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きっかけは、自身に見つかった がん 医療への恩返しで取り組む、システムの仕事!/システム事業部長/千田 丈慈さん

システム事業部2018.10.19
システム事業部

きっかけは、自身に見つかった がん 医療への恩返しで取り組む、システムの仕事!

医療・福祉の現場をITで下支えする、システムの仕事を担当する千田丈慈さん。高校を中退して起業〜倒産という異色の経験を持つ千田さん。平成医療福祉グループのシステム事業に携わるようになったのは、自身に訪れた命の危機からだったそうです。ぜひご覧ください!

パソコン売り場で勝手にコードを打つ!

ご出身はどちらですか。

生まれは岡山なんですけど、すぐ東京に行ったので、出身はほぼ東京都中野区です。

記憶としては中野の記憶ばっかりですか。

そうですね。新中野から新宿までの間が遊び場でした。

都会っ子ですね〜。

でも小学生とか中学生の時は中野区から出てないんです。非常に物心が着くのが遅い子でした。

引っ込み思案だったんですか。

う〜ん、多分周りにあんまり興味がなかったんでしょうね。遊ぶときも誘われたら行くけど、自分からは行かない。

割と一人の世界で完結してたというか。

今も意識しないと人と触れ合わないですから(笑)。

(笑)。システムの仕事に興味を持ったのも、そういったところからですか。

小学4年生の頃にパソコンと出会ってからですね。

早いですね。ご家族に詳しい人がいたんですか。

誰もいませんでした。

じゃあパソコン買ってもらって、勉強をされたとか。

いえ、当時まだ30万円くらいしたんでさすがに買ってもらえませんでした。そこでまず本を買いまして、それをノートにひたすら写経するわけですよ。で、当時中野駅前のマルイにパソコン売り場があって、そこに本で覚えたコードを打ち込む(笑)。

えっ! 勝手にやってたんですか(笑)。

そう(笑)。打ち込んでは「動いた!」っていうのを日々やっていました。

意外な学び方ですね。

それからまともなパソコンを手にしたのは中学生の頃でしたね。

もともと研究家肌だったんですか。パソコン以外のことも熱中してたとか。

いや、そうでもなかったです。パソコンと出会って、初めて夢中になるものを見つけたという感じでした。

モテを動機に始めたあれこれ

スポーツは何かやっていましたか。

色々と手をつけては辞めて、の繰り返しでしたね。無理言って剣道始めさせてもらってひと月で辞めたり(笑)。竹刀とか袴を用意してもらったのにね。

決断が早かったですね(笑)。

中学校1年生のときはモテたくて軟式テニス部に入って、2年生のときはモテたくて生徒会役員をやりました。

じゃあ立候補して演説もして。

そうそう、心にもないことを言って(笑)。その後、3年生の時は美術部に入りました。

結果、それぞれはモテにつながったんですか。

いや、特にモテなかったですね〜。

関係なかったと(笑)。千田さんのインタビューが載った本『フリーター漂流』(※)によると、高校時代は音楽活動に打ち込んでいたとのことでしたが、そのきっかけは。

それもモテたくてですね(笑)。

※『フリーター漂流』著/松宮健一(旬報社)。NHKスペシャルとして放送された同名の番組の書籍化。千田さんは高校中退後、フリーターから起業した経験について語っている。

やっぱりそうなりますよね(笑)。

中学3年のとき、何を思ったか受験で一番大変なときに親からキーボードを買い与えられまして(笑)。そこから「音楽楽しい! キーボード楽しい!」ってなりましたね。

当時はどんな音楽に夢中だったんですか。

え〜っ、恥ずかしいな(笑)。最初コピーしたのはレベッカです。そこから入って、ユニコーンとか、あとは岡村靖幸が大好きでしたね。

まさに当時に人気が出始めていた方々ですね。そこからバンドを始めて。

でも、やっぱり他人に興味がないのであまりうまくいかず、一通り自分で全部楽器をやるっていうことになりました。

バンド活動に打ち込むも、一転して起業の道へ

―音楽に情熱とお金をつぎ込んで、結果的に学校を辞めるくらい熱中していたんですよね。

いえ、『フリーター漂流』ではちょっと端折られていますけど、そもそも高校自体に行きたくなかったんですよ。普通科に通っていたんですけど、本当は商業科に行って商売を覚えたいと思ってたので。

もともとそういう想いがあったんですね。

中学時代に決めたこととして、会社を作って売って、仕事しない人生を歩もうっていうのがありました。そのためには普通科の高校に行って大学行ってだと時間かかっちゃうから、と思ってたんですけど、親からは普通科に行けと言われまして。

そこが合わなかったんでしょうか。

そうですね。で、文化祭で劇をやることになったんですけど、その脚本を書くために学校に行かなくなり。

え、書くために行かなくなったんですか(笑)?

