ひとプロジェクト 第64回【前編】世田谷記念病院 事務長/手老 航一さん
世田谷記念病院
事務長
手老 航一 さん
Terou Kouichi
挫折を繰り返しながら、辿り着いた医療の世界
医療とビジネスを通じて見えてきた課題に、本気で取り組みたい
今回は、世田谷記念病院で事務長を務める、手老航一さんにお話を伺いました。製薬会社、ヘルスケアメガベンチャーでのHR事業、経営支援事業などを経て、当グループに辿り着いた手老さん。地元伊豆でサッカーに打ち込んでいた少年時代のことから、挫折をきっかけに大爆発した反抗期のこと、さらに大学時代の紆余曲折など、赤裸々に語っていただきました。また、就職や転職先の医療系の仕事を通じて感じた、日本の医療に関する「ある課題」と、そこから気づいたやりたいことなど、熱くお話ししています。ぜひご覧ください!
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親に「なんて子に育ててしまったんだ」
とまで言わしめた、手老青年の反抗期今日はどうぞよろしくお願いします。
実は取材にあたって資料を作ってきていまして。今までの『ひとプロジェクト』を踏まえたうえで、こんな感じでお話ができればいいのかな、ということをまとめてきました。
わざわざありがとうございます! こういう資料を作るのはお好きなんですか。
こうしておいた方が自分でも話しやすいということもあるんですが、もともと製薬会社や人材の会社にいた経験から、プレゼンの資料を作る機会が多かったのもあるかもしれません。
慣れている感じが伝わります。このグループに入ってどのくらい経ちましたか。
半年経ったくらいですけど、あっという間でした。
まだ入られて日が浅いのですね。作っていただいた資料によりますと、出身は静岡県の伊豆市と。
伊豆半島のなかでも修善寺というところです。そこで小さい頃からサッカーをやっていました。
静岡と言えばサッカーのイメージも強いですね。
今はちょっと状況も変わっていると思いますが、もともとサッカー大国ですからね。ちょっと上の世代なんですけど、元日本代表の小野伸二選手とか高原直泰選手は伊豆市がある静岡県の東部エリアの出身でしたし。ただ、当時から多くの強豪チームは静岡県の中でも中部・西部エリアに集中していましたね。
県内のプロチームも2つともそちら側が本拠地ですね。そのなかでご自身はどんな選手だったのですか。
小学生の時には地域の選抜チームには入ってました。選抜ではなく、もともと所属のクラブでも県大会には進むレベルだったのですが、1回戦止まりでそれ以上は難しくて。それでも中学入学のタイミングで、Jリーグのあるクラブの下部組織に加入したんです。当時はトップチームを目指して文字通りすべての時間をサッカーのために費やしました。
特に中学時代はかなりサッカーに情熱を注いでいたのですね。
県内に、同じクラブの下部チームが地区ごとに4つあって、高校生になる時にそこから選抜された選手だけがユースのチームに上がれるというシステムだったので、高校でもそのままユースチームに上がれたらな、とさえ思っていました。
選抜された選手だけが上がることができると。
そうですね、限られた一部の人間がユースに上がり、そこからまた一握りの人間だけがトップに上がることができる非常に狭き門でした。そのなかで、やっぱり実力的なものや、チャンスを掴めなかったこともあり、ユース入りは叶いませんでした。親からは「ユースに入れないんだったら勉強して、地元の進学校に行きなさい」と言われてしまい。
勉強に切り替えなさいということを言われて。それはご自身としてはどうだったんですか。
まだまだサッカーはやりたかったですね。だからそこに反抗期が集中して(笑)。高校でも一応サッカー部に入ったんですけど、けっこうそこで揉めたんですね。
おっと、揉めたと言うのは…。
中学時代のジュニアユースでは、芝のグラウンドで元プロの選手が教えてくれるっていう環境でしたけど、高校は河川敷のボコボコしたグラウンドで学校の先生に教わるという環境になり、そんな状況への不満を持って、チームメイトにも「なんだこいつら下手くそだな」みたいな意識でいましたね。
なるほど…「自分はレベル高い環境でやってきたぞ」という自負を持っていたと。
