dummy

EN

原点は、小さい頃に抱いたお医者さんへの憧れ 強いこだわりを持たなかったらこそできた、総合内科の診療/世田谷記念病院 副院長/前田 朝美先生

診療部2021.07.09
診療部

原点は、小さい頃に抱いたお医者さんへの憧れ
強いこだわりを持たなかったらこそできた、総合内科の診療

世田谷記念病院で副院長を務める前田朝美先生にインタビューしました。商店を営む家庭で育った前田先生。医師を目指したきっかけのひとつは、幼い頃の原体験にありました。のどかな環境で過ごした大学時代や、流されて入った研究室でのエピソードなど、ここに至るまでの経歴を中心に伺いました。ぜひご覧ください!

幼い頃は
商店の看板娘

前田先生は、実はずいぶん以前からグループのサイトやパンフレットなどに、画像を使わせていただいていますね。

「写ってたよ」って言われますよ。もう本当に申し訳ないことで(笑)。

いえいえとんでもないです! グループ内でも、前田先生のお名前を知らなくとも、写真を見たことがあるという人もいるかもしれないですね。

実際に働いている医師だと知らない方もいるかもしれないですね。

出身はどちらですか。

こう見えて、東京生まれ東京育ちなんです。

江戸っ子ですか。

いえ、板橋の方なんですけど、ほとんど埼玉県に近いところで。私は山の手って言ってて、東京でもかなり上の方です(笑)。

上の方という意味では山の手かもしれないですね(笑)。どんな環境で育ちましたか。

わたしの実家は商店街でお店を営んでいたんです。私はそこの看板娘で(笑)。

(笑)。お店に立つこともありましたか。

お手伝いするとお小遣いがもらえたこともあって、よく立っていましたね。特に大晦日とか年末年始が忙しかったので、お手伝をいして。商品を運んだり、レジをちょっとやったり、父が配達をやっていたので、それにくっついて行ったり。届けてる間に車で待ってるみたいな。小さい時のことですけどね。

小さい時からお手伝いをしていたんですね。

のどかな昭和の感じでした(笑)。周りからは、ジュースとかコーラが飲めるって、羨ましがられましたよね。ただ私はコーラはあまり好きじゃなくて。お店にはおつまみとか缶詰も置いてあって、賞味期限が近くなったやつは食べていいって言われてたので、むしろそれは嬉しかったです。

お家で商売をされていること自体はどうでしたか。人の出入りがあるので賑やかそうですが、逆に、親御さんが常に忙しい様子を目の当たりにもしますよね。

それは、楽しさと寂しさの、両方の気持ちがありました。やっぱり会社勤めされている家庭は、土日にお出かけをしますけど、商店をやってると土日はお店が開いてますし、夏休みも年末年始も忙しいですから。遊びに連れていってもらえない寂しさはありましたね。でも、商店街に同い年くらいの子がいたので「〇〇ちゃんも一緒だ」って思うと、我慢できましたし、そういう子たちと遊んでもいました。

そういう点で、多少の寂しさはあったんですね。

でも、ずっと両親が家にいて、働いてるところを見れたり、自分も手伝ったりっていう経験ができたのは、いい点だったのかなって。いつもお客さんが来て、声をかけてくれましたし。もしお勤めしている家庭だったら、合鍵を持たされて家で1人お留守番、っていうこともあったと思いますから。

お店はいつまでやられていたんですか。

つい2、3年前までですね。最後はもう電気代の方がかかるぐらいでしたけど(笑)。でも開けておけば、たまに誰かが来てくれますし、お店をやっている、っていうのが両親の気持ちの支えになっていましたから。もちろん閉店は寂しかったですけど、もう十分やったなと思いましたね。

