ひとプロジェクト 第55回【前編】印西総合病院 保育士/田口 英子さん・山本 未久さん

印西総合病院

山本 未久 さん

Yamamoto Miku

田口 英子 さん

Taguchi Eiko

存続の危機もあった病児・病後児保育施設
託児室の立ち上げに奔走した日々

今回は、初となる保育士さんの登場です。印西総合病院の保育室から、田口英子さん、山本未久さんのお2人に話を伺いました。スタッフのお子さんを預かる託児室のほかに、ご家庭での看病が難しい際に、一時的に保育を行う病児・病後児保育室「おひさまルーム(※)」を担当するお2人。前編では、印西総合病院で働くまでの経緯や、いざ入職してからの大変だった日々について、振り返っていただきました。ぜひご覧ください!

※おひさまルーム:印西総合病院内にある病児・病後児保育施設。くわしくはこちらのページでご確認ください。

  • 〈印西総合病院 保育士 保育室 主任〉田口 英子さん

  • 〈印西総合病院 保育士〉山本 未久さん

パティシエの夢から一点
目指したのは病棟保育士

この記事では保育士さんの登場は初なので楽しみです。今回は、お2人に登場いただきました。

2人

よろしくお願いします!

お仕事としては主に託児室での保育ですか。

田口

託児室に加えて、病児・病後児保育施設の「おひさまルーム」でも保育をしています。

どちらも担当されているのですね! ではお仕事の話は後々お聞きしていきます。今は保育士というお仕事に就いていますが、ご自身の幼少時代はどんな風に過ごしていましたか。

山本

私は幼稚園に通っていて、先生たちのことはすごい好きでしたけど、特になりたいとは思わなかったですね(笑)。その頃はケーキ屋さんになりたかったです。

小さい頃は、将来の夢にケーキ屋さんを挙げる子も多い印象ありますよね。

山本

でも私は高校生になって保育士を目指すまではずっと「パティシエになりたい」って思ってました。

田口

そうだったんだ!

今初めて知ったんですね(笑)。幼い頃の夢というだけじゃなく、かなり本気で目指していたんですか。

山本

本気でしたね。小学生の頃からお菓子作りをやってましたし、フランスとかに留学もしたかったです。やるなら真剣にやって、自分のお店も持ちたいっていうくらい、とことんやりたかったんですけど、コロッと変わっちゃって。製菓の専門学校も見学して学校も決めて、親にもそう言っていたんですけど。

かなり本気で目指していたところから、目標が保育士に変わったのは、どんなきっかけがあったんですか。

山本

テレビで、入院中の子どものお世話をする病棟保育士さんの姿をたまたま見て「これがやりたい!」ってパッて思ったんです。だから、子どもがずっと好きで、保育園とか幼稚園の先生に憧れて、っていうわけじゃなかったんです。

路線転換するほど、衝撃を受けたんですね。

山本

高校3年生の夏に進路を急に変えて「やっぱり4年制の大学に進みます」って言って。三者面談で初めてそのことを言ったので、お母さんも先生も「えっ!」ってなって(笑)。

確かに言われた方からすると驚きますね(笑)。

田口

それで新卒でこの病院に入りましたからね。

山本

病棟保育士はそもそも募集が少なかったですし、あってもほとんど経験者向けの採用でした。大学の先生からも「幼稚園や保育園を経験してからの方がいいよ」って勧められて、そのアドバイスも理解できたんですけど、どうしてもやりたかったので曲げられなくて。それで病院の就職を探してたんです。

諦めずに就活をされて、そこでこの病院に出会ったと。

山本

当時は前の法人が経営している時で、ちょうど小児科病棟が開く予定があったので、病棟保育士として採用してもらいました。

憧れは自分が通った
お寺の保育士さん

田口さんは、幼少時代の経験が、ご自身が保育士になったことにつながっていますか。

田口

私は保育園では怒られてばっかりでした(笑)。でもそのなかにすごい大好きな先生がいて、その先生の前では、いい子にしてたんです。卒園してからも、私が小学生になった時にバスに乗ってたら、その先生が話しかけてくれたことがあって。

それは嬉しいですね。

田口

「わ〜覚えててくれたんだ!」って。だから本当に憧れだったんですよね。それで「あんな先生になろう」って、思ってたのかもしれないですね。気づいたら、高校生の頃には、保育園の先生になろうって思ってました。それで都立の専門学校に進んで、資格を取得しました。

実際に保育園の先生に憧れた記憶があって志すようになったんですね。印西総合病院で働くまでにはほかの職場も経験されたのですか。

田口

最初は、都内のお寺が運営する保育園で働きました。しっかりした職場で、仕事自体は楽しかったんですけど、けっこう厳しかったですし、本当に忙しく働いていたっていう記憶しかないです。

