医学そのものを好きだから、楽しく取り組んで来れた 外科医としての仕事のスタイルとは/平成横浜病院 診療統括部長/森岡 研介先生
医学そのものを好きだから、楽しく取り組んで来れた
外科医としての仕事のスタイルとは
平成横浜病院で診療統括部長を務める、医師の森岡 研介先生。外科医として数々の経験を積まれてきた森岡先生はもともとは医師を志していたわけではありませんでした。幼い頃から深くて広かった、先生の趣味や興味の変遷から、医師を目指すようになった動機。また、仕事全般を「楽しい」と話す理由など、興味深いお話を伺うことができました。ぜひご覧ください!
最初にのめり込んだのは電子工作
プログラミングにもハマった小学生時代
今は平成横浜病院で働かれていますが、こちらは地元ですか。
生まれは横浜ですけど、すぐ鎌倉に移って、大学に入るまでは鎌倉に住んでいました。
鎌倉というと観光地ですし、風光明媚なイメージがあります。
田舎ではありましたね。うちは山の方でしたけど、そこから先には行けない袋小路になっていましたし、駅からはバスで2、30分かかるようなところで、インフラという意味ではやや閉鎖的な場所でした。鎌倉のなかでは、少し辺鄙なところに住んでいたんです(笑)。
(笑)。子どもの頃はどんなことに夢中でしたか。
小学生の頃から、電子工作に興味を持っていました。小さい頃から機械に興味があって、聞いた話では、幼稚園のお遊戯会で、みんなが歌ったり踊ったりしている時に、僕だけは音楽をかけているラジカセをジーッと見ていたそうです(笑)。
そんな幼い頃から機械好きだったんですね(笑)。実際に電子工作はどんなことを作られていたんですか。
当時、子ども向けの電子工作情報誌があったんですね。例えば「お風呂が沸いたらブザーが鳴る、センサーを使ったキットを作りましょう」っていうのが載っていて、そこに部品リストが書いてあるので、小学生4年生の頃は、毎週秋葉原のガード下の部品屋さんに通って、部品を買い集めては工作をして、ということをしていました。理論はわからないけど、とにかくその頃は作ることが楽しかったです。
そういったことは、誰かから教わったり、影響を受けたりしたことだったのですか。
誰からも教わってないですね。そのうち今度はプログラミングの方に興味を持ち始めました。
どんなきっかけがあったのですか。
「Apple II」っていうApple社製のコンピュータが当時発売されて、ほかの人が使っているのをみた時に「これだ!」と衝撃を受けて。ただ、めちゃくちゃ高くて、とても小学生では買えないものでした。
当時は相当な価格だったのですね。
その後NECからPC9800とPC8800っていう、ちょっとマニアックな話なんですが、いわゆるパーソナルコンピューターが作られ始めて、小学5年の時、親にNECのコンピューターを買ってもらってからは、パソコンのプログラミングを一生懸命、暇があればずっといじっていました。『マイコンBASICマガジン』っていう、プログラムを発表している専門誌があったので、投稿して掲載されると嬉しくて(笑)。
(笑)。かなり本格的にのめり込んでいたのですね。そういった電子工作やプログラミングに傾倒してる同級生は、当時いましたか。
誰もいないですね(笑)。趣味は全く共有していませんでした。
まだ医学については興味は持っていなかったのですか。
当時は、サイエンス全般が好きでしたね。大学受験を考えるまでは、エンジニアが楽しそうだなと思っていましたし、医学については何も考えてなかったです。うちは父親が外科医をしていて、もちろんそのことは承知して育ったんですが、親も僕に医師になれとは特に言いませんでした。
もともとは志していなかった医師の道
大学では体育会とテニスに打ち込む
では、医師になろうと思ったきっかけを教えてください。
そもそも医師になろうと思ってなかったので、中学・高校と、そう考えて進んでこなかったんですね。当時は公立高校は学区内での受験しかできなかったですから、医学部を目指す人は、学区トップの学校に進学するわけですけど、僕はそのルートにも乗ってなかったので。
