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SE、コンサルを経て医療の道へ グループ病院を支えながら、多くの患者さんを救いたい!/平成医療福祉グループ 成長戦略部・第二医療事業部 部長/松木 泰昭さん

医療事業部2019.03.08
医療事業部

SE、コンサルを経て医療の道へ
グループ病院を支えながら、多くの患者さんを救いたい!

裏方として各所の調整を行いながら開院を支える、成長戦略部・第二医療事業部 部長の松木さん。医師になりたかった学生時代を経て、事務方として医療に携わることを目指した松木さん。前編ではそこに到るまでの決意や、「天狗」だったと語る社会人ルーキーの頃の経緯を伺っています! ぜひ2週に渡ってお付き合いください!

学校が好き!
友だちに囲まれて育った学生時代のこと

生まれはどちらですか。

福岡県の久留米市ですね。高校までは地元にいて、大学進学で東京に出てきました。

久留米っていうのはどんなところですか。

当時は割と荒っぽい土地柄でしたね。怖い家業の人も多くて、発砲事件とかも普通でしたね。「あそこのケーキ屋さんに銃弾が撃ち込まれた」とか、それが普通だと思ってましたけど、「普通じゃなかった」って気づいたのは、大人になってからですね。

ちなみに松木さんご自身が危ない目にあったことは。

それは全然ないですね。生活は至って普通でしたね。

逆に悪いことをしたことは。

それも全然ないです(笑)。当時は荒れてる時期でしたけど。

どんなお子さんでしたか。

中学ではバスケットボール部に入っていて、学校が好きでしたね。

学校を「好き」と言えるのはいいですね。どういう理由で好きだったんですか。

行けば友だちがいるからですね。だから逆に夏休みや冬休みなどの長期休暇は好きじゃなかったです。

なるほど! じゃあ友だちが多かったんですね。

今もずっとつながっている人は少ないですけどね。

勉強はどうでしたか。

嫌いでしたけど、努力はする方でした。同じことをやるにしても、人の倍はかかっていた、というのもありましたが。

図書館のカップルを羨んだ
勉強漬けの青春

東京に出られたのは大学からですか。

そうですね。

もともと行きたい大学だったんですか。

どちらかと言うと東京に行きたかったんです。親には福岡の大学を勧められましたが、自分でバイトして受験料を貯めて受験しました。

東京に行きたいっていうのはどういうモチベーションだったんですか。

もっと視野を広げたかったんですね。今となっては福岡がいいな、とも思いますけど(笑)。

高校の時はバスケットボールは続けなかったんですか。

特待生だったので、部活に入れなかったんです。

すごい、じゃあ勉強漬けの3年間だったんですね。

ずっと勉強してましたね。でも周りもそうだったので、それが当たり前っていう環境でした。

ずっと勉強してるなか、青春っぽい出来事はありましたか。

土日は図書館で勉強していたんですけど、カップルで勉強しにくる男女がいるんですよ。そういうのが羨ましかったですね(笑)。

松木さんはカップルで勉強したりは…。

ない! 「落ちちゃえ!」って思って見てました(笑)。

(笑)。大学に入ってからは、どんな勉強をしていたんですか。

工学部に入って金属の結晶について学んでいました。私にとっては面白くはなかったですね(笑)。

え! でも受けたと言うことは、興味はあったんですよね。

そうですね、それと理系のなかでも特に工学部の就職率が高かったっていうのがありましたね。

なるほど、入ってからはどうだったんですか。

勉強自体はがんばってましたよ。相変わらず学校は好きだったので、ちゃんと行ってましたし(笑)。

「面白くない」と思いながらも真面目にやられて。

どっちかっていうと、留年したくないなっていう思いで勉強をしてましたね。それで続けていたら、いい点数が取れたっていう。

「向いてない」と思った
家庭教師のアルバイト

大学時代、勉強以外にアルバイトやサークルなどはされていましたか。

アルバイトは、まず家庭教師をやっていました。でも向いてなかったですね。

そうなんですか、教えるのが上手そうな印象ですけど。

一番最初に教えた生徒が小学6年生の女の子だったんですけど、勉強を教えていると30分おきぐらいに、お父さんがガチャッとドアを開けて見に来るんですよ。結局は女性の先生と交代してもらいました(笑)。

何もしてないのに怪しまれたんですね(笑)。

次は高校2年生の男子で、お母さんと2人暮らしのご家庭でした。でも、お母さんが夜遅くまで働いていて大変そうで「私みたいなものにお金を使うのはもったいない」って思ってしまって。彼は勉強ができるタイプだったので、コツさえ教えれば1人でもできると思って、ある程度まで教えたら「家庭教師はもうやめましょう」ってこっちから言ったんです。だから向いてないなって。

