速かったですか?
ん〜、どうだったんでしょうか。高校生の時は校内で記録賞をもらいましたけど、県大会に出ようとしたら先生が申し込みを忘れて出られなかったんですよ(笑)。
そんなことあるんですね(笑)。真面目な生徒でしたか。
そうだったと思いますね。当時そんなに遊ぶところもなかったですし。部活がない時は、ハンバーガーショップで友だちと延々お喋りして楽しんでたくらいで。
高校生っぽくて良いですね〜。特に周りが荒れていることもなく。
進学校だったこともあってか、みんな受験に向けて勉強していましたね。
沖縄にはいつまでいらっしゃったんですか。
高校を卒業するまです。その後は横浜にある看護学校に進みました。
今では珍しい?
住み込みで働きながらの看護学生時代
そもそも看護師になろうというのはいつから思っていたんですか。
小学生の頃から「看護師さんっていいなあ」って思っていたんです。当時は脱臼グセがあって、鉄棒にちょっとぶら下がっただけで外れてしまうほどで、頻繁に病院に通っていました。
そこで看護師さんと触れ合う機会があって。
病院で接する看護師さんがみなさん優しくて、気がつけば憧れるようになっていたんです。
地元の沖縄ではなく横浜の看護学校を選んだのはどうしてですか。
当時は沖縄を離れて、都会に出たいという気持ちがありました。やっぱりもっと違うところに出たかったんです。今なら逆に沖縄に帰りたいですけどね(笑)。あらためて、私にとっては住みやすいなあと思うこともあって。
実際、学校生活はいかがでしたか。
楽しかったですよ。年齢層も幅広くて、いろんな方がいて刺激を受けました。実は今でも会ってるんですよ。毎年1回、横浜でクラス会をしています。
まだつながりがあるのはすごいですね!
そうなんですよ。ちなみに当時、今では珍しいと思うんですが、医師の方の家に住み込んでいたんです。
え、ご自宅にですか!?
クリニックをやられながら、東京女子医大で週1回診察もされているっていう女性の先生のお家で。クリニックの上の階に学生用の部屋とお風呂やトイレもあって、そこに何人か学生が住んでいたんです。食事はお手伝いさんが作ってくれて、先生たちと一緒に食べていました。
生活を完全に共にされるんですね。
ほかにも何人か一緒に住んでいたんですが、みんなそこから学校に通って、さらに先生が経営するクリニックでも働いてっていう生活でしたね。
なるほど、最近だとあまり聞かないお話なので、新鮮に響きますね。
もう30年以上前の話ですから(笑)。今はもうないかもしれないですね。働く代わりに学費もほとんど出してもらえましたし、働いた分もお小遣いっていう形でお金が支払われて。食事も3食出ますし、仕事が終われば自分の時間もありました。准看の資格を取ってからは、正看護師の学校へは自費で通うことになるんですが、その分時給が支払われるようなります。
また待遇が変わるんですね。そういったことは、人材の確保が目的でやられていたことですか。
そういうことになりますね。卒業したら、そのクリニックで働くっていうことになっていましたから。
遅くても帰れない…
厳しかった当時の実習
ちなみに、看護実習って当時と今とで違いはありましたか。
辛かったですね〜あの頃は。今より厳しかったかもしれないです。1週間が本当に酷でしたね。よくやったなと思いました。金曜日が終わると、よく帰りに同級生のみんなで横浜のルミネで打ち上げをしてました。
かわいい打ち上げですね(笑)。
「来週もがんばろう!」って励まし合ってね。やっぱり泣いてしまう子もいましたし。
教え方は当時厳しかったですか。
今と比較すると厳しかったかもしれないですね。例えば産科とかオペの実習は、出産が始まるとか、オペが始まるとなると、ずっといないといけない。それが夜中2時になったとしても終わるまでは帰れないんです。
それは実際に手伝うんですか。
いえ、見学です。深夜に「残るか帰るか、自分の気持ちで決めてください、どうされますか?」って聞かれて。そんなの断りづらいじゃないですか。「残って勉強させていただきます」って言うしかなかったですね(笑)。
見学でその時間まで残すっていうことは、今ではなさそうですね。
いくら遅く帰っても、次の日はまた朝から出なきゃいけない。あれはね、辛かったです。今はそういうことはないと思いますよ。
実習で指導を受ける時も圧は強めでしたか。
キツかったし怖かったですよ。何か言われるたび、ビクッてなりましたから。