受験を前にして初めて、医学部という選択肢が現れたと。
ただ、高校の3年間はずっと勉強以外のことばかりやっていたので、現役ではどこも受験しなかったんですね。今の実力のまま受けても失敗するだろうと思って、受験料ももったいないので、最初からどこも受けずに浪人することに決めました。
初めから浪人を選択されたんですね。高校時代はどんなことに熱心に打ち込んでいたんですか。
小学生の頃からテニスをやっていて、高校でもテニス部に入っていたので、仲間と触れ合う時はずっとテニス。あとは音楽活動もやっていましたし。
どんな音楽活動だったんですか。
中学生の頃にYMO(Yellow Magic Orchestra)が大流行したんですけど、初めて聞いた時に「これだ!」と衝撃を受けて。もともと小さい時からピアノはやっていたので、バンドをやろうと思ってシンセサイザーを手に入れて、学校でYMOが好きな人同士でスタジオに入って、コピーバンドをやってたんです。その流れで、独学で作曲もやるようになって、なので高校の時はバンド活動をやってるかテニスをやってるかでした。
作曲もされていたんですね!
高校の卒業証書授与の時にかけるBGMも、クラスごとにかける音楽を決めて良かったので、担任の先生が僕に「作ってよ」と依頼してくれて、僕が作った曲を流したんですよ。そんなことばっかりしていたので、勉強も特化したことにしか知識がないわけですよ。
そこからどのように医学を志したのですか。
父親も医師をしているのを見ていましたし、医学自体も科学だし、科学をやるっていうことに関しては、興味のある範囲の仕事のひとつではあったので、職業として医師を目指してみようと思って、浪人して受験することにした時に決めましたね。パソコンとかテニスとか音楽とか、いろいろと興味を持ってやってきたことは、医師をやりながらでもできることだなと思いましたし。なので誰よりも早く、高校3年生の10月には翌年に入る予備校を決めて(笑)。
まだみんな受験を控えているなかで、珍しいですね(笑)。
集中して1年勉強すれば受かるっていう自信はあったので、卒業して全寮制の予備校に入学しました。今はもうその予備校はなくなってしまいましたけど、当時は学校の周囲に50個くらいある寮に生徒が住んでいて、本当に勉強以外のことは一切できない。朝6時半に起きると、今も覚えてるんだけど校歌が流れるんですよ(笑)。(実際に口ずさんでくれる)で、10分で起きて、7時に食堂に集まらないと寮監に怒られて始末書を書かされるっていう。
厳しい規律の元で勉強に集中させると。結果、無事に合格されたわけですか。
おかげで私立はほとんど受かって、そのなかで順天堂大学に進みました。僕は純粋に順天堂大学に行きたかったんですけど、なぜかと言うと、テニスができるから。
それが理由だったんですね(笑)。
サークルじゃなくてバリバリやりたかったんです。順天堂大学だけが唯一、全学のテニス部として、体育学部と一緒にテニスをできる環境だったんですよ。体育学部の生徒がメインメンバーなんですけど、医学部でも参加できる範囲で一緒に参加できたので、大学時代は困らない程度には勉強しながら、あとはひたすらテニス。すごく活躍できたというわけではなかったけど、そうやって体育会の人たちと一緒にテニスをしていましたね。最近はコロナ禍もあってできていないですけど、今も一緒にやりますよ。
小学生から今に至るまで、長く続けられているんですね。
もともとうちの父親がテニスをやっていたんですけど、医師をしながらテニスで日本一になったこともあって、意外と有名なんですよ(笑)。
すごい! 両立されているんですね。高校時代に続き、大学時代も割と楽しく過ごされたのですか。
そうですね。1年生の時は全寮制でしたし、学部を超えて1年一緒に過ごすから、生涯の友になりました。
医学部自体は厳しそうなイメージもありますが。
