dummy

EN

中学卒業と共に故郷を飛び出し飛び込んだ看護師の世界で羽ばたく!/堺平成病院 看護部長/岩城 八重喜さん

看護部2019.02.22
看護部

中学卒業と共に故郷を飛び出し 飛び込んだ看護師の世界で羽ばたく!

堺平成病院の看護部長 岩城さん。岩城さんは堺温心会病院でも看護部長を勤められ、長年看護に携わってまいりました。しかし、その人生はまさしく波乱万丈。インタビューでは、さまざまな経歴が飛び出します。ぜひ2週に渡ってお付き合いください!

長崎の島で
家族の想いを一身に受け、生まれた

岩城さんの下のお名前、とても珍しいですよね。

「やえき」って読むんですけど、同じ名前の方には会ったことがないです。

お名前の由来はご存知ですか。

両親それぞれの祖父祖母の名の頭文字なんです。両親がなかなか子どもを授かることができなかったところ、40代になってようやく私が生まれたので、親族の想い全部を入れて、たくさんの先祖を託された感じです。

ご出身はどちらですか。

長崎県の平戸市です。島で生まれました。オランダ貿易の発祥の地と聞いたことがあります。

最近も帰られることはありますか。

100歳を超えた母がまだ住んでいますので、年に1、2回は帰っています。

ご長寿ですね!

昨年の5月に体調を崩したんですが復活しました。足腰は弱くなっていますけど、頭はハッキリとしていますね。

岩城さんはお話好きな印象を受けますが、お母様譲りですか?

似てると言われますね。

お父様はまた違う性格でしたか。

父親はもう、正義感の塊の様な人で、融通がきかないというか、頑固者で厳しかったですよ。食卓の遠〜いところに父親がいるような家庭でした。

強い冒険心をもって
15歳で単身大阪へ!

平戸にはいつまでいられたんですか。

中学校を卒業した時に大阪に出てきました。

それは家族でお引越しをされて。

いえ、私だけです。本当は行きたい高校があったんですけど、うちが経済的に厳しくて、学費を出せないと言われていたので、「自分でやるしかない」と思って大阪に出てきたんです。

えっ、おひとりで?!

びっくりするでしょ(笑)。大阪に出て就職して、働きながら定時制の高校に通いました。

地元ではなく大阪に出たのはどうしてだったんですか。

地元でもできたとは思うんですが、何しろ冒険心が強かったので全然知らない世界に行って、自分だけでやってみたかったんです。

それを中学生の頃に思って、さらに実行するのはすごいですね。

やっぱりそういう経済環境でしたし、妹もいましたので、早く自立して「家族を支えたい」っていうのがあったんです。

厳しいお父様もよく許してくれましたね。

実際家計は厳しかったので、止めることもできなかったのかもしれませんね。ただ、いざ自分が子どもを産んでみると、果たして同じように15歳で「家を出て行く」って言われたら、行かせてあげられたのかなって思います。手放す親の方がつらく、勇気が必要だったと思いますね。

家族に楽をさせたい
その想いで看護師の道へ

そこから看護師になるまではどんな経緯だったんですか。

まず、高校を卒業した後も大阪で働いて、家族に仕送りをしたいと思ったんです。そのためには「何か資格を取って働いた方が給料が上がるんじゃないか」と。その話を高校の数学の先生にすると「看護学校に行きなさい」と勧められたんです。そこから自分で病院を探して、勤めながら看護学校に通って、准看護師の資格を取りました。

看護師を勧められた時はどう思ったんですか。

「やりたい」って思いましたね。ただ、「看護師のお仕事が素晴らしい」と思って入った訳ではなくて、根本には「仕送りをしたい」っていうのがあったんですが(笑)。でも、働いていくうちに「奥が深いなあ」とのめり込みました。

それはどういう点ですか。

最初に勤めたのが産婦人科だったんですけど、命が誕生する現場に出会って、母親の強さとか家族の絆とか喜び、赤ちゃんの匂いとか、全てが初めての経験で、すごく感動したんです。そこで、もっと色々勉強したくなりましたね。

