ひとプロジェクト 第49回【前編】平成医療福祉グループ 介護福祉事業部 サービス企画課/木村 太一さん・城野 葵さん

木村 太一 さん

Kimura Taichi

城野 葵 さん

Jono Aoi

建築事務所、広告代理店からの転身
経験を生かして、より開かれた医療・福祉の実現に取り組みます!

今回は、グループの介護福祉事業部から、木村太一さんと城野葵さんに登場いただきます。建築事務所で家具デザインの仕事をしていた木村さん、広告代理店で営業をしていた城野さん、医療や福祉とは違う分野からこの仕事に転職したお2人。しかし、根底に共通するのは、社会課題の解決というテーマでした。前編では、このグループにたどり着くまでの経歴を中心に伺いました。ぜひご覧ください!

  • 木村 太一

  • 城野 葵

よく眠れる、肌がきれいになる
地元が大好きなお2人

お2人が所属する介護福祉事業部はどんな部署ですか。

城野

高齢者や障害者のための施設運営や事業企画を行う部署なんですが、私たちはそのなかでも企画の方を担当する、サービス企画課に属しています。

主に企画を担当しているのですね。お仕事については追々お聞きするとして、まずはご出身を教えてください。

木村

僕は兵庫県赤穂市です。

赤穂の塩で有名な赤穂市ですか。

木村

それと赤穂浪士が有名で、義士祭っていうお祭りもあるんですけど、今時は赤穂浪士って言っても伝わらないことも多いですね(笑)。

今は忠臣蔵の話に触れる機会も少ないかもしれないですね。関西地方ではありますけど岡山寄りですし、言葉もだいぶ違いますか。

木村

播州弁っていうちょっと特殊な方言があって、僕たちはそんなに使わないんですけど。

城野

どんな言葉か聞いてみたいですね。

木村

播州弁を喋る人と一緒にいないと出せないんですよ。こっちでは聞かないような単語や、語尾にも特徴があるんですけど、大学進学で東京に出てからは、すっかり出せなくなってしまって。

城野さんのご出身はどちらですか。

城野

群馬県の前橋市です。大学に進学するまで住んでいたんですけど、前橋のなかでは端っこの方で、だいぶ田舎でしたよ。

前橋駅に出るまでまた時間がかかるような

城野

高校が駅のそばにあったんですけど、毎朝30分かけて自転車で山を下っていって、帰りは登りなので1時間かかるんですよ(笑)。

お2人とも自分の地元にはどんな印象を持っていますか。

木村

いいところだなって最近どんどん思います。のんびりしてて、土地が広くて。上京してしばらくは東京の方がいいなと思っていたんですけど、今は地元がいいなと思いますね。

城野

私も好きですね。空気がおいしいですし、最近は帰れてないですけど、実家に帰ると、すごくよく眠れるんですよ! 安心感があるんでしょうね。

木村

僕も実家帰ると肌がきれいになります(笑)。水がきれいなのかな。

城野

わかる〜それ(笑)。

バタフライを泳いでいた木村さん
ミュージカルに打ち込んだ城野さん

大学に出られるまでは地元でどんなことをされていましたか。

木村

中学校の時は真面目に勉強をしていました。勉強くらいしかすることがないんですね(笑)。小さい時から水泳をやっていて中学時代は水泳部でバタフライを泳いでいました。

城野さんはどうでしたか。

城野

中学時代はソフトテニス部で、それは普通にやってたんですけど、高校ではミュージカルをやってました。

木村

それは部活ですか?

城野

「音楽部」っていう部活です。

珍しいですね、普通科の高校ですか。

城野

県立の女子校です。音楽部はミュージカルと合唱を両方やる部活で、宝塚みたいな感じでした。あんな華やかじゃないですけど。

大会があるんですか。

城野

合唱はコンクールがあるんですけど、ミュージカルは、年に1回大きな公演があって、そこに向けて1年をかけて作品を作るっていう感じでした。

城野さんはどんな役をやられていたんですか。

城野

私は男役だったんですよ。その時はそのために髪の毛も短くして。

木村

へーっ、知らなかった(笑)。

もともと興味があったんですか。

城野

もともと、シアターダンス(ミュージカルダンス)がやりたかったんですよね。でもダンス部だと私がやりたいものよりイケイケな雰囲気だったので、音楽部に入りました。毎日、朝7時半から練習して、早弁して昼休みも練習して、放課後も練習をして。

