長く培った駅売店の経験 戦争、ボウリング、ハワイ渡航、81年の歴史の一端を伺います!/世田谷記念病院 売店スタッフ/鈴木 進さん
長く培った駅売店の経験 戦争、
ボウリング、ハワイ渡航、81年の歴史の一端を伺います!
世田谷記念病院の売店で働く、鈴木進さんにインタビュー。駅売店の経営経験を長く持つ鈴木さん。現在81歳となる鈴木さんの歴史を中心に伺いました。お話は戦時中からスタート、海外旅行が庶民に縁遠い時代にハワイ渡航したエピソードや、これまで携わってきた商売のことなど、鈴木さんの歩んできた道のりを振り返ります。ぜひご覧ください!
育ったのは戦時中の東京
幼心に怖かった戦闘機の爆音
鈴木さんには以前、別企画の『HMWお仕事図鑑』でもお世話になりました。
あれが公開されて「載ってたね」って声かけてもらいましたよ。
反響があったのですね! このインタビューに出るという話を聞いた時はどう思われましたか。
それはびっくりしましたよ(笑)。「売店のスタッフ、しかも私が出るの?」って。
いえいえ、どんなお仕事をされているのか気になりますし、鈴木さんの歩んできたキャリアについてもお聞かせいただきたいなと思っています! もともとこういった売店にまつわる仕事をされていたのですか。
私は小田急線沿線のいくつかの駅で、駅売店のオーナーとして25年くらい経営していたんです。
では売店の運営についてはかなりのベテランなんですね。差し支えなければ、現在おいくつですか。
81歳です。見えないでしょ(笑)。
えっ、本当に見えないですね! そこまでベテランの方が、病院の売店で接客されているということに驚きました(笑)。
入った時は77歳でしたから、よく私を使ってくれていますよ本当に。
ご出身はどちらですか。
生まれたのは群馬県の前橋市なんですけど、記憶はほとんどなくて、育ったのは東京の豊島区駒込です。
物心ついた時にはもう駒込だったんですね。育った時期として、戦時中の記憶もお持ちですか。
1939年生まれですから、防空壕に逃げたとか、そういう記憶はありますよ。
まさに東京大空襲もあった頃で。
自分のところは焼夷弾くらいで、幸いにもまともには被害はなかったですけどね。夜中にサイレンが鳴っていましたよ。
そうすると、B29爆撃機が空に見えることも。
見えますよ。爆音も聞こえましたし、あれが来ると子ども心におっかなかったですねえ。
すごい体験ですね…。幼い頃の感覚だと、気がついたら戦争が終わっていた、という感じですか。
そうですね。
当時の生活で何か印象的なことはありますか。
私が物心ついた時には配給制だったですね。
配給切符を持って、食料や物資をもらいに行くと。
そうですそうです。きっと親たちからすると、それなりに生活は大変だったと思いますよ。
まだ幼いご自身としては、食べるに困っているという感覚はそんなになく。
私自身としてはそうでしたね。
大学時代、ブームより早く熱中したボウリング
戦争も終わって学校に通っていくうちに、熱心にやっていたことはありますか。
テニスですね。中学から高校までやっていました。
お上手でしたか。
いやあ、自慢するものではないですね(笑)。
テニス自体も流行していたんですか。
当時は流行ってましたよ。私がやっていたのは、今で言うソフトテニスでしたけど。
その後はどんな進路をたどられましたか。
法政大学の経済学部に入りました。
ちなみにですが、私も同じ大学です!
え! 私の後輩でしたか!