最初の職場では、割と慌ただしく働かれていたと。

田口

結婚してそこは辞めて、子どもも生まれたんですね。3歳くらいまでは自分で育てたいなと思っていたので4年間は家にいて、私も新しく別の保育園で働き出して、そこで10年くらい働きました。

保育士として復帰されて、また長く働かれたんですね。

田口

その後、自分の父親が病気になって入院して、闘病生活が長くかかったんですね。私も父の看病についていたので、当時は出勤も減らしてもらっていて。ちょうどその頃に、縁あってこの病院の病児保育室に誘ってもらったんです。「空いた時間でいいから手伝ってみない?」って。

そこが印西総合病院との出会いだったんですね。

田口

それまでだったらOKしてなかったかもしれないんですけど、父の入院で看護師さんにもとても良くしてもらっていて、病院にお世話になっているっていう意識があったので、恩返しじゃないけど、やってみようかなって。それで実際始めてみたら、けっこう楽しかったんです。「こんな仕事もあったんだ!」って思いました。

最初にあったのは
病児・病後児保育施設「おひさまルーム」

お2人が印西総合病院に入職された時期はバラバラなのですか。

田口

時期は近いんですよね。6年ちょっと前くらいなんですけど、私が10月に入って。

山本

私は同じ年の12月に入りました。新卒として翌年の4月から印西総合病院に採用が決まっていたんですけど、12月からアルバイトとして来ませんかって言われて。

当時はこのグループではなく、以前の法人が経営していた頃ですよね。

田口

その頃は、もともと院内にあった託児室が院外に保育園として移行するタイミングで、私たちは病児・病後児保育施設の「おひさまルーム」担当として入りました。

入職した頃は、託児室は院外に移るという時期で、病児・病後児のお預かりがメインのお仕事だったと。

山本

あとは夜勤のスタッフさんのお子さんや、受診に来た患者さんのお子さんのお預かりをちょこちょことやっていましたね。

「おひさまルーム」については、どんな経緯で始まったかご存知ですか。

田口

前法人が開院した時に、印西市から子育て事業として委託されたみたいですね。ただ、私が入った時には保育士が保育園の方に移っていて、スタッフがちょうどいない状態で。そこからまた人を集めてやっていきました。ほとんどが今も残って働いてくれています。

病児・病後児の保育は初めてだったと思うんですが、戸惑いはありませんでしたか。特に山本さんは新卒で入られたので苦労もあったのではないかと思いますが。

山本

大学の実習で病児保育も一回やらせてもらってはいたんですけど、実際に入職してからはもう毎日必死でした。保育の経験自体が浅い時期に、病児についてもいろいろ教わって、本当にいっぱいいっぱいだったけど、とりあえず何回も何回も書いて覚えて、あとは実践していくっていう感じでしたね。

病児・病後児ということで、また新たに覚えることもたくさんありそうです。

田口

病気の子をお預かりするので、利用までに細かい確認事項は多いですね。熱性痙攣の経験の有無によって、何度まで上がったら痙攣止めを入れないといけないとか、お子さんごとに違いますから、最初はそれを覚えるのが大変でした。引き継ぎもちょっとしかなかったので、あらためてマニュアルを作って、問題が起きたら小児科の看護師さんたちとも相談しながら改善していきました。

山本

ここまでいろいろあって、今の「おひさまルーム」の形になってますね。

一時は存続の危機も…
それでも印西総合病院に残った

そのうちに経営が前の法人からこのグループに変わっていって。

山本

私が4月から正規の職員としてあらためて仕事が始まって、その年の夏ぐらいには「経営先が変わるかも」っていう話が出てきましたね。

田口

かなりそれでバタバタして、おひさまルームも一時はどうなるかわからなかったんで「新卒で入った職場がこんな風になっちゃって大変だから、どこか別の保育園に移ってもいいんじゃない?」って未久先生に言った記憶があります。そしたら「どうしても保育園に移らなきゃダメですか?」って先生が泣いちゃって(笑)。

ええっ! それはどんな感情だったんですか。

山本

そもそも私は病棟保育士がやりたくて、この病院に入職したので、保育園で働くっていうことは最初から考えてなかったんです。

保育士の資格を取ったのはそのためだったわけですからね。

山本

でもいざ入職してみたら、小児科病棟が開くっていう話はなくなってしまってたんですね。ただ、おひさまルームで人が足りないっていうことでこっちに入って。本当は入院している子どものお世話をしたかったけど、せっかくだから病児保育でがんばろうって思ってやっていたところだったので…。

