ひとプロジェクト 第68回【前編】平成横浜病院 薬剤部 係長/瀧田大輔さん
平成横浜病院
薬剤部 係長
瀧田 大輔 さん
Takita Daisuke
挫折をきっかけに目指した医療の道
多くの職種と関わりながら働くことが楽しい
今回は、平成横浜病院の薬剤部で係長を務める、瀧田大輔さんです。薬剤師を目指す以前、プロを目指すほど熱心に野球に打ち込んでいた瀧田さん。しかし、悲劇に見舞われて挫折を経験、その後、薬剤師を目指すこととなります。前編では、薬剤師として歩んできたキャリアを中心に、急性期病院での経験と、そこから考える慢性期病院で働く醍醐味などを伺いました。ぜひご覧ください!
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高校野球に打ち込むも
膝の故障で散る…もともとはこの平成横浜病院にお勤めではなかったと伺いましたが、こちらで働き始めてどのくらい経ちましたか。
この4月でもう3年が経ちました。もともとはグループの緑成会病院に勤めていました。
そちらはどのくらい在籍していたのですか。
5、6年はいたと思いますね。
ではグループでのキャリアは10年弱ぐらいになるんですね。ご出身はどちらですか。
東京都の清瀬市です。東京都の天狗の鼻みたいなところです。
埼玉県に接しているところですね。清瀬市はどんなところですか。
病院がたくさんあって、田んぼが多いところです。観光地も大きい建物もないんですが、あとはひまわり畑が有名ですね。
東京都内でものどかな土地なんですね。どんな少年時代を過ごしましたか。
小学校5、6年生くらいから、ずっと野球をやってましたね。小学生、中学生とやって、高校2年生まで。
ということは、高校3年生の最後の夏を待たず、2年生で辞められたのですか。
当時ピッチャーだったんですけど、高校2年生で膝を悪くしたので、退部したんです。そこからフラフラしていました。
野球を続けられないレベルの故障だったのですか。
膝の半月板がすり減っちゃいましたから。病院では「使いすぎだ」って言われましたね。
ピッチャーといえば肘の故障のイメージが強いです。
私はアンダースローだったんですよ。低いところからスッと投げるので、足にすごい負荷がかかっていたみたいで。それに耐えられない体だったんでしょうね。本当はプロ野球選手になりたかったんです。
そのぐらい本格的に打ち込んでいたと。野球部が強い高校だったのですか。
当時は選手層は良かったんですけど、そんなに良いところまでは進めなかったですね。でも甲子園経験のある監督が指導者として入っていて、部員も1学年100人もいるくらい人数が多くて。
公立の高校としてはなかなかの部員数ですね。膝を故障した後も、そのまま野球部に残るという選択肢はなかった。
今でこそ野球を見るのは好きなんですけど、その頃はやるのが好きだったので「もう野球ができないなら辞める」という気持ちでした。
みんなと一緒に3年の夏までやりきろうという気持ちにはなれずに。
その頃はそう思えなかったです。挫折でした。引退して半年くらいは何もしてませんでしたね。不登校になった時期もありました。
おおっ…そこまで落ち込まれていたのですね。
でも、その頃くらいですかね、医療の道に行こうと思い始めたんです。
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野球の挫折から
辿り着いた薬剤師への道野球を諦めたところで、医療への道を見つけたと。何かきっかけがありましたか。
ちょうど同じ頃に祖父が倒れるということがあって、自分に何かできることはないかなと思ったんです。なので、最初は医師になりたかったんです。でも、血を見るのが苦手で(笑)。
その理由で医師は難しそうだと。
そこで、何かないかなと思って調べた時に、薬剤師を見つけたんです。薬を通じて支えようと思って、薬学部に進もうと決めました。でも、ちゃんと受験勉強を始めたのは高校3年くらいの時ですね。
野球への挫折感はあったけど、そこからは切り替えて勉強に打ち込まれて。
真面目ですね(笑)。
(笑)。もともと理系だったんですか。
理系ですね。化学は嫌いでしたけど(笑)。このインタビューに出ていた薬剤部の秋田部長(※)は、むしろ化学が大好きと話していましたが、僕は生物系が好きなんです。体の構造や機能を学ぶ授業の方が楽しかったです。
受験勉強はいかがでしたか。
ずっと野球ばかりやっていましたし、それこそ勉強自体を高校3年生から始めたようなものだったので1年浪人させてもらって、そこから薬学部入学しました。