若かったのもありましたけど、その自負が、すごく良くない方向にいきましたね。仲間や顧問の先生に対してだけでなく、対戦した相手チームの選手にも当たっていましたし、審判にも食ってかかったこともありました…(笑)。
かなり尖っていますね(笑)。チーム内でも孤立しそうです。
それがいい形で働く部分もあったので、副キャプテンにはさせてもらっていたんですけど、そんな感じなんで、キャプテンにはなれない、しちゃいけないと思われていました。高校でも地域の選抜チームがあって、そこには選ばれていたので「どうだ!」みたいな気持ちもあるわけですよ。
プライドはずっと持ち続けているわけですね。
それで親にも「お前らが金を弾んでくれないから、私立のサッカー強いところに入れなかったんだろ」とか言ってましたね。極め付けは高校サッカーの選手権の最後の試合が終わった時ですよ。チームメイトは負けてシクシク泣いているのに、僕は「みんな何を泣いてるんだ、勝てるわけないだろ?」って言って、すぐ親父の運転する車に乗って帰ったんです。その車中でも、後部座席に座って、伸ばした足を運転席の背にドカッと乗せて寝てましたから。
それは…! かなりの態度の悪さですね。
親からも「なんて子に育ててしまったんだ」「ジュニアユースなんて行かせるんじゃなかった」とまで言われましたね。勉強も全然しなくなって、どんどん成績は落ちるし、結果、フラフラ遊んでばかり、みたいな感じで。結局何をやってたんだろうなと。自分で言うのも恥ずかしいですけど、高校に入るまでは勉強もサッカーも、比較的全てがうまくいっていたんです。でも高校では勉強もサッカーも全然でしたし、現役では1つも大学に合格できませんでした。
その悪い流れで受験の1年目は失敗してしまって。当時は親御さんに対してはかなりこじれた気持ちでいたんじゃないですか。
親に対する感謝はなかったと思います。でもサッカーをやってる間はずっと、車で送り迎えしてくれていましたし、泥だらけになったユニフォームを洗濯してくれていたり、お小遣いを持たせてくれたりと、いろいろしてくれていたんですよね。
そんななかでも、ずっとサポートしてくれていたんですね。
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心も骨も折れた
挫折続きの浪人〜大学時代浪人して受験は上手くいったんですか。
親から「お前は家では絶対勉強できないから」と、横浜にある予備校の寮に入れられました。親は、自分たちが経験してこなかったことをさせてあげたいという想いが強くあったみたいで、何とか高い偏差値レベルの大学に入ってほしいと期待をされていました。
それもあって予備校を準備してくれたんですね。
ただ、自分でも浪人してみて、それなりのところに入れるという自信があったのですが…結果としては、親が期待したような学校には合格できなかったんです。
期待を受けた状態でのその結果は、かなりショックでしたか。
気持ちはどん底でしたね。1校だけ受かったのですが、入学してから仮面浪人をしようかなと思ったぐらいで。でも両親は落ち込む僕にも「4年間、ここで何を得られるかを考えなさい」と言ってくれたんです。僕だけがなかなか気持ちを切り替えられませんでしたね。
ご両親は前向きに送り出してくれたけど、ご自身はなかなかその気持ちになれず。
入学後も迷走して、一瞬テニスサークルに入ってコールを必死に覚えながらお酒を飲みつつ…みたいな日々を過ごしていました。ただ、2、3ヵ月を経て、これはおかしいなと思って。たまたま同級生でいい仲間が集まったので、1年生だけでサッカーサークルを立ち上げたら、それが学内で優勝して、サークルの全国大会に出られるくらいになりました。
またサッカーを始めて、結果も残せるようになり。
そこで、もう一度真剣にサッカーをやってみようという気持ちが湧いてきまして。大学のサッカー部が関東の一部リーグに所属していたので、入部のセレクションを受けてみようと思い始めて本格的にがんばり始めたんですよ。
おお、そこで再びサッカーと向き合おうと。
ところがそんな矢先、練習中に、足首が逆方向に曲がって、脛骨と腓骨が2本、「ボキボキ」って音を立てて折れたんですね。
