パソコンや電子工作が大好きな理系少年 技術職から省庁での勤務を経て、事務職として開眼/人事部・法務部 主任 開発事業部/稲垣 光義さん
パソコンや電子工作が大好きな理系少年
技術職から省庁での勤務を経て、事務職として開眼
人事部・法務部で主任を務め、開発事業部も併任する、稲垣光義さんにお話を伺いました。現在はバリバリの事務職として各部の仕事に関わる稲垣さんですが、もともとは、電子工作やプログラミングに興味を持ち、高等専門学校に進学するほどの理系少年でした。そんな稲垣さんがどのような経緯でグループにたどり着いたか、お話を伺いました。意外な経歴も飛び出すします。ぜひご覧ください!
お父さんはミュージシャン
パソコンに夢中だった少年時代
今日はよろしくお願いします。このインタビューの話を受けて、どう思われましたか。
率直に緊張します。取材なんて初めてですし、まさか自分に来てしまったかという(笑)。
当たってしまったという感じですね(笑)。では早速、ご出身から伺います。
東京都の世田谷区です。
小さい頃は、どんなお子さんでしたか。
覚えてるのは、お絵描きとかレゴブロックとか、そういうもので遊んでましたね。
インドア派ですね。
外遊びよりは中遊びでした。ファミコンが出始めた頃で、友だちと遊ぶにもファミコンを一緒にやるとか、1人で遊ぶにしても、ブロックを一生懸命組み立てて。
外遊びはあまり積極的にせずに。
野球をみんなでやるとか、そういうメンバーとはつるんでなかったです。そもそも運動が苦手だったのもあったんでしょうね。
どんなことに熱中していましたか。
もともと物作りが好きなんですけど、中学生の頃、父親がパソコンを買ってくれて、自分でプログラミングをするようになったんですね。当時はゲームがそんなになかったので、自分でゲームを用意しないといけなくて。くわしい人が自作のゲームのプログラムを雑誌に投稿しているので、僕はそれを一生懸命間違えないよう入力して、それで遊ぶっていう。
ご自身でもゲームは作ったんですか。
ごく簡単なものだけですね。雑誌に載ってるようなものは高度すぎるので。
買ってくれたお父さん自身もパソコンにくわしかったんですか。
父は当時音楽業界にいて作曲の仕事をしていて、パソコンを使って曲を作っていました。
プロの作曲家だったんですね! それでパソコンも使っていたと。
もともと私が生まれる前はバンドマンとしていろいろなところを回っていたんですけど、腕の調子を悪くしてギターを弾くのが難しくなったので、作曲の方に移行して、映画やドラマの音楽を作っていました。
どんな作品の楽曲を手がけていたんですか。
見たり聞いたりしたことはあるんですが、忘れてしまいました…思い出したら言いますね(笑)。
ちなみに、有名なミュージシャンが家に来たことなどは…?
