心理士として目にしてきた、人は変わっていけるという可能性 教育の現場での約10年を振り返ります/世田谷記念病院 臨床心理士・公認心理師/岡崎美帆さん
心理士として目にしてきた、人は変わっていけるという可能性
教育の現場での約10年を振り返ります
世田谷記念病院で臨床心理士・公認心理師として働く、岡崎美帆さん。もともと心理職を目指していたわけではなかったという岡崎さんは商社への就職や、「宝物だった」と語る濃密な子育て期間を経て、あらためて臨床心理士を目指しました。心理職に就くまでの経歴や、実際に心理士として教育の現場で多くの親子と向き合った日々について、伺いました。ぜひご覧ください!
鎌倉が自分の原風景
心理職の方にメインで登場いただくのは初めてなので、どんな職種なのかというところも含めて今日はお聞きできればと思っています。
うまく話せるかな(笑)。
(笑)。資格としては、以前からあった臨床心理士に加えて、最近、公認心理師という資格ができたんですよね。
心理職で、初めて国家資格として3年前に認定されたのが公認心理師ですね。そちらも取得して、ダブルライセンスで今は仕事をしています。資格が増えても、仕事の内容自体には特に変わりはないですね。
普段は心理職として病院でどのように動かれているのでしょうか。患者さんのメンタルのケアというイメージがあります。
そうですね、当初は医療療養病棟があったので、そこでは緩和ケアであるとか、回復期リハビリテーション病棟の患者さんに関しては障害受容(※)であったり、復職に対する相談だったりとか。あとは例えば、突然一家の大黒柱が倒れたことで、戸惑われるご家族へのケアであったりですね。スタッフのメンタルケアにも携わっています。
患者さんだけでなく、ご家族やスタッフのケアにも関わるのですね。もともと出身はこちらの方なんですか。
出身は神奈川県の鎌倉市です。
歴史ある土地ですね。
すっかり観光地化されているけど、一歩路地に入ると、幼少期の頃の風景がそのまま残っていて、私の原風景は鎌倉かもしれない。
ご自身にとっては当然、観光地としての側面よりも、生まれ育った大切な場所なわけですよね。
「あそこをおじいちゃんと手をつないで歩いたな」とか、「あの店におばあちゃんと入ったな」とか、そういうことを思い出しますね。父は海に素潜りで入ってタコを取ってました(笑)。
豪快ですね(笑)。どんなお子さんでしたか。
どうだったかな。まあ元気な子どもでしたし、自分のなかでは「幸せな幼少期」という思い出ですね。
鎌倉にはある程度の時期まで住んでいたんですか。
中学・高校時代は、東京で寮生活をしていました。
小学校を卒業して地元の友だちの元を離れるのは、寂しい気持ちになりそうです。
もちろん。だから泣いて抵抗した記憶もありますね。でも祖母の代から縁があって、私も考える間も無く入学していて(笑)。入ってしまえば楽しかったですけどね。
その後はどういう進路を辿られたましたか。心理職につながるような進学をされたのですか。
それが、恥ずかしいんですけど当時の私は受験の「じゅ」の字も知らないような状態で、高校3年生の2月くらいに受験しようと決めた時には、大学の名前自体を2つか3つくらいしか知らなかったんです。憧れだけで、そのうちのひとつを受験して、入学できました。
バブルの波に乗った
イージーな就職活動
大学当時は心理系の仕事に就こうという考えはありましたか。
それこそ、臨床心理士が資格として認定されたのが、私の大学在学中なんです。その頃はぼんやりと、そんな職業もあるんだなくらいの認知しかなかったですし、そもそも「将来こんな仕事をしたい」みたいなこともなかったので、頭の片隅に置いたぐらいでしたね。
まだまだ大学在学時は心理職を志してはいなかったのですね。
卒業の頃はバブルの時期だったので、イージーな就職活動の波に乗って(笑)、総合商社に就職しました。
イージーな(笑)。バブルの頃の商社と聞くと、派手というか、今以上に勢いがあったというイメージです。
なんだろう、今思えば業界全体が活気があって、勢いづいてた感じはありましたし、楽しい思い出もありますよ。でも私自身は深く考えることなく入社したのに、社会人として大事なことをたくさん教えてもらって、すごく貴重なステップを踏ませてもらったなって思います。
社会人的な基礎とか仕事の仕方を教わったと。お仕事自体はどんなことをされたのですか。
