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地域の医療に貢献するため、選んだ循環器内科の道 生まれた土地への恩返しを胸に、多摩川病院へ/多摩川病院 院長/後藤 紀史先生

診療部2020.09.18
診療部

地域の医療に貢献するため、選んだ循環器内科の道
生まれた土地への恩返しを胸に、多摩川病院へ

多摩川病院の院長、後藤紀史先生。親族に医療関係者も多く、身近に医学があったという後藤先生は医師になられてからは、長らく長野の地で医療に取り組まれてこられました。専攻である循環器を選ばれた理由も、当時の地域医療ならではの実情と、そこに打ち込む先生の想いがありました。今回は、多摩川病院に至るまでの後藤先生の経歴を中心にお話を伺っています。ぜひご覧ください!

吉祥寺生まれのシティボーイ
親戚の勧めで医学の道へ

ご出身はどちらですか。

東京の武蔵野市です。吉祥寺駅の近くですね。以前は前進座っていう劇場があったすぐ近くで、ちょっと行けば杉並区っていうところでした。

吉祥寺と言うと今は「住みたい街ランキング」常連の人気の街ですが、当時はどのような感じでしたか。

今と違って、中央線が高架になっていなくて、駅の南北が踏切で遮断されてたんですよ。今みたいに発展していったのは、高架ができてつながってからですね。近鉄百貨店とかいろいろデパートがきて。昔は今みたいな街ではなかったです。

少し雰囲気が違ったと。

特に北口は戦後バラックだったところでしたし、駅前に今もあるハモニカ横丁なんかはその名残りですよね。

ずっとそちらで育ったのですか。

高校まではそうですね。

高校時代はどのように過ごしていましたか。

中野の高校に通っていて、映画研究会に入っていたんですけど、そんなに積極的ではなくて。

映画を作る方の研究会ですか。

作る方です。学園祭に向けて作ってましたけど、あんまりいいものもできず(笑)。

医師を志したきっかけを教えてください。

母方の祖父が産婦人科医で、伯父も医師でしたし、母方の親戚に医療関係者が多かったのが影響しましたね。本当はもともと英語の教師になりたいと思ってはいたんですけど、義理の叔父から「まずは医師免許を取ってから考えてみろ」と言われて(笑)。

ご親戚から強い勧めがあったと(笑)。もともとは英語に興味があったのですね。

喋れるわけじゃなかったですけど、好きだし、得意だったんですよね。

それでも医学の道を選ばれて。

全科必修っていうところは魅力でしたね。ただ「そもそも医師になれるのかな」と思いながら受験しましたよ。中学の時はそれなりに勉強もできていたんですけど、高校に入ったらもっとできる同級生がたくさんいましたから。

相当勉強されて進まれたのですか。

そうなんですけど、まあ2浪はしました(笑)。

のどかな環境の大学時代
医療現場に立って抱いた無力感

大学進学とともに東京を離れられたのですか。

福井医科大学(現 福井大学医学部)に進みました。当時新設されたばかりだったんですけど、周りは田んぼだらけで何もない場所でしたね。

なかなか勉強に集中できそうな環境ですね。

車で3、40分くらいのところに、曹洞宗の有名な永平寺があるので何回かは行きましたけど、当時は遊びに行くようなところはそんなになかったので、勉強以外は卓球をやってましたよ(笑)。

みなさん研修が大変だったと言われますが、後藤先生はいかがでしたか。

研修は神奈川県の病院だったんですけど、やっぱり大変でしたね。冬でも半袖着てるような感じと言いますか(笑)。

それはどういうことですか(笑)。

季節感がなくなるんですよ。自宅のアパートに帰るよりも、病院にいる時間が長いですし、時間の余裕もなかったですし。

いざ現場に立ってみてどういう気持ちを抱きましたか。

やっぱり無力感が強かったですよ。できないことにたくさん直面しますし、当時トップレベルの教授だったので紹介患者さんも多くて大変でした。

求められることも多かったですか。

スタッフの数が少なかったので、受け持ちの患者さんが6、7人はいて、要領も悪かったので苦労はしました。

地域医療に貢献するため
循環器内科の道へ

専攻はどういう気持ちで決められましたか。

内科系の当直をすると、心筋梗塞など心臓がらみの疾患の患者さんが来られることがあって、けっこうヒヤヒヤすることもあったんです。まずはそういうことを克服すると、自信がつくかなと思って、循環器に進むことに決めました。