きっと何十年以上の後輩ですね(笑)。当時の大学はどんな雰囲気でしたか。
もう当時は学生運動がすごかったです。
年代的には、いわゆる60年安保の頃でしょうか。
そうですそうです。学校の門に中核派の学生がいて、入れてくれないんですよ。飯田橋の駅から降りて学校に行くと、もう入れなくなってて(笑)。
そういう日は講義は出なかったんですか。
麻雀やってましたね(笑)。
講義ができないならしょうがないですね(笑)。サークルや部活は入っていましたか。
部活ではなくボウリング同好会として、20人くらいで集まって活動してましたよ。その頃はボウリングに凝ってたんです。1970年代に世間でボウリングブームが起こるより前です。
ではだいぶ早かったんですね。
当時から全日本学生選手権っていう学生だけの大会があって、大学代表として出場してました。
大会にも出られて、成績はいかがでしたか。
全日本で何位かになった時は嬉しかったですね! あとは輝かしい実績はないです。授業もあんまり出なかったし、よく卒業できたなって(笑)。
(笑)。鈴木さんご自身は、学生運動に参加されることはなかったんですか。
僕はノンポリでした(笑)。
1ドル360円の時代
ボウリングでハワイに渡る
大学を卒業してからはどういう道に進まれたんですか。
叔父貴が秋葉原で電気関係の会社をやっていたんで、そこに勤めていました。
そのご縁で就職されたのですね。どのくらい働かれたのですか。
15年くらいは働いたかな。途中で、30歳ぐらいの頃、ハワイに1年間渡ったんですよ。
えっ? そのお仕事の関係で行かれたんですか。
いえ、ボウリングでなんです。まず、生意気なんですけど、その当時縁があって、スポーツ新聞社と組んで、ハワイからボウリングのオールスター選手を呼んだことがあるんですよ。
すごく大きな話ですね! ハワイはボウリングが盛んだったんですか。
そうなんです。その頃はもう日本中にボウリング場がたくさんでき始めていて、まあ結局はそのうち作りすぎて潰れたものも多かったんですけど。とにかくオールスターが日本に来るというので、ツアーをしたいから、スポンサーを探して、スポーツ新聞社にお願いしました。
ツアーというのはどういうものですか。
オールスターですから、ハワイでもナンバー1、ナンバー2レベルの選手が来日すると。そこで、各地のボウリング場を回って、地元の人たちと試合をするんです。そうすると宣伝にもなってお客さんも来ますから、ボウリング場にその土地の宿泊費用をもってもらって。さらに、そこにスポーツ新聞社に後援で入ってもらいました。
なるほど、それで各地を一緒に巡ったと。
そんなことをやってるうちに、私がみんなの面倒を見たんで、オールスターの選手から「お前もハワイに来いよ」って誘われたんです。
それでハワイに行くことになったのですか。
で、こちらでビザを取って、1年間ハワイに行って、向こうのボウリング業界を勉強してきました。
その時はまだ秋葉原で働いていたのですか。
当時はもうほとんど会社も行ってなかったですね。叔父貴も「もういいよ!」って言ってくれて(笑)。
(笑)。当時だと、海外旅行自体がまだまだ庶民には縁遠い時代ですよね。
まだ1960年代の後半で、1ドルも360円の時代でしたからね。
実際ハワイではどんなことをされたのですか。
向こうでボウリング場を手伝いながら、裏方でマシンの勉強をしたり、マネジメントのことを教わったりしました。でも今も言ったように1ドル360円でしょ、いくらお金を持っていっても3倍違うんですから。やっぱり向こうで苦労はしましたよ。
実際に日本に戻って、ボウリングに関わる仕事をされたのですか。
いえ、むしろボウリングはブームが去るのがわかったんです。当時日本ではブームに乗って、100レーンもあるような大きなボウリング場をたくさん作っていたんですけど、それは作りすぎだなと思いましたし、ハワイでも、20レーンくらいのボウリング場をやりなさい、とアドバイスされて。自分もいろいろ勉強したので、生意気ですけど日本に帰ってから、これからは大きいボウリング場はダメだよ、って話もしたことはあるんですけど、聞いてくれた人もいれば、聞かない人もいて。案の定、たくさん潰れましたね。
ご自身では、ボウリング場を経営しようとは思わなかったのですか。
いやいや、そんなお金はないですよ(笑)。
アパレルの仕事に長く携わった後
駅売店の仕事をスタート
日本に帰ってからはどうされたんですか。
友だちから、ファッション関係の会社を始めようと誘われて、一緒にやることにしました。アクセサリーを扱う会社だったんですけど、ボタンが主力で、ベルトとかバックルとかを扱っていましたね。
卸しをされていたのですか。
そうですね。マンションメーカーって言って、原宿や青山に当時たくさんあった、5、6人くらいでやってるメーカーに卸していました。