家にレコーディングをしにミュージシャンが来たことはあったみたいなんですけど、私に音楽の知識がなかったので、「なんかおじさんが来たな」っていうくらいの認識で(笑)。
(笑)。家に録音できる環境があるのはさすがミュージシャンですね。
機材がものすごいいっぱいありました。でも私は音楽には全然興味を持たず、プログラミングだとか電子工作だとか、そっちの方に興味を持ちましたね。
授業も放課後も輝いていた
高専時代の青春
どんな進路をたどっていかれたのですか。
中学を卒業してから、都内の高専(高等専門学校※)に進んだんですよ。
※実践的・創造的技術者を養成することを目的とした高等教育機関。5年一貫教育で、実践を重視した教育が特徴。
やはり工学やプログラミングに興味があったための選択ですか。
はい、当時はロボットとかに興味を持っていたので機械工学科に進んで、物理や製図を学んだり、実習では旋盤を動かしたりマシニングセンタを動かしたり、溶接もしましたし、いろいろな機械にも触れることができて楽しかったです。5年間があっという間でしたね〜。
かなり充実した学生生活を送ったんですね。授業以外にも楽しみがありましたか。
1年生の時から、学園祭の実行委員会に入りました。新入生に部活動や委員会を紹介する催しがあって、その紹介がとても楽しそうだったんです。
学園祭が特徴的だったのですか。
理系の学校の学園祭なので、機械の展示があったり、それぞれの研究室でどんなことをやっているのかっていうのを見て回れるツアーがあったり。それで親や学外の人が、どんな研究をやってるかとか、機械でこういう測定ができるとか、学校での取り組みを知ることができたんです。その実行委員会がやっぱり濃厚でしたね。
ではご自身もそういった企画に携わって。
そうですね、そこでの人間関係も含めて勉強になりました。部活棟みたいな建物の中に実行委員会もあって、ほかの委員会とも仲良く行き来しながら、遅くまで学校に残ったりしてましたね。
学園祭の運営そのものも楽しかったけど、それに付随する人付き合いも楽しさがあったと。
もう、ほぼそっちだったと思います(笑)。
(笑)。運営に関わるとなると、事務仕事や調整業務も多少出てくると思うのですが。
事務的な仕事も発生していましたけど、その当時から全然苦ではなかったですね。総務の仕事のスタートはその頃からかもしれません。
なかなか充実していた高専時代だったと言えそうですね。
友だちもけっこう多かったですし、そういう意味では、その後の大学時代と比べると、高専時代の私は輝いていたと思います(笑)。
工学科を経て企業の研究員に
では高専を経て、大学に進学されたわけですか。
工業系の大学の機械制御工学科に、2年生から編入しました。
高専からだと編入ができるんですね。それは何か学びたいということがあって。
いやそんなに考えていなくて、きっとモラトリアムの延長だったんですね(笑)。
(笑)。まだ就職するには早いかなと。大学生活はいかがでしたか。
編入学で、なおかつ夜間の授業がメインのコースだったので、1年生から入学している同級生とはあまり交流がなかったです。勉強面では、研究論文を作るのに苦労した思い出がありますね。
ちなみにどんな研究だったのですか。
「光ファイバーを使った歪みゲージ」の研究です。
パッと聞いた感じでは、ちょっと難しそうな。
光ファイバーをチョキンと切って、チューブの中に間隔を開けて通すんですね。それを物に貼り付けた時にたわむことで、そのチューブ内で光ファイバーが微小に動くと。そのことによって微妙な時間差が現れるのを電気信号で読み取って、何マイクロくらい差が出るのか、というような内容でした。
なるほど…説明いただいたものの、やっぱり難しいですね…(笑)。研究自体は興味深く取り組んでいたんですか。
そうですね。でも自分で選んだというよりは、与えられたテーマではあるので、それに対して、大変な想いをしながらやってはいました(笑)。
大学卒業後の進路はいかがでしたか。
一般企業に就職しました。コンビニなんかのレジにハンディスキャンが付いてますよね、そこに入ってる読み取り装置を作っている会社でした。
なかなかニッチな分野ですけど、需要は高そうですね。