産婦人科に勤めながら看護学校に行くのもなかなか大変そうですね。

もうほとんど寝てませんでしたね。2日に1回寝られてたかどうか。ただ、現場に立って経験することすべてが目新しかったし、わからないことを知る楽しみもあって、自分にとってはしんどいとかは本当になかったですね。若いからできたんだと思います。今はもう無理ですね(笑)。

辛さよりも好奇心の方が強かったんですね。

子どもの頃から好奇心の塊でしたね(笑)。

生死のかかった現場で
さらに経験を積む

その産婦人科はどのくらい勤められたんですか。

3年くらいです。その後はけっこういろいろな病院に勤めていて、まず次は救急病院に5年ほど勤めました。それから急性期病院に勤めて、またいろいろな経験をさせてもらいましたね。そこは線路が近くにあったんで、飛び込まれた若い方が運ばれたりとかもあって…。

生死の境のような場面をいくつも乗り越えて。

手術室もICUの看護師もしました。脳外科の手術の前に頭髪を剃ったこともあります。やったことないのに「やって!」と頼まれてしまい、がんばって剃ったら、執刀した脳外科の先生から「俺の前に執刀したのは誰だー!」って怒られました(笑)。

(笑)。キャリアの中でポイントになったタイミングはありましたか。

その次に勤めた急性期病院は一番長くて10年働いたんですが、とても勉強になりましたね。すごく楽しかった時期です。

「楽しかった」っていうのは、どういう意味で思われたんですか。

いろんな科で働いて業務を覚えることが楽しかったですし、人との関わりも楽しかったですね。日にちや曜日がわからなくなるくらい、仕事にのめり込んだ時期でした。しかもその当時に結婚をして子どもも産んだんですね、男の子を2人。

すごいタイミングですね!

病院に託児所があったので、産休後も預けて働き続けました。でも忙しい時期だったので、本当に子どもたちには大変な想いをさせたなと思います。本人たちは覚えてないって言うんですけどね(笑)。当時は、育児に専念する道を選ぶより、仕事への興味が勝っていたかもしれないです。

ご主人とはそのことについては何か話されましたか。

特に私の仕事に口を出すことはありませんでした。主人は建築の仕事をしていたんですが、お互い違う分野についてはわかりませんしね。ただ、家のこともやらなければ、というのが私の中ではありましたので、どっちもしっかりやって、睡眠時間が3時間、というような毎日でしたね。

「鬼」と呼ばれた
看護主任時代

同じ病院で10年勤めていく間には立場も変わっていかれたんですか。

大半は看護主任として働いていて、最終的には師長になりました。27歳で初めて主任になってから、管理職歴は長いです。

管理の仕事ではどんなことに留意しているんですか。

人材育成でいろいろと考えることが多いですね。人間は誰でも強みと弱みがあるでしょ。人の優れた部分を見つけるのが好きなんです。それで実際にその人が成長すると、何よりも嬉しくて。

そうやってスタッフの成長を見守ってこられたんですね。

ただ、自分が2、30代の頃は、やりたいことにまっすぐだったので、スタッフに言わせれば、かなり強烈だったらしいんです(笑)。

えっ、どんな感じですか。

「鬼」とか「氷の心」とか、いろんなことを言われましたね。今はそんなこと無いですけど、当時は突っ走ってたんでしょうね。

ずいぶんな言われようですけど、相当厳しかったんでしょうね(笑)。

でも当時一緒に働いていたスタッフの中には、今でも連絡をくれる人もいますから、心に何かは残せたのかなと思います。

ご自身では、「当時と比べて丸くなったな」という意識はあるんですか。

ありますね。色々なことに対して俯瞰して見られるようになりました。人はそれぞれですので、忍耐力はずいぶんついたと思います。そして体も丸くなりました。

そっちの「丸い」ですか(笑)。

燃え尽きた後に見つけた
看護師として本当に大事なこと

キャリアを重ねていく中で、壁みたいなものはあったんですか。

その病院に10年勤めて、一旦看護師を辞めた時ですね。

なぜ辞められたんですか。

自分の中でいろいろと追求してやってきたんですけど、突っ走り過ぎて、家庭も仕事も目一杯のところまできて、燃え尽き症候群みたいになったんですね。

職場を変える、ではなく看護師自体を辞めるという選択だったんですね。

そこで家庭に入ったんですが、やっぱり体が働くようにできているのか、じっとしていられませんでした。

またすぐ復帰されたんですか。

ウズウズしてきたので(笑)。ただ、その時に入った職場は当時の自分には合わず、割とすぐ辞めてしまって。そこでご縁があって、堺温心会病院で働くことになったんです。ちょうどその頃、正木院長(※)も医師として勤めていたんですよ。不思議な縁を感じます。