なるほど、卸したボタンやバックルを使って、そのメーカーが服を仕立てると。
自分たちは蔵前のあたりに事務所を持って、私は営業周りをしていました。
ファッションの知識はあったのですか。
全然なかったですよ(笑)。友だちの方がそっちはくわしかったので任せて、私はボウリングのことで人付き合いはたくさんしてましたから、営業はやるよと。
ボウリングでのお付き合いを経て、外回りは慣れていたんですね。
だけど、やっぱりファッションは流行り廃りが大きいので大変でした。売れる時はバーッと売れるけど、売れなくなったら全然売れないですから。20年以上は続けていたんですけど、浮き沈みが大きかったので、結局はうまくいかなくなって、会社を畳むことにしました。
ずっと経営していくのはなかなか厳しい状況だったと。その後はどういう仕事をされてきたのですか。
会社を畳んでから、半年くらいは遊んで、そこから駅の売店の仕事を始めました。
売店の仕事はその時から始められたのですね。
当時は90年代前半で、もう52、3歳くらいにはなっていたと思うんですけど。そこでボウリングの縁で付き合いがあったスポーツ新聞社の友だちに、いい商売はないかと相談したら、駅売店の仕事を紹介されたんです。
ボウリングの縁が生きているのですね。
初めは1店舗任されて、徐々に増えて、多い時は同時に4店舗、25年くらいはやっていました。
売店のオーナーだったわけですか。
そうですね、接客、発注、商品管理、全部やってました。朝早くから、6時にはお店を開けて、13時までお店に立ちます。その後は遅番の人間に任せて、私は帰るわけです。
朝早いので大変そうですね。
それを週に6日、ずーっとやっていました。
経営する店舗が増えると、そちらはほかの人に任せられて。
店長を1人置いて任せて、私はいつも成城学園前駅にいました。そこは2店舗ありましたので。ほかの店舗には、週に一回ずつ行って。
売店の仕事をいざ始めてみていかがでしたか。
大きく儲かるという商売ではないですけど、給料や経費を払っても、ロスさえ出さなければ、ちゃんと安定して手元には残るなと思いました。
以前会社をやっていた時は、そこに不安があったわけですしね。
あとはやっぱり売店の仕事を始めてから、生活にハリが出ましたよね。
それはどういう意味で思いましたか。
自分が仕入れた品物が売れて、喜んでもらえる。今の病院の売店でも同じですけどね。仕入れた品物を喜んで買っていただける、っていうことがやっぱり嬉しいですよね。
駅売店でのモットーは
「明るく早く正確に」
90年代前半から、駅売店の仕事に長く携わってきた鈴木さんですが、お仕事で大変だったことはありますか。
好きな仕事だったから、大変だったっていうことは特にないかなあ。
大変そうなイメージもありますけど、ご自身は好きで取り組まれていたのですね。担当するお店も増えていったそうですが、どういう経緯でしたか。
お店の成績が良かったんですよ。棚卸しの成績も良かったですし、従業員も幸い良い人間がいっぱいいたので。親会社の方から、ここもやってほしい、という感じで増えていって、一番多い時は4軒やっていました。
棚卸しの成績が良いというのは、売り上げと実際の在庫数の差が少ないということですか。
そうです、そのロス率が低かったんですね。うちは1%にもならなかったので、それもあってほかのお店もやってほしいということになったと思います。
店舗経営で気をつけるべきことはどんなことでしたか。
あの小さいホームのお店に毎日荷が入るわけですから。チャンスロスと廃棄ロスの2つにはいつも気をつけてやっていましたね。
それぞれどういう内容か教えてください。
チャンスロスは、買いに来られたお客さんが、欲しい商品がなくて離れてしまうことですね。廃棄ロスは、賞味期限切れで廃棄になってしまうことです。
チャンスロスはどうやって防ぐんですか。
やっぱり、細かく傾向を熟知しないといけません。お客さんの傾向を知って、こういうものが売れる・売れないっていうことはハッキリ見極めていかないといけないですから。従業員によく言っていたのもそこですね。チャンスロスをすると「あの店はいつ行っても欲しい商品がないや」って、お客さんが来なくなっちゃうんです。
お客さんの傾向をしっかりと押さえていくと。
大体1年間で、お客さんは半分くらい入れ替わるので、それに合わせてまた新しいお客さんの趣向を覚えていくんです。
50代から始めて、かなり長く続けられていかれましたね。
本当にスタッフに恵まれてたですよ。
良いスタッフというのは、例えば接客とか発注で優れたところがあるということですか。
売店は、やっぱり接客でしょう。発注、商品管理も大事ですけど。なんて言ったって、接客が大事だと思いますよ。うちのお店では「明るく早く正確に」がモットーでした。