ちなみに、当時薬学部はもう6年制の頃でしたか。
浪人したことで、6年制の第1号になったんです(笑)。
(笑)。なるほど、1年ずれたことで2年間学生生活が長くなったと。授業で教わること自体は、4年制と一緒なんでしょうか。
同じだと思います。ただ6年制は、現場ですぐに活躍できるようにということで、最後の2年間は実習が多くあるんです。
即戦力となるための2年間なんですね。いざ大学で薬学の勉強をしてみて、どう思いましたか。
勉強する分野がすごく幅広いんですよ。直接薬学と結びつかない勉強もやる必要があって「こういうこともやらなきゃいけないんだなあ」って思いました(笑)。
大学時代はどんなことが楽しかったですか。
在学中はほぼ実験ばっかりでしたね。薬学部って少し変わった人も多いんですね。みんなで飲みに行く、というのもあまりなかったですね。
みなさん職人タイプというか。
そうですね。授業が終わったらみんなすぐ帰って。授業もだいたい朝から夜までみっちり入っているので、ちょっと遊んで帰るくらいでしたね。でもアルバイトは大手ドラッグストアでやっていました。
6年制になって実習期間が充実したとのことでしたが、いかがでしたか。
調剤薬局と病院にそれぞれ行くんですけど、特に薬局では指導の薬剤師さんがとても熱心で人が良くて、それが印象に残っています。地域密着の調剤薬局だったんですけど、指導薬剤師の方が、いろいろとやらせてくれて、とても楽しかったです。その方とはいまだに交流があって、いずれ恩を返したいなと思っています。
当時の縁がまだ続いているというのは素敵ですね! 就職先としては調剤薬局と病院とで迷いはありましたか。
調剤薬局も魅力はあったんですが、もともと薬剤師を志した時から病院で働きたいという気持ちがあったので、病院に進もうと決めていました。ただ、当時は本当に募集が少なくて。
病院で薬剤師の募集枠が少なかったと。
今でこそ薬剤師も病棟に出ていこうということが言われるようになっていますが、その頃はまだそういった概念が広く浸透していなかった時期でした。なので、薬剤師の人数もそこまでたくさん必要なかったんです。
病棟での業務行わないのであれば、そこまでたくさん募集することもないと。
その頃はまだ病棟薬剤師が出始めの頃で、業務としてはあったんですけど、人数が揃っている病院でしかできなかったんです。その頃くらいから徐々に認識が変わり始めてきて「薬剤師も人数が必要だよね」ってことで枠が増えてはいくんですが。
瀧田さんが就活している当時だと、まだ一般的になっていない時期で。
そうなんです。私は病棟で働きたいという気持ちがあったので、そういう病院を探していたんですけど、なかなか枠がなくて。そのなかで、都立の急性期病院が、非常勤なら入れるということで、入職することになったんです。
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薬剤師のスタートは急性期病院
常勤の誘いをかわしながらキャリアを積む
キャリアのスタートは急性期病院での非常勤勤務だったのですね。お仕事はいかがでしたか。
楽しかったですね。同期が4人いたんですけど、常勤非常勤の隔たりもなく、ちゃんと教育もしてくれました。先輩たちも年齢層が若くて、すごい楽しくやれましたね。一通り全てのこともやらせてもらいましたし、「病院薬剤師なんぞや」というのは、そこで働いた2年間で学ばせてもらえたんです。
良い経験ができたと。そこでは、まだ病棟業務はされずに。
それが、すぐに携わらせてもらえました。薬剤師の活躍の場を広げていこうという考えの病院で、それを事前に知っていたからこそ、そこに入ったんですね。すごく忙しかったんですけど、すごい良い病院でした。
どんなタイプの忙しさだったのですか。
急性期病院ならではの忙しさでした。急性期病院では患者さんが入院している間隔がすごい短くて、10日とか2週間で病棟の患者さんがガラッと変わってしまうんですね。
今働いていような慢性期病院とはサイクルが違うわけですね。2年間働いたとのことですが、どうしてそこから離れたのですか。
その病院で1年ぐらい仕事をした時に「退院してからの患者さんってどうなってるんだろう」っていうことに興味が湧いてきたんです。
早いサイクルで仕事をしていると、なかなか患者さんの退院後まで追ってはいけないと。
そこで、慢性期病院も見てみたいなと思った時に、たまたまそこで一緒に働いている同僚に、グループの緑成会整育園で働いた経験がある薬剤師がいたんです。その人は今、平成横浜病院にいるんですけどね(笑)。
グループに戻ってまた一緒に働かれているんですね!