勉強という意味では、それなりに当然やらないといけないんだけど、校風もあるのか、そんなに切羽詰まってる感じじゃなかったんですね。普通に勉強はしていたけど、それに追われるわけでもなく。思い出というと、テニスの場面ばかりで(笑)。
迷うことなく選んだ外科は
「好きだからこそできる仕事」
外科を専門にされたのはどんな理由からですか。
大学を受験する時から、医師になるなら外科医だと決めていました。
それはお父さんの影響もあって。
それもありましたし、電子工作が好きだったのもあって、手先を使うことをしたかったので、医師のなかでは選択肢は外科しかなかったですね。手を動かして行うことに興味があったんです。大学でも5、6年になると、みんな医局をどうするかっていう話で悩むんですけど、僕は全然悩むことはなかったですね(笑)。
(笑)。当然、悩む人の方が多いわけですよね。
だからいろんな教授に話を聞きに行くし、勧誘もされるんだけど、僕は大丈夫です、って言ってました。むしろ、勧誘もされていないところに自分から行って「入れてください」って。
そうやって外科に進む人もいるものですか。
当時も今も、外科に進む人は少数派ですね。やっぱり体力的にはキツいですし、24時間体制で呼ばれて、拘束される時間も長くて、生活上のスケジュールはそれなりに大変でしたから。あえてそれを選ぶのは、物好きかもしれません(笑)。あとは、当然血を大量に見るわけですから、医師のなかでもそれが大丈夫な人と、そうでない人も一定数いるんです。
研修医時代が辛いという話はよく聞きますけど、先生はどうでしたか。
正直、医師の仕事はそれ自体が辛いっていうことは、まったくなかったです。むしろ楽しんで取り組んでいましたね。
どういう意味で楽しかったのですか。
手術や治療をして、患者さんが良くなっていく、っていうそのこと自体ですね。僕は、医学という科学自体が好きで、どうしたらこの患者さんが良くなるか、っていうことを考えることそのものが好きなので。だから仕事として、患者さんが来るから治さないと、っていうことではないんです。
医学が好き、というのは大事な要素と言えますか。
どうやって患者さんを良くするか、そのためには、いろんな情報を収集して、試行錯誤しないといけないわけですから。ましてや、外科は手術で拘束時間も長くなりますし、ある程度そういう気持ちがないと、外科医としては大変だと思います。
確かに外科医というと、手術の拘束時間も長いイメージがあります。
大学で働くようになって、一番忙しかったのは移植手術をやっていた頃だったんですけど、例えば肝移植の手術だと朝8時くらいに始まって、終わるのが翌日の朝4時とか5時ですから。
長いですね…20時間くらいかかる時もあると。
当時は移植外科医の人数も少なかったので、週に2回3回と当直して、2時間おきに患者さんのところに行って検査して、ということを何年もずっとやっていましたね。
体力的には大丈夫だったんですか。
感覚としては、好きなことを好きにやっていただけなので大丈夫でした。20時間の手術も、毎日あるわけではなくて、それが2週間に一回くらいのことですから。
ちなみに、そういった長時間の手術の最中は、どうやって気持ちを保っているんですか。
術者は本当に興奮状態というか、手術のことしか考えてないです。「この血管を切るためにはここからこういかないと」みたいに、手術のことだけを、終わるまでずっと考えているから、ほかのことは考えられないんですよね。たまに考えることがあるとしたら「お腹すいたな」くらいで。それもほとんどないですし、トイレも行きたくないですからね。嫌だなとかキツいなと思ってやっている人は多分いないと思いますよ。
集中すると、それ以外のことが考えられなくなるんですね。
人間、興奮状態になるとそこに意識がいくようにできているから、いつも「気がついたらこんな時間だ」っていう感じです。
知識を生かして医局をデジタル化
電子工作やパソコンなど、小さい頃からいろいろと熱心に取り組まれていましたが、何かそういった興味が医学に生きたことはありましたか。
