心臓血管外科医が惚れ込んだ、慢性期医療の魅力とは/平成医療福祉グループ 診療本部長/井川 誠一郎先生
心臓血管外科医が惚れ込んだ、慢性期医療の魅力とは
平成医療福祉グループの診療部を統括する井川誠一郎先生。心臓血管外科医として急性期病院で活躍していた井川先生が、なぜ慢性期医療の道にキャリアチェンジしたのか先生の想いに迫ります。
医師になると決めた、アイスクリームの存在
ご出身はどちらですか。
大阪です。生まれは、母親の故郷が小豆島やったから小豆島やけど、大阪です。中学も大学も大阪やしね。
医師を志したのはいつ頃ですか。
うちだけは違ったんだけど、母方の親戚は全員医者家系だったんですね。小さい頃は、母親の実家に帰省する機会も多かったので周囲の環境から当然医師になるもんだと思っていました。でもね、一番のきっかけは、アイスクリームやな。
アイスクリームにどんなエピソードがあったんですか。
子どもの頃、一緒にいた従兄弟たちは開業医の息子たちばかりで、その時代は駄菓子屋のアイスをツケで食べてたんですよ。田舎だったからね。当時はツケってことを知らないから、従兄弟たちが地元の駄菓子屋さんで勝手にお菓子とかアイスクリームを取って食べていたことが衝撃的で「医者の家だとタダでアイスが食べれるんや、すげーな!」って思って医者になることに決めました(笑)。
そこで将来を決断されたんですか。
そうそう。食い意地が張ってたんだね。タダでアイスクリームが食べられることが本当に魅力的でしたね。医者は「ありがとう」って言われる商売なのも良かったです。それ以上に魅力的な職業に出会えなかったのもあったかな。
憧れた叔父から教わった、へき地医療の基本
外科医を選択された経緯を教えていただけますか。
へき地医療をしていた親戚の叔父に憧れた影響がありました。「その日に釣れた魚が治療代」っていう時代だったし、患者さんがいないときは釣りに出かけて診療所から看護師さんが「先生、患者さん来たよ〜」って走って呼びに来るような場所で医師をしている人でした。その叔父の一言も大きかったかな。
どんな言葉だったんでしょうか。
へき地医療で重要なのは、ひと晩持たせることだと教わりました。「何としても持たせなきゃいけないから、心臓と肺だけは勉強しておくように」って言われてね。心臓と肺が勉強できる診療科を考えた結果、第一外科を選びました。
研修医時代は過酷だとよく耳にしますが本当なんですか。
僕たちの時代は、まずは大学で1年間の研修があって、2年目からは外部の病院で一般外科を2年研修する形でした。1年目の研修医は、想像通りかな(笑)。年に7日ぐらいしか休んでなかったし、給与も雀の涙ほどやったもんなぁ。本来は外の病院に出て2年間の外部研修が終わる頃に自分の進路(心臓血管外科、呼吸器外科、一般外科)を決めるけど、僕だけ人事の都合で1年長く在籍することになって、3年目になると胃の手術も自分がメインで執刀できるようになっていたから、手術が面白いと感じていましたね。
手術への興味が心臓血管外科の道につながったのでしょうか。
いや、自分で選択していないんだよね。外部研修2年目に提出するはずの希望届を僕は人事の都合で出せなかったから、既に病院同士の話し合いで行き先が決まっていたんですね。
不思議な縁でたどり着いたんですね。
言い方が悪いかもしれんけど、成人の手術を担当したい時期だったから、次の病院が子供専門の大阪府立母子保健総合医療センターと聞いたときはちょっと不本意でした。でも、その病院で僕の上司になったのが、大学の先輩でもあり、今このグループの泉佐野優人会病院で院長をしている加藤寛先生でした。だから、そう考えると随分昔から縁があったのかもしれませんね。
突然のキャリアチェンジで選んだ先は、慢性期医療
以前は週にどれくらいの頻度で手術をされていたのでしょうか。
心臓の大きな手術は月に4~5件ほど入っていてほかは小さな血管手術を合間にしていた感じかな。あとは、心臓血管外科にまつわることであれば、救命や消化器外科から呼び出されることも多くあって、駆け回っていましたね。
やりがいを感じていた中でのキャリアチェンジ。どのような変化だったのでしょうか。
妻が倒れてしまってね、長期入院が必要なのに僕の勤務先も含め急性期病院では長期で入院できないんですよね。だから、妻のサポートができる職場に変わったんですよ。当時、僕は心臓血管外科と循環器科を束ねた心臓病センターのセンター長をしてたんだけど、そのポストの前任者が加藤先生だったから、先生を頼って色々と相談していたら「一緒に働かないか」と声をかけてもらい、すぐに決断しました。
外科医のキャリアを離れることに迷いはありましたか。
全く、全然後悔はないよ。このグループへ入職を決めたときに心臓の手術はもうしないと決めてたし、毎日手術をしてたからこそできると思っている部分もあるからね。それに、慢性期医療をやったことで面白みを見つけたから急性期だけにこだわる必要がなくなっていました。