大手のレジメーカーも、その部品は自分たちで作らずに、私が入った会社の商品を、いわゆるOEM(※)として使っていました。
※Original Equipment Manufacturingの略。メーカーが、他社ブランドの商品を製造することを指す。
どんなことをされたのですか。
その会社の研究部門、と言ってもとても小さい会社ですから大きい規模ではなかったのですが、まだ製品化される前の研究段階として、当時は比較的新しかったICタグの研究をしていました。
実際に実用化されるとしたらどういう用途が想定されていたんですか。
タグは電子装置ですから、どうしてもバーコードのように紙で安価には作れないものなので、ある程度値段の高い商品に付けるとか、あとは使い捨てではないもの、例えば図書館の蔵書に付けて、リーダーをかざすだけで本がちゃんとあるかを管理できるとか、そういった用途で考えられていました。
そこではどのくらい働かれたのでしょうか。
3年間ですね。仕事自体は楽しく取り組んでいたんですが、在職中に体調を崩してしまいまして。休職して、そのまま職場を離れることになりました。
興味を持って楽しく働いた
省庁での文書管理の仕事
最初の就職先を休職後に離れ、その後はどんなことをされたのですか。
それからしばらくは、母校の高専の先生に声をかけてもらって、学校がやっている就業支援事業の助手としてアルバイトをしていました。自分にとっては、次の仕事に就くまでの準備期間っていう感じでしたね。
そこでの充電期間を経て、新しい道に進んでいったわけですね。
その後を細かく言うと、都内の大学でaiboを使ったロボット講座の助手を1年間の限定で務めて、今度はそこから、派遣会社を通じて文部科学省で1カ月間、派遣職員として働き始めました。繁忙期の1カ月の契約だけということだったのですが「ここで働きませんか」ということで、事務補佐員として呼んでいただいて、そのまま文科省で3年間働きました。
働きが認められて期限が延びたと。今度は行政の仕事に携わることになったのですね。どんなことをされたのでしょうか。
派遣されたのが、省内で文書管理を行う部署でした。毎日大量に郵便物が届くので、そこに危険がないかX線検査したり、郵便物を省内の各課に振り分けたり、宅配便対応をしたりですね。そのうち、公文書管理の仕事にも携わるようになりました。
公文書管理と聞くと、かなり硬そうな印象を受ける仕事ですね。
2009年に「公文書等の管理に関する法律」というものが制定されて、今までは各省庁で決まっていた文書管理のルールについて、法律で決められたんですね。それを省内で守ってもらうために準備をしたり、歴史的な公文書を、国立公文書館に移管する手続きをしたり。
歴史的な文書が見られるというのは貴重な機会ですね。技術職からは仕事の内容がガラッと変わりましたが、そのギャップは問題なかったのですか。
最初派遣された時はバイト感覚でやっていたんですけど、自分が仕事の中身もわかってきて、だんだん楽しくなってきたので、辞めずに続けられたって感じですね。前職とのギャップよりも、省庁で働く楽しさが勝っていました。
特にどういったところが楽しかったですか。
文科省は省庁としては比較的歴史が長いので、和紙に筆で書かれているような昭和初期の行政文書が残っているんですよ。閲覧の希望があったらそれを引っ張り出すことになるんですが、そういうなかなか見られないものが見られたり、まれに大臣や政治家の方たちのお手伝いもあったりして、そこに対して物珍しさとか興味がありましたね(笑)。それと、理系ではあったんですけど、性格的には事務とか総務的なことも好きだったというのもあったと思います。
では、研究職から職種や環境もガラッと変わりはしたけれど。
なにも葛藤なく、自然に受け入れていったっていう感じですね。
まだお仕事として医療業界とは距離がありますが、そこからこのグループにはどういう経緯でたどり着いたのでしょうか。
まず文科省に3年、さらに同じ建物にある文化庁の所属として3年間働いたんですが、ルールとして、それ以上は更新ができないので、次の1年間は内閣府で任期付き職員として働きました。そこからが、また全然違う業界を一回挟んで、このグループに入ることになったんです。