小さい頃は、将来何になりたかったですか。

お医者さんになりたい、って思ってましたね。もともと体が弱くて、町医者のおじいちゃん先生のところによく行っていたんです。

その先生に憧れたのですか。

その先生が特別素敵だったって言うわけじゃないんですけど(笑)。多分、具合の悪い時に診てもらって良くなった経験とか、白衣の姿で聴診器や注射器を扱う姿に、憧れじゃないけど、何か気持ちを抱いて「お医者さんがいいなあ」って一瞬思ったんです。でもそのあとは、学校の先生になりたくなって「医者にはならない」ってずっと思ってました。

そこからずっと医師を志していた、ということでもなかったと。実際に医師を目指そうと思ったのはいつでしたか。

高校に行ってからですね。進路を選ぶという時に決めました。

決め手はどんなことだったのでしょう。

理系には進みたいと思っていて、その時にあらためて、子どもの頃にお医者さんのお世話になったことを思い出したのと、家族もしょっちゅうここが痛いあそこが痛いって言ってたので、そういう人を助けたいというか、役に立ちたいなって思ったんです。

医師を目指すことを喜んでくれた両親
学生時代は不思議と長に推薦される

医師になることについては、親御さんはどんな反応でしたか。

お医者さんは大変だからって、心配はされましたね。激務というイメージもあったでしょうし、私が体が弱かったこともありましたし。それにストレスに弱い子だったので、人の命を預かる仕事をやって大丈夫なのかしらって思ってたのかもしれないです。でも親戚から、両親が「医師になりたいって言ったことを嬉しがってたよ」っていうことは聞きましたし、私に言わないだけで、喜んでくれていたみたいです。

その時は言葉にしなかったけど、親御さんも実は喜んでくれていたのですね。とは言え、かなり心配もされていたと。

特に何があったというわけではないんですけど、根暗ですし(笑)。悲観的なところもあったので、厳しい世界に入るというのは、当時自分でも心配はありました。

ちなみに学生時代はクラスでどんな立ち位置だったのですか。

普通の生徒だったと思いますよ。自分が中心にいて盛り上げるというタイプではないですけど、1人で静かにしてるわけでもなかったですし。ただ、何でかわかんないですけど、不思議と、生徒会をやるとか部活で部長になっちゃうということはありました。

「不思議と」ということは、自分から手を挙げたわけではなく。

自分では手を挙げてないんです。本当はやりたくないのになっちゃう、っていうことはありました。自分では静かに控え目にしているつもりでも、そうじゃなかったのかもしれないです。オーラがあったんですかね(笑)。

(笑)。きっと頼りたくなる雰囲気があったのでしょうね。

のどかな環境で過ごした大学時代
高齢の方の臨床に興味

大学はどんなところでしたか。

家を出て、北関東にある大学に進みました。当時、大学があった周囲は、ある程度開発が進んできたとは言われていたんですが、東京の田舎出身の身からしても、まだまだのどかでした。

勉強に集中できそうな環境ですね。

そうですね。勉強をするか、もしくはスポーツをするとか、そういう感じでした。

講義はどうでしたか。

真面目に受けていましたよ。子どもの時から塾に行かない子だったので、学校の授業は真面目に聞くタイプでしたから。ノートはちゃんと取って、それで勉強はしない(笑)。ノートは「貸して」って言われる側でしたね。

スポーツもされていたのですか。

高校の時にはバドミントン部に入っていて、大学ではテニス部にいました。ほかに遊ぶところもそんなになかったですし、大学時代はずっとやり通しました。ジャージ着て朝練に行って、そのままの格好で「ウッス」って言いながら授業に出て、終わったらまた部活に出て。

勉強にテニスに、なんだか楽しそうですね。

都内の大学とは違う楽しみができた学生時代でしたね。あとは家庭教師のアルバイトをしたり、大学の宿舎の食堂で飯盛りお姉さんのアルバイトをしたり。食堂では、ガタイの良い体育学部の学生さんに多めに盛ってあげて、パートのおばさんから「多すぎる!」って怒られてました(笑)。