順天堂大学では肝胆膵外科にいて、さっきも話したように肝移植もしていたんですけど、手術シミュレーションプログラムを作りました。当時取材もしてもらって。
そういった取材も受けられたんですね。ご自身で作られたんですか。
プログラム専門の人とタッグを組みました。独自に関わりがあった人で、プログラムの発表会みたいなところに行って「僕こういう者なんですけど、いっしょに仕事しませんか」って、話しかけて。
こういうことをやられていた方は、当時ほかにいらっしゃったんですか。
ほかの病院のことはわからないですが、医師でやってるという人はいなかったかもしれないですね。あとはプログラムを作ったり、医局内で管理している電子カルテシステムを作ったり、手術用の映像編集をしたりもしました。
いろいろやられていたんですね! どんなモチベーションで取り組まれていたのですか。
純粋に、自分が仕事しやすい環境を構築したいと思ったんです。当時はまだ全てが紙ベースでしたから、電子化したい、今で言うところのIoT(Internet of Things)を導入したいと思いましたし、その流れで、医局にあるパソコンも全部ネットワークにつないで、いろいろなことができる状態にしました。そういう環境を構築すること自体も、楽しんでやっていましたね。
結果、一緒に働くみなさんにとっても便利な環境になると。
うちの医局だけは、ハイテクな環境を構築していましたね。当時はまだレントゲン写真もフィルムが主流で、PACS(医療用画像管理システム)への移行期でしたから。CTの画像も、まだライトテーブルの上でトレース紙にトレースして、パラパラ漫画みたいなことをして計測してましたよ。
今から考えると、だいぶアナログですね。
だから全部デジタル化しようとしたんです。タブレットを使ってモニターに絵を描いて、画像に書き込んで、画像処理をする、というようなことをしていました。
当時から、だいぶ進んだ取り組みをされていたんですね。
次回:家族の誕生を機に移った平成横浜病院。地域での認知度を高めて、さらに頼られる病院へ!
子どもと過ごせる環境を求めて
平成横浜病院に入職
この平成横浜病院に入職されるまではどんな経緯でしたか。
当時は東京都内に住んでいたんですけど、結婚して子どもができて、子どもと一緒に過ごす環境を整えようと思ったんですね。大学病院では、ある程度やれることはやり切ったというのもありましたし。それで地元に帰ることにして、働けるところを探していたところで、縁あってこの病院に入職しました。
神奈川県内で移る先を探して、出会ったのがここだったと。移ってからの仕事の内容はどんな感じでしたか。
いわゆる外科医でしたよ。当時は今と違って、大学からの外科ローテーションの派遣施設になっていたので、外科医が4、5人いましたし、初期研修みたいな医師も回ってきていましたから、外科チームとして仕事をしていました。広く消化器外科をやっている、という感じですね。胃、大腸、肝臓、あとは体表手術、ヘルニアとかそういうことも含めて、ここにきた時は何でもやってました。
働き方としてはだいぶ変わりましたか。
大学で働いていた頃は病院に朝8時からいて、夜は22時くらいまで毎日いるのが当たり前の生活習慣でしたけど、こちらに移ってからは、夕食の時には家に帰れましたから。子どもと過ごす時間を増やしたいっていう目的は達成できました。
移った当時は、まだこのグループの運営ではない頃でしたか。
まだ前身の病院でしたね。働き始めて1年半くらいしたころに、運営企業が医療部門を手放すっていう話になって、「えっ」って思っている間に、このグループに変わっていきました。
以前この記事で、平成横浜病院の日高事務長や古谷看護部長(※)に、移行前後の話を伺ったんですが、森岡先生の視点からは、当時どう見えていましたか。