為替を扱う部署に入ったんですけど、商社は海外との取引があるので、輸出入で扱う費用を、どの国のレートで換算すると得になるか、という、社内の銀行的なお仕事でした。ただ、勉強することもたくさんあり、まだまだこれからという時期でしたが、結婚、妊娠を機に退職することとなりました。
為替の仕事に本格的に取り組む前に、退職を迎えたんですね。
先輩たちとしたら「今から教えるぞ」っていうところだったと思うんですよ。今思えば、そんな私を快く送り出してくれたのは、感謝しかないですね。同期入社の子たちとは今も付き合いがあって、お互い人生の支えになっています。
宝物のような子育ての時間
経験を生かして臨床心理士へ
退職されてからはどのような生活を送られたのですか。
私は、専業主婦になることが、夢じゃないけど、楽しみだったんですよ。子どもは年子で生まれたので、ギュッと凝縮した濃密な子育て期間を経験して、大変だったけど楽しかったんですよね。
では専業主婦として、年子のお子さんを育てられて、充実した時を過ごされたのですね。
自分でもそれをしたかったんでしょうね。もう、今振り返っても私にとって宝物の時間です。
そこから臨床心理士になったのはどのような経緯なのですか。
子どもたちが小学校にあがるころになって、子育てのステージとしても、ここから先は彼らの自立を見守る役割になっていくんだろうなと思ったんですね。「じゃあこの先の自分の人生をどうしよう」と考えた時、仕事として頭に浮かんだのが、臨床心理士だったんです。
そこで初めて仕事として心理士を考えられたと。以前から心理学や心理職に興味を持っていたのですか。
昔から心理学というか、人が好きで、興味関心はありましたし、専業主婦の頃も、心理系の本を読んでいました。私自身がそういうところにアンテナを張っていたからだとは思うんですけど、臨床心理士という仕事も認知度も上がってきて「この仕事なら、生涯なんとか自分の仕事として続けていけるかな」と思ったんです。
先々まで続けていけると思われたのですね。
あと、自分にとって大事だった子育ての時間を、回り道としちゃうのはもったいない気がしたんです。このこともちゃんと次に生かしていけると思ったんでしょうね。でも、その時初めて調べて、臨床心理士になるには指定された大学院を卒業しないといけない、っていうことを知って「ウワッ」と思いました(笑)。
(笑)。そこで初めて、道筋を知ったわけですか。
なので当時、夫には「半年だけ勉強して、翌年2月の大学院の入試を受けさせて欲しい」と伝えました。受かるまで挑戦するという気持ちもなくて、そこでダメだったら潔く諦めようと。勉強からも離れていたので、実際あんまり自信はなかったんだと思います。
でも努力の甲斐あって無事に合格されて。
大学院に入ってからは、子育てをしながらの修士論文や修士課程が思ったよりも大変だったので、ヒイヒイ言いながら卒業をしました(笑)。
その時はお子さんおいくつになっていたんですか。
小学校の2年生と3年生でしたね。もともと専業主婦だったので、そこを手放すのもなかなか大変でした。最初から共働きで子育てしていたら、子どもにとってもそれが日常になって、お互い理解や工夫ができたと思うんですけど。私はどっぷりと子どもとの時間に使っていたので、お互い切なくなってしまったし、ちょっと苦労したかもしれない。だからって、後悔したということではないですけどね。
お互い戸惑うことがあったのですね。2年間はかなり大変だったでしょう。
家でも子どもたちを寝付かせた後に勉強していましたね。大学院受験も含めて、若さゆえの奮起力。今となってはとてもとてもできないかな。
そこから大学院を卒業されて、臨床心理士の資格を取得されたと。
卒業した年に資格試験を受けて、自治体の教育委員会に就職をしました。
学校生活につまずいたお子さんの
成長過程を見守る
当時の臨床心理士の活躍の場は、どんなところが多かったですか。認知度は、それこそ制度ができたときよりは広まっていたと思うのですが。
教育分野が一番多かったんじゃないかなと思います。スクールカウンセラーや教育相談もありましたし。あとは児童相談所など福祉の分野と、医療分野、その3つが大きかったと思います。
岡崎さんはそこから教育分野を選ばれたと。
自分の子育てのステージともかぶっていたこともあって、一番興味があった分野でした。