怒られるんですね(笑)。勉強をするなかでは、どんなことに興味を持ちましたか。

う〜ん、少なくとも座学ではあまりなかったですね。

では、実際に臨床の研修が始まってからはいかがでしたか。

とにかく大変でしたよね。もともと学校の先生をやりたいとも思ってましたから、子どもと触れ合える小児科に最初は興味があったんですけど、実際に病気の子を診るのは、私にとっては辛かったですね。「こんな小さいのに大変な想いをして…」と、幼いお子さんが苦しんでいる様子を見るのも厳しかったです。親御さんのことも考えてしまいますし、ちょっと直視できなくなってしまいました。

小児科には興味があったけど、自分で担当するのは難しかったと。

でもやっぱり、実際の患者さんを診るのは大変ですけど、座学や研究より、臨床の方が面白いっていうのは思いました。あと、私には小児科は難しかったですけど、逆に高齢の方を診ることは好きなのかもしれないって気がつきました。もともと実家でおばあちゃんと一緒に住んでいたからなのか、やっていて楽しいと思いましたね。そこは、今にもつながってるかもしれないです。

どういうところが楽しさにつながったのでしょう。

高齢の方々と触れ合うことが楽しかったのかもしれないですね。私の知らない、いろいろな経験をしている方たちの昔話とか、そういうのを聞くのが割と心地良かったです。

研修の時でもそのくらいお話しする時間が取れたんですね。

記憶が定かじゃないんですけど、実際そんなに時間も取れなかったはずですよね、どうしてたんだろう(笑)。

気がつけば入っていた研究室
そこでも楽しみを見出す

内科を専門に選んだのはどんな理由がありましたか。

ここで語れるような素晴らしい志があって、というわけではなかったんですよね。外科はやることが明確ですし、手術をすることへの憧れもあったんですけど、体力的な自信がなかったこともあって、私は内科を専門に選びました。そのなかでは、消化器系に興味がありました。

どういう興味が湧いたのですか。

環境的な要素も大きかったんですが、当時の先生方もとても良い方がいましたし、内視鏡とか検査とか、手技もけっこうあるのでアクティブな印象があって、やってみようかと。それで都内の大学付属の病院で臨床研修をした後に、大学院に進んだんです。

なるほど、そこで院に進まれるという選択肢を取られて。

悩んだんですけど、お友だちや先生から勧められて、「そうなんだ!」っていう感じで行っちゃったんです(笑)。

ちなみに、大学院に行くとどういうことをされるんですか。

論文を書いて、博士号を取ることができます。院にもよるんですが、私が入ったところは、臨床をやりながら、実験や研究もしつつ、論文を書く、っていう形でした。

実際どんな研究をされたのでしょう。

それが、消化器の分野を学ぼうと大学院に入ったつもりが、脂質代謝の研究ですね、動脈硬化とかコレステロールの専門の研究室に入ってたんです。

どうしてそんなことが(笑)。

消化器のなかに肝臓があって、肝臓では脂質代謝をするから、っていうことでその研究室があったんですね。そこに来ないかって誘われて、入っちゃったんです。

では、もともとやろうと思っていたことと違う分野に進まれて。

そうなんです。ただ、入ってみたら研究は楽しかったですね。研究室のボスはすごく良い先生でしたし、もともと高校の時に化学が好きでしたから、これはこれで楽しめました。でも、ふと気づくと、本来「あれ? 私これやるはずじゃなかったのに」って(笑)。

そこで気が付く(笑)。ただ、その分野を研究すること自体に楽しさはあったと。

やっていること自体は予防医学にも関わることだったんですけど、それも良いことだなと思って、最初にやろうとしたこととは違ったけど、これもまたいいなって思ってやっていましたね。