やっぱり早さも大事ですよね。
何しろ駅の売店ですから「電車に乗りに来たんだぞ、売店に買い物に来たんじゃないんだぞ」って言われたこともありましたから(笑)。
(笑)。以前は今のように電子決済も導入されていませんでした。
今はだいぶ楽になりましたねえ。以前は商品の値段は全部覚えて、暗算で計算してましたよ。2、30人くらいの常連さんの買う物はわかっていますから、いつも準備していました。
25年間続けてきた売店を閉じた理由
25年も売店をやられていたら、そこから時代の移り変わりが見えそうですね。
昔は、電車のなかでもみなさんとにかくよく新聞を読んでいましたよね。一般紙とスポーツ紙と、業界新聞と合わせて、多い時で全部で300部くらいは毎日お店に並べていましたから。
今はだいぶ状況が変わったでしょうね。
新聞雑誌はとにかく売り上げが落ちましたね。それがお店を辞めるきっかけにもなりましたから。昔は、木曜日に週刊新潮と週刊文春をみんな2冊セットで買っていったものでしたけど、それも1冊だけになったり、タバコもまとめて2箱買っていたものが1箱になったり、以前ほどは売れなくなりましたね。新聞、雑誌、タバコの売り上げが下がったこと、これは大きかったですね。
はっきりと景気が悪くなったと感じた時はありますか。
2008年のリーマンショックの頃ですね。やっぱり危なかったですよ本当に。あの頃が一番悪かったです。「世の中景気悪いなあ」って思いました。お店を辞める間際もそこまでは悪くなかったですから。
実際にもうお店を辞めようと思われたのは。
4年前くらいですか。一時より売り上げが落ちたというのもありましたけど「疲れたな」と思って。
70代になられて、体力的なこともあったのですね。最後はいくつの店舗を持っていたのですか。
徐々に減らしていって、最後は成城学園前駅のお店だけでしたね。
25年ほど続けられて、辞める時はどんな感慨でしたか。
それはやっぱり寂しさはありましたよ。辞めるのがもったいないという気持ちもありましたし。でも、その時は疲れが残っていたんでしょうね。
続けていくという選択肢もあったけど、それよりも疲れが勝ったと。ずっと朝早く起きる生活を続けていたわけですよね。
もう習慣になっていて、当時は朝4時半になるともう目が覚めちゃうんです。その代わり、寝るのも早いけど。でも、その頃は仕事が終わってお酒飲んでいても、常にお店が心配でしたね。
お店がうまく回っているか、ということですか。
従業員のことですね。夜遅くまでやっている売店に、女性1人で立っている時もありましたから。駅は酔っ払いもいるでしょ、いつ電話がかかってくるか心配で。
やっぱり絡まれるようなこともあるのですか。
多々ありましたよ。駅員さんも連携して対応してくれていましたけど、警察沙汰になると私も行くことになりますから。だから閉店時間までは、心のなかでお店のことがずっと気がかりで。雨とか雪が強い日もそうですね。
じゃあお酒を飲んでいても、あんまり酔えなかったんじゃないですか。
そうでしたね。雪で電車が止まってしまった時は、従業員さんには店の中で一夜を明かしてもらったこともありましたよ。
従業員のみなさんとも長い付き合いでしたか。
ええそれはもう。一番古い人は20年くらい一緒に働いてくれましたから。従業員の出入りが少なかったっていうのは、やっぱりラッキーだったですよね。
ではみなさんお店で働き出されてからは。
ずーっと働いてくれました。もし辞める時も、自分の知ってる人を紹介してくれるんですけど、またいい人間を連れて来てくれるんです。
良い関係性だったんですね。
その点は恵まれてましたね。お店を畳む時も「オーナーが辞めるなら私も辞めようかな」って言ってくれた人もいました。まだ働きたいっていう何人かは、私が知っているほかのオーナーを頼って、そちらの売店にお願いをして。
今もみなさんとつながりはあるんですか。
たまに連絡を取っていますよ。年賀状もくれますし、「そろそろ花見でも行きましょう」なんて声をかけてくれますね。
素敵なご関係ですね。長くお店をやられてきて、印象に残るエピソードはありますか。
そうねえ、万引きを捕まえたことですかね(笑)。
そのエピソードですか(笑)。
「売店はオアシス」
みんなの癒しの場所となるよう心がける接客
売店の経営を終えてから、どれくらいして世田谷記念病院で働き出したのですか。
半年くらいですね。
鈴木さんはいつも、半年しか期間を置かないんですね(笑)。
しばらくは体を休めるつもりでいて、1年くらいしたら働こうと思っていたんですけど、やっぱり退屈でしたね(笑)。あんまり退屈なんで、役所に相談したら仕事を調べてくれて「売店で募集してるところが2つあるよ」って教えてくれたんですね。その1つが世田谷記念病院で、もう1つは遠かったので、こっちでお願いしますって。それで面接を受けたんです。