その薬剤師から緑成会病院を教えてもらって求人に応募して、今度は緑成会病院で非常勤として働くことになったんです。
当時は緑成会病院でも、非常勤での募集しか出していなかったのですか。
いえ、常勤でも募集していたんですが、しばらく働いて様子を見てからと思っていたので、まずは非常勤として入りました。当時はグループ薬剤部の秋田部長が、まだ現場で主任か課長として働いていた頃でしたね。
最初は、必ずしも長く働こうという気持ちではなかったと。
ここで経験を積んで、ゆくゆくは急性期病院に戻ろうという気持ちが当初はあったんです。入ってすぐに「常勤にならないか」とも言っていただけたんですけど、「急性期病院に戻るつもりなんで」と言いながら(笑)。少しだけですけど、どちらの病院でも非常勤で働いていた時期もありましたよ。
どちらも重なっていた時期があったんですね。それこそ、元いた急性期病院で常勤になるという道もあったのではないですか。
実はそちらでも常勤に誘っていただけました。楽しい職場だったんですが、若いうちでないと、いろいろな職場を見ることができないんじゃないかと思ってお断りしたんです。その職場のみなさんにはとてもお世話になって、今でも交流があります。ちなみに調剤薬局も気になっていたので、一時期は調剤薬局でも非常勤で働いていました。
なるほど、急性期病院も調剤薬局も経験したうえで、緑成会病院で常勤として働くことになったと。
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緑成会病院で働いて
人と話すことがさらに楽しくなった緑成会病院で常勤で働くことにした決め手はどんなことでしたか。
このグループで働いて一番良いと思ったのは、いろいろな職種の人と話せるというところでした。もともといた急性期の病院だと、薬剤部ではよく話していましたし、病棟に行けば医師や看護師とも話す機会が多かったんですけど、あまりほかの職種と話したことはなかったんですね。
直接的に薬剤師と関わる職種の人とのやりとりはあったけれど。
本当に薬にフォーカスして仕事をしていたという印象でした。緑成会病院に来たら、リハビリスタッフや管理栄養士、医事課のスタッフとも話す機会があって「あ、こんなにいろんな人が働いているんだな」って気づいたんです。
そこが決め手となって、緑成会病院で働いていこうと。
ほかの職種の人と話すことで面白くなっていったところも多かったので、そこが良かったです。その時も働いていて楽しかったですし、これから常勤になって働いたとしても、きっと楽しいことがありそうだなと。もともと私は暗くて内気な性格なんですけど、薬剤師になってから人とよく話せるようになっていったんですね。
今話していただいている印象からすると、ちょっと意外な気もします。
今も明るいかわからないんですけど(笑)。それが特に、緑成会病院に来てさらに変わった感じがして。とにかく働き始めてから、人と話すのが楽しくなりました。あと緑成会病院で働く理由として、当時は常勤スタッフが秋田さんしかいなくて、とにかく忙しそうにされていたというのもあって。
なるほど、それをお手伝いしていこうという気持ちが。
秋田さんの仕事を尊敬していたので、着いていこうという気持ちがありましたね。
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病院現場をサポートする
グループ薬剤部の業務
常勤スタッフとして緑成会病院で働き始めて、仕事の変化はいかがでしたか。
今思えば、非常勤で働いていた頃から仕事自体はほとんど常勤の薬剤師と変わらなかったかもしれないです。それこそ、印西総合病院の立ち上げ時の応援に行ったこともありましたし。
薬剤師としての仕事内容にはそこまで大きな変化はなかったと。
ただ、その後に役職をつけてもらって、グループの仕事に関わるようになったんですけど、そこからは今につながるような仕事が増えていきましたね。
病院内だけでなく、グループ薬剤部としての仕事にも携わるようになられて。
グループのリハビリテーション部にならって、チーム制というものを薬剤部でもスタートさせたんですね。業務支援を行うチーム、就活をサポートするチーム、薬品情報に特化したチーム、病棟業務をサポートするチーム、この4つからスタートしました。今も所属する業務支援チームには、この時から携わっています。
なるほど、長く関わってきているのですね。
でも、当時はまだ人数が少なかったので、むしろ全部のチームに入ってましたね(笑)。
全掛け持ちですか(笑)。グループの仕事はいかがでしたか。