省庁を離れてどんなお仕事をされたんですか。
建設業界に移って、左官業の会社に入りました。今までは省庁で期間が決まっている形で働いていたので、今度は無期限の常勤雇用を探そうと思って仕事を探すなかで、建設業の会社を見つけて「番頭」という職種で就職したんです。
畑違いの業界で苦悩
友人の勧めで平成医療福祉グループへ
省庁から建設業界とは、だいぶ畑の違う分野に移られたのですね! ちなみに「番頭」とはどんなお仕事なのですか。
大手のゼネコンから左官の業務を請け負う会社だったんですが、番頭は、現場ごとに施工会社に依頼して、その会社の職人さんに指示を出しながら、安全管理や品質管理をするのが役割でした。
未経験から始めるには大変そうではありますね。
当然、まったく経験ゼロの素人が入ったわけですから何もわからないですよね(笑)。職人さんはベテランばかりで、僕が指示すると言ったってちゃんとできないですし。上下関係も厳しい業界でしたから、やってみて「これは長くもたないな」と思いました。
実際にやってみて、続けていくのは難しかったと。
私には適性がなかったと思いましたね。当時、高専時代からの友人にその話をしたら「君が建設業界に合うわけがないじゃない」って言われて(笑)。
(笑)。さすが、古くからのお友だちですね。
その彼が当時このグループに関わっていて、「医療業界の方が合うんじゃない?」と言ってくれたんですね。そこで、事務長・施設長候補として、グループの面接を受けることにしたんです。
医療業界に転職するということは、どう捉えていたんですか。
医療の業界に入るという視点よりは、事務職として間接的に貢献したいと捉えていましたね。
事務職がまずあって、その業界が医療であったと。当初は事務長や施設長に就く予定として入職されたのですか。
そうではあったんですが、今総務での経験を振り返れば、その覚悟をちゃんと持って入っていたかと問われると、そうではなかったかもしれないです…(笑)。
病院総務の仕事を経て
グループ人事部へ
事務長・施設長候補として、グループの面接を受けたとのことですが、では当初は今のように人事部・法務部のお仕事をしたということではなかったのですか。
まず、グループの世田谷記念病院で、総務として1年間仕事をしていました。
実際に病院で働き始めてみて、どのような印象でしたか。
今は総務の状況も変わっているとは思いますけど、当時は入ってみるとやることが満載でなかなか忙しかったですね。毎日毎日いろいろなことがありましたし、各セクションからもたくさん依頼はありましたけど、スタッフ間でコミュニケーションは取りやすかったですし、大変ではありながらも楽しかったです。
在籍していた1年間だけでも、慌ただしいながらも充実していたのですね。
総務は本当に病院においては何でも屋なんですね。病院内の委員会の段取りをするとか、機材修繕についてメーカーさんとのやりとりや見積もりを取るとか、あとは夏祭りの準備もありましたし、その年はたまたま世田谷記念病院がグループのイベントで幹事担当だったので、その準備もあって、すごく勉強になりましたね。
病院の総務担当から、今のようなグループの仕事をするようになるのは、どういった経緯がありましたか。
グループ人事部の仕事ができる人を東京で探していたようで「そちらに移ってみないか」という打診があって、移ることになったんです。
今までの職歴などから見込まれての異動だったのでしょうか。
どうだったんでしょうね(笑)。移った当初は、主には人事で担当していたルーティンワーク、新人研修や、慰安旅行、忘年会などイベントごとなどが多かったです。そのなかで、省庁で働いていた経験を生かしたという意味では、通達文書の文書管理について提案をさせてもらいました。
まさに省庁での経験が生きたわけですね。グループに関連した仕事は、世田谷記念病院にいた時はまだ関わっていなかったのですか。
世田谷記念病院で総務をしていた時から、グループの開発事業部に関わる仕事は対応していました。
開発事業部は、どういったことを行う部署でしょうか。
新規開設するグループ病院・施設について、計画段階から携わって、建物というか施設そのものを準備することが大きな仕事ですね。応募書類や自治体に提出する各種申請書類の作成から、行政や設計・建設業者さんとのやりとりなどを行う部署です。