家で脚本を書いて、放課後学校に持っていくっていう生活をしているうちに、学校に行く習慣がなくなり、そのうち出席日数が足りなくなり。

じゃあ留年することになって辞めたんですね。

いや、留年したんだけど、やっぱり2回目は知ってる話ばっかりだからつまらなくて(笑)。

そりゃそうですよね(笑)。

それで辞めました。

そこからはバイトしたりバンドしたりでしたか。

そうですね、その時はあんまりコンピュータについてはやってなかったですね。

当時はCDを作ったりとかっていう活動はされていたんですか。

CDは、まだインディーズで作るのが大変だった時代でしたね。なのでデモテープを作っていろんなところに送ってましたね。新宿JAMとか下北沢屋根裏とかによく出てました。

どちらも今はなき老舗ライブハウスですね。

ストレイテナー(※)と対バンしたこともありましたね(笑)。

※1998年に結成された日本のロックバンド。2003年、メジャーデビュー。

えーっ本当ですか! 恐らく2人時代のころでしょうか。ちなみにやられていたバンド名は?

それは恥ずかしいな(笑)。

(笑)。それだけバンドをやっていたのに、そこから起業に結びつくのがすごいですよね。

そのバンドでレコーディングをしましょうってなって、軽井沢に車で行くときに、車をぶつけまして。それが借金の元ですね。それを一発で返すために起業を思いつきました。

まさかの理由で起業されましたよね(笑)。

本にも書いてありましたが、その起業が一度失敗し、その後は今の仕事につながっていくわけです。

高校中退後の18歳、まだ起業する前の千田さん。暇だったため母親の仕事について行ったニューヨークの「Tavern on the Green」という高級レストランの前にて。

余命宣告を受けて開眼、グループに携わるようになるまで

若くして倒産を経験して、あらためて事業を立ち上げたわけですよね。

結局は自分で商売するのはあんまり向いてないということに気がつきました。それよりは、誰かの仕事のために何かをやってあげる方が、相手も僕も幸せだよねっていう風に切り替わっていきましたね。その中で一番長いのは学校のシステムの仕事です。生徒一人ひとりの入学前から卒業後進路まで管理するっていうものを開発しまして。ほかにも広告の仕事なんかもやってました。

そういった仕事をやりながら、平成医療福祉グループの仕事に携わっていくようになったのはどういった経緯があったんですか。

7年前にがんになったことが大きかったです。実はがんが発覚する前に、縁あってこのグループから「システムやWebサイトをちゃんと整えたい」っていう依頼を受けていたんですけど、一旦固辞していて。そうこうしてるうちに、舌にがんが見つかったんです。2011年の12月のことでした。さらにその前の1月に娘が生まれていてですね。

すごいタイミングですね。

ドラマチックでしょ(笑)。がんが見つかったとき「ほっといたらどうなるんですか?」って聞いたら、「来年のお正月は来ないと思ってください」って言われました。それで「絶対この子の記憶に残るまでは生きていよう」って思って手術することにしたんです。手術で舌を切るから、それまでの間に食べたいもの全部食べました(笑)。ほら、首のここに手術の痕が。

あ〜残ってますね。

手術によって味覚が変わったり失ったりするかもしれないっていうんで、とりあえず食いたいもん全部食っておこうって思って、2週間かけて豪遊しました。

すごい(笑)! ちなみに何を食べたんですか。

えっと、確かキャビアだけは食べれなかったんですよね。当時、ネットで食べたいものリストを公開してて(笑)、それでみんな情報をくれました。ステーキを食べに行ったときは、店員さんに「これが僕が人生で食べる最後のステーキなんです」って言いました(笑)。