当時はあまり理解されなかった
総合内科で幅広い診療に携わる

大学院を修了した後はどのようなことをされましたか。

昔はお礼奉公とか言ってたんですけど、しばらくほかの病院で臨床をしました。その後、さっきお話しした研究室のボスから「戻ってきて」と言われて、仲も良かったので、また元いた都内の大学病院に戻りました。

そこではどんなことをやりましたか。

助手とか助教授をやりながら、後輩や学生の指導に関わりました。

またやることが多そうですね。

大変だったことも多かったです。でも、学校の先生がやりたかったのもあったので、人に教える機会があることは楽しかったですね。

大学病院ではどれくらい働いたのですか。

長かったですね。合計すると12年以上いたと思います。

その間、診療にも多く携わられて。

主に糖尿病や脂質代謝に関わる、内科医として。そのうち、総合内科っていう形で、いろんな症例を診ていくことになりました。内科も、消化器や循環器とか、専門性が進んでいくうち、総合内科っていう形で、いろんな症例を診ることができて、それがとても興味深かったですね。

では、専門的にひとつの科目に限って診ていくのではなく、広く診療されて。

それが、すごく勉強になるなと思いました。必ずしも、かかっている病気がひとつだけ、とは限らないので。さまざまな病気を抱えた患者さんをいろいろな面から治療して、改善していくっていくということは、私にとっては学びが多かったです。

体調が悪い、と一口に言っても、実はいろいろ併発していると。

体調不良の原因がひとつだけじゃないこともありますから。ひとつのことだけ治療するならいいのですけど、いろいろな病気を抱えた方の全体を診て治さないといけないので難しいです。治り方も一人ひとり違いますし、高齢の方は、これまでいろいろな病気をしてきてもいますから。もちろん私は深い専門知識が全然ないので、そこは専門の先生に相談しながら治療していきました。

とても鍛えられそうな経験ですね。

そういうことが後々役立ったなとは思います。でも当時は、どちらかと言うと専門科目の枠に収まらない、あまり積極的に診ようとされない症例が回ってきていたという印象はありました。

言葉は悪いですが、押し付けというか…。

その要素もありました(笑)。ただ、現在では総合診療とかプライマリケアとか、そういう言葉も定着しましたし、今の方が重要性が理解されていると思います。

専門に対してのこだわりが強くなかったということが、功を奏したとも言えそうです。

もともと「これだけがやりたい」という強いポリシーがあったわけではなかったですから。結果的にではありますけど、そうなったかもしれないですね。

縁あって世田谷記念病院に
総合内科の経験を生かして取り組む

世田谷記念病院に入職したのはどういった経緯でしたか。

この病院が開院して半年後ぐらいに入職したんですが、それもまたご縁があって。世田谷記念病院の初代院長と、当時私がいた大学病院の研究室のボスが、同期で仲が良かったようです。世田谷記念病院で、その時ちょうど内科の医師を探していたので、ボスを通じて、私に「どう?」って話をいただきました。

声をかけられた時はどう思われましたか。

もう大学病院の仕事も長く務めたので、そろそろ離れようかなと思ってはいた頃だったんですね。

ちょうど次のことを考えていた時期だったと。

その頃は仕事のなかで臨床の割合が少なくなっていて、患者さんを診る機会も減ったので、どうしようかなと考えていました。

前田先生としては、今後も臨床に関わっていきたいと。

そうですね。そこで、また誘われるがままでしたけど(笑)、こちらに来ることになって。でも入ってみたら、元いた大学病院の研究室でずっと一緒だった志村先生が働いていましたし、グループの副代表も私がいた大学の出身で、とてもご縁を感じました。

偶然のご縁があったんですね! 移ってからはどんなお仕事をされたのですか。

当時あった医療療養病棟を最初は担当しました。そのうち、地域包括ケア病棟が開くということで、今度はそちらの担当になり。

慢性期医療の病院で働くのは初めてだったと思うのですが、お仕事をしてみていかがでしたか。

主に、急性期病院で専門的な治療を終えた患者さんが転院されてくるんですけど、結局いろいろな病気をまだ抱えている方が多いので、その診療を行うことは、前の大学病院でやっていた総合内科に近いなと思いました。