うわっ、それは辛い…。
そこで、ああもうサッカー部はダメだって思ったんです。リハビリにもだいぶ時間がかかりそうだったので、ブランクが空きすぎてしまうのでもう無理だなと。もう一回サッカーに期待を見出しかけたときに、また折れてしまって。
気持ちも折れる出来事です。
でもこの後さらに折れる事態があって(笑)。今度は足がちょっと治ってきた頃に車を運転して、ほかの車にぶつける事故を起こしてしまうんです…。
そんな状態で運転するのは危ないですね。
状況からしても明らかに僕が悪くて、そこも親が苦労して対処してくれたんだと思います。ここが本当にどん底だった時期です。
そこからどう気持ちを上向かせていったのですか。
ラッキーだったのは、さっき言ったサークルと、アルバイトがいい経験になって、就職活動をいい形に運べたんですね。タイミング的にはリーマンショックが起きて、あまり良い時期ではなかったんですけど。
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この状況をひっくり返す!
強い気持ちで臨んだ就職活動
一時期はどん底だった状態から、サークルやアルバイトを糧に、就職活動に取り組むうちに、気持ちも上向いてこられたわけですね。
だいぶモチベーションが上がって立て直すことができました。就職活動をするにあたっては、「これがこの状況をひっくり返す最後の機会なんじゃないか」と思って取り組んでいましたね。インターンもかなり早い段階から行き始めましたし、いろいろな人の話を聞こうと思って、ソフトバンクの孫正義氏の講演を聞きにも行きました。
早い段階から、就活に熱心に取り組み始めたと。どんな業界を志したのですか。
その講演の話に関連するんですけど、そこで「これからは情報産業革命が起きて、最前線にある一次情報をどれだけ集められるかが重要だ」というようなことが話されていたんですね。そこで僕は感化されて、身の程知らずにも程があるのですが「入るなら、もう電通・博報堂か、リクルートしかない!」と思ったんです(笑)。
(笑)。ではそこで、その3社に狙いを定めていかれて。
ただ、さすがに自分の能力や学歴、そして超就職氷河期となってしまったこともあり、いろいろ受けておかないと厳しいかなと思って、いろんな業界を受けてもいました。結局、大手広告代理店の最終面接まではいったんですが、内定までは辿り着けませんでした。
それでも、力を入れた甲斐あって最終まで残れたんですね。最終的にはどんなところに就職されたのですか。
そこで就いたのが製薬会社のMR(※)の仕事だったんです。
※Medical Representative(メディカル・リプレゼンタティブ)の略。「医薬情報担当者」として、自社の医薬品の適正使用や普及を目的に、医療従事者に情報を提供する仕事。製薬会社はほかにも受けていたのですか。
そこだけですね。いろんな業界を見ようと思って、1業界1企業ずつ受けていたなかのひとつの会社で。CMが有名で、製薬業界のなかでも、ちょっと特徴的な中小専門メーカーでした。
もともと広告代理店などを目指していたところから、薬剤の業界に入るという決断をされたのはどうしてですか。
実際そこまで深く理解していたわけではなかったんですけど…(笑)、医療はこれからも必要とされるし、伸びそうだなというところはありましたね。親も喜んでくれました。
親御さんも決まって嬉しかったのですね。
僕自身、就活を通して両親との関係も見直すようになりました。就職活動って、今までの人生を振り返るじゃないですか。自分がどんなことをやってきて、なぜこれをやりたいのか、何が得意で何が苦手とか。その時に両親への感謝の気持ちが湧き上がってきたんです。もともと広告代理店を目指した理由には、父親も関係ありましたから。
どんな理由だったのでしょう。
父は、自動車のパーツなんかをプログラミングして作る、SEの仕事をしていたんですね。仕事以外にも、なんでも物を直せるし、家具も作れて、何でもできちゃうし技術やセンスはあるんですけど。一方で人に物を伝えるようなアウトプットが苦手で。
職人気質な性格だったんですね。
就活をするにあたって「そういう人の代わりに代弁ができるような人間になりたい」ということが、広告代理店を目指したきっかけでもあるんですね。