かなり熱心ですね! 辛くはなかったんですか。

城野

むしろ楽しかったですね。高校時代はもうそれしかやっていなくて、勉強もあんまりしてませんでしたね(笑)。

大学でもとことんミュージカル
ハードだけど楽しかった社会人スタート

城野さんは大学ではどんな道に進んだのですか。

城野

文学部の演劇映像コースですね。戯曲を読み込んだり、舞台を見ながら分析をするとか。授業は楽しかったですね。

演じる方ではなくて、研究する方だったのですね。

城野

ミュージカルのサークルに入ったので、演じるのはそちらで楽しんでいました。職業として役者を目指そうと思ってたわけでもなかったですし。いくつかあるミュージカルサークルのなかでも一番遊び要素の強いところに入りました(笑)。

木村

勉強もサークルもずっとミュージカルっていうのがすごいですね。

就職活動でも、舞台関係のことを仕事に、とは思わなかったですか。

城野

それは思わなかったです。それと、当時リーマンショックの真っ只中で、就職率がすごく低かったんですね。就職先を選べるような時期でもなかったというのもありましたし、さらにそんなにガチガチに就活をしていませんでした。

就活にあまり本腰を入れていなかったのは何か理由があったのですか。

城野

そもそも文系で文学部っていうと、大体一般企業に入ると営業に配属されることが多いじゃないですか。私は「自分が良いと思ってないものを売るのは難しいな」と思っていたところがあって、それでなかなか就職も決まらなかったんです。そこで出会ったのが前職でしたね。

城野さんにどうフィットしたのですか。

城野

その会社は広告代理店ではあったんですけど、営業色を前面に押し出していなくて「社会にとって良いことをしていればお金は後からついてくる」っていう、広告の会社としては珍しい価値観で。それなら素直にいいと思ったことを提案できたり、対価をもらえたりっていうことができそうだなと思いました。

あくまで社会課題の解決が中心だったと。

城野

はい。仕事の内容も、イベントだったり新聞広告だったり、課題に合わせてさまざまでした。NPOのような、団体を作って活動するっていうこともやりました。相当鍛えられましたけど楽しかったですね。かなり生活も犠牲にしましたけど(笑)。

仕事が日常生活を浸食していたようなこともありましたか。

城野

医療系の仕事が多かったので、医療職の方と打ち合わせとなると土日にやることも多くて、それとイベントも土日が多いですし、夜は残業もあって、少なくとも今のような定時で帰る生活はしてなかったですね。

印象深い仕事はありますか。

城野

会社に入って割とすぐ、薬剤師さんと学会の立ち上げに関わらせてもらったんです。一般社団法人を立ち上げるための定款作りみたいなところから、経理も見ますし、会員の管理やホームページ作成とか、何から何まで全部やったので、本当に勉強になりました。みんな熱意を持って患者さんと接している薬剤師さんたちばかりで、そういう人たちと仲良くなれて、時に熱く語り合えたことは、とても財産になりましたね。

大変ながらも充実していそうな印象を受けますが、転職を決めたのはどうしてですか。

城野

3年前に結婚をしたんですけど、結婚して1年で、夫が仕事の都合で北京に転勤することになったので私もついて行って。その時に、これからの働き方について考えたんです。

えっ! 前職に在籍しながら北京に行かれたんですか。

城野

「仕事は向こうでやります。1カ月に1回は帰ってきます!」って言って、行かせてもらいました。打ち合わせは基本リモートで、イベントがある時とかに帰ってきて。

理解があるいい会社ですね。ただ、その期間にいろいろと身の振りを考えるようになられて。

城野

ずっとその会社でいろんな経験をさせてもらって、がむしゃらに働いてきたんですけど、30代を目の前にして、この働き方を続けていけるのかなって思うところはありましたね。20代のうちは正解だと思ってやってたんですけど、今後を考えると難しいかもしれないって。

時に生活を犠牲にしながらやってはきたけど、ちょっと立ち止まって考えてみたと。このグループにはどうやってたどり着いたのですか。

城野

ちょうどその頃に、介護福祉事業部の求人が「日本仕事百貨(※)」に出ていたのを見て、とても魅力的に思ったんです。ただ、選考が進みながらも、気持ちは揺れ動いてはいましたね。