稲垣さんはどういった形で携わっていたのですか。
開発事業部自体は徳島県に本部があるんですが、例えば関東で特養の新規開設があった時には、申請書類を徳島で作成するので、東京にいる私がそれを自治体に提出するとか。あとは、建設が始まる前には必ず住民説明会を行うので、その対応を私がするとか。ほかにも、建設途中の建物に入って確認をしたり、自治体の監査や消防検査に立ち会ったり、そういったことに、病院総務の仕事と並行して関わっていました。ちなみに今も、同様に開発事業部の業務をしています。
現在も継続して関わっているんですね。
今は、来年6月開設予定の、ケアホーム練馬に関わっていますね。今度、中間検査という、工事が適切に進んでいるかどうかの確認を自治体から受けるんですが、そこに立ち会って、OKが出ればさらに残りの工期を続けていくことになります。
開設までにいろいろと関わることも多そうですね。
そういった検査の立ち会いのほかに、施主側と設計業者、施工業者の3者が集まっての定例会議も毎月行っています。実際に施設内をどう立て付けていくかということは、やりながら決めていくことが多いんです。
法務としてもまだまだやれることがある
人事部と法務部を併任へ
現在の肩書きとしては人事部・法務部主任ということですが、人事部に移ってからはどのようにお仕事の変遷がありましたか。
その当時、理系出身で一番コンピュータにくわしかったため、グループのメールアカウントの管理を引き継がせてもらいましたし、災害時安否確認サービスの、人事面での運用管理者もやっています。最初は、そういった人事業務と、先ほど話した開発事業部のお仕事と両方やっていたんですが、世田谷記念病院が台風の被害で休業した際に、雇用調整助成金の申請をサポートしてほしいということで打診がありまして、そこから法務的な仕事にも携わるようになりました。
それが、法務部としてのお仕事のスタートになったと。
法務部の部長とは、開発事業部の仕事を通じてやりとりがあったので、自分のなかでスムーズではありましたね。世田谷記念病院の件は、雇用にも関わることでしたから、仕事の内容としては人事的な面と法務的な面と半々でした。
人事・法務、どちらにも関わるお仕事が始まりだったわけですね。ちなみに人事部のお仕事は以前インタビューで伺いましたが(※)、法務部について、あらためてどんなお仕事をする部署か教えてください。
グループ全体の法的な意味でのリスク管理、また、病院や施設の現場を法的にサポートすることが大きな役割ですね。法律の観点から業務改善にも関わりますし、大きな契約に関する書類の作成や確認、さらに行政との折衝にも関わっています。
※平成医療福祉グループ 人事部 係長/岩朝 美絵さん・泉 小百合さん インタビュー記事
なるほど、一口に法務と言っても業務は多岐に渡るのですね。稲垣さん自身は、その後はどのようなお仕事に関わっていったのですか。
世田谷記念病院での申請の仕事が落ち着いた頃に、今度はコロナ禍が始まるんです。コロナ禍にあっては、医療機関が倒れてしまわないように国や自治体からの支援があったので、その補助金申請について、申請方法や、書類に間違いがないかなど、グループの各病院をサポートするようになりました。
そこからさらに法務への関わりが深くなっていかれたと。
そうですね、初めは世田谷記念病院の補助金から始まって、コロナ禍になって本格的に関わりが大きくなり、結果的にこの4月から正式に併任ということになりました。
併任することについては、どのような気持ちでしたか。
グループの仕事を、法務としてサポートできる余地はまだまだあると感じていたので、やりがいがありそうだなと思いました。今までは人員が少なかったので、法務部としての対応が大きなケースに限られていたんですが、そこに私も関わることで、現場へのサポートを少しでも手厚くできればと。
法務の仕事に関しては、ここまでの経験は生きていますか。
省庁で働いていた経験から、例えば申請書類の作り方などについて、こういう書き方はしない方がいいなとか、こういう作り方の方が見てもらいやすい、とか、感覚的なところではあるんですが、そういうことは何となくわかるかもしれません。一見些細なところではあるんですが、その積み重ねで方向性が変わりますので。