そこでは実際にどういうお仕事をされていたんですか。
学校生活につまずきのあるお子さんと親御さんのプレイセラピーとカウンセリング、教育相談室みたいなことをしていました。9時から17時まで50分ごとで枠が決まっていて、そこは母子並行面接といって、心理士がそれぞれ、お母さん担当とお子さん担当でついて、2週間に1回、定期的に会っていくんですね。1日のケース数で言うと、多くて7ケースぐらい。このケースでは親御さん担当、このケースではお子さん担当、という感じで会っていました。
どんなお悩みが多かったでしょう。
学校生活につまずきということで言うと、不登校のお子さんの悩みが一番多かったです。親御さんの意志で来られる場合もありましたし、先生からの依頼もありました。
どのようにお話をされていくんですか。もちろんケースバイケースだとは思うんですが。
そうですね、本当にいろんなケースがありました。発達が特性としてグレーゾーンのお子さんがいたり、場面緘黙(かんもく)って言って、自宅では話せるのに、学校では一切話せなくなっちゃう、動けなくなっちゃう子がいたり。そういう子のプレイセラピーでは、初めは入り口から一歩も動けないから、その横にずっと一緒にいるところから始まるんです。
まずは入り口から関係性を作っていくと。
でも、その子は私がそこで働いている間、ずっと長い期間通ってくれて。低学年の頃から通い始めて、中学生になった頃は、本当にたくさんお話ししてくれるようになりました。そういう子どもの成長過程をみれるのは、醍醐味だったかなあ。
時間をかけるうちに、そこまでの関係になっていかれて。
「学校でこんなことを言われたけど、その場では何も言えなかった」みたいなことを、ここで振り返ってくれるんですけど、そのなかでだんだんと「こんなこと言ってみたよ」とか、「じゃあ次はこんなことを言ってみよう」とか、学校のこともいろいろと話してくれるようになって。
いい居場所ができたと言う感じだったのかもしれませんね。
そうだったらいいですね。自分を振り返りながら調整しながら、また学校に出向いて、また戻ってきて一休みしながら立て直す、みたいな感じでしたから。
お話を聞いて完結することもあれば、例えばほかの福祉のサービスにつなぐこともあるんですか。
必要があればそういうこともあります。例えば、発達的な検査を受けてみることが、お子さんにとっていいと思ったら提案します。親御さんがそういうことに抵抗がある時は「発達的な特性を理解することが、お子さんのためにも親御さんのためにも有益なんですよ」っていうことをお話ししていました。
固有の特性として理解するということなんですね。やはり戸惑われる方も多いのでしょうか。
ようやく今は発達障害という言葉も認知されてきていますけど、抵抗を持たれる方も多かったと思います。
どんなことを大事に接していかれていましたか。
不登校になったお子さんを含めて、どんなお子さんであれ、学校生活を軸にした場合、学校に行けないことがマイナスになってしまう。けれど、その子の人生や、その子の今の時間にとって何が必要かと考えると、学校生活からちょっと違う一息つける場所としてここを使ってもらって、また元気になって、もし戻れるなら自分のタイミングで学校にも戻れたらいいね、って。
確かに、つい学校生活を軸に考えてしまいがちです。
ただ、一方で教育委員会にいる立場なので、先生方とも連絡は取り合いますから「いつ戻れますか」と聞かれることもありますし、間には立たされていましたね。そこは理解してもらえるように、学校に出向いてお話をすることもありました。
難しい立場として、いろいろなケースを目にされてきたわけですね。
そうですね、10年近く働きましたが、心理職としてすごい鍛えられる時間だったと思います。
人が変わっていく可能性を
たくさん見てきた
ここまで伺ったようなやりとりというのは、大学院などでもある程度学ぶことなのですか。
基礎知識だったりセオリーは学びますけど、それは机上の勉強なので、やっぱりやっていきながら、経験値を積んで学びました。あとは事例検討会で、ほかの方の事例を聞いたり、自分もスーパーバイザーからアドバイスを受けたり、鍛錬の時間でしたね。
素朴な疑問なのですが、深く悩みを聞きすぎて、自分が落ち込むということはないのですか。