慢性期医療が面白い!急性期病院へ「治った」と伝えられる醍醐味
慢性期医療の面白みとは何でしょうか。
急性期では対応できなかった患者さんのケアが慢性期であれば提供できるっていうのが一番やね。急性期では絶望的と言われて慢性期に転移して来た患者さんが在宅復帰するケースをいっぱい診てきました。
具体的にどんな方を指しますか。
例えば、患者さんの中には「急性期では治る見込みはない」と言われて転院してきた寝たきりの患者さんがこの病院を退院するときには、歩いて帰っていくことも度々あるんですよね。そのときに紹介を受けた急性期病院へ返送する書類を書く楽しさは、最高ですよ。これが慢性期医療の醍醐味です。「治る見込みないって言ってた患者さん、治りましたよ。」ってね。あ、言い過ぎやな。あかんかな(笑)。
できないことをできるように変換した瞬間ですね。
すごいことです。僕が携わっていた心臓血管外科も、やり甲斐はもちろんありました。ですが、助けられる可能性が高いと判断したから手術をする部分も含まれています。慢性期医療は助けられる可能性がマイナスからスタートすることが多いんですよ。それをひっくり返せる達成感は、めちゃくちゃ大きいですね。
慢性期の印象が変わりますね。
昔の慢性期医療は、きっとこうじゃなかったよね。最大でも現状維持を求められる程度で、どちらかと言えば終末期医療に近い印象が強かったです。スタッフ自身も医療を提供するなかで「回復するための目標」を持っていませんでした。治療法を立てるうえで、なぜこれが必要なのかを話し合わなければ、患者さんは回復できないですよね。「なぜ」を考えて動く医療に価値がありますよ。
慢性期の古い考えを塗り替えるために、何度でも「なんでや?」と問いかける
勤務医としても診療本部長としても変わらない視点はありますか。
現場のスタッフとは話をするし、できるだけ声をかけられたら聞くようにしていますね。うちのグループの平成記念病院が開設されるタイミングで院長になったときに、人員とスタッフ育成に1年ぐらいかなり力をかけたことがあってね。随分話をしたなぁと。
どんな話が多かったですか。
慢性期医療には、もともと「そっと見守る」という風潮があったんですよ。でもうちのグループ内では、積極的に患者さんの自立を目指しているから、応援で来たスタッフたちは当然のように各自の持ち場でガンガン動くわけです。外部から入職したスタッフはそれに怒っちゃってね。学んできた慢性期医療の考えが異なるから、積極的に動くことに抵抗があったんだと思います。最初の1年は人を採用しても、なかなか新しい人は定着しませんでしたね。
考えを変えた人たちが残ったということですか。
そうなるかな。僕の口癖は、スタッフから受ける報告を「なんでや?」と言って返すことらしいです。スタッフ自身が考える癖をつけてほしくて、無意識に言ってます。例えば、患者さんが暴れますとだけ報告するスタッフがいたら、合わせて経過も報告できるように考えてほしいんです。なぜその処置をする必要があるのかを患者さんに説明できたのか、患者さんはどこまで理解を示したのかまで掘り下げてほしいんですよ。しっかりと答えられる医療者であってほしいから「なんでや?」って今後も聞き続けていきますよ。
地域の医療機関を地域同士で助け合う
地域包括ケア病棟をつなぐネットワークづくり
救急医療機関と地域の病院を結ぶコーディネーターをされているとお聞きました。
大阪緊急連携ネットワークのコーディネーターのことでしょうか。今から10年以上前に、なぜ三次救急がうまく回らないのか話し合ったことがきっかけでした。定期的に担当者が集まって会議を続けて顔なじみになる土台を作りました。最近は、病院同士で連絡が取れるまで関係が構築できたので、コーディネーター業のみの役目は少なくなりましたよ。
なぜ三次救急が回らないのでしょうか。
本来なら重症患者さんを受け入れるはずの三次救急に、高齢者の軽傷患者さんが搬送されることが原因なんですよ。原因って言葉の響きが悪いけど、一次と二次で受け入れができなかったら、三次が必ず受け入れなきゃいけないでしょ。地域にある三次救急の問題を地域の病院で解決しようという取り組みがこのネットワークづくりです。
最後の砦が、軽傷を受け入れてしまう状態なんですね。
そうなんですよ。救急搬送件数の半数以上が軽症高齢者という状況になっていて、救急医療も高齢者医療をどうするべきなのか大きな課題ですね。搬送されて来た人は翌日に歩いて帰れるほどの軽症や中等症が多いですが、救急要請をするなとは言えません。軽傷でも重症化する場合もありますからね。慢性期や回復期の病院が持っている地域包括ケア病棟がフォローできたら、地域に根ざした取り組みもできるし、周辺病院とのネットワークも強くなるので、いい形が築けます。大阪の病院はシステムを作っていかんとダメなんですよ。