それを経てから、ご自身が教える立場になったらどうなるんですか。
そりゃもう、怖くするのは嫌だなと思いましたよ。
住み込みしていた横浜のクリニックでは、しばらく働かれたんですか。
4年ほど働きました。そこからは、横浜市内の別の救急病院で働いていましたね。
クリニックから救急病院だと、だいぶ雰囲気が変わりますね。
大変ではありましたけど、学校の先輩や同級生もいたので働きやすかったです。
そこからまた色々移られたんですか。
いえ、その時点で結婚をしまして、主人の実家である山口に移ることになったんです。今は合併して岩国市になったんですが、当時はまだ玖珂町という名前で、私も退職して一緒に引っ越すと言うことになりました。
生活、仕事
山口に移って感じたあれこれ
引っ越してみて、この地域の印象はどうでしたか。
もう長年ここに住んだ身だから言えますが、最初に思ったのが「田舎だな〜」と(笑)。電車で出かけようとして時刻表を見ても、書いてある情報が少なすぎて、駅員さんに「ほかの電車はどこに書いてありますか?」って聞きましたよ。
電車の数が少なくて空白が多いから、ほかにも運行があると思われて。
思ったより電車の数が少なかったです。車両もボタンを押してドアが開くっていうことが最初はわからなくて「どうやって降りるんだろう」って思って。横浜にいたときは3分に1本くらい電車が来ていたのでギャップがありましたね。最初の頃は車の免許を持っていなかったので、50CCのバイクと電車でどうにか通っていました。
のどかなところですからね。そこから徐々に馴染んでいかれて。
最初は友だちもいませんでしたし寂しかったですよ。でも仕事をするようになってから、同僚とも出かけるようにもなって、それからどんどん楽しくなっていきましたね。
岩国に移って、最初はどんな病院に務められましたか。
もう初めからこの病院でした。ただ、その頃はまだこのグループには入る前で、病院名も玖珂同仁病院という名前でした。
こちらに長くお勤めなんですね。入った頃はいかがでしたか。
とにかく慣れるので精一杯でしたね。私が入った頃は准看護師がほとんどで、正看護師は少なかったんですが、主任さんはベテランの方で、だいぶ言われましたね。
どういうことですか。
「あんた正看護師なんだから、1人で点滴全部回ってこい!」なんて言われました。今そんな風に言ったら問題になりそうですけど、それを普通に言われたので、最初は「ああすごいところに入っちゃったなあ」って思っていました(笑)。
雰囲気が変わった
グループへ移行した頃のお話
そのうちに経営がこのグループに変わったわけですか。
そこから何年かして、平成医療福祉グループの代表がコンサルタントとして関わるようになり、さらにその後、完全にグループに移行して、病院名も山口平成病院に変わりましたね。建物もその時に新しくなって。
病院としてどういったところが変わりましたか。
今、グループホームが隣接しているあたりも当時は病室だったんですよ。言い方は悪いですけど、収容所みたいな雰囲気があって…。それが本当に病院らしい形に部屋が変わったので、きれいになって良かったと思います。
ほかにどういったところが良かったですか。
研修に関しても意欲的でしたね。学びの面でもプラスが大きいのはとても良いことだなと思いました。
プラスとなるところが多かったと。
建物から変えて、スタッフについても新卒の方を採用しようとか、病院として若返りをしようという変化もありました。
その頃は新卒採用がなかったんですね。
今と採用の仕方が違いましたね。スタッフの雰囲気もだいぶ変わりましたよ。言葉遣いとか態度にも問題があるスタッフさんもいましたので…。
接遇での問題を感じていたと。このグループに変わって、徐々に人も変わっていくうちに、現場にも変化がありましたか。
変わりましたね。もちろん、考え方の違いで離れた方もいましたが、私は前向きでしたし、意地でも残ろうと思いましたね。
病院の機能も変わっていって。
以前よりリハビリに力を入れるようになって、新しくリハビリ棟も作られました。それがあるから来ていただけるという患者さんが増えていきましたね。
リハビリテーションに力を入れているというのはやはり強みなんですね。
それと、病院に付随して施設が作られましたので、入院患者さんに動きがあるんです。その点は職員も刺激になっていると思います。
まさかの人事で事務長に!