それだけの経験ができた環境でしたし、ずっと悩みながらの決断だったのですね。

形を作ること/形にこだわらないこと
その間で揺れ動く

木村さんは美大に進んだと伺ったんですが、そちらに興味を持ったきっかけはどんなことだったんですか。

木村

小学生の頃から、ファッションデザイナーになりたいっていう気持ちがなんとなくあって、当時はどうやってなれるのかわからなかったんですけど、高校を選ぶ時に、美大に進むという選択肢を知って。進んだ高校が自由な校風で時間も使いやすかったので、2年生くらいからは放課後は美術の予備校に通うっていう生活をしてましたね。

大学はどんな専攻に進んだんですか。

木村

プロダクトデザイン専攻っていうところでした。その頃は車が好きで、そのデザインをやりたかったんです。ただ受験1年目は失敗して、2年目で合格しました。

木村さんはいざ憧れていた美大に入学してみて、どんな大学生活でしたか。

木村

僕からすると、城野さんの大学生活が、思い描いてたようなキャンパスライフって感じですね。田舎から東京出てきたら、僕もそんな生活があるんだろうなって思ってたんですけど、全然そんなことなくて。大学も東京の郊外でしたし、毎日必修の授業が4年間欠かさず土曜日まであって。遊ぶ時間もそんなになくて、サークルにも入ってなかったです。

時間の余裕が無い生活ですね。楽しいよりは忙しかったですか。

木村

忙しかったですけど、やっぱり面白い人たちがいっぱいましたし、細かい説明なしに共通の認識で話せることが多くて、そういう環境は心地よかったですね。

刺激の多い4年間だったのですね。今の仕事につながっていくのはどんなきっかけがありましたか。

木村

この学科に入る時は、プロダクトデザインって、かっこいい形とかきれいな形を作るものだって思っていたんですけど、だいぶ変わっていきましたね。2年生の時に選んだコースでは、社会の課題を解決するというか、最終的に完成させる物が決まっていない状態で、まず問題を見つけるところから始まるんです。その問題に対して、解決するには何が必要か考えましょうっていう。それに対しての答えは、必ずしも形ある「物」である必要はなくて、音楽でも絵でもいいんです。

なるほど、物を作ることがゴールではなくて、問題を解決することが命題なんですね。

木村

それを考えていくっていうのがかっこいいなと思ってそのコースを選んで、考え方も変わりましたね。卒業制作でも、産学共同研究として、ある都市の社会課題を解決するっていうテーマに対して、通勤方法を考えて提案しました。ただ、自分でも満足できるようなものにならなかったので、悔しかったです。

あまり思うようにはいかなかったと。そのうえで、卒業後はどうしようと思われたんですか。

木村

そういうことにずっと取り組んでいたので、今度は逆に「形を作りたい」って思っちゃって、仕事を探し始めたら、以前から好きだった設計事務所が、家具のデザイナーを募集しているのをたまたま見つけたんです。プロダクトデザインの経験があれば大丈夫っていうことだったので、インターンとして入ることができました。

逆に振り切って仕事を探したら、憧れていた建築事務所に入ることができたと。

木村

インターンが4年生の1月から始まったんですけどすごい楽しくて。実際に動いてるプロジェクトに関わって、それが建つところを間近で見れたのは良かったですね。3月くらいに、正式に社員でっていうお話をいただきました。

無事正社員になれたんですね。結局そこではどのくらい働いて離れられたのですか。

木村

いや、実はすぐ移ってしまったんです…。もともと、日本仕事百貨は読み物として面白いので普段から見ていたんですけど、たまたま5月くらいにこの求人が載っているのを見つけて、「やっぱりこっちなのかな」って思いました。

それは、社会課題を解決するということですか。

木村

短い期間しか働いてないですけど、設計事務所で物の細かい形を突き詰めるっていうことをやってみて、もちろん形を作るのは好きなんですけど、依頼されて物を作るよりも、この空間にこういうものが必要だっていう企画の段階から考える方をやってみたいなって。ここだったら、僕にできることがありそうだなって思ったんです。