最初は、正直どうなるか全くわからなかったですね。この近辺では働き続けるつもりでしたけど、完全に外科医を辞めるようなことになったら、どうしようかなと思っていました。ただ、このグループに運営が変わると決まって、代表が説明に来た時に、急性期の病院機能はある程度維持しながらやっていくので、いきなり療養病院になるようなことはない、と話がありました。それを聞いて、それならなんとかなるなと。
外科医としての仕事も維持しながら働いていけるということを思われて。
実際に、仕事としては維持できることになったし、残ろうと。それに、以前は患者さんの受け入れにそこまで積極的ではなくて、空床がある日もザラでしたけど「それは普通じゃないんだ」ということも話をされて。僕としても「普通じゃなかった」という感覚がありましたから(笑)。
なるほど(笑)。考えとしては合うところがあったのですね。
外科医の見識を生かしながら
総合診療医として活躍
実際、平成横浜病院としてスタートして、先生の役割は変わったんですか。
外科医と言いつつ、何でもやるようになりましたね。そもそも外科医は、何でもできないと務まらないところではあるので。
それは、全身の状態を見る必要があるからということですか。
そう、全身管理ができないと、外科医はそもそもできないんですよ。外科のところに行くまでに、内科的なところを管理できないといけませんから。結果、外科医としてのウェイトは減って、総合内科のことをやる割合が増えました。今はそちらがメインになっていますね。それはもちろん、外科医的な知識があるからこそできる部分ではあるんですが。
今は外科医としての経験を生かしながら、総合内科の仕事を中心にされていると。
今はちょうど外科医が減ってしまったので、外科については、例えば内視鏡手術であるとか、1人でできる全身麻酔の手術とか、安全を担保しながらできる範囲でやっています。今後外科医が増えれば、やれることも増えるかなというところです。それと、日本感染症学会が制定した、インフェクションコントロールドクター(ICD)という認定を持っているので、今は新型コロナウイルス感染症関連の仕事も割合が増えていますね。
診療統括部長という肩書きをお持ちですが、どういった役割を担っているのですか。
一般診療に関わることでの調整ですね。診療に関する体制づくりというところで、診療の質に関する部分の管理をすると。とは言いながらも、いろんな部署で困りごとがあった時に、電話がかかってくる人、という方がイメージしやすいかもしれないです(笑)。
(笑)。いろんな相談を受けられているのですね。ではお話を聞いて、改善案を提案されて。
それもありますし、実際に自分でも対応します。何でも屋さんの窓口みたいなものですね。スタッフが誰に相談していいかわからない時に、相談をもらっています。
地域の患者さんを支えるため
リハビリテーションに強み
運営がこのグループに変わった今、平成横浜病院はどういった病院だという認識ですか。
とにかく地域に根ざして、地域の人が困っている時に、手助けしてあげられる病院ですね。本当の高度救命救急的なことをやるような体制ではもともとないし、そういう病院は実際ほかにありますから。そのうえで、もし高度救命的なことが必要な患者さんがいたら、適切につないであげるとか、近隣のクリニックの患者さんが入院しなきゃいけない、って困っている時に、そのお手伝いができる病院。ある意味、何でも屋として動くことが必要ですね。
困っている方を、幅広く受け入れると。グループとしては、リハビリテーションに力を入れていることも特長ですよね。
患者さんを地域で見る、っていうことがよく言われていますけど、そのためには、入院された患者さんが地域に戻って生活する必要があるわけですから、リハビリが何よりも重要です。幸いグループはリハビリに力を入れていますから、この規模の病院で、100人以上リハビリスタッフがいるところはそう多くないと思いますし、よくほかの病院の人にも驚かれるんですけど(笑)。中堅の地域病院で、これだけの人員がいて、リハビリが受けられるのは珍しいと思います。
地域の患者さんにとっては、それがプラスになるわけですね。