循環器には進む方も多そうなイメージがあります。

内科の中では専攻として多いと思いますよ。実際の需要も多いですし、いろいろな検査や手技があって、命にも直結する分野ですから、興味を持つ人も多いのだと思います。

先生ご自身としては、興味というよりは、実務的な意味合いが強かったですか。

研修後は長野県の病院で勤務したんですが、当時は医師が少なかったのもあって、1人でやることが多かったんです。心筋梗塞を診られる医師にならないと、いつまで経っても1人立ちできないっていうのがありましたから。地域医療に貢献するためには必要だなと考えました。

長野県と言えば長寿県上位のイメージがありますが、当時はいかがでしたか。

以前はそうではなかったんですが、当時は既に改善されていましたよ。

それ以前は違ったのですね。

長野県って、名産の野沢菜漬けに代表されるように、塩分量の多い保存食が多く食べられていて、高血圧から脳出血になる患者さんが多かったんですよ。「これではいけない」ということで、佐久市にある佐久総合病院の若月俊一先生という医師が、保健師と一緒に農村に入って行かれて、減塩の食事を指導したと。

栄養指導的なことを地域で進められたわけですね。

なおかつ健康診断も定着させていって、予防医療の概念を広めて行ったんですね。そのおかげで、だいぶ健康寿命が伸びていった。今でも国民健康保険の優良県ですよ。

では先生が勤め始めた頃には。

もうそういうシステムができ上がってましたね。脳出血で亡くなる方は本当に少なかったです。

いずれは地元へ恩返しを
病院の仕事は苦にならない

ここまでのキャリアでは長野県が一番長くなりますか。

そうなりますね。なかでも、飯田市では12年ほど働いたので、そこが一番長かったです。

当時のキャリアを振り返って、どんなことが印象深いですか。

どの病院でも、東京のように医師が多くなかったので、そういう意味では大変でしたね。

人手不足が問題だったと。

特に僕らの頃は、中堅の医師がいなくなってしまった時代があって大変でしたね。長野県は医学部が信州大学にしかないので、医局で教育する側の人を増やさないといけないっていうことで、県内で働く中堅の医師を全部大学に戻した時期があったんです。

現場で働く医師が一気に減ってしまいますね。

今は制度も整って、かなり充実しましたけど、当時は本当に全体的に少なかったです。なので、血が出てない疾患はほとんどが内科に来るんですよ。内科のなかでも本来なら、めまいなら耳鼻科へ、とか分けられるんですけど、そうもできず。脳梗塞も診ましたし、お子さんも診ましたよ。

もともと進んだ専門より、かなり幅広く見る必要が出てくると。

外科以外はほとんど診ざるを得ませんでしたね。

決して良いことではないですが、みなさんそこで鍛えられそうですね。

そういう側面はあったかもしれないです。

そういう環境ながら、長い間医療に取り組まれて。

もともと両親の実家が長野県で、昔から毎年夏には長野に行っていましたし、親戚も周りにいて、環境も良かったですね。

長野県自体に愛着も強かったのですね。そのままずっと長野県に、ということは考えなかったのですか。

親の介護もあって長野からは離れることにはなったんですが、いずれ自分が生まれ育った地で医療に貢献したい、ということは考えていました。

東京で医療に貢献する、ということを考えられたと。

多摩川病院のある調布市は、地元の吉祥寺からは少しだけ離れていますけど、最終的なキャリアは自分が生まれ育った東京で、ということは思っていたんです。ここに移ったのは、そういう気持ちがあります。育ったところへ恩返し、じゃないですけど、そう捉えると病院での仕事は苦ではないですね。

慢性期医療に感じた「医療の原点」

長年働かれた長野県の病院から、この多摩川病院に入職された経緯を教えてください。

親の介護もあって、まず関東に戻ってくる必要があったんです。ただ、この病院に移る前に、神奈川県の療養病院に入職して、5年ほど働いて、その後に多摩川病院に入職しました。

後藤先生のように長く急性期医療に取り組まれた方が、新たに慢性期医療に取り組むのは、どんな意識の変化があったのですか。

地域包括ケア病棟にまず興味が出たことですね。私が長野県にいた頃は、まだ地域包括ケアシステム(※)という概念はそこまで知られていなかったと思います。以前は「ケア」よりも、完全治癒という意味の「キュア」が先行していましたから。自分がケアしてもらう年齢に近くなってきたので、醍醐味がわかってきたというのもあったかもしれません(笑)。