その判断ができるってすごいですね。

気を使ってご飯も作ってくれたこともありましたし、情が入っちゃいましたね。

ちなみにサークルは。

バレーボールですね。

もともとやっていたバスケットボールは選ばなかったんですね。

それは不純な動機で、バスケだと男しかいなかったんですが、バレーだと女子もいたんです(笑)。

そこだったんですね(笑)。そもそも東京理科大自体、男性の割合の方が多そうですよね。

女性は少なかったです。それこそ入学する前は、テレビで見るようなキャンパスライフがあるかと思ってたんですけども…(笑)。

女子と出会う場所とかあったんですか。

ほぼ無いですね。女子を見るためには学食とかに行くぐらいしかなかったですね。

風の噂で、バンドをやっていたっていう話を聞いたんですが…。

それは、やってなかったことになってるんです(笑)。モテたくて始めたんですが全然モテませんでしたね。

そんな(笑)。

ドラムを叩いて、歌も歌っていたんですが、学祭に出た時に外しすぎて、それで嫌になってやめました(笑)。

本当は医師になりたかった
SEの道に進んだ大学卒業後

大学からはどんな業界に進んだんですか。

SE(システムエンジニア)の世界に進みました。

もともと目指していたというわけではなく。

本当を言うと、もともとは医師になりたかったんです。

そうだったんですね。諦めた理由を教えてください。

私立の医学部は学費の面で難しくて、でも国公立の医学部を目指すには学力が及びませんでした。

そもそも医師を目指したのはどういう理由だったんですか。

小さいとき「先生」って呼ばれる職業に憧れていて、人から頼られる仕事がいいなと思ったんです。

じゃあ例えば、政治家でもよかったんですか。

まさに小学生の卒業式で、将来の夢として「久留米市の市長になりたい」って言いました(笑)。

小学生で市長を目指すのは珍しいかもしれないですね(笑)。

でも今思うと、そのくらい仕事のやりがいを感じたかったっていうのがありますね。

だからこその医療ということですか。

やっぱり医療は直接患者さんに手を尽くしますので。その点でやりがいを感じられる仕事として目指しましたね。

では、SEになったのはなぜでしたか。

やはりこれからはパソコンが使えた方がいいだろうというのがあって、将来性も考えてSEの道に進みました。

「SE天狗」の時代を振り返る

SEとしてはどれくらいやっていたんですか。

3年くらいやりましたね。ただ当時は天狗になってしまったところもあって…。

えっ、天狗ですか?

同期と比べてプログラムもガンガンやって、プロジェクトリーダーもやっていましたし、その会社の中で自分が一番優秀だと思っちゃったんです。2年目の若手なのに、上司に怒鳴ったこともありましたし。

それはなかなかのことですが、なぜだったのでしょう。

当時、大学の仕事をしていたんですがトラブルがけっこうあって、夜中に対応することもあったんですね。そんなとき、お客さんも立ち会ってるのに上司が深夜2時くらいに寝始めたので「お客さんが困ってる時に寝るってどういうことですか! 寝るなら帰ってください!」って言ってしまって(笑)。

そこで上司にビシッと怒れるのはすごいですね。

それもあって、この環境では問題があるなと思い、スキルアップするために転職することにしたんです。

「天狗になってたな」っていうことは客観的にどうやって気づかれたんですか。

いざ転職してみたら、自分より上がたくさんいるっていうことに気づかされましたね。

環境が変わったことが良かったんですね。ちなみに次はどういう仕事をされたんですか。

システムから離れて、経営コンサルティング会社に入りました。

企業の困りごとを解決するような。

そうですね、仕事の内容はさまざまで、黒字の企業がもっと利益を上げたいっていう依頼もあれば、赤字でこの先どうしたらいいかわからなくて困っている話もありましたし。

経営的な感覚を身につけようと思われて転身したんですか。

というよりは、企業がどういうことをやっているのかを知りたかったんです。それぞれの企業が、どんな運用をしているのかを見たかった。たくさん見れば見るほど、自分の引き出しが増えますので。

医療の道に進まれたのはそのあとですか。

当時35歳でしたが、世の中で転職のタイミングとも言われる歳ですから、最後の転職にしようと思って、このグループに入ったんです。いろいろ勉強したことを医療業界で生かせればと思っていました。

書類審査で落ちたら
すぐ電話!