それが病院としての強みですね。患者さんの機能回復という意味では、高度救命救急を除いては、初期の治療時からリハビリが同時スタートするのがいいわけです。まずは治療だけ、ということでも手遅れではないんですが、スタートとしては遅くなりますから。
そのためには、それだけの人数が必要になると。
そのためには、それだけの人数が必要になると。
治療と同時スタートになると、それなりのマンパワーが必要になるから、これだけの人数が必要になるんです。グループとしても「365日毎日リハビリ」って、非常にいいスローガンですし、実際に実践していますからね。
院内の仕事をいかにスムーズに回していくか
楽しみながら取り組む運用の仕事
先ほど、ICDとして新型コロナウイルス感染症対応もされているとお話しされていましたが、具体的にどんなことをされているのですか。
発熱外来の設立に携わりました。いろいろと各所と調整・相談をして体制を作って。外来の運営スタイルやマニュアル作りにも中心的に関わらせてもらいました。実際に発熱外来の現場にも立っています。
それは今まで培った知識を活かして。
あとは、先ほどお話ししたように、診療統括部長として各所からいろいろな相談も受けていますから、うちでやるにはどうしたら回るのか、ということについては考えやすいわけです。この発熱外来に限らず、運用方法を決めて提示して、OKをもらったら展開するっていう形で、いつも進めていますし、いかに円滑に回るか、そのためのルールづくりを心がけています。
もともと、大学病院で働いてた時からそういうことを考えてこられたんですか。
なるべく効率良く仕事を進めたい、という根源的な考えは変わっていませんね。プログラムを作って、スタートボタンを押したら、エラーを起こさずに完遂できるようなマニュアルを作りたい、というのがずっと考え方としてあります。もしひとつエラーが起きても「if」っていう分岐をそこに追加して、こういうエラーが起きたらここに分岐して、ということは、昔から日常的に考えてきたことですから。
子どもの頃からプログラミングに触れてきた先生ならではの考えかもしれないですね。
役割として、診療統括部長というものになりましたけど、そういうフローチャートを考える作業自体は嫌いじゃないんです。発熱外来に限らず、普段の診療部の運用、例えば内視鏡の運用をどうするか、手術室の運用をどうするか。病院経営に関わることは僕はノータッチですけど、内部をいかにきれいに回していくか、ということについては、僕の仕事の範疇だと思って取り組んでいます。
先生としては、お仕事のモチベーションはどんなところにありますか。
常に今言ったこと自体がモチベーションになっていますね。仕事で、こういった組み合わせをいろいろ考えていることは、1日1日のゲームをクリアしていこう、という感じで楽しんでいると言えますね。ゲームというと語弊があるかもしれないですけど、普段の仕事そのものがある意味楽しみのひとつなんですね。だから、手術の話と同様、運用についても好きでやっているんです。
当然こういった仕組み作りは、スタッフみなさんも働きやすくなるためのものなわけですよね。
そう思って取り組んでいます。うまくいけばトラブルが少なく回っていきますから、つまりそれは患者さんにとっても良い状態なので。
全方位的にメリットがあるということですね。何か今後の展望はありますか。
もっと病院の認知度を上げたいですね。このグループが運営するようになって、スタンスが変わったわけですから、その認知度を地域でもっと上げて、困ったらあの病院に行けばちゃんと見てもらえる、ということを、地域のみなさんが当たり前に思ってくれるようにしたいなと。
大学病院のような、高い専門性のある病院が目標ではないと思うのですが、そうなると、ひとつひとつの充実度が大切になるんでしょうか。
そうですね、当たり前のことが滞りなくできるということが大事です。けっして特殊なことを目指していく病院ではないですから、ひとつひとつを確実にやっていきたいですね。
映画・ドラマの医療監修や出演
さらには空撮まで…!