忙しくはなりましたけど、楽しかったですね。業務支援チームだと、担当エリアの病院を回るので、いろいろな病院も見ることができて、さらに楽しいなと思いました。今もほとんど同じことをやっていますけど。
業務支援というのはどういうことをされるんですか。
現場でうまくいかないことや、ミスが発生しやすい状況があった時に、改善できるようにアドバイスをしたり、ほかの病院の事例を紹介したり、いろいろとサポートさせてもらっています。当初はエリアの各病院を月1で訪問して、聞き取りをしていましたけど、コロナ禍になってからは、オンラインでつないでヒアリングをして、困っていることに対して支援を行っています。
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いろいろな症状を持った患者さんに関われることが
慢性期病院で働く醍醐味先ほど、他職種のスタッフと話す機会があることが楽しいと話されていましたが、例えばリハビリテーション部と薬剤部は、どう連携していますか。
リハビリに薬が影響することってけっこう多いので、リハビリの進みが良くない時、実は薬が関わっているかもしれない、という視点で常に見ているんですね。例えば、飲むとフラフラしやすい薬というのがあるので、それを飲まれている患者さんに関しては、リハビリの様子をリハビリスタッフさんに確認して、影響が出ているようであれば、医師と相談して調整をするとか。
なるほど、リハビリにおいて薬の影響が出る可能性があるから、常に連携が欠かせないわけですね。
ほかの部署とも同様ですよ。薬と食事が合わないこともあるので、管理栄養士さんとも相談しますし。医事課や地域連携室からは、患者さんが直前に入院していた病院で服用されていた薬が、こっちに移ってきた時はどうなりますか、とか、そういう相談ももらいます。
急性期病院で働いていた時と、関わり方の違いはいかがですか。
私個人の印象なんですが、急性期病院では、もし体に複数の問題があったとしても、まずはそのうちの1つの問題解決に集中すると。まず一番やらないといけないことをやって、そのほかの問題については、また次の病院でやってもらう、というのがイメージとしてあるんですね。
決められた入院期間のうちに、一番大きな問題の解決に注力すると。
そうやっていかないと、次々と患者さんの治療をしていけませんからね。そういう前提がありますから、患者さんが慢性期病院に移ってくる時に、全体の状態が良い、ということはあまりないわけです。
一番悪いという状態を脱したところで移って来られて。
なので、こちらに移ってからもいろいろとやることがありますし、とにかく見ないといけない範囲が広いですから、聞かれて答えに困ることも多かったです。
いろいろな疾患を抱えた状態の患者さんが入ってくるということで、薬剤師としての仕事にも違いが出るわけですね。
新人スタッフや、学生さんに説明する時によく言うのが、専門に特化して集中してできるのが急性期、幅広く全般的な知識をつけられるのが慢性期、ということですね。
慢性期というと、急性期と比較して、のんびりしたイメージを持つ方も多いと思うんですが。
今お話ししたように、全般的な知識を求められますし、そのなかで、前いた病院に確認をするとか、なるべく薬を減らしてあげるとか、やることは決して少なくないです。多職種で連携しながら、いろいろな症状を持った患者さんを良くしていけるところが、慢性期病院で働く醍醐味だと思います。
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後編を読む

平成横浜病院 薬剤部 係長 瀧田 大輔(たきた だいすけ)
【出身】東京都清瀬市
【資格】薬剤師
【趣味】人と話すこと、スノーボード(予定)
【好きな食べ物】タケノコ、鶏肉(パサパサした方が好き)
病院情報

神奈川県横浜市戸塚区戸塚町550番地
医療法人横浜 平成会
平成横浜病院
内科・神経内科・呼吸器内科・消化器内科・循環器内科・外科・泌尿器科・皮膚科・整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科・歯科・歯科口腔外科・麻酔科・脳神経外科地域に根ざした病院として、一般病棟、地域包括病棟を備え、回復期リハビリテーション病棟を新設しました。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。2018年6月には、総合健診センターがリニューアル。地域の健康を支えていけるよう努めています。