前職のコンサルティング会社から、このグループにたどり着いたのはどういう経緯だったんですか。

医療業界のことをまたいろいろと調べ始めたら、武久代表の記事がたくさん出てきて、その話が面白くてわかりやすかったんです。例えば「患者さんのことを第一に考えなさい」とか、当たり前だけど大切なことを言っていたのがとても興味深かったのと同時に、「なんでそれができていないんだろう」って思ったんです。そこにすごく興味を引かれて、このグループに応募しました。

ちなみにどういう職種での応募だったんですか。

総務とシステムエンジニアの2つの募集が出ていたので、「両方できます」って応募したんです。

大胆ですね(笑)。

それで怪しまれたらしく、書類で落とされました(笑)。後で聞いた話では「冷やかし」だと思われたそうです。

えっ、第一段階で弾かれたんですか。

だから「なんで落ちたんですか」って電話しました。とりあえず面接で話したかったので。

すごい粘りですね…。

私はだいたい落ちた場合は、理由を知りたくて電話します。

実際面接に行ってみたらどんな感じだったんですか。

そこは普通の面接だったと思います。あんまり硬くない面接でしたね(笑)。

経営の指針となる
数字を可視化する仕事

現在部長を務める成長戦略部とは、どういうお仕事をする部署ですか。

言葉にするのが難しいんですが、ひとつ言えるのが、グループ内の病院・施設にあるさまざまなデータを集計して、そこから何かを提案するということです。

なるほど、それこそコンサルティング的なお仕事と言えますね。例えばどういうデータを集めるんですか。

一例としては、病床数に対する入院患者さんの数とか、あとは経営状況ですね。「この病院の収支はこうなので、次はこれをやったらどうですか」っていうことを、関係部署と相談し、数字を読み解きます。

経営で必要な数字を、実際に見えるものにするといいますか。

そうですね。「こういうデータが欲しい」と要望があったときに、それを数字で出していきます。経営者としてやりたいことに対して、根拠となるものをデータとして可視化していくのが私たちの仕事ですね。

今現在は、それに加えて第二医療事業部長として関西の病院についても関わっていると。

兵庫県と大阪府の一部のグループ病院の事務長の仕事の取りまとめを行っています。そのエリアを統括するグループ副代表と、それぞれの病院の事務長の間に入って仕事をするようなイメージです。もともと関東にはその体制が確立しつつあったんですが、関西は病院・施設数が多く、十分ではなかったので、私が担当することになりました。やりとりを円滑にするというか、通訳的な仕事ですね。

やっぱり皆さんそれぞれのプロフェッショナルだから、その職業の言語ではわかるけど。

お互いの理解の溝を埋めて、つなげるのが私の役割ですね。

では淡路島含めて、関西エリアのグループ病院を日々周られているんですか。

定期的に周っています。ただ、数も多いので、決まった日に行くというよりは何かやることがあるときに行くという感じです。

開院へのタスクを管理しながら
より良いスタートを目指す

堺平成病院の開院には、どのように関わっているんですか。

まず開院に向けて、各部署のタスクを出すところから始まりました。まずどこから手をつけていいか、わからないこともありますので、「こういうことをやる必要がありますよね」っていうのを伝えて、タスクを書き出してもらうわけです。その後の進捗管理もしていきます。

課題を洗い出して管理するという点で、ここでもコンサルティング的な関わり方をされているんですね。

けっこう細かく関わっていますね。「この内容ならこっちの部署の人にも報告しておかないといけませんよ」っていう、部署間の報告の要不要も、指示したりとか。自分の部署の仕事はわかるけど、ほかのことは見えづらいわけです。そこを私が見る、という感じですね。

先ほど、通訳的なお仕事という話がありましたが、やることが多岐に渡っていて、名前がつけづらいお仕事が多い印象を受けます。

実際に何をしているのかと説明することは難しいかもしれませんね。各所で調整が必要なところに、私が入って取り仕切っていると言いますか。

バランス感覚が問われますね。俯瞰で見る力が必要そうです。

間に入りながら、なんとかみなさんには動いてもらっています。堺平成病院の開院を良い形で迎えられるようにがんばっているところです。

堺平成病院についてはどんなポイントがアピールになると思いますか。

特に思うのが、ほかの病院と比べて、楽しそうに仕事をしているスタッフが多い印象がありますね。

先ほど私もスタッフさんの撮影をしていたんですが、みなさんノリがいいと言うか。

ノリもいいですし、挨拶も元気がいいです。社交辞令的なあいさつじゃなく、笑顔で返してくれます。例えば堺温心会病院で言えば岩城看護部長(※)の影響も大きいのかなと思いますが、両院ともそういったことを積み重ねてきたのではないかなと。それはすごく感じます。