なるほど、前職での経験が生かせたのですね。

ここでは大学病院のように専門的で特別な治療をするわけではなく、急性期の治療を終えた患者さんの全身の状態を落ち着かせて、ご自宅に戻ってもらうことが目的でしたから、私がやってきたことに通じるなって。

回復期リハビリテーション病棟も担当されたのですか。

医療療養病棟と地域包括ケア病棟の時は、経験を生かしながらできる範囲だなと思っていたんですが、リハビリは今までまったく触れていない分野でしたので、担当してほしいと言われた時は、とにかくビックリしましたね(笑)。

(笑)。驚きながらも担当されていると。

ただ、ここはリハビリスタッフが優秀でしっかりしていますから、そこに助けられています。

世田谷記念病院で実感できた
「多職種連携」

長らく大学病院で働いた先生が、ここまで世田谷記念病院で働いて、何か思うことはありますか。

すごく勉強になりますし、やってることも素晴らしいなと思いますね。以前働いていた時のことを振り返ると、病院から退院した後、ご自宅にどうやって戻られていたのか、よく思い出せないんです。

急性期医療の目的として、まず必要な手術や治療を行うことが急務ですからね。

当時は治療に集中していたというか、退院後のことをあまり意識していなかったですね。世田谷記念病院に入ってみると、そういった急性期の治療を終えた患者さんを受け入れて、在宅復帰できる状態に戻して、次の療養先やご自宅に移っていただく、という流れが、とても大変なことで、大事なことなんだなと、気付かされました。実際に急性期病院から患者さんを受け入れる側になって、初めてわかったことでした。

例えば、先ほど話に出たリハビリや、栄養管理に力を入れているのもこのグループの特長ですよね。

みんなで協力して、患者さんの在宅復帰を目指すっていう環境がありますね。「多職種連携」と、言葉としては聞いていましたけど、その重要性を感じました。わからないことはほかの職種のスタッフに聞くことも多いですし、それがすごくありがたいです。

「絶対に見捨てない。」の理念に
スタッフ一丸で取り組んでいます

副院長のお仕事はどんなことがありますか。

副院長として出席する会議などはあるんですが、仕事としては臨床がメインになっています。イニシアチブを持って、もっと病院を引っ張って、という声もいただくこともあります。でも、ここまでお話してお気づきかと思うんですが、そういったことはなかなか得意でなく…(笑)。でもがんばっていこうと思っているところです。

なるほど(笑)、それぞれの得意分野がありますからね。先生が思う、この病院のいいところを教えてください。

「絶対に見捨てない。」というグループの方針に対して、本当にスタッフみんなががんばって取り組んでいると思います。大変な状況の方でも受け入れて、良くなってご自宅に戻ってもらうというところに全員が力を入れてくれていますから。スタッフみんなが一生懸命に取り組んでくれていると感じています。

世田谷記念病院の今後の展望はいかがですか。

今は在宅医療にも力を入れていますし、これから地域にもっと根ざしていって、この病院に来て良かったとさらに思っていただける病院にしていきたいですね。

より地域の方に信頼いただける病院ですね。

この病院に入院したことがある知人やご家族が「良い病院だったよ」と言ってくださって、それを聞いて来てくださる方もいるんです。それがすごく嬉しいので、大変ではあっても、これからも満足いただける質の高い医療を丁寧に提供して。ほかの医療機関では難しいとされた方も、在宅復帰していただけたり、少しでもできることを増やせたり、そういうことをもっとできる病院にしたいなと思っています。

坂道、アニメ、伝統工芸
目指すは職人…!?