中にいた人ならではの視点ですね。現在は、法務としてはどのお仕事が大きなウェイトを占めていますか。
やはりまだコロナ禍ではありますので、医療機関への補助金申請に関するサポートが多くを占めています。補助金については、実施の主体が国だけでなく、各自治体独自のものもあり、グループとして対象となる補助金は多い状況です。
では何度か申請のお手伝いを行うことになると。
そうなりますね。厚生労働省主体のものはこちらでも事前に情報をチェックしているんですけど、自治体のものについてはチェックが追いつかないので、各病院から情報をもらって、判断を仰いだうえで申請のお手伝いをしています。
そのほかにはどんなことがありますか。
最近の話なのですが、法務部でグループ介護施設の各施設長さんに対して、法的な相談受付を始めました。今までは、法務部へは個別に相談を受け付けていて、窓口がなかったので、判断に悩まれることも多かったようなんですね。週に1回ですが、枠を設けて相談を受けています。
調整こそが事務職の仕事
これまでの経験を生かして働く
ここまでお話を伺って、グループの仕事にさまざまな経験が生きている印象を受けますが、ご自身では特にどういったところにそれを感じますか。
「調整」については今までの経験が生きていると思いますね。どんな仕事にも言えるかもしれないですが、仕事の本質としては実務が2、3割で、あとは「誰といつ、どういう風に仕事をするか」という調整にかける割合が多いし、そこをしっかりとするのが大切だと思っているんです。そういったことは、僕が通っていた高専(高等専門学校)での学園祭実行委員会や、省庁での仕事を通して学ぶことができたのかなと思います。
その頃からの経験が脈々と生きてるんですね。
やっぱり、コミュニケーションの問題で仕事がうまくいかない、ということがないように、事前に情報共有しておくとか、この人に話を通しておくとか、そういった配慮をするのが、事務屋としての仕事なんだろうなと。
まさに省庁の仕事では大事になってきそうな要素ですね。
行政のなかでは「レク」って言われているんですが、事前に「こういう趣旨のことをやろうとしています」っていうことを理解してもらう作業が大切なんです。「急がば回れ」というか、そこは本当に大変ではあるんですが、そういう姿勢は今までの経験が生きていますね。
今でもそういったことはありますか。
先ほどの補助金申請のサポートについても、一斉に説明が必要な時であるとか、遠方ですぐに行けない時は、オンラインやメールのやりとりで行うことはあるんですね。でも、病院の実情ってそれぞれ違いますし、それを確認しながら細かい話をするには、直接足を運んで、顔を合わせて話をした方がいいな、と思うことは多いですね。
仕事のやりがいは
医療・福祉の現場で働く人をサポートすること
今の立場としては、どんなことが仕事のやりがいになっていますか。
グループ全体で動きが日々あるので、そこに対して自分が役立てることを当てはめるというのが楽しいですね。今は補助金のことが多いですが、いろいろなところでニーズや課題があるので、それにどう対応していくかっていうのが面白さだと思います。
求められるものに応えていくところに面白さがあると。では、仕事内容に変遷があってもやりがいはなくならないですね。
仕事の内容が変わっても、共通して言えるのは、病院や介護施設の、現場の人たちを支えられるのが楽しい、ということですね。本部の人事部・法務部としてなんのために仕事をしているのかって、医療・福祉の現場で働いている人たちを、事務面でサポートするのが役割なんだと思っています。
それが、ここまで培ってきたご自身の専門性を生かすということですね。
医療や介護の面で直接的にお手伝いできることはそうないので、自分ができることとしては、経営面での資金的なサポートだったり、働きやすいように就業規則を理解してもらったり、そういったことを通じて、現場の人をサポートできることですし、そこにやりがいを感じています。
稲垣さんができることを通じて、病院・施設の現場で働く方を支えていくと。