※堺平成病院 看護部長 岩城 八重喜さん インタビュー記事

患者さんにとってフレンドリーな病院なんですね。

だからこそこの地域で長く続いてきたんだと思うんです。古い病院なのに、外来も多くの患者さんがいらしてくださいますからね。

機能だけでなく、スタッフの面でもいいところが多いと。

新しい建物や機能がアピールポイントなのはもちろんですが、今まで培ってきた接遇と患者さんへの対応、これもプラスして盛り上げていけたらいいと思います。

地域のみなさんにとって、どういう病院になったらいいなと思いますか。

良い意味で「変わらないでほしい」ですね。患者さんに求められたら受け入れる、っていうことを長らくやってきた歴史があるわけですから、今まで実践してきたことは崩さずに続けていければ。

今後も新病院ができる際は関わられるのですか。

自分の担当する関西エリアにできる場合は、また同様に関わっていきます。今後も開院の計画があるので、堺平成病院が落ち着き次第、今度はそちらに積極的に携わることになります。

自分が不要になるように
人を育成していく

今後のお仕事の目標を教えてください。

グループの医療や福祉をもっと広めることに、役立てることができたら、と思っています。そのためにひとつは、病院や施設を新たに作ることに携わることです。あとは代表がやっているような、講演会を行うとか、うちのグループのいいところをどんどん伝えていくということにも今後は携われたらなと思いますし、努力が必要なところと考えています。

もっと表立った活動も行っていければということですね。

広めていくには、そういうこともしていかなければいけないなと思っています。そのためにも、自分の仕事も現場で行えるように、育てていっている最中と言えますね。

それこそ家庭教師のアルバイトの話(※)じゃないですけど、ある程度までは教えて、あとは自分でやれるように。

そうですね、そうなれば私が不要になるので、そこがゴールですね。

実際どういう風に育てられるんですか。

教えるのは難しいです。私としては遠回りになったとしても、気づいてもらえるような発言や行動をしているつもりではあります。

示唆するような感じですね。

でも実際忙しそうにしているのを見ると、「自分でやるよ」って、私がやっちゃうんで、ダメなんですよね(笑)。今後は自分のその考えを変えていきたいです。

祝! お子さんの誕生
そしてちょっと意外な馴れ初め

最近お子さんが生まれたとお聞きしました、おめでとうございます!

ありがとうございます。今はちょうど1カ月くらいですね。

かわいいでしょうね〜。

やっぱりかわいいです! 仕事の後も、お風呂入れたり、オムツ替えたり、ミルクあげたりしていますよ。

こんな子になるといいなって考えたりしますか。

誠実な子に育つといいなと思っています。

家族そろってどこかお出かけされますか。

最近はピクニックに出かけています。お弁当を持って、芝生があるところに行って。今住んでいる兵庫県は公園が多くていいんですよね。距離も近いしあまり混まないし。

ご家族との時間を大事にされているんですね〜。せっかくなので、奥さんのいいところを教えてください!

えーっと、接客業をやっていたからか、私と違って笑顔を作るのがうまいんですよ。

(笑)。お店で出会われたんですか。

そこが出会いですね。駅前のドーナツ店でした。

すごい! どうやって声をかけられたんですか。

みんなにはバカにされたんですが…いつも店の前を通るときはだいたい閉店間際で、その時に残っているドーナツをがっさり買うんです(笑)。

豪快ですね(笑)。買い占めて印象付けるみたいなことですか。

でも実際はそんなに印象なかったみたいです(笑)。

(笑)。では最後に、尊敬する人物はいますか。

誰か1人っていう感じはなくて、みんなそれぞれ自分に持ってないところがあると思って、いつも、人と接するんですね。そうやって考えると、みんなを尊敬しながら、尊重しあって仕事をしているつもりです。得意不得意を見ていかないと、役職者としては指導もできないですし、自分の成長も止まってしまうので。

プロフィール

平成医療福祉グループ 成長戦略部 第二医療事業部 部長

平成医療福祉グループ 成長戦略部 第二医療事業部 部長

松木 泰昭

まつき やすあき

【出身】福岡県久留米市
【趣味】読書
【好きな食べ物】韓国料理(スンドゥブチゲ)
【尊敬する人物】みんな(周りの人のことを尊敬しながら仕事している)

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