ちなみに、個人的に今後やりたいことはありますか。

医師として副院長として、この病院を良くしていくということはもちろんしたいんですが、それとは全く別でやってみたいことがあって。

どんなことですか。

全然具体的な話ではないんですけど、それは、物作りに携わりたいと思っているんです。

おおっ、全く違う分野にも興味があると。具体的にはどういうことですか。

「この伝統工芸は後継者がいなくて、技術を受け継ぐ人がいなくなってしまう」っていう話題をテレビで取り上げていることがあるじゃないですか。そういうのを見ると「私がやらないといけないんじゃないか!」って、思っちゃうんです(笑)。

意外な話でした(笑)。なるほど、伝統の技術に興味があると。もともと器用というか、手を動かすことが好きなんですか。

うまくできるできないは別としても、嫌いではないんですよね。絵を描くのも好きでしたし、美術の授業も楽しかったです。今までは医師として、治療を通して、大事な体を修理して保つ、長く健康でいてもらう、というお仕事をしてきたので、創造するっていうことにも興味があるんです。家でも簡単にですけど絵を描くことはあります。ただ行動力はないので「日々の仕事で疲れた」と言って、特にそれ以外はしていないんですが(笑)。

(笑)。では頭の片隅には、そういった物作りへの憧れのようなものがあるのですね。話は変わりますが、お休みの日はどう過ごしていますか。

コロナ禍になってしまってからは、もうグウタラなので、お恥ずかしくてとても言えないです。

のんびり過ごされているんですね(笑)。以前はよく出かけていたんですか。

ライブを見に行ったり、映画を見に行ったりとしていましたね。

どういうライブを見に行かれてましたか。

いろいろですよ。ちょっと恥ずかしいんですけど、アイドルからロックまで。

どんなアイドルを見に行かれるんですか。

坂道グループです。旦那と一緒にですけどね。あとはいろいろポップスも行きました。BUMP OF CHICKENとか、THE YELLOW MONKEYも行きましたよ。

人気のアーティストばかり見られていますけど、よくチケットが取れましたね!

本当に、よく取れましたね(笑)。

例えばそういうアイドルを見に行ったという話を、病院内ですることもあるんですか。アイドル好きなスタッフさんもきっといると思うんですが。

いると思います。だからちょろっとだけ話しましたけど、あんまり広めないようにしてます。恥ずかしいですし、謎多き人にしておきたいと思って(笑)。

(笑)。以前からそういったライブなどにはよく行かれていたんですか。

もともとスポーツとかアウトドアも自分でするのが好きなんですけど、だんだん面倒になってきちゃったので、そういうことをやる方から、いろいろと見る方になっていって。それで、誘われてSTARDUST REVUEのライブを見に行ったら「生演奏っていいな」って気がついて。そのうちアイドルのライブを見に行ったら「まあ楽しい! かわいい!」って。

ライブも減ってしまった最近は、家で楽しむことも多いですか。

そうですね、家のテレビでアニメを見たり映画を見たり。料理もしますし、明るいうちからお酒もいただいて(笑)。

いい休日ですね(笑)。

最近見たアニメだと『Dr.STONE』とか『はたらく細胞』が面白かったです。映画だと『罪の声』とか、『ボヘミアン・ラプソディ』を見ました。

いろいろ見たり聞いたりと、そういった趣味も充実してそうですね。

この趣味だけを極めていくっていうのはないので広く浅く。仕事も一緒で、私はそんな感じなのかもしれないですね(笑)。

その時その時で、興味を持ったことにずっと取り組まれてきたということかもしれないですね。では、インタビューは以上になります!

はあ、恥ずかしかった〜(笑)!

プロフィール

世田谷記念病院 副院長

世田谷記念病院 副院長

前田 朝美

まえだ ともみ

【出身】東京都板橋区
【専門】内科
【趣味】映画鑑賞、ライブ鑑賞
【好きな食べ物】イチゴ、白米、トウモロコシ、芋と名のつくものすべて

病院情報