例えば、開発事業部の業務としては、施設の建物が完成するところまでが一旦の区切りで、実際に開設してからのことは現場にバトンタッチしていくわけですけど、私はオープンしてからも人事・法務の仕事を通して、現場で困っていることがあれば、お話を聞いて関わる機会があるわけです。そういった一貫した関わりができるのはありがたいですね。
開設前、開設後と引き続いてその施設に関わってサポートしていけるのですね。幅広くいろいろなところに関わっていますが、今後の目標はありますか。
特に法務的な面で言うと、労務のことに関わる時もあるので、労働に関する法律について、もっと体系的にくわしくなりたいと思っています。
そちらの観点でも、病院・施設などのスタッフさんをサポートしていくと。
今もその都度調べて解決しているんですが、問い合わせを受けた時に調べなくてもすぐ答えられるように、さらに勉強して、より良い環境を実現するために応えていきたいですね。
アニメ好きは高専時代から
今はVTuberにハマっています
お休みの日はどんなことをされていますか。
最近はほぼYouTubeでVTuberを見ています(笑)。
ハマるきっかけはあったんですか。
もともとはアニメ好きということが最初にあったんですね。
アニメ自体はもうかなり前から好きなんですか。
長いですね。もう高専の時からです。学生はみんな理系なんですけど、オタク気質の人が多かったんですね。なのでアニメと親和性があるというか、そういうものが好きな人が多いんです。同級生にライトノベル好きがいて、それを勧められて私は大ハマりしまして。
その時に大きな影響を与えたのはどんな作品ですか。
それはもう一択なんですけど『スレイヤーズ』っていう小説で。
かなり長く続いている作品ですよね。
もう、めちゃめちゃ長いですね。当時、作品がアニメ化されたのでアニメを見るようになって、アニメを知ると、今度は声優さんとかも好きになって。
そこから沼にハマっていったんですね。
その当時インターネットが普及し始めて、みんながやり始めた頃で。いわゆる「パソコン通信」の時代だったんですけど、個人がアニメのファンサイトや掲示板を作って、集まるっていう時代でした。
いい時代ですね(笑)。
そうですね(笑)。スレイヤーズのコミュニティサークルに入って、オフ会としてカラオケに一緒に行くとか、好きな作品について話し合うとか、いろんなイベントをやったり、薄い本を作ってみたりとか。
かなり活発に活動されていたと。
当時のサークルの人たちとも、数年前にスレイヤーズ何十周年のイベントで再会して、今でもつながっているんですけど。
つながりが濃いですね。そこから最近はVTuberにも派生していってと。どんな感じで楽しんでいるんですか。
VTuberの世界って、毎日いろんな人が配信していて、しかも長時間配信するんですよ。だから追いかけきれないし、そのおかげで単純にアニメを見る時間がなくなりました(笑)。
それで休みも配信を見ることに時間を使っているんですね。今後、仕事以外でやりたいことはありますか。
仕事以外でやりたいこと…あ、防音室を作りたいです、DIYで。
そういうこともお好きなんですね。それはどういう用途で作ろうと思っているんですか。
沖縄が好きなので、三線とか沖縄の楽器をやりたいなっていうのがあって、防音室を作りたいんです。もちろん映画とかを大きい音で見たいというのもありますけど。
沖縄がお好きなんですね!
アニメ以外の要素だと、沖縄は大きいですね(笑)。高専の修学旅行の時からずっと好きです。
ではもう、何度も行かれて。
最初の会社を辞めた時に1カ月くらい猶予があったので、沖縄を安宿に泊まりながら旅行して。夜は旅行者同士で泡盛を飲みながら話をしてっていうのも楽しかったです。
いい旅行ですね〜。最後に、好きな食べ物は。
ポテトフライですね。ポテトフライが好きすぎて、家にフライヤーを買って、自分で冷凍ポテトを揚げてます。
おおっ、そこまでこだわっているんですね(笑)。
プロフィール
人事部・法務部 主任 開発事業部
稲垣 光義
いながき みつよし
【出身】東京都世田谷区
【趣味】VTuber鑑賞
【好きな食べ物】ポテトフライ(細いタイプのカリカリ派)