※堺平成病院 院長 正木 浩喜さん インタビュー記事

そうなんですね!

当時は婦人科も小児科もあった頃で、私は小児科で外来を担当したんですけど、とてもいい勉強をさせてもらいました。

どういった点で学ばれたんですか。

小児科の救急外来が当時近隣に少なかったので、遠いところからいらっしゃる方が多くて。夜の診察が本当は20時で終わるところが、いつも0時を回るくらい忙しかったんですね。

日をまたいでもずっと忙しい環境で。

そんな状況でも、担当している若い先生たちが疲れを見せず熱心に対応していたんです。人間、疲れてくるとやっぱり顔に出ることもあるじゃないですか。私も、来院が続いて疲れた時「またか…」と、思ってしまったこともありました。でも先生たちは夜中の0時を過ぎても全然対応が変わらない。

忙しいなかでも変わらぬ対応を続けられていたんですね。

それが「人間としてすごいな」と思い、看護観が変わるきっかけとなりましたね。私にとって宝になりましたね。親からすると子どもは自分の命のような存在なわけです。だから小児科には、ちょっとしたことでも心配で来院される方もいる。そういう時にやさしく接してもらうことって大事なんですよね。

その仕事ぶりが心に刺さったんですね。

「自分本位の看護ではダメ」ということを学びましたね。自分に不足しているものがよくわかったというか。患者さんに対応する際の本当に大事な部分を教えていただきました。

まさかの転身!
看護部長ではなく「夜の蝶」へ

堺温心会病院で勤め始めて、その後どんな経緯で看護部長になっていかれたんですか。

実は、そこから一旦全く違う仕事、飲食業を始めたんです。

わっ! ずいぶん方向転換をされましたね…。どんなお店だったんですか。

ラウンジと言われる業態ですね。

いわゆるスナックのような感じですか。

そうですね。ラウンジはボックス席があってスタッフの女の子がお客さんの接客をするんですけど会話術が必要なんです。そのために新聞を読んだり、本を読んだりする子もいましたね。知識が広くないと会話にならないですからね。私自身も医療以外の世界に触れ、人生勉強になりました。

一体、どういったきっかけで始められたんでしょう。

もともと主人の知り合いがやっていたお店だったんですが、事情があって閉店することになっていて。ただ、その方は「お店自体は残していきたい」という強い想いがあって「誰か継いでくれる人がいれば…」ということを言っていたんです。

そこでまさか…?

「じゃあちょっとだけ、やってみましょうか」って手を挙げました。なんせ冒険心が旺盛なんで(笑)。

ご主人もよく許してくれましたね。

一緒に経営したかったみたいです。ちなみに最初は看護師との二足のわらじでやっていました。

え! 病院勤務と並行していたんですか?

だからもう毎日フラッフラで、それで病院を辞めたんです。主人は仕事を続けながらでしたが、今考えると恐ろしい決断でしたね(笑)。

型破りな接客で
お客さんのハートを鷲掴み

水商売の経験がないなかで、ママさんとして立ったわけですよね。

ええ、知識がほとんどないまま始めたものですから、普通のお店とは全く違っていたみたいですよ。お客さんに説教してましたから(笑)。

えっ!