必死に務めた10年間
病院が山口平成病院となってからは、どのように仕事をされていたのですか。
看護師としてずっと働いていたんですが、何年かした頃、グループの関連会社に出向したんです。
それはまた意外ですね!
その会社では、ヘルパー派遣とか訪問入浴を提供していました。主任になって会社の立て直しをしてほしい、ということで、しばらくは勤務していました。
どんなことをやられていたんでしょうか。
営業とかヘルパーの研修ですね。たまに、訪問入浴とかヘルパー派遣に人がいないときには私も入らせてもらってました。
病院の枠を飛び越えて仕事をされていたのですね。
研修では、山口だけでなく、神戸や徳島、神奈川県の相模原まで行った記憶があります。いろいろと飛び回って活動していましたね。いろいろと経験もさせてもらえて、いい勉強になりましたね。
看護部長になったのはその後ですか。
その後はしばらく、病院と併設されている介護老人保健施設のケアホーム山口で師長を務めて、そのあとは事務長をやっていました。
えっ、事務長ですか?
ちょうど前任の方が定年で辞められるとなって、次はどうなるのかというところで、グループの代表から「事務長をやってほしい」と伝えられて。「私、事務のことはほとんどわからないですよ!」って言ったんですが(笑)。
事務長となると、なかなか驚きますよね。
さすがに驚きました(笑)。でも、このグループは職種にとらわれないところがあるから、いろんな職種に挑戦させてもらえる、その発想はすごいなあと思いますね。結局そこから10年くらいは努めさせていただきました。
実際に務めてみていかがでしたか。
果たしてどこまで仕事ができていたのかわからないですが、何かあったらその都度その都度学びながら取り組んでいきました。老健の師長はしていましたが、事務長はもう見よう見まねで。いろいろな方にお話を聞きながら、みなさんに助けていただきながらでしたね。
そのなかで10年という長い期間を務めてこられたのはすごいことですね。
グループの代表からの「何事も、やる前からできないと思ってはいけない」という言葉があったんです。どんなこともまずは挑戦してみないとわからないと。こんな私でも信頼して任せてもらったので、「まずは病院のために一生懸命取り組んでみよう」と思って続けてこられました。
まずやってみるというのは大切なことですね。
振り返ってみて反省も多かったですが、患者さんにとってより良い病院になればと考えてがんばった10年間でしたね。大変な時もありましたけど、長い目で見て、いろいろ勉強ができたなと思います。看護部にいただけではわからなかった、お金のことや経営のことも知ることができましたのでね。
看護部長になられたのはその後ですか。
その頃には今の事務長が入職していたので、私が看護部長になって、事務長の方を任せることにしました。それからはその体制でずっと病院運営を続けていますね。
看護師だけでなく全職種の面接も
看護部長をしながら、県下の人事も管理します
看護部長としてはどのようにお仕事をされていますか。
事務長時代は看護職からは離れていましたので、現場の仕事については各病棟の師長さんに任せている部分が大きいです。管理職として看護部を広く見ながら、人事面や接遇についてのことは特に気にしていますね。
現場のことは任せられるようになっているんですね。
私は定年までそう遠くないというのが頭にあるので、みなさんにどんなことでも任せられるように、ということを考えています。主任や師長を育てていって、各病棟の体制をさらに整えていくのが課題ですね。
ちなみに伺いますが、事務長から看護部長になった時は安心しましたか。
それはありました(笑)。やっぱりもともと看護師ですから。でも、今もその時の名残で、事務周りのこともしていますし、山口県の病院・施設の人事管理も担当しています。
看護師さんの人事についてですか。
看護師だけでなく全職種ですね。
事務長経験者ならではですね。面接も山本さんがやられるんですか。
看護師以外、リハビリスタッフも運転手さんも、全職種をやります。
そうなんですね!