「大阪の病院は」と強調される理由があるのでしょうか。
当時の大阪は、救命救急の仕組みが特殊で、単独型の救命センターで成り立っていたんですよ。各施設で40〜50床ほどの病床数を持っていても、満床になって焦げ付いてしまっていました。東京は1,000床以上ある大きな病院の中で20〜30床ほどを救命に割り当てるから処置が終わったら院内で転室できて満床を防げるんですね。患者さんの状態がちょっと落ち着いたら、すぐに近隣の慢性期病院に転院できるという施設間のスムーズな連携があれば小さな独立型の三次救急施設でも成り立ちます。だから着実に実績を残せてきました。
現在までにどれぐらいの実績があるのでしょうか。
正確な数字は覚えてないですが、連携紹介数がまもなく1,000例になろうとしています。大阪の救急医療機関は、慢性期病院がある周辺にポツポツと点在しているので、救急医療機関とつながっているこのネットワークを途絶えさせるわけにはいかんな、と思っています。この定着したシステムを次の世代にどうすればいい形で残せるのか、最近はよく考えていますね。
「できるようになると何がいいのか」を伝えていきたい
ほかに力を注いでいる取り組みはありますか。
いっぱいあるなぁ、今は特定行為に係る看護師の研修制度かな。研修を受講できる仕組みと修了生の数を増やすことに必死になってます。この特定行為っていうのは、縟瘡管理や血糖コントロール、人工呼吸器の管理など医師しかできなかった医療行為が看護師もできるようになるものです。看護師数は医師よりも圧倒的に多いです。だから、看護師だけでできる範囲が広がることは、とてつもなく価値が高いんですよ。ただ、まだまだ人員不足なのが現状で当分はここに力を注いでいきたいと思っています。
その研修の講師をされている頻度はどれくらいですか。
半年に一度ずつ開講しています。講義を受講している看護師のみなさんには「もっとできるようになると何がいいのか」修了後の魅力や価値を訴えています。一度に受講できる人数には限りがあるけど、今後はひとりでも多くの方に受講してもらえる仕組みづくりにも力を注ぎたいと思っています。診療を統括する立場としては、あらゆる方面にこういった取り組みの良さが届くようにしないとって考えています。あとは、そろそろ引き際も考えなきゃいけない年齢に入ってきたかなと思うことも出てきました。
あとは告白だけ!バトンを渡す相手は、ばっちり決めている
後輩に引き継ぎたいという気持ちがあるのですか。
いずれは、第二世代にバトンを渡すことを考えなきゃいけないなと思ってますよ。そりゃ、けっこう長いこと働いてきてるもん、無茶やで(笑)。今、思っていることはね「形はどうあれ」じゃなくて「形も残せる方法」を考えています。特に大阪緊急連携ネットワークは、定期的に顔を合わせてお互いを知っていることに意味があるからね。集まるメンバーは変わっても絶対に継続させたいなと思ってますよ。
そうやなぁ。全体を見渡せる眼力があって、アイデアを出せる力がないと困るなぁ。何より信頼できる人に託したいって思ってる。やっぱり人付き合いやからね。
どなたか心当たりがいらっしゃるような雰囲気ですね。
決めてる人はおるねん。でも、まだ告白してないからなぁどうなるか、わからん。僕の中では「あいつしかおらんな」と思ってる。でも、プレッシャーを感じて断られても嫌やから、これ以上は教えられへんけどね。でも、ちゃんと見つけてますよ。
働く源は、グリーンが美しいあの場所
お休みの日はどのようにリフレッシュされますか。
ゴルフ!ゴルフをするために仕事しているって感じ。趣味もゴルフやし、時間ができたらゴルフがしたいねん。
それほど、お好きなんですね。
プレーヤーとしてコースを回るのが好きなんですよ。あの世界観がすごくいい! 贅沢な時間だなぁといつも思うんですよ。広いコースの中に前後のチームを合わせても15人しかいない空間なんて、そう簡単にはないですよ。今はどこに行っても人が多いでしょう。コースを歩いて回れば15kmほどになるので運動にもなるし、最高やね!
よく行かれますか。
最近、なかなか休みが取れてなくて回数減ってます(笑)。ちょっと、ここでゴルフの良さを言うとこかな。ゴルフは運動不足の解消になって健康的な生活が送れるって。ええでぇ〜ゴルフ!
プロフィール
平成医療福祉グループ 診療本部長
井川 誠一郎
いかわ せいいちろう
【出身】大阪府
【専門】心臓血管外科
【所属学会】日本外科学会、日本消化器外科学会、日本老年医学会
【資格】日本外科学会認定医、日本消化器外科学会認定医、麻酔科標榜医資格
【趣味】ゴルフ
【好きな食べ物】粉もん、オムライス(ケチャップ派)