「それはダメでしょ!!」って。そういうのが新鮮で、みなさん来てくださったんでしょうね。私自身が面白いと思っていたのは、本当にいろんな職業のお客さんが来て、そのお話を聞けることでしたね。そしてお客様に頭を下げること、感謝をすることを学べたのは大きかったですね。病院では「ありがとう」と頭を下げていただくことも多いですからね。

普通に生活していると会えない方とも会えそうですね。

知らない世界の話をたくさん聞けて楽しかったんですが、同時に経営者の苦しみも知りましたよ。後々、看護師に復帰した時は「経営者の意志に共鳴して動けるスタッフでありたい」と思いましたね。

ちなみに岩城さんがお店で歌うことはあったんですか。

歌はダメなんですよ〜。でも私が歌うと下手なお客さんも歌う気持ちになるんで、歌っていました。演歌が多かったですよ。あとはテレサ・テンとかね。

その後お店はどうされたんですか。

5年やって閉じました。厳しい経営状況でしたから。それと私がお酒についてはザルで(笑)、飲むのも仕事ですし、それで体を壊したというのもありましたしね。

かなり惜しまれて閉店したんじゃないですか。

そうだったかもしれませんが、私はそういう踏ん切りはすぐつく方ですので(笑)。主人はまだ続けたかったみたいですけどね。

看護師として働ける喜び
そしてまさかの予知夢の話

閉店後、看護師に戻ろうって、すぐ思ったんですか。

「もう一回やってみたい」って、すごく思いましたね。以前勤めていた急性期の病院に戻ったんですが、看護師として働けることの喜びを感じられました。

そこからしばらくして、堺温心会病院にまた戻られて。

その病院で働いていた方が堺温心会病院に移って看護部長をされていたんですが、「師長として来てほしい」とお声がけいただいて、また戻ることになりました。

堺温心会病院がこのグループに加入したのはその後ですよね。

そうですね、実はそれにまつわるエピソードがあって。まだ加入の話を知る前、当時は看護部長を拝受していたんですが、仕事で煮詰まって「これからどうしよう…」と後ろ向きになっていた時期がありました。そこである不思議な夢を見たんです。

えっ、夢ですか?

オールバックでスーツを着た人が、病院の会議室で話している夢でした。普段は夢を覚えていることもないのに、なぜか記憶に残ったので、起きて主人にその話をしたら「何言ってるの」って言われて(笑)。

それはそうなりますよね(笑)。

それからひと月ほど経って、このグループに加入するという話が出まして。後日、会議室に集められた時に現れたのが、あの夢の中の人で、それがこのグループの代表だったんです! 「夢で見た人だ!」って思いました(笑)。

えーっ! 不思議な体験ですね。

ゾクゾクするでしょ〜。後々みんなに話したら「恐い」って言われました(笑)。でもそこで「もう一度やってみよう!」って前向きに思えたんですね。これも何かの出会いですし、新しいチャレンジとして続けていく価値があるかもって思いました。

まさかの一件で気持ちに変化が訪れたと。

それと、このグループって、いろんなプロジェクトを立ち上げますし、スピード感も早いじゃないですか。私の持ってる冒険心と波長が合うというか、ワクワクするんです。当初は目まぐるしさもありましたけど、私としては楽しいと思えましたし、やりがいを感じました。

職種の垣根を超えた
強い連携を生かしていく

4月からは堺平成病院の看護部長となるわけですね!

はい、大きなプロジェクトですし、スタッフみんなで、いい病院にしようと動いている真っ最中です。
多職種連携のキーパーソンになりたいと思っています。

岩城さんから見た、堺平成病院のアピールポイントはどんなところですか。

堺市には、市立病院や労災病院をはじめ大きな急性期の病院と、クリニックや施設もかなりたくさんあります。その中で、堺平成病院は外来や当院に入院して、自宅復帰や、在宅の介護・看護まで継続的なサポートができるというのが強みです。「地域密着多機能病院」という言葉に表れていますが、さまざまな機能の病床があります。回復期リハビリテーション病棟、地域包括ケア病棟、障害者病棟、療養病棟、そして透析センターや併設された在宅部門もありますので、地域の中で急性期病院やクリニック、介護施設をつなぐ役割でありたいですね。

地域の中心的な役割を担いたいですね。

地域のみなさんがなんでも相談できて、安心した暮らしをサポートできる、そういうポジションの病院にしていきたいです。全職種のスタッフのチーム力で、それができると思っています。垣根を超えた多職種連携が強みです。