この山口平成病院のほかにも、県下にあるグループの施設すべての人事について管理しています。時間が取れないときはほかの責任者にお願いしていますが。ただ、それも少しずつ事務長に渡していってはいます。
スタッフは長く働かれている方も多いですか。
うちは福利厚生も充実している方だと思いますし、定着率はとてもいいです。長年勤められたスタッフに永年勤続表彰を贈っているんですが、その表彰者も増えているんですよ!
地域の患者さんを
もっと受け入れていきたい
山口平成病院は地域でどういう病院を目指していますか。
やっぱりリハビリに力を入れて、患者さんの早期復帰を目指すこと。それと、「絶対に見捨てない。」とのグループ理念の通り、相談いただいたものはできる限り受け入れるという体制を取っています。代表からの「病棟のベッドは地域のもの」という言葉もあって、ベッドの上には空気を乗せないようにと話しています。
空床を作らないということですね。需要は高いですか。
高いと言えます。最近は、サービス付き高齢者向け住宅も増えてきて、そちらで終末期を送るという方も多いと思います。今後はそういったところとも連携しながら、いつでも受け入れられる体制にしていかなければと思っています。
これからはどんなことに力を入れていかれますか。
現在、入院患者さんは急性期病院からの紹介いただく割合が大きいので、在宅サービスや外来からの比率も増やしていきたいと思っています。そこで、訪問看護、訪問リハビリにも力を入れていくということを考えています。
訪問サービスも需要が高まっていますか。
ケースとしては右肩上がりで増えています。それに合わせて、スタッフも増員できたらと思います。
出産・育児を経ても
いつでも復帰できる病院に
山本さんはこちらに勤めながらお子さんも産んで育てられて。
ここで在職中に3人産んで育てましたね。
3人も! ちなみに当時は託児所は。
その時はなかったですね。当時は制度も今ほど整っていなかったので、出産の2カ月後には勤務しなければいけない時代でした。このグループに移行してからは、しっかりと整備された印象です。
ではその時期に辞められる方も。
多かったですね。それとやっぱり、小学1年生になった時も退職の区切りになりやすいんですよ。1年生は帰宅時間が早いので、学童に入れるかどうかで変わりますから。なので、1年生に上がる事前に、なるべく入れるようにとアドバイスして。そこは今も当時も変わらないところですが。
今は産休・育休に入られる方にアドバイスをされていますか。
私がそこまで言わなくても、帰ってきてくださる方が多いです。でも必ず「帰ってこれる環境はあるからね」っていうのは伝えています。
復帰される方は多いですか。
大体は帰ってこられますね。託児所があって安心っていうことで入職するスタッフさんもいますので。
それは心強いですね。
平日は2歳までのお子さんを預かっているんですが、土日は小学校に上がるまでのお子さんも預かっています。もうちょっと部屋を広げて、預かれる人数を増やせたらなとも思っています。そうすればお母さんたちもさらに安心ですしね。
山口県内のグループ病院・施設で
連帯して医療を提供
ちなみにこの病院の看護部はどんな雰囲気ですか。
協力体制が取れていると思います。病院だけだと大体60人くらいですね。若い方から、私たちくらいのベテランのスタッフまでいますよ。
後輩を見守る立場だと思いますが、何か心がけていることはありますか。
やっぱり「接遇」ですよね。いろんな方がいらっしゃいますので、自分では相手を思った伝え方をしていても、そう伝わっていないっていうことはよくあります。そんなつもりはなくても、悪く取られてしまうことはあるので。態度や言い方はとても大事ですね。
新人スタッフさんにはどういうアドバイスをしているんですか。