それはよく聞かれるんです。「一緒に落ちていかない?」とか「持ち越しちゃわない?」とか。でも、私の考えとしては、相談者の抱えている悩みを、私が代わりに担ってしまうことや「こうしたらいいですよ」っていうおこがましいことは言えないわけです。相談者の方が、この問題を解決も含めてどう抱えたらいいだろうと考えるには、1人だけで考えるよりは、安全な場所でそれを少しずつ言語化していく作業の方が、建設的で、ちょっと違う視点で捉えることができる、っていうイメージでいます。
適切な距離感が大事そうですね。
私が教えてもらったのは、相談者の方の悩みに対して、向き合って解決するのではなくて、「〇〇さんのこの問題は、どうしたら楽になるんでしょうね」って、問題を2人で俯瞰して見るんですね。私と相談者と問題、その三角形を作るっていう考え方は、けっこうコツだと思います。
そうやって関わっていくうちに、少しずつ変わっていくと。
子どもも親御さんも、その人の持っている力で成長していく、変わっていきます。例えば虐待に近いようなことをしていたお母さんであっても、変わっていきましたし、そういう可能性を、その人の力を信じられる、というケースをたくさん見させていただいたので。
だからこそ、一緒に悩むわけではない、ということにつながっていくのですね。
相談者の方が抱える問題なので、私としては一緒に苦しむというよりは、「苦しんでいることはわかっています」っていう存在でいいんだろうなって。
なかなか時間がかかって難しかったというケースもあるわけですよね。
そもそもですよ、カウンセリングは時間がかかりますし、そんな1回2回で解決することではないわけです。
教育委員会でやられていたことは長く相談されることが前提だったと。
相談される方が「卒業します」と言うまではお付き合いします。親御さんとしては、気持ちは先生に近いというか、なんとかしてもう一回学校に戻ってほしい、と思われる方も多かったですね。
実際に戻られる方もいれば、ほかの選択肢を取られる方もいて。
そう、いろいろでしたね。今は教育支援センター(適応指導教室)みたいな、フリー教室も増えていますし、選択肢は多くなっていると思います。
10年程度働かれるなかで、取り巻く環境や空気の変化は感じられましたか。
大きく何かが変わってきたわけではないけど、そういった学校に戻る以外の選択肢に対して親御さんが「選んでいいのかな」っていう葛藤が少し和らいで、ちょっと手を出しやすくなっているかもしれません。私自身は、そうやってたくさんの方にお会いするなかで「学校に戻ることだけが全てではないよね」って、本心で思えた気はします。
ほかの道を選んでも「人生その後も大丈夫だよ」というようなことですか。
そこまで楽観的にも考えてはいないんです。だから「学校に行かなくてもいいんじゃない」って無責任なことは言えないし、この人の人生を舵取りする、無責任なこともできない。だけど「どうしよう」って迷っているところに、並列として「学校に戻る以外の選択肢があっていいんだよ」とは思いますし。自分でそれを選んだっていうところを見届ける、みたいな、そんなイメージかもしれません。
ご自身で考えて選ぶということが、大事なんですね。
そう思います。社会通念や価値観じゃなくて、それが、その人らしさみたいなものなのかなって。
「心理士とは何か」から始まった病院での仕事
個として患者さんと向き合う
教育委員会の現場で長年働かれた後に、世田谷記念病院へ入職されたのは、どんなきっかけがありましたか。
当時、この世田谷記念病院に心理士を置こうという話が出て、そこでちょうど縁があった私に声をかけていただいたんです。
岡崎さん自身、医療分野にも興味は持っていたのですか。
もともと興味はありましたけど、具体的にどういうことがしたいとか、そういう考えはなく、漠然とした興味でしたね。ただ、教育の現場にずっといることで、自分も鈍感になってしまうところもありましたし、新しい場所で勉強したいなと思っていたタイミングで、このお話をいただきました。
ちょうどほかの分野にも目を向け始めたタイミングでのお話だったと。グループで言うと、精神科のない病院で臨床心理士がいることは珍しいですよね。
お仕事はどんなところからスタートされましたか。
