ひとプロジェクト 第66回【前編】 世田谷記念病院 副院長/前田 朝美先生

世田谷記念病院

副院長

前田 朝美 先生

Maeda Tomomi

原点は、小さい頃に抱いたお医者さんへの憧れ
強いこだわりを持たなかったらこそできた、総合内科の診療


今回は、世田谷記念病院で副院長を務める前田朝美先生です。商店を営む家庭で育った前田先生。医師を目指したきっかけのひとつは、幼い頃の原体験にありました。前編では、のどかな環境で過ごした大学時代や、流されて入った研究室でのエピソードなど、ここに至るまでの経歴を中心に伺いました。ぜひご覧ください!

  • 幼い頃は
    商店の看板娘

    前田先生は、実はずいぶん以前からグループのサイトやパンフレットなどに、画像を使わせていただいていますね。

    「写ってたよ」って言われますよ。もう本当に申し訳ないことで(笑)。

    いえいえとんでもないです! グループ内でも、前田先生のお名前を知らなくとも、写真を見たことがあるという人もいるかもしれないですね。

    実際に働いている医師だと知らない方もいるかもしれないですね。

    出身はどちらですか。

    こう見えて、東京生まれ東京育ちなんです。

    江戸っ子ですか。

    いえ、板橋の方なんですけど、ほとんど埼玉県に近いところで。私は山の手って言ってて、東京でもかなり上の方です(笑)。

    上の方という意味では山の手かもしれないですね(笑)。どんな環境で育ちましたか。

    わたしの実家は商店街でお店を営んでいたんです。私はそこの看板娘で(笑)。

    (笑)。お店に立つこともありましたか。

    お手伝いするとお小遣いがもらえたこともあって、よく立っていましたね。特に大晦日とか年末年始が忙しかったので、お手伝をいして。商品を運んだり、レジをちょっとやったり、父が配達をやっていたので、それにくっついて行ったり。届けてる間に車で待ってるみたいな。小さい時のことですけどね。

    小さい時からお手伝いをしていたんですね。

    のどかな昭和の感じでした(笑)。周りからは、ジュースとかコーラが飲めるって、羨ましがられましたよね。ただ私はコーラはあまり好きじゃなくて。お店にはおつまみとか缶詰も置いてあって、賞味期限が近くなったやつは食べていいって言われてたので、むしろそれは嬉しかったです。

    お家で商売をされていること自体はどうでしたか。人の出入りがあるので賑やかそうですが、逆に、親御さんが常に忙しい様子を目の当たりにもしますよね。

    それは、楽しさと寂しさの、両方の気持ちがありました。やっぱり会社勤めされている家庭は、土日にお出かけをしますけど、商店をやってると土日はお店が開いてますし、夏休みも年末年始も忙しいですから。遊びに連れていってもらえない寂しさはありましたね。でも、商店街に同い年くらいの子がいたので「〇〇ちゃんも一緒だ」って思うと、我慢できましたし、そういう子たちと遊んでもいました。

    そういう点で、多少の寂しさはあったんですね。

    でも、ずっと両親が家にいて、働いてるところを見れたり、自分も手伝ったりっていう経験ができたのは、いい点だったのかなって。いつもお客さんが来て、声をかけてくれましたし。もしお勤めしている家庭だったら、合鍵を持たされて家で1人お留守番、っていうこともあったと思いますから。

    お店はいつまでやられていたんですか。

    つい2、3年前までですね。最後はもう電気代の方がかかるぐらいでしたけど(笑)。でも開けておけば、たまに誰かが来てくれますし、お店をやっている、っていうのが両親の気持ちの支えになっていましたから。もちろん閉店は寂しかったですけど、もう十分やったなと思いましたね。

    小さい頃は、将来何になりたかったですか。

    お医者さんになりたい、って思ってましたね。もともと体が弱くて、町医者のおじいちゃん先生のところによく行っていたんです。

    その先生に憧れたのですか。

    その先生が特別素敵だったって言うわけじゃないんですけど(笑)。多分、具合の悪い時に診てもらって良くなった経験とか、白衣の姿で聴診器や注射器を扱う姿に、憧れじゃないけど、何か気持ちを抱いて「お医者さんがいいなあ」って一瞬思ったんです。でもそのあとは、学校の先生になりたくなって「医者にはならない」ってずっと思ってました。

    そこからずっと医師を志していた、ということでもなかったと。実際に医師を目指そうと思ったのはいつでしたか。

    高校に行ってからですね。進路を選ぶという時に決めました。

    決め手はどんなことだったのでしょう。

    理系には進みたいと思っていて、その時にあらためて、子どもの頃にお医者さんのお世話になったことを思い出したのと、家族もしょっちゅうここが痛いあそこが痛いって言ってたので、そういう人を助けたいというか、役に立ちたいなって思ったんです。