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営業成績は順風満帆も
課題を感じたMR時代
実際MRの仕事を始められていかがでしたか。
割と良い成績を収めることができましたし、仕事は楽しかったです。北関東に配属されたんですが、私の前任の担当者が50代後半のベテランMRで、あまり営業回りができていないっていう状況だったんですね。そこで私が担当になって、要はフレッシュな新人に変わったことで、たくさん営業も回れるようになって。あとはこういう自分のキャラもあったかもしれないんですけど。MRって、営業に回った数と営業成績が比例する部分もあるので、成績が伸びていきました。
お話好きな印象を受けますし、前任者とのギャップもあって、営業で結果を出していけたと。
ラッキーだったなと思うのは、今までの主力商品に加えて、ちょうど新薬がたくさん出たんです。そういう新薬を紹介できるタイミングに恵まれるって言うのは、MRにとってすごく幸運なことですから。
MRをそのまま続けていこうとは思わなかったのですか。
楽しい営業生活も、2、3年経つ頃には、自分の働き方に疑問を感じてきたんです。自社の医薬品の情報を、医師や薬剤師に伝えに行くため、時には遠いところまで高速道路を使って行くんですけど、相手が出てくるまでじっと待って、やっと話しかけても「ごめん今日無理」とだけ言われて終わってしまうこともありました。
時間やお金をかけて訪問しても、一瞬で終わってしまう場合もあったと。
そうやって労力を使って、競合の会社と競うような仕事の仕方を続けていていいのかなと。医師と仲良くなって、薬を使ってもらうというようなこともあったので、僕の変な正義感が働いて、自分の働き方が果たして「患者さんのためになっているのだろうか」と考えるようになってしまったんですね。
そこで今度は、違う業界に転職しようと思われたわけですか。
そうですね。医療の業界には関わり続けたいと考え、「医療×HR(Human Resources=人材)」の会社に移ることにしました。
どんなきっかけでその仕事をすることにしたのですか。
ちょうどその頃に、歯科を開業している口腔外科医の方と知り合う機会があったんです。歯科は国内ではコンビニよりも数が多くレッドオーシャンと言われているなかで、その方は戦略として、海外に自分の歯科の2号店を出して、現地在住の日本人の方を治療することを考えていたんです。海外で活躍する日本人のなかには、わざわざ歯科治療のために帰国する方もいるので、現地で歯科を展開することで、ブルーオーシャンを開拓していけるのではないかと。その話に興味を持って、意気投合したんですね。
それが転職のきっかけに。
そこに対してどんなヘルプが必要なんだろうと考えたら、海外で働きたい人材を発掘してマッチングすることだなと思い、ヒューマンンリソースマネジメントの領域に興味を持つようになり、そういった会社に進むことを選びました。
あくまで医療に軸足を置きながら、そういった人材の仕事に興味を持って転職されたと。
ただ、その時に入った会社は1年だけ在籍して、すぐ次の会社に移ったんです。それでも得られるものも多かったですし、お世話になった先輩も多くて、後々とても意味があったなと思いました。
経験を積みつつ、すぐ次に移られたんですね。
次も同業の会社だったんですが、そこからヘッドハンティングを受けて、移ることにしました。業界内のシェアもそちらの方が大きかったというのもありましたし、海外事業を拡大するという話もあったので、先々を考えて決断しました。
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マッチングの仕事を通して気がついた
「医師の偏在」という大きな問題
その会社ではどんなことをやられていたのですか。
基本的には、毎月大体8、9人の転職を希望する医師を担当して、医師を求める医療機関とマッチングしていました。医師には、現状の職場でどんな要望や不満があるかヒアリングをしながら、その一方で、医療機関に対しては、どういった医師とマッチングしたいかをヒアリングし、医療機関の経営課題に対して、人材採用をどう結びつけていくかということを話しながら、マッチングを進めていました。