言ってしまえばこういった回復期の病院に心理士は基本的にはいないですから、まずは患者さんよりもスタッフのみんなが「心理士っていったいなにするの?」っていうところからのスタートでした。私もどんなことをするか手探りでしたし、ほかのスタッフからしても、どういう仕事を振っていいのか、お互いそういう状態だったと思います。最初はどうしていいのかわからなかったので、回復期の病院で心理士をしている方を探して、千葉にあった病院まで行って、研修させてもらいました。
患者さんとはどのように関わっていったのでしょう。
当時いた医師から「この患者さんに介入してみてください」ということで、高次脳機能障害の患者さんやうつ病の患者さん、認知症の患者さんなど、いろいろな方に介入して、カンファレンスで心理的な見立てを伝えて、連携を取れるようなら取っていって。その時期は「こういう患者さんにはこういうことができる」っていうことを探る時期だったのかなと思います。
実際にどんなことをされるのですか。
基本的にはお部屋に伺ってカウンセリングをするんですけど、患者さんによってアプローチは違います。ただ、最初は焦りもありましたね。
どんなことで焦りを感じましたか。
例えば患者さんと関わる医師、看護師、リハビリスタッフは、みんなわかりやすく自身の役割があって、やっていることが見えて、結果も数値で目に見えますよね。そのなかで、心理士のすることは目に見えないし、結果を数値化することもできない。私が介入した患者さんが元気になられた、でもそれは心理士がどういう関わりでどの部分に関与したかって、結果としては出せないじゃないですか。そこで「心理士には一体何ができるんだろう」と、最初は途方に暮れていました。
患者さんと関わりながらも、結果が見えづらいことで悩まれていたのですね。どのように悩みを解決されたのですか。
私のスーパーバイザーをしてくれている先生に相談しました。そこで言われたのが「医師や看護師、リハビリスタッフが明確な役割を持って治療や指導にあたるから、患者さんは入院生活では圧倒的に受け身でいる時間が多い。そのなかで、あなたぐらいは『個』として、患者さんの前に座って、患者さんが主体になって話せる場を作ってあげたらいいんじゃない。あなたの持ち味はそういうところだと思う」という言葉でした。それは今でもすごく心にとめてますね。
素敵なアドバイスですね! 確かに入院中は「受ける」機会が多いですし、入院や治療のことで、ひょっとしたら言えていないこともあるかもしれません。
それ以外にも、治療に直接関係ないことでも、例えば突然受傷したことで以前の生活から切り離されてしまった気持ちとか、そういうことをお聞きすることもありますね。そうした姿をほかのスタッフが見て、少しずつ声をかけてもらえるようになったのかもしれません。
なるほど、そういったケースを重ねていくのをみなさんが目にして「じゃあこういうお仕事をお願いしよう」と。
そう思っていてくれてたらいいなと。自分ではわからないので(笑)。とにかく「まずは私を知ってもらうことだな」と思って取り組むようになってからは少し楽になりました。
患者さんだけでなく
スタッフのメンタルケアにも携わる
今はどういう流れで患者さんと関わっているんですか。
医師から依頼を受けて、介入することが基本ですね。そのほかにも、スタッフから「ちょっとこの患者さんなんだけど」って相談を受けて関わることもありますし、この病院に心理士がいると知ったご家族から依頼をいただくこともあります。もちろんその際も主治医の許可を取って介入しています。
医師に限らず、いろんな方が心理士が関わる必要性を感じられて、依頼されているんですね。
みなさんが、心理士が必要だという視点を持って患者さんに対応されていることがとても嬉しいですね。ちょっと横道にそれるんですが、私自身が介入するだけでなく、例えば理学療法士さんが、自分がどう患者さんに関わっていいか、という相談を受けることもあって、それもすっごい嬉しくて。その職種の専門性に、心理士的な視点をプラスできたら、もっといいものになるはずだと思いますし、そうやって相談をくれることで、私もいい刺激を受けますね。
それこそ、まさにお仕事が院内で認知されたということかもしれませんね。
だといいですね。ある程度みんなが知ってくれていて、悪くは思っていないのかなって…びくびくしながらですけど(笑)。
(笑)。最初にもお話がありましたけど、スタッフさんのケアにも携わるのですか。
スタッフが笑顔で働ける職場づくりとして、私ができることをできたらと思っています。患者さんやご家族に「この病院に来て良かった」と思っていただくためには、やっぱりスタッフが元気でいないといけませんから。