※地域包括ケアシステム:高齢者の方が住み慣れた地域で自分らしく暮らせるよう、「住まい」「医療」「介護」「予防」「生活支援」のサービスを一体的に提供できるケア体制を構築しようという取り組み。

そんな(笑)。

それと、働き方の問題もありましたね。以前は働き方改革もなかったですし、40代、50代と歳を重ねていくうちにだんだん辛い部分も出てきました。夜通し救急対応にあたってから、次の日もそのまま1日勤務するとか。

なかなかの長時間勤務ですね。ご自身の興味の変化と、今後の働き方を考えると、慢性期医療が適していたと。

そういうことです。そこで、地域包括ケア病棟がある病院で働けないかと探したところ、多摩川病院にたどり着きました。

実際現場に立たれてみていかがでしたか。

実は最初は地域包括ケア病棟ではなく、回復期リハビリテーションの担当になったんです。急性期病院とは当然違うので、最初は何をどれくらいやったらいいのかっていうところで判断に迷うところもありました。ただ、宣伝するわけじゃないですけど、このグループから『慢性期医療のすべて』(※)という本が出版されて、これは非常に参考になりましたね(笑)。

※『慢性期医療のすべて』監修・武久 洋三/編集・武久 敬洋、北河 宏之(メジカルビュー社)/当グループが培ってきた慢性期医療のノウハウをまとめた1冊。

手前味噌のようになりますが、良いガイドとなったと(笑)。先生が思う慢性期医療の興味深い点はどんなところだとお考えですか。

チーム医療を最も経験できる場だと思いますね。患者さんごとに目標設定して、それを目掛けてリハビリテーションと治療を進めていくわけですから、多職種で協力していかないとうまくゴールにたどり着きません。

全職種で一丸となって目標に向かうと。

カンファレンスを文字通り多職種でできるところが、今までと違った点でした。私の経験してきたなかでは、医師が進めることが多かったですから。

医師の一存が強かったということですか。

例えば心筋梗塞の患者さんが入院されて治療方針を決める際には、他職種が入り込む余地が少なかったわけです。それと、当時は患者さんの退院後の生活についてもあまり考えられなかったですね。

あくまで急性的な治療をメインに取り組まれてきたわけですしね。

退院してご自宅に帰られて、安心して生活できるところまでをサポートするというところに、医療の原点を感じられました。

スタッフには多摩川病院の一員として
誇りを持って働いてほしい

院長になられたのはいつのことですか。

2019年の7月ですね。その前に、2016年に副院長に就かせていただきました。

そもそも管理者的な立場になるのはいかがでしたか。

副院長に関しては、役職がついた方が物事をまとめるのに話をしやすいというところがあって、その点では良かったので、二つ返事で受けさせてもらいました。院長職については、お話があってから1日いただきました(笑)。

(笑)。やはりすぐ受けるには話が重いと言いますか。

まだこの病院に務めた期間が長いわけではないので、その点で少し迷いましたね。長野県の病院では12年も働いていましたので、病院のことは隅々まで把握できていましたけど。でも、せっかくいただいたお話なので、やらせていただくことにしました。

どういう想いで院長職を受けられたのですか。

どうせやるなら、働いていて楽しい職場にしたいなと思いましたね。若いスタッフも多いですし、長く務めてもらえることは病院にとっていいことですから。モチベーション高く働いてもらえるようにということは考えました。

スタッフの方にはどんな働きかけをされるのでしょう。

アイデンティティと言いますか、多摩川病院の一員として誇りを持って働けるようにとは思っています。そのために自分の判断で考えて、自分の言葉で意志を表してもらって。権限とまでは言わないけど、ある程度自由に取り組んでもらって、報告を後でくださいと伝えています。

自信を持って働ける環境作りということですね。

それと基本的なことではありますけど、なるべく声をかけるようにはしていますね。みんなの会話に入っていくこともあります(笑)。

普段のお仕事はどんなことが中心になりますか。

医師としては医療療養病棟で20床を担当しているほか、内科医として外来も持っています。そのほかにも、訪問診療や、訪問リハビリのための往診、グループのヴィラ町田の利用者さん向けの往診も行っていますね。

院長ともなると、なかなかやることが多くて大変そうな印象です。

今お話ししたような臨床業務のほかに、院長として外に出て挨拶に伺う用事も多かったのですが、新型コロナウイルスの影響で、そういった用事もオンラインで行うことも増えて、外に出る機会は減りましたね。