言われた方も驚いたでしょうね(笑)。

そうしたら「ランチでは出さないお肉なんですけど、うちが出せる最高のお肉なんで、ちょっと高いですけどいいですか」って言って出してくれました。

とてもいいお店ですね。

泣いてしまいましたね。だから毎年その時期になると、そのお店で「1年生き延びた記念」のパーティーをやってるんですよ。

手術後、味覚はどうなったんですか。

変わりましたね。もともと辛いものが苦手だったんですけど、平気になったんですよ。でもそれ以外は変わってないですね。

じゃあそこから回復して、グループの仕事に携わろうと。

手術後、集中治療室で目覚めて、「ああ、生き残った」って思ったんですね。ただ、しばらくは寝たきりで、しかも強力な薬のせいで寝られない、っていう状態が続きました。

それはなかなか辛いですね。

その間ずーっと考え事をしてて、「生き残ったからには、この先の人生、医療に恩返ししなきゃいけない」って開眼したんです。だから、これはもう思し召しだなと思って、固辞してた依頼を受けることにしたんですよ。

それがきっかけになったんですね。

それまでは全然医療とか福祉とか接点なかったですから。

社員でないことは必ずしも重要ではない

今もご自身の会社を経営し続けながら、グループに関わっているっていう状態なんですか。

はい、二足のわらじです。ただ、このグループの社員ではないんです。

外部委託というか。

外注業者の人が、サービスを提供しに来ているっていう状態です。

外注業者だけど、部長ではあるっていう(笑)。

そうそう(笑)。

社員にならないのは、グループとほど良い距離感を保ちたい、みたいなこともあるんですか。

いや、それはないです。仕事に関しては、完全に中の人として、責任持って取り組んでいます。ただ、自分の会社の仕事もあるから、グループとしての通常の労働契約に乗って働くことが難しいので、そこを特殊対応してもらっているという状況です。今はそれでやれているので、特に変える必要もないかなというところで。

グループの仕事にしっかりと取り組みつつ、ご自身の会社も両立するとなると、その形になるということですね。

そうですね。だから、僕にとって社員でないということ自体は、必ずしも重要ではないんです。

医療福祉業界におけるITをより高いレベルに

千田さんが入った時点では、システム事業部はどういった状態だったんでしょうか。

当時はまだ20人くらいの部署だったんですが、他の部署との連携がうまく取れていない状況だったので、まずそれを交通整理するところから始めました。

じゃあ間に入っていろいろやられたんですね。

そう、システムの言葉を通訳して作文して、関係先の印をもらうっていう仕事をやって。

根本的な質問ですが、そもそもシステム事業部が担っているお仕事はどういったことでしょうか。

まず大きくは、今あるものを動かし続ける、インフラを空気のように常に供給し続けるっていう仕事があります。例えば院内のネットワークとかコンピュータとか、当然のようにいつも使えるじゃないですか。でも当然、機械だから動かなくなったり故障したりもするんですね。それを、みんなが気づかないうちに常に更新、維持管理していくっていうことです。もう1つは新しい仕組みを提供していくことで、わかりやすいのは「Aloe」という電子カルテですね。それについては、あとで話します。

わかりました(笑)。

例えば、人材の管理も以前は手書きした書類をファイルして、グループのスタッフ一万何千人分が棚に入ってたわけです。でもそれだと一箇所でしか見れないし、果たしてほかの施設で人が辞めたっていう情報が更新されてるのかなっていう懸念がありました。そこを全国でオンラインで見られるようにすれば、どういう人がどこにいるのかっていうことがすぐわかります。

確かに管理がかなり楽になりますね。

あと、入った当初は広報の仕事もしていましたよ。広報活動はもっとやった方がいいって言って。そもそもこのグループサイトを作りましょうって言ったのは僕ですから(笑)。

そうだったんですね!