スタッフさんからの相談はどうやって受けているんですか。
個人的に相談をもらってますね。それこそ院内を歩いてる時に声をかけてもらうこともあります。仕事をしていれば精神的に疲れることもありますから、みなさんをエンパワーしていくようなことをしたいなって、漠然と思っています。
想いを持って働いていると、話を聞いてもらいたいということもありそうですね。
今はコロナ禍の状況でできていないんですが、院内に限らず、グループのリハビリテーション部や看護部の役職者のメンタルケア研修にも呼んでいただいています。本当に、みんなに元気であってほしいと思いますね。
例えば、患者さんに対する時とスタッフさんに対する時とで、同じ話を伺うという行為の姿勢にどういった違いがあるのですか。
まず、患者さんは入院期間が決まっていますし、リハビリを受けて元気になって自宅に帰っていただくという大きな目的があるわけです。なので、人生の問題を解決するというよりは、入院生活のなかで、リハビリの阻害要因となる心配事や悩みがあった時、私が関わって元気になってもらいながら、またリハビリに取り組んでいただけるようにつなげることが、役割となります。
期間がある程度決まったなかで、リハビリにしっかりと取り組んでいただくためにお話を伺うと。
かたやスタッフの方は、患者さんと違って期限はありませんので、悩みを少しでも解消してもらって、元気に働いてもらえたら、というところですね。
ちなみにコロナ禍になって、スタッフさんの心理に与える影響はありますか。
例えば今は職員食堂でも、感染予防のために会話を禁止していますけど、ああいうことで本当にコミュニケーションが減ったと思うんです。食堂ってそういう場だったので、私も残念に思っています。
入職当初に、大きな経験となった
ご家族とのエピソード
いろいろな患者さんと接してこられたと思うのですが、今までで印象に残っているケースはありますか。
最初の頃に印象的だったのが、突然脳疾患で倒れて入院された70代の男性の方で、お子さんたちから相談を受けました。もともとはリハビリに取り組んで在宅復帰するつもりだったのですが、介助が必要になられて。ただ、ご自宅にはもともと要介護の奥さんがいて、どちらも家族でみるのは難しいということで、お子さんたちとしては「申し訳ないけどお父さんは施設で生活してほしい」と。それをどう伝えたら納得してもらえるか、というご相談でした。
なかなか難しいシチュエーションですね。
頑固者のお父さんと、それに反発するお子さん。コミュニケーションを上手く取れないご家族だったんですね。最初はそのことを伝えるのをお願いされたんですけど、そんな大事なことは第三者が言うわけにはいかないと。それで実際、お子さんから施設のことを患者さんに伝えた時、ご本人はその場では何も言わずに、ただしかめっ面をして話を聞くだけでした。
その後はどうなったのですか。
患者さんと2人になって「どうでした?」と聞くと、「自分が築いた家庭に、なんで帰れないんだ!」と、泣いたり喚いたりされて。そういう気持ちをしばらく毎日聞いていたんです。最初はすごく愚痴を言われていたのですが、そのうちに「一家の主人である自分としては、子どもたちの困ることをするのは本意ではない」という気持ちに落ち着いていかれました。
お話を重ねていくうちに、気持ちが変わっていかれたのですね。
「だから自分が施設に行く」と。「自分が先に行って、奥さんが来るのを待つよ」と私におっしゃったんです。子どもたちがずっと介護に携わるのも大変だから、奥さんのことも自分が面倒みると。ただ、ご自分の出した結論をお子さんたちに伝える前に「自分の想いはここでたくさん聞いてもらったから、子どもたちには余計なことは言わないで、ただ施設に行くことだけ伝えるよ」と言われました。
本当はいろいろお子さんへの想いもあるけれど、それは全部削ぎ落として。
「わかった、行く」って、お子さんたちにはそれだけ伝えていました。この方にとっては、自分の本心をここで吐き出せたから、自分の望む形で大事な言葉を伝えられたのだろうなと思いました。
ご本人としては、一家の主人としての威厳を保つということが大事だったのですね。