院長職で大切にしていることはありますか。

上長としては、人が言いにくいことを言うのが役目だと思っています。それと、スタッフから受けた話はすぐ決断するのも院長の責任ですね。なるべくその日のうちに返事をしています。そもそもは話を聞いた段階で大体結論は出ていることが多いんですが、一応その答えに整合性があるのかどうか、その確認のために時間をもらっています。

地域の患者さんの
充実した在宅生活を支援

この地域の特性を踏まえて、多摩川病院はどのような役割を担うとお考えですか。

ファミリーも増えて、都心のベッドタウンのようにはなっていますが、高齢化率も上がってはいますね。そのなかで肝に銘じているのは、Post Acute Care(※1)、Sub Acute Care(※2)の地域での1番を目指すということですね。急性期の治療を終えた患者さんや、地域で療養中の患者さんを速やかに受け入れて、安心な在宅生活を送っていただく。

※1 Post Acute Care(PAC):急性期病院での治療は終了したものの、自宅に帰ることが不安・困難な患者さんを受け入れ、治療とリハビリテーションで在宅復帰を目指す。
※2 Sub Acute Care(SAC):在宅療養中で状態が悪化した患者さんの入院を速やかに受け入れ、治療とリハビリテーションにより状態を改善し、在宅復帰を目指す。

主に高齢の方の、在宅復帰を支援するのが役割となるわけですね。

高齢化社会は進んでいきますので、その状況において、在宅生活の自立支援にもっと力を入れたいですね。

近しい機能の病院は近隣にはありますか。

実はそんなに多くはなくて、特に回復期リハビリテーション病棟が西東京には少ないので、役割としては重要なんです。地域包括ケア病棟については、急性期病院からのご紹介で来られる患者さんが多く、大変なこともあります。

症状が重いという意味でしょうか。

急性期病院でも在院日数が短くなってきているため、治療が完結しきっていない方が入られるケースもあって、急性期病院に近い治療を行う必要も出てきています。なおかつ、地域包括ケア病棟は在院日数60日という上限がありますから、そのなかで結果を出すためには、苦労もありますね。

今後、多摩川病院ではどういったことに力を入れていきますか。

訪問部門をもっと強化していきたいです。在宅生活の支援という点では、訪問サービスはとても重要ですし、新型コロナウイルスの感染拡大によって、デイケア、デイサービスのご利用を控えられる方もいらっしゃいましたが、その分、訪問看護や訪問リハビリは需要が高まっています。訪問診療も含めて、さらに力を入れていきたいと考えています。

目指すべき病院の形を教えてください。

前身の多摩川総合病院は1929年に開院し、形態は変わりながら90年も歴史がありますので、今後もこの地で存続させていくことが使命だと思っています。地域包括ケアシステムの中核病院の一翼を担えるよう、とにかく地域の患者さんの希望に合った、在宅ないし地域生活の充実した支援ができるように努めていきたいですね。グループとしてもリハビリテーションが強みですので、スムーズに在宅生活に移行できるように、積極的に取り組み続けていきたいです。

地域医療の重要な役割を担っていかれると。

前身の病院時代から長く続いている健診センターもありますから、これからも地域のみなさんの健康の増進や、維持管理にもお役に立てると考えています。

特技はブラインド・テイスティング
ワインについては本格派

お休みはどう過ごすことが多いですか。

部屋の掃除が多いですね。

マメにやられるのですか。

蔵書が多いんです。積ん読ばかりですが(笑)。

ほかにどんな趣味がありますか。

ワインが好きでよく飲みますね。30代の頃から好きになりました。家にワインセラーもありますよ。

本格的にお好きそうですね。

ブラインド・テイスティングはやりますよ。

お〜っ、かっこいい響きですね(笑)。わかるものなんですか。

ブドウの種類や産地を当てるんですけど、大体わかるものですよ。

それは数多く飲んできた経験から。

そうですね、色や匂いの特徴が蓄積されていくんです。

ワイン以外は何かありますか。

麻雀も以前から好きで、調布市の医師会同好会で定期的にやっていました。そこには90歳の元女医さんも参加されていて、交流の場として楽しんでいましたね。健全なものですよ(笑)。

ありがとうございます、安心しました(笑)。

プロフィール

多摩川病院 院長

多摩川病院 院長

後藤 紀史

ごとう としふみ

【出身】東京都武蔵野市
【専門】内科、循環器内科
【趣味】読書、ワイン、料理(カレー・ポテトサラダが得意)
【好きな食べ物】握り寿司、エビフライ、ステーキ

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