医師を目指すことを喜んでくれた両親
学生時代は不思議と長に推薦される

医師になることについては、親御さんはどんな反応でしたか。

お医者さんは大変だからって、心配はされましたね。激務というイメージもあったでしょうし、私が体が弱かったこともありましたし。それにストレスに弱い子だったので、人の命を預かる仕事をやって大丈夫なのかしらって思ってたのかもしれないです。でも親戚から、両親が「医師になりたいって言ったことを嬉しがってたよ」っていうことは聞きましたし、私に言わないだけで、喜んでくれていたみたいです。

その時は言葉にしなかったけど、親御さんも実は喜んでくれていたのですね。とは言え、かなり心配もされていたと。

特に何があったというわけではないんですけど、根暗ですし(笑)。悲観的なところもあったので、厳しい世界に入るというのは、当時自分でも心配はありました。

ちなみに学生時代はクラスでどんな立ち位置だったのですか。

普通の生徒だったと思いますよ。自分が中心にいて盛り上げるというタイプではないですけど、1人で静かにしてるわけでもなかったですし。ただ、何でかわかんないですけど、不思議と、生徒会をやるとか部活で部長になっちゃうということはありました。

「不思議と」ということは、自分から手を挙げたわけではなく。

自分では手を挙げてないんです。本当はやりたくないのになっちゃう、っていうことはありました。自分では静かに控え目にしているつもりでも、そうじゃなかったのかもしれないです。オーラがあったんですかね(笑)。

(笑)。きっと頼りたくなる雰囲気があったのでしょうね。

  • のどかな環境で過ごした大学時代
    高齢の方の臨床に興味

    大学はどんなところでしたか。

    家を出て、北関東にある大学に進みました。当時、大学があった周囲は、ある程度開発が進んできたとは言われていたんですが、東京の田舎出身の身からしても、まだまだのどかでした。

    勉強に集中できそうな環境ですね。

    そうですね。勉強をするか、もしくはスポーツをするとか、そういう感じでした。

    講義はどうでしたか。

    真面目に受けていましたよ。子どもの時から塾に行かない子だったので、学校の授業は真面目に聞くタイプでしたから。ノートはちゃんと取って、それで勉強はしない(笑)。ノートは「貸して」って言われる側でしたね。

    スポーツもされていたのですか。

    高校の時にはバドミントン部に入っていて、大学ではテニス部にいました。ほかに遊ぶところもそんなになかったですし、大学時代はずっとやり通しました。ジャージ着て朝練に行って、そのままの格好で「ウッス」って言いながら授業に出て、終わったらまた部活に出て。

    勉強にテニスに、なんだか楽しそうですね。

    都内の大学とは違う楽しみができた学生時代でしたね。あとは家庭教師のアルバイトをしたり、大学の宿舎の食堂で飯盛りお姉さんのアルバイトをしたり。食堂では、ガタイの良い体育学部の学生さんに多めに盛ってあげて、パートのおばさんから「多すぎる!」って怒られてました(笑)。

    怒られるんですね(笑)。勉強をするなかでは、どんなことに興味を持ちましたか。

    う〜ん、少なくとも座学ではあまりなかったですね。

    では、実際に臨床の研修が始まってからはいかがでしたか。

    とにかく大変でしたよね。もともと学校の先生をやりたいとも思ってましたから、子どもと触れ合える小児科に最初は興味があったんですけど、実際に病気の子を診るのは、私にとっては辛かったですね。「こんな小さいのに大変な想いをして…」と、幼いお子さんが苦しんでいる様子を見るのも厳しかったです。親御さんのことも考えてしまいますし、ちょっと直視できなくなってしまいました。

    小児科には興味があったけど、自分で担当するのは難しかったと。

    でもやっぱり、実際の患者さんを診るのは大変ですけど、座学や研究より、臨床の方が面白いっていうのは思いました。あと、私には小児科は難しかったですけど、逆に高齢の方を診ることは好きなのかもしれないって気がつきました。もともと実家でおばあちゃんと一緒に住んでいたからなのか、やっていて楽しいと思いましたね。そこは、今にもつながってるかもしれないです。

    どういうところが楽しさにつながったのでしょう。

    高齢の方々と触れ合うことが楽しかったのかもしれないですね。私の知らない、いろいろな経験をしている方たちの昔話とか、そういうのを聞くのが割と心地良かったです。

    研修の時でもそのくらいお話しする時間が取れたんですね。

    記憶が定かじゃないんですけど、実際そんなに時間も取れなかったはずですよね、どうしてたんだろう(笑)。

  • 気がつけば入っていた研究室
    そこでも楽しみを見出す

    内科を専門に選んだのはどんな理由がありましたか。

    ここで語れるような素晴らしい志があって、というわけではなかったんですよね。外科はやることが明確ですし、手術をすることへの憧れもあったんですけど、体力的な自信がなかったこともあって、私は内科を専門に選びました。そのなかでは、消化器系に興味がありました。