正社員になってすぐに辞めるという判断は、なかなか難しかったんじゃないですか。

木村

そうですね、仕事自体は大変だけど楽しかったですし。職場のボスに相談すると、ちょうどプロジェクトの終わりがすぐ目の前だったんで「辞めるならもう今だよ」って言われて。面接にも進む前のタイミングで、すごく不安はあったんですけど「できるかわからないけど、やりたいことがあるので辞めます」って決断しました(笑)。

城野

すごいなあ決断が(笑)。

確かに、すごい決断力ですね。

木村

実際に面接に進んだら、新しい部署だしまだ何をやるのかは固まり切っていないところもあったんですけど、僕はそこが「なんでもできるんじゃないか」って魅力に思いました。

城野

私はそこに逆に不安を覚えたので、新卒との捉え方の差が出ましたね(笑)。

新たな分野に挑戦できる魅力
内側から外に向かって開いていきたい

城野さんは前職でも医療に触れていた経験もあったと思うのですが、そういった意味でも、興味がある分野だったのでしょうか。

城野

この分野に興味はありましたね。でも、私のイメージでは、医療や介護、障害者福祉は、専門職のプロの集まりなので、そこに自分みたいな文系のよくわからない営業経験者が入る隙っていうのは、基本的にないだろうって思ってたんですね。でも逆に、求人を見るとそこを求めてるっていうことだったので、「そんな考え方をするところがあるんだ」って驚きました。

木村

僕も「本当に受けていいのかな?」って思ったんです。ほかにそんなところ見たこともないし、そういうところでデザインをやっている友だちもいないし。「絶対面白いだろうな」とは思いました。

内部でやっているところは少ないかもしれないですね。ちなみに木村さんは、医療や福祉の分野についてはこれまで接してきたことは。

木村

自分から触れてきてはなかったですね。ただ、父親に身体障害があって、義足を使っているんですね。なので小さい時から一緒にそういうイベントに行ったことなんかはありました。

じゃあ意識せずとも自然と身の周りで触れる機会があったと。

木村

そうですね。だから興味というよりかは、ずっと身近にあったことなので、特別な分野だと思うことがなかったです。

城野

距離が近かったから、いい意味でそう感じたんですね。

この分野に関してはお2人とも門外漢になるわけですけども、どんな形で貢献できると考えていましたか。

木村

面接の時に、自分の強みとして話したのは「すぐに何かを目に見える形にできる」っていうことですね。言葉で「こういう感じがいいんじゃないか」って話していても、いまいちイメージが共有できてないことがあるじゃないですか。そういう場合に、色でも形でもすぐに提示できれば、それをもとに話が発展させられるので。「そういうことについてはすぐできます」って伝えました。

城野さんはどう考えていましたか。

城野

教育の分野でもそうなんですけど、医療や福祉でも専門職の方は、当然その分野の仕事を続けてきた人が多いですよね。もちろんいろんな業界を経験をされてきた方もいますけど、全体的には少ない印象があって。私はおかげさまで20代の間にさまざまな経験をさせてもらって、人脈も作ることができたので、今度はそれを生かして、このグループの病院なり施設なりを、内側から外に向かってさらに開くことができるんじゃないかと思ったんです。

専門的な知識や経験を積み重ねたスタッフの中に入って、外に開くことでさらにより良いものにできると。

城野

もっと外のこととつながった方が面白い、っていうことがあるだろうなって。そこに対して貢献できることはあるのでは、と漠然とですが思っていました。前職で、熱意を持った医療職の方とたくさん出会えたので「その中に入って仕事ができたら楽しいだろうな」と思ったんです。

次回:施設入所後も利用者さんの日常を諦めないために! 新しいつながりを模索する事業部の取り組みとはー。

後編を読む

profile

平成医療福祉グループ 介護福祉事業部
サービス企画課 木村 太一(きむら たいち)

【出身】兵庫県赤穂市
【趣味】自転車、料理、タイ
【好きな食べ物】ソムタム、ラープガイ(どちらもタイ料理)

平成医療福祉グループ 介護福祉事業部
サービス企画課 城野 葵(じょうの あおい)

【出身】群馬県前橋市
【趣味】ダンス、ミュージカル
【好きな食べ物】焼き肉(おいしければ部位にはこだわらない)

施設情報

東京都板橋区向原3-7-9

ココロネ板橋

ココロネ板橋は、複合的な機能をもつ障がい者支援施設です。地域のみなさんのニーズを聞き取り、最も必要なことに応えられるようにみなさんとともに歩み、成長します。