とにかく慣れるまでは、何があろうと心配せず、なんでも相談に来てねって言っています。最初はもう何がわからないかもわからないことっていうこともありますし「私はこの部屋にいるから、いつでも来て」って伝えて。
病院のことも見ながら人事のことも担当して、やることが多いですね。
自分ではそうは思ってないんですよ。看護部長になる前も動き回っていましたし、忙しい方が好きなのかもしれないです。
仕事で大切にしていることはありますか。
それはもうチームワークだと思いますよ。何をするにしても、私たち看護部だけとか、リハビリテーション部だけではいけないわけです。患者さんの体はひとつなので、協力体制でいかないと改善は成し得ません。どこかが困れば協力体制でいきましょう、っていうことはいつもみんなで話しています。こちらから相談した時も協力してもらえるので、いつもそこはありがたいと思っています。
県内の人事を見られているとのことですが、山口県は岩国市内にグループの各種施設が揃っているのも特長ですよね。
このグループになってから、徐々に施設ができてきたんですが、まずヴィラ本郷ができて、そのうちにデイサービスやグループホームもできて。当然、病院と施設の連携もあります。もしここで大きいイベントがある場合、施設からすぐ応援に来てくれますし、逆に要請があればこちらからもいきます。
山口県で一枚岩なんですね。
そういうところはあります。山口は山口平成病院が中心にあって、各施設・部門があるっていう、病院を旗艦としながら体制を作ってきましたから。これからも体制を強化していきたいですね。
車中泊で目指すは日本一周!
お休みの日はどう過ごしますか。
計画を立てて、温泉に行ったり旅行行ったりしてますよ。最近は車中泊に凝ってます。
車中泊! 泊まれるように車を改造されているんですか。
いえ、大きく改造はしてないんですが、ベッドだけは作って寝られるようにはしています。それに乗って、夫婦で一泊二日の旅行に行って。
そもそも、車中泊をしようというのはどうやって出てきた発想だったのですか。
主人が「日本1周したい」と言って、始めたんですよ。これからもっと年齢が上がったら、運転も大変になってくると。私自身、最初は「嫌だ」って思っていたんですけどね(笑)。それで去年から始めて、九州を巡りました。
いいですねえ。疲れないものですか。
全然大丈夫ですよ。ベッドはフラットになるんで、ぐっすり寝られます。
最近も休みの度に行かれるんですか。
夏はさすがにきついですけど、5月の連休でも行きましたよ。今後は、鳴門の渦潮を見たいとか小豆島に行きたいと主人が言っているので、また1、2泊で行こうかなと。今は、その楽しみのために働いているようなところもありますね。
仕事以外で目標はありますか。
いずれ沖縄に帰って、プライベートビーチのある家で、この病院の人をみんな呼んでバーベキューしたいなっていうのが目標ではあります。実際に帰れるかはわからないですけど(笑)。
ちなみに、もうすっかり沖縄の方言は出ないですか。
もう完全にこっちの言葉になってますね〜。沖縄に帰っても岩国の言葉が出ますよ(笑)。
プロフィール
山本 さゆり
やまもと さゆり
【出身】沖縄県沖縄市
【職種】看護師
【好きな食べ物】マンゴー
【よく作る沖縄料理】ゴーヤチャンプルー、麩チャンプルー
病院情報
山口平成病院
内科・消化器内科・呼吸器内科・循環器内科・リウマチ科、リハビリテーション科
1986年12月に開設した入院医療を中心とした病院です。山口県最東部の地域医療を中核的に担う病院として、広々とした病室の中で、個人にあった治療とリハビリテーションを提供しています。また、周辺にさまざまな介護関連施設を併設することにより、退院後の入所、在宅復帰後もご利用いただけるサービスを整え、総合的に患者さん・利用者さんを支援しています。