    どういう興味が湧いたのですか。

    環境的な要素も大きかったんですが、当時の先生方もとても良い方がいましたし、内視鏡とか検査とか、手技もけっこうあるのでアクティブな印象があって、やってみようかと。それで都内の大学付属の病院で臨床研修をした後に、大学院に進んだんです。

    なるほど、そこで院に進まれるという選択肢を取られて。

    悩んだんですけど、お友だちや先生から勧められて、「そうなんだ!」っていう感じで行っちゃったんです(笑)。

    ちなみに、大学院に行くとどういうことをされるんですか。

    論文を書いて、博士号を取ることができます。院にもよるんですが、私が入ったところは、臨床をやりながら、実験や研究もしつつ、論文を書く、っていう形でした。

    実際どんな研究をされたのでしょう。

    それが、消化器の分野を学ぼうと大学院に入ったつもりが、脂質代謝の研究ですね、動脈硬化とかコレステロールの専門の研究室に入ってたんです。

    どうしてそんなことが(笑)。

    消化器のなかに肝臓があって、肝臓では脂質代謝をするから、っていうことでその研究室があったんですね。そこに来ないかって誘われて、入っちゃったんです。

    では、もともとやろうと思っていたことと違う分野に進まれて。

    そうなんです。ただ、入ってみたら研究は楽しかったですね。研究室のボスはすごく良い先生でしたし、もともと高校の時に化学が好きでしたから、これはこれで楽しめました。でも、ふと気づくと、本来「あれ? 私これやるはずじゃなかったのに」って(笑)。

    そこで気が付く(笑)。ただ、その分野を研究すること自体に楽しさはあったと。

    やっていること自体は予防医学にも関わることだったんですけど、それも良いことだなと思って、最初にやろうとしたこととは違ったけど、これもまたいいなって思ってやっていましたね。

  • 当時はあまり理解されなかった
    総合内科で幅広い診療に携わる

    大学院を修了した後はどのようなことをされましたか。

    昔はお礼奉公とか言ってたんですけど、しばらくほかの病院で臨床をしました。その後、さっきお話しした研究室のボスから「戻ってきて」と言われて、仲も良かったので、また元いた都内の大学病院に戻りました。

    そこではどんなことをやりましたか。

    助手とか助教授をやりながら、後輩や学生の指導に関わりました。

    またやることが多そうですね。

    大変だったことも多かったです。でも、学校の先生がやりたかったのもあったので、人に教える機会があることは楽しかったですね。

    大学病院ではどれくらい働いたのですか。

    長かったですね。合計すると12年以上いたと思います。

    その間、診療にも多く携わられて。

    主に糖尿病や脂質代謝に関わる、内科医として。そのうち、総合内科っていう形で、いろんな症例を診ていくことになりました。内科も、消化器や循環器とか、専門性が進んでいくうち、総合内科っていう形で、いろんな症例を診ることができて、それがとても興味深かったですね。

    では、専門的にひとつの科目に限って診ていくのではなく、広く診療されて。

    それが、すごく勉強になるなと思いました。必ずしも、かかっている病気がひとつだけ、とは限らないので。さまざまな病気を抱えた患者さんをいろいろな面から治療して、改善していくっていくということは、私にとっては学びが多かったです。

    体調が悪い、と一口に言っても、実はいろいろ併発していると。

    体調不良の原因がひとつだけじゃないこともありますから。ひとつのことだけ治療するならいいのですけど、いろいろな病気を抱えた方の全体を診て治さないといけないので難しいです。治り方も一人ひとり違いますし、高齢の方は、これまでいろいろな病気をしてきてもいますから。もちろん私は深い専門知識が全然ないので、そこは専門の先生に相談しながら治療していきました。

    とても鍛えられそうな経験ですね。

    そういうことが後々役立ったなとは思います。でも当時は、どちらかと言うと専門科目の枠に収まらない、あまり積極的に診ようとされない症例が回ってきていたという印象はありました。

    言葉は悪いですが、押し付けというか…。

    その要素もありました(笑)。ただ、現在では総合診療とかプライマリケアとか、そういう言葉も定着しましたし、今の方が重要性が理解されていると思います。

    専門に対してのこだわりが強くなかったということが、功を奏したとも言えそうです。

    もともと「これだけがやりたい」という強いポリシーがあったわけではなかったですから。結果的にではありますけど、そうなったかもしれないですね。

次回:世田谷記念病院で初めて知ることができた「多職種連携」 。地域に根ざして、さらに求められる病院に!

後編を読む

profile

世田谷記念病院 副院長 前田 朝美(まえだ ともみ)

【出身】東京都板橋区
【専門】内科
【趣味】映画鑑賞、ライブ鑑賞
【好きな食べ物】イチゴ、白米、トウモロコシ、芋と名のつくものすべて

病院情報

東京都世田谷区野毛2丁目30-10

医療法人 平成博愛会
世田谷記念病院

内科・整形外科・リハビリテーション科急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリテーションにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。