病院で働いてみて、駅売店とはどんな違いを感じましたか。
駅の売店と比べたら、こんなにゆったりしていていいのかなって(笑)。
少なくとも電車の時間に追われて接客することはないですもんね(笑)。
でも病院ですから、当然気を使うところはありますよね。患者さんにはいつも明るい雰囲気で、丁寧に接客しようと。そこは気をつけてますね。
入院中に売店に来られる方とは、顔なじみになるものですか。
それはなりますよ。「歩けるようになって良かったねえ」とかお話しをして。
交流もされているのですね。
嬉しかったのは、介護部のスタッフさんが「売店は私たちのオアシスよ」って、言ってくれたことがあったんですよ。それが嬉しかったですね。やっぱりみなさん大変な仕事をしてますから。少しでも癒しになったらなって思っています。
みなさんにとって一息つける場所であればと。
最近はここにコーヒーマシンも導入されて、またみなさんが立ち寄ってくれます。コーヒーが入るまでには少し時間がかかるので、みなさんその間に話しかけてくれるんですね。そこでいつもコミュニケーションを取っています。売店が、おだやかな気持ちになるような場所になったらいいですね。
他愛のない会話が
仕事の楽しみ
病院売店での仕事を通じて楽しいことはありますか。
やっぱりみなさんと楽しく喋れるのがいいですね。
きっと、鈴木さんに話しやすい雰囲気があるんでしょうね。ちなみにどんなことをお話しされるんですか。
本当に他愛もないことですよ。変な話、私の名札を見て「『す』ばっかりだね」とか(笑)。
確かに言われてみれば(笑)。病院ならではの売れ筋はありますか。
患者さんは日用品とか、歯科関係の商品、あとチョコ類も多いですね。スタッフはちょっとしたお菓子とか、おせんべい。休憩の時に食べられるようなものが多いです。
発注もやられているんですか。
主力の飲料を中心に担当しています。ちょうど今は什器の入れ替えがあって発注業務がないんですけど。なかでは水が一番売れますね。さっき言った、コーヒーマシンのコーヒーも好調です。
病院の売店業務で難しいのはどんなところですか。
駅の売店と一緒で、チャンスロスと廃棄ロス、そこは気をつけていますよ。例えば定期的に同じ商品を買われていた患者さんが急に退院されると、その商品は売れ残る可能性が高くなりますから。いつも数に注意しながら発注しています。
今後、こんな風に働きたいとか、こんな売店になったらいいな、と思うところはありますか。
幸いここでも周りのスタッフに恵まれているので、和やかに明るい売店になったら、それだけで十分じゃないですかね。患者さんもスタッフのみなさんも、明るく和やかな雰囲気で買い物をしてもらえたらいいなと。
それこそスタッフさんに言われたように「オアシス」ということですね。
本当に、嬉しい言葉をもらいましたね。介護部の福崎さん(※)という方が言ってくれたんですよ。
※世田谷記念病院 介護部 福崎彩子さん インタビュー記事
そうなんですね! 福崎さんは実は以前この記事にも出ていただいたんですよ。
そうでしたか! 本当にいい雰囲気で働かせてもらって、何の不満もないですよ。
みなさんきっと、鈴木さんに長く働いてほしいと思っているでしょうね。
そう思っていただけていたら嬉しいですね。
風邪もひかない健康体
休日はのんびり過ごす
鈴木さんはとてもお元気そうですね。
そうですね。2年くらい前に大腸がんが見つかったんですけど、内視鏡で切除したらステージ1でした。それから年に1回検査していて、今のところ平気です。
健康そうで何よりです!
風邪もひかない(笑)。
売店のお仕事がない時はどう過ごしていますか。
基本的には家でゆっくり過ごしていますよ。医者からは散歩するように言われてるんで、天気の良い日は1時間くらい近所を歩いて。たまに、友だちが近所でやっているお店に散歩がてら行ってますね。
のんびり過ごされているんですね。
月に2回ぐらい仲間内で麻雀をしています。手も頭も使いますし、勉強になっていいんですよ。
今後、個人的にやりたいこととか、希望はありますか。
いやもう、このまま静かに…(笑)。
いえいえいえそんな(笑)、まだまだ元気にお店に立たれる姿を見せてください!
プロフィール
世田谷記念病院 売店スタッフ
鈴木 進
すずき すすむ
【出身】東京都豊島区
【趣味】麻雀
【好きな食べ物】お酒(昔からビールが大好き)
病院情報
医療法人 平成博愛会
世田谷記念病院
内科・整形外科・リハビリテーション科
急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリテーションにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。