ご本人には叱られてしまうかもしれないんですけど、後になってご家族には「お父さんが実はこういう想いを持って結論を出した」とこっそり伝えさせていただいたんですね。すると、みなさんその場で泣かれて「そういう想いでいてくれたと聞くと、あらためて父には感謝するし、施設にも交代で顔を出します」ってお話しされていました。今思い出しても胸が熱くなるんですけど…(ちょっと涙ぐむ)。それぞれの想いがありながら、ご家族の人生の岐路に関わって、少しでもいい形で着地できるようにお手伝いできたなら、お役に立てたのかもしれないなと。
それは、外から結論だけ見てもわからない部分ですね。そういった人生の大きな岐路に立たれることもあって。
すごくセンシティブな、だからといってカルテに載せる話ではないわけです。ご家族全員と、そこまでくわしく話したわけでもないんですが、少しでも納得いく形で、次のステップに進んでいただけたのではないかなと思いました。
ここで働いていくにあたっては、大きな経験だったと言えそうですね。
そうですね。拾いきれないものを拾うと言いますか。
目に見えないけど大事なところに関わるお仕事ですね。
それが別に、心理士にしかできないという仕事ではなくて、看護師さんでもソーシャルワーカーでも、いろんな方がそういう気持ちで患者さんと関わっていますし、実際に実践されている方もいると思うんです。そういうスタッフが何人かいて、こういったところもケアできる病院でありたいなと思っています。私ももっとカウンセリングマインドを共有して、どの職種でも大事だということを周知していきたいです。
今後やりたいことはありますか。
心理士は枠を決められて取り組む仕事ではありますけど、ここへ来て、その枠を緩めて取り組むことへの難しさと面白さを感じているんですね。
ここまで伺ったお話では、枠があるようでないところもありますね。
今は心理士は私1人なので、その考えや捉え方が偏っていかないように、定期的にスーパーバイザーからアドバイスを受けて、修正しながらいかなきゃいけないと、以前よりも思うようになりました。ただ一方で、心理士の枠に囚われず、柔軟に動いていたいなっていう意味では、岡崎という個として求められるものがあれば、そこに専門性を生かしていきたいし、今後どんなことがあるのか、楽しみにしています。
心理士としての枠を生かした仕事と、個としてだからこそできる仕事と、ということですね。
形は変わっても
応援し合える素敵な家族
ではプライベートのお話を伺いたいのですが。
最近実は名字が変わったんですね…(笑)。
えっ…と言いますと!
少し前に離婚をしまして、心機一転、岡崎になりました。私の今のホットな話題はこれなんです(笑)。
まさか取材直前にそんなことがあったのですね…(笑)。
私もまさかこんなタイミングで取材が来るとは思っていませんでしたけど、背中を押してもらったなと思ってありがたく受けさせていただきました。私としてはすごく前向きな選択ですし、家族みんなが好きな道を見つけて進んで行っていっています。誰よりもそれを応援し合えていて、とても嬉しいことなんですね。
形は変わっても応援し合っているのは素敵なことですね。
子どもたちもそれぞれ自分たちのやりたいことを見つけて、海洋学の研究職に就いたり、小学校の卒業アルバムに書いた「野生の動物を助けたい」という夢を実現すべく海外のフィールドに出向いたり、けっこう自慢の家族なんです(笑)。今も仲は良くて、4人でオンラインでつないで食事もしますよ。
少し安心しました(笑)。最近はお休みはどう過ごしていますか。
自由な使い方にはなったんですけど、コロナ禍であまり出かけられないので、近所を日がな1日歩いたり、好きなお料理をしたり、のんびりしています。
個人的に、今後やりたいことはありますか。
コロナ禍が落ち着いたら、旅行に行きたいですね。
もともと旅行にはよく行かれていたんですか。
そこまでたくさん行っていた、というわけではないんですけど。いや、それより今は、みんなと自由に会いたいですね。
まだなかなか自由に行き来しづらいですからね。
離れて暮らす家族もそうですし、長年お付き合いをしてる、大学や高校の友だち、最初の職場の同僚とか、そういう人たちに会えないのが寂しいです。やっぱり旅行よりも、そっちですね。
プロフィール
世田谷記念病院 臨床心理士・公認心理師
岡崎美帆
おかざき みほ
【出身】神奈川県鎌倉市
【趣味】読書、散歩
【好きな食べ物】茶碗蒸し、お刺身