では、お仕事以外の趣味などのことを伺いたいんですが、ここまでお話聞いただけでも、いろいろとありそうですね。
プライベートの話をするとキリがないですね(笑)。
ではその一部を伺いますね(笑)。お休みの日は何をやられていることが多いですか。
ドローンを飛ばしての空撮ですね。週末にちょこちょこ撮っています。
依頼の有無に関わらず撮影されていると。
そうですね、隙があれば日々撮っています。撮った動画は公開しているので、それを見て「テレビのワンシーンで使わせて欲しい」っていう依頼や、「こういう上空のシーンが欲しいので、撮ってくれませんか」っていう依頼も来ます。以前、病院スタッフのみんなで『パプリカ』(※)を踊ったんですけど、これもドローンなどを駆使して撮影しましたね。
ちなみにお子さんは森岡先生のこういった趣味には興味を持たれるんですか。
小学生の男の子が2人いるんですけど、興味は持ってくれてます。積極的にというほどでもないですけど、例えばドローンのシミュレーターも触らせると、普通にできるんですよね。
映画などで医療監修もやられていると伺ったんですが、どういったきっかけがあったのですか。
大学病院に勤めていた時に、僕がいたチームが『孤高のメス』っていう、日本初の生体肝移植をテーマにした映画の監修依頼を受けたので、僕もその手伝いに行ったのが初めてでした。
実際にどういうことをされたんですか。
移植に関する映画ですから、ヒューマンドラマ以外のシーンほとんどの監修ですね。あとは手術シーンで使う、臓器のフェイク模型の3Dモデルを提供して、美術とか特殊造形の専門家の人と打ち合わせして、作っていきました。こういうやつですね(写真を見せてくれる)。
おお、リアルですね。監修自体は、大学のチームのみなさんで取り組まれて。
そうですね、手技の実地指導はみんなで担当して、なかでもこういう造形とか細かいことは僕が担当しました。実際、ラストシーンに麻酔科医として出演もしましたからね(笑)。
出演もされているんですね(笑)。監修については、これがきっかけでほかの作品にも携わるようになられて。
この時に、スタッフさんも役者さんも知り合いができたので、その後も何かと声をかけてもらって、今までたくさんやらせてもらいました。
現場にどっぷりと入るようなものもあれば、もっと簡易的なものもあるのですか。
そういうのもありますね。「こういう医療シーンがあるんですけど、おかしくないですか」って相談を受けて、監督や脚本家とメールでやりとりして、セリフを含めて台本を修正するとか。最近は役者としても出演しましたよ(笑)。
監修じゃなく、役者での依頼もあるんですか(笑)。
吉永小百合さんが訪問診療医役を演じられている『いのちの停車場』(※)という映画なんですけど。訪問診療医になる前のキャリアとして、救急の現場で働いているシーンがあって、その部下役として、リアルにやってもらいたいということで依頼をいただいて。多分冒頭の方に出てくると思います(笑)。
ぜひチェックしてみたいと思います!
ちょっと前に『浅田家!』という映画でも監修をやらせてもらったんですけど、たまたまグループの介護施設のスタッフで映画を見た人が僕の名前をエンドロールに見つけて、「先生出てたんですか!」って話しかけられました(笑)。
プロフィール
森岡 研介
平成横浜病院 診療統括部長
もりおか けんすけ
【出身】神奈川県鎌倉市
【専門】外科・消化器科・総合診療科
【趣味】テニス、音楽、ドローン、車いじり
【好きな食べ物】牛丼(大盛り・ツユだく・みそ汁・卵・おしんこ)
病院情報
医療法人横浜 平成会
平成横浜病院
内科・神経内科・呼吸器内科・消化器内科・循環器内科・外科・泌尿器科・皮膚科・整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科・歯科・歯科口腔外科・麻酔科・脳神経外科
地域に根ざした病院として、一般病棟、地域包括病棟を備え、回復期リハビリテーション病棟を新設しました。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。2018年6月には、総合健診センターがリニューアル。地域の健康を支えていけるよう努めています。