なるほど前向きにがんばっていたところだったのに…ということですね。田口さんは特に離れるということも考えなかったのですか。

田口

私は私で、この仕事が楽しくなってましたし、結局、経営が変わっても病児保育は残るっていうことを聞いて、それなら続けていきたいと思いました。ただ、病児保育は小児科が一緒に無いと続けられないんですけど、実は当時、小児科自体がなくなるかもしれないという話もあって。そこで、今も担当してくれている小児科の浦島先生が「印西市の子どものためにも小児科を残したい」って言っていろいろ取りまとめてくれたんです。そのおかげで、病児保育も続けられることができました。

託児室の立ち上げは大変!
親のような気持ちで見守った巣立ち

今ある託児室は、経営が変わってからできたものですか。

田口

そうなんです。法人が変わる時に、グループの副代表から託児室を作ってほしいと言われました。そこで、私たちでどういう風にしたいかっていうことを考えて、お部屋の作りとか、利用のルールについて提案をして。それを元にこの部屋も規約も、ちゃんとしたものを作ってくれました。

そこから今のように託児所と病児・病後児保育の2本柱になっていくと。

田口

最初に託児室もやってほしいと言われた時は、ちょっとザワザワしましたけど(笑)。

それまでやってなかったことですからね。

田口

でも印西市も待機児童が多くて、保育園に入れないという人もたくさんいますから。スタッフさんをどんどん増やしたいとなった時には、やっぱり託児室が必要なんですね。

やっぱり働きやすさにつながりますよね。預かるにあたってのルールはどう決めたのですか。

田口

0〜2歳児までのお預かりにしてもらいました。3歳以上は集団保育を行うことが望ましいので、できる限り幼稚園や保育園に通ってほしいと考えて、ここではあくまで2歳いっぱいまでを上限に、それ以降は移ってもらう、という規約にしました。ただ、土日や祝日に預けるところが無い場合は、小学生のお子さんもお預かりします。

当時、病児保育もありながらでの立ち上げは大変そうですね。

田口

覚えてないくらい大変でした。あれよあれよという間に託児室が開いて。最初は前の法人の頃から働いているスタッフのお子さん2人だけのお預かりだったんですけど、病院での採用がどんどん進むうちに、お子さんがいるスタッフがどんどん増えて、あっという間に19人に増えたんです。しかもみんな0歳児。

みんなが3歳まで託児室で過ごすとなると、ずっと忙しそうです。

山本

それで最初は本当にバタバタしてました。

田口

ただ、あまり人数が多いと、新しく託児室を使いたい人が3年間は使えない、ということになってしまうので、途中から、保育園に空きが出たら移ってもらうようにしました。そのルールができてからはなんとなく回るようになりましたけど、当初はすごくて。でも3年経って、みんなが3歳になって幼稚園や保育園に移るのでここを出ていった時は、親のような気分になりましたね。

山本

一気にみんな移りましたし、あの時は寂しかったです。

田口

託児室なのに、みんなが卒園していくような気持ちになって、泣きましたね。

今もそういうことはあるんですか。

田口

今は入れ替わりがちゃんとしてるので、そこまでしっかり3年間みるっていうことはないですね。みんな常に保育園の空きを待機していますから、空きがあればすぐに移っていかれます。とにかく最初の3年はすごかったです。託児室の方も、おひさまルームと同じで、みんなで相談しながら、やっとここまできたっていう感じです。

今はある程度安定して運営ができているんですね。

田口

今は、産休・育休を取っているスタッフさんのリストもできているので、その人たちが職場復帰する時、保育園に入れないとなった時のために、空きは作れています。

次回:みんなが行きたくなる「おねつ保育園」。託児も病児保育も、安心して預けていただけるように!

後編を読む

profile

印西総合病院
保育士 保育室
主任 田口 英子(たぐち えいこ)

【出身】千葉県
【職種】保育士
【好きな食べ物】チョコレート(主にケーキ系)

印西総合病院
保育士 山本 未久(やまもと みく)

【出身】茨城県
【職種】保育士
【好きな食べ物】チーズ牛丼(夜勤明けに食べたくなる)

病院情報

千葉県印西市牧の台1-1-1

医療法人 平成博愛会
印西総合病院

救急外来・整形外科・リハビリテーション科・内科・小児科・循環器内科・神経内科・外科・脳神経外科・皮膚科・眼科 ・耳鼻咽喉科・泌尿器科・乳腺外科・婦人科・形成外科安全で質の高い医療を継続して受けられる後方病院としての機能を充実させ、総合病院としての機能を果たすことを目標としています。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。