お互いの要望と課題を聞いて分析をしながら、間に入ってマッチングを行うと。
ただ、そこで働きながらも、徐々に課題に感じてきたことがあって。それが、医療は平等に行き渡らないといけないのに、医療業界にある「医師の偏在」という問題です。偏在にも2種類あって、都市部に医師が集中する偏在と、診療科目が偏るという意味での偏在の2つが存在しています。
その偏りがあることで、必要な医療が必要とされる患者さんに提供されない状況が生まれるわけですね。
医療自体は基本的に公共サービスなので、儲かりづらいように仕組みができているんですね。そこでよく言われてきたのが、ビジネスによって医療を発展させることは良いとされているけど、医療のなかでビジネスをやることはダメだ、ということなんです。ただ、医師の偏在解消については、ビジネスにはならない、という理由で、あまり真剣に取り上げられていない状況でした。
企業活動のなかでは、偏在の問題についてはあまり積極的には取り組まれていなかったと。
でも僕としては、すごく問題だと思っていたし、マッチングをしながら、足りていない部分だといつも思っていました。そんななかで、このグループの副代表と、医療事業部の田村さん(※)が、私のいる会社に、グループの説明をしに来たことがあったんです。
そこでグループと出会うタイミングがあったのですね。
そうなんです。2人が、医師のマッチングを担当するスタッフに対して、平成医療福祉グループはこんな特長や目標を持ったグループなので、こんな医師を紹介いただきたいんです、というようなお話を、地域密着多機能型病院(※)の話などを交えながらされていて。それがまさに僕が問題に思っていたことだったので「すごい! この人たちはわかってる!」と思ったんです。
※地域密着多機能型病院:地域住民の生活を守るために必要な役割を果たせるよう、地域に必要な医療・福祉の機能を持ちながら、地域医療のハブとなり、さまざまな事業者と連携して患者さんをサポートする病院。共感するところが大きかったと。
超高齢化社会を迎える2025年を前に、まさにこのグループのような回復期や慢性期の病院がリソースを最も必要としていますし、マッチングは一番難しいんですけど、一番価値が高いと僕は思っていたんです。
医師の方でも、慢性期医療をメインとする病院を希望される方は少ないのでしょうか。
少ないですし、まだまだ理解されていないと感じました。若い医師の方に、回復期や慢性期、在宅クリニックのマッチングを提案した時に、キャリアダウンだと受け取られることもあったくらいですから。日本の医療ドラマでクライマックスになるのは、オペ室だったり、ドクターヘリが出動するシーンだったりしますけど、やっぱりそれが、リハビリのシーンや在宅医療のシーンにならないと、状況も変わっていかないと思うんですよね。
慢性期医療の分野はのんびり働けて、急性期を一通り経験したキャリアの方が落ち着く場所、というのもまたひとつのイメージとしてあるかもしれません。
でも実際、このグループのように、これだけの事業所と関わりながら、地域密着多機能型病院のスタンダードを作ろうと取り組むことは、非常に意義が深いですし、そういうイメージから受ける印象以上にやることは多いんですよね。なので、当時このグループから説明を受けた時には感激しましたし、ほかの人が全然質問していないのに、僕だけ何回も質問していました。
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後編を読む

世田谷記念病院 事務長 手老 航一(てろう こういち)
【出身】静岡県伊豆市
【趣味】医療政策、病院経営、読書
【好きな食べ物】レモンサワー(檸檬堂)と唐揚げ
病院情報

東京都世田谷区野毛2丁目30-10
医療法人 平成博愛会
世田谷記念病院
内科・整形外科・リハビリテーション科急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリテーションにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。