当時は「平成医療福祉グループ」ってネットで検索すると、2ちゃんねるのスレッドがトップに出てきてたんですよ(笑)。求人に応募しようとして調べたときにオフィシャルの情報がなくて、それが出ちゃうのは良くないじゃないですか。だからグループサイトを作ったんです。

医療・福祉業界におけるITっていうのは、どういった現状なんでしょうか。

診療部門でも運営部門でもITの必要性はどんどん高まってるんですが、それはほかの業界からすると、まだ高いレベルではないんです。さっきの話も普通の会社では当たり前の事じゃないですか。でもそれができていない。うちのグループは、それがまず世間並みになろうとしていて、そこから先にも進んでいこうとしています。伸び代がいっぱいある中で、グループとしてどうやって発展していくかというところに取り組んでいっている感じですね。

今現在も千田さん自身の役割としては、いわゆる通訳のような仕事が多いんでしょうか。

それはやっていますね。ただシステム事業部としては所帯も大きくなって、それぞれチームを分けられて、管理ができる人もできて、事業部としてはだいぶ肩の荷が降りて楽になってきましたね。

部長として出て行くべきところは千田さんがやって、細かいところは任せられるようになったという感じですか。

そうですね。今日はこんな格好(アロハシャツ)だけど、そういうときはスーツをちゃんと着ますよ。「スーツが仕事をする」ときはスーツで仕事をしています(笑)。

電子カルテ開発に、新たな手法を取り入れる

先ほど話に出たグループの電子カルテ「Aloe(アロエ)」について伺いたいんですが、どういった経緯で作られたものなんですか。

このグループは僕が入る以前から自社開発の電子カルテを使っていて、それはもともとSE(システムエンジニア)ではないスタッフが作ったものだったんです。ただ使いづらいっていう話があったんで、自前でSEを抱えて作ろうということになって作ったのが「メディスカルテ」というものでした。それが13年前くらいかな。当時としては先進的な取り組みだったと思います。

千田さんが入るより前に、すでに電子カルテは運用されていたんですね。

で、それも使っていて不都合があるっていうことで直そうとなったんですけど、その当時の状況では直すのが難しかった。直してもリリースができなかったんです。

直したものを一斉に配信できなかったんですか。

簡単に言うと、当時は各病院にちょっとずつカスタマイズしたバージョンが入ってたんです。ひとつの病院用のプログラムコードを修正するんだけども、そこを直してしまうと、今度はほかの病院で不具合が出てしまうという状況でした。それはIT業界からすると、極めて現代的ではないので、普通のやり方を持ち込んだんです。ソースコードは一元管理するとか、常にボタン一発でリリースできる状態に維持しておくとか、っていう当たり前のことをまずは導入していきました。

そうして新しく作ったのがAloeですか。

はい、そこも今時の開発手法で取り組んでます。昔ながらの開発スタイルは「ウォーターフォール開発」って言うんですが、まずどういうソフトウェアが欲しいかっていう要件を決めて、それを満たす設計図を書きます。それがOKであれば、コードを書いてリリースしますと。だけどリリースされるまで2、3年かかることもザラなんです。

その間で状況も変わりますもんね。

それもあるし、紙に書いた設計だけでは、実際のことは何もわからないわけです。今は、実際動くものを作り続ける「アジャイル開発」っていうやり方、その中でも「スクラム」っていう手法を取り入れています。2週間ごとに新しいバージョンを出して、まず動かしてみる。そのうえで「ここが良かった、良くなかった」っていう検証を繰り返しながら、より良いものを作っていっています。

常に動かしながら、フィードバックを繰り返していくわけですね。

そのための会議を2週間ごとにやっています。世間的に最新な手法ということではないんですけど、電子カルテに取り入れているのは珍しいかもしれないですね。

病院の規模にフィットすることが、自社開発の大きなメリット

電子カルテを自社開発する良さっていうのはどういうところにあるんでしょうか。

まずは、ちょうど良いものが作れることですね。グループでたくさん病院があるけれど、業態は基本的に同じだったり近かったり、規模も同じくらいのものが多いじゃないですか。病床200床未満の慢性期や回復期の病院っていうところにフォーカスした電子カルテって、世の中に無いんですよ。

既製品ではフィットするものがなかなか無いと。

それと、Aloeは「我々の病院はこういう風に仕事をしましょう」っていう形をシステムパッケージに落とし込んだものなので、それを入れてうまく仕事ができるっていうことが、業務が標準化できてるっていう指標になるんです。あとは、この規模だと全病院に市販のカルテを入れるとかなりの金額になるので、それに比べると安いっていうのもあります。

自社開発のものをアップデートし続けていれば、追加の費用も抑えられますもんね。

ハードウェアは老朽化するから買い換えるんだけど、ソフトウェアは開発を続ける限りは古くならない。医療も福祉も、2年や3年で法律が変わるから、それをキャッチアップし続けていくためには、自社開発の方がコスト的な優位性も高くなるんです。