堺温心会病院、浜寺中央病院の2病院が合併しますが、連携はいかがですか。

看護部も含め、全スタッフで人的交流をしながら進めています。お互い顔の見える関係でないと、一緒に作り上げていけませんので、行ったり来たりして、協力しながら仕事のやり方をすり合わせていっています。

開院間近ですが、今はどういうお気持ちでいますか。

堺温心会病院も浜寺中央病院も、職種を越えた横の連携が強く、チームで活動する風土があるんです。看護部長としてみんなを同じ目的に向かって牽引できればと思っています。そして地域に必要とされ選んでいただける病院を目指していきたいと思っています。

現在、求人も募集していますが、こんなスタッフに来てほしい、というのはありますか

やっぱり専門職なので、知識や技術は無いといけませんが、やはりそこに人間性が伴っていないと、いくらいい素質があってもダメだと思うんです。患者さんの心の声に気づける人、そういった人間性を伴ったスタッフに来てほしいです。

充実した教育で
長く働きやすい環境を

スタッフが増えるわけですが、長く働けるように取り組みはありますか。

教育体制の充実ですね。グループとしてe-ラーニングを導入したり、中央研修を企画したりしていますし、病院としても、新人看護師の教育体制を作っています。そして何でも相談できる職場風土は、継続していきたいですね。

ほかに何か取り組んでいることはありますか。

特定看護師の育成とサポートに力を入れています。特定行為研修を終了した看護師は、堺温心会病院と浜寺中央病院で合わせて現在10人ほどになりますが、そういったキャリアアップの機会があることも、定着にも結びついていくと考えています。

実際、長く勤められている方も多いのでしょうか。

組織づくりのコアメンバーである師長さんたちは特に長いです。いろいろ変化があったとしても、師長さんたちがしっかりしていれば、その下のスタッフが右往左往することもありません。だから私としては、師長さんの育成を一生懸命やってきたつもりではあります。私がいなくても育った気はしますが(笑)。

病院が新しくなるという大きな状況変化のタイミングでも安心ですね。

せっかく病院としてのハード面が新しくきれいなものに変わるのに、私たちがしっかりとしなければ、その中身も伴っていきません。環境が変わるので大変なことももちろんありますが、乗り越えられると思っています。

いつでもポジティブな
母親のように

一気にお話を変えますが、お休みの日はどう過ごすことが多いですか。

最近は主人と2人で四国八十八ヶ所の巡礼に行ってます。もう3周回りました。今まで2人とも思い思いに過ごしてきたようなところがあったんですが、この年になってから、2人で過ごす時間をなるだけ作りたいなと思ったんです。今まで見えなかった部分が見えるようになって、けっこう充実しています。

いいですね〜。今だからこそわかるというか。

今やっと、夫婦になれてるのかもしれないですね。

お仕事以外の目標があれば教えてください。

故郷の長崎県平戸市に家があるんですけど、いずれそこを自分のセカンドハウスのようにしたいんです。家というより、人が集まるような場所を作れたらいいな。人は一人では生きられませんから、みんなで助け合って孤独な人が少しでも減るように集える場所を作りたい。それが夢ですね。

尊敬する人物はいますか。

母です。私が小さい時は家が貧乏でしたが、私自身はそう思ったことがなかったんですね。ある日、友だちに「八重喜の家は一番貧乏だぞ!」って言われたことがあって。

ものすごいストレートな指摘ですね。

泣きながら母にそのことを伝えたら「その通り! うちは貧乏で間違いない!」って自信持って言われたんです(笑)。母は全てをポジティブに考える人で、そのためか私たちも心が満たされていて、貧乏と思わなかったんでしょうね。明るく育ちました。

そういう思考が、100歳を超えてもお元気でいる秘訣かもしれませんね。

「そういうところは超えられへん」って思いながらも、追いつきたいなって思いますね。

プロフィール

堺平成病院 看護部長

堺平成病院 看護部長

岩城 八重喜

いわしろ やえき

【出身】長崎県平戸市
【専門】看護師
【趣味】写経、ドライブ、絵画など
【好きな食べ物】肉、野菜(セロリのピクルス)

病院情報