グループの理念に賛同
挑戦させてくれる気風もモチベーションに

千田さんの仕事に対するモチベーションはどういうところにありますか。

全体としては、初めに言った「医療への恩返し」っていうことがあります。さらに平成医療福祉グループのやっていること、やろうとしていることの正しさを強く感じているので、発展に寄与することが、日本を良くすることにつながると考えてますね。

やっていることの正しさというのがモチベーションであると。

賛同できる取り組みが、どこまでも広がっていくっていうのは大きいです。あとは、いろいろとやらせてくれるっていうこともあります。

権限を持ってやらせてもらえるということですね。

それと、失敗もさせてくれるんですよ。例えば「こういう仕組みがあって、グループの課題を解消できそうです」っていう提案をしたときに、「一度あそこの病院で試してみましょう、やってダメならそのアイデアは捨てましょう」っていうことをやらせてもらえるんです。半年熟考してから試して成功するよりは、1カ月練って試して、3カ月で別のアイデアを試す方がここでは求められていて、それができるのもグループであることの強みですよね。

そういう気風というか土壌があるんですね。

そう、挑戦させてくれるんですよ。それが楽しいです。

システム事業部として目標はありますか。

まずは医療システム業界の経験が無くても理念に賛同してくれる仲間を増やしたいですね。今は我々がやりたいと思ってることに対しても、経営者や現場スタッフからの要望に対しても、ヒューマンリソースが足りていません。つぎに、その仲間を医療福祉サービスに精通したSEへ育成することです。そういうチームで、あたり前で質の高いITを提供していきたいですね。

うちのグループに限らず、この業界は世間のスタンダードとズレていることも多いと。

医療業界はその大半が税金で成り立っているところもあるわけじゃないですか。でもこれからはもう、それだけで経営を維持できるような日本ではなくなっていくので、「一般企業として扱われてもやっていけます」っていう足腰を持たせることで医療に恩返ししたいですね。現場スタッフが、患者様・利用者様に寄り添うように、我々もITで彼らに寄り添って、結果として質の高い医療福祉サービスを提供してもらうことで、日本全体を良くしたいです。

今こそ、「自分探しの旅」に出たい

多趣味そうな千田さんですが、今の趣味は何ですか。

趣味は焚き火です。

焚き火! どこでやるんですか。

焚き火用の別荘があるんです。

えーっ別荘が! 魅力はどういったところですか。

火が思った通り燃え上がるのが楽しいんです。こうやって木を組んで、ここにマッチを一本入れると、5分後に燃える、みたいなのが楽しい。

燃えた後はどうするんですか。

あんまり興味が無い(笑)。燃え上がれば、誰か来て続きをやってくれるので。

海外を含め、いろいろな場所に行っていると伺いました。

以前は、リタイアしてから色々行こうと思ってたんだけど、病気になってからは、やりたいことは今日やろうっていう風に考え方が変わりましたね。

やりたいことを後回しにしないようになったんですね。

だからいろいろやろうって思ってます。旅行も行くし、PTAも参加するし。

特に今やりたいことってありますか。

インドへ自分探しに行きたいです。

えっ、今から探しに(笑)。

今年45になるんですけど、探しに行こうかなって。どうかな、落ちてるかな自分(笑)。

見つかるといいですね(笑)。行った中で特に印象深い場所はどこですか。

カンボジアのアンコールワットは良かったです。アンコールワット自体より、周りのアンコール遺跡群が良かった。あと馬に乗って遺跡を回れるんですよ。それも良かったし、人も街も良くて、また行きたいですね。

今後の個人的な目標はありますか。

目標としては、グループをクビになることですね。

えっと、それはどういう…(笑)。

「もう千田いらない」って言われるまでやりきるっていうことです。

それくらい、やるべきことを全てやるっていうことですか。

はい、「もうお前にやってもらうことはないわ」って言ってもらえることが目標ですね。

プロフィール

システム事業部 システム事業部長

システム事業部 システム事業部長

千田 丈慈

せんだ じょうじ

【出身】東京都中野区
【職種】システムエンジニア
【趣味】焚き火
【好きな食べ物】タン塩
【好きなミュージシャン】Fatboy Slim(ビッグビートに影響を受けた)