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ひとプロジェクト【第47回・前編】世田谷記念病院 看護部長/榎並 由香さん

    • 学生時代から一貫して目指すのは「リハビリテーション+看護」
      体育会の青春時代を経て、突き進んだ看護の道

    • 今回は、世田谷記念病院で看護部長を務める榎並由香さんです。高校生活を過酷な部活動に打ち込んだ榎並さんは、その経験や親からの勧めをきっかけに、看護の道へと進みます。前編では、看護師を目指すまでのことや、世田谷記念病院入職までの道のりを中心にお聞きしました。超体育会系の部活話も飛び出します。ぜひご覧ください!

  • 青春時代は縦社会!
    厳しく過ごした寮生活

    榎並さんには以前、ひとプロジェクトの取材時に立ち会っていただいたことがありましたけど、その時はまさかご自身が取材されるとは思っていなかったんじゃないでしょうか。

    本当ですよ(笑)!

    ご出演いただきありがとうございます(笑)。では出身から伺いますね。

    新潟県です。山形県との県境の辺りで、いわゆる下越地方ですね。

    雪深そうな地域ですね。

    今は量が半分くらいに減りましたけど、小さい頃は2階から出ないといけないほど積もった時もありましたね。

    ご家族はどんなお仕事をされていましたか。

    お父さんが消防士で、お母さんは普通の会社員でした。でも兼業農家で、お米を作っていました。

    今も作られているんですか。

    ちょうど去年やめたんですよ。なので、お父さんのお米が食べられるのもこの秋までです。それまでは「なくなったよー」って連絡すると送ってきてくれてたんですけどね(笑)。

    いい環境ですね(笑)。学生時代はどんなことをされていましたか。

    あまり勉強が得意ではなかったんですけど、運動は好きだったので、新潟市内の体育科がある高校に進んで、バレーボール部に入りました。

    体育科のある高校はなかなか珍しいですね。どんな生活でしたか。

    今はもうなくなったみたいですけどね。午前中は授業をやるんですけど、午後は「授業」という名の部活をするんです(笑)。

    なるほど、さすが体育科。相当厳しい環境でしたか。

    年間を通してほとんど休みがなくて、親に会えるのは試合とか練習を見にきてくれた時だけでしたね。

    当時としては、どういう気持ちで取り組んでいたのですか。

    辛かったですよ〜〜! 特に寮生活は規律が厳しくて大変でした。女子寮内で部活ごとに規律が違うんですけど、バレー部は一番厳しかったです。登下校する時は一列に並んで歩いて、後ろから車とか自転車が来る時は「すいません、車です」って毎回言って、先輩に事故がないようにするとか(笑)。

    すごい縦社会を感じる登下校ですね(笑)。

    帰りは学校を出たらダッシュして、先輩が着く前にテーブルに寮の食事をセッティングしておく、とか。洗濯機も自由に使えませんでしたから。

    えっ、使えないっていうのはどういうことですか。

    寮に洗濯室があって、先輩がまず洗濯機を使うんですけど、意地悪な人は、洗った洗濯物をずっと入れっぱなしにするんですよ。後輩は勝手に出すわけにいかないから、洗濯したいのにずっと使えなくて。

    それは本当に意地悪ですね(笑)。

    なので、夜中に目覚ましをかけて、空いてる洗濯機を探して使うんです。お風呂も大浴場なのに、後輩は湯船に入っちゃいけないっていうのもありましたね…。今じゃ考えられないです。

    ちなみに自分が上に立った時は後輩たちにそういう理不尽なことは。

    言わなかった…と思うんですけどね(笑)。

    部活引退後はどうされたんですか。

    引退してすぐ寮を出ました(笑)。ちょっと遠かったですけど実家に戻って、電車で1時間くらいかけて通学をして。

    キラキラした青春っぽい思い出はないんですか。

    ないですよ! みんな前髪オンザ眉毛の耳出し刈り上げですよ(笑)。

    生意気な看護学生
    実習で目覚めたリハビリテーションへの興味

    看護のお仕事は以前から興味がありましたか。

    最初は看護師なんて頭の片隅にもなかったです。小さい時から、病院独特の空気が苦手だったくらいですから。

    何か思うところがあったのでしょうか。

    体育科に進んでいたっていうのもあって、骨折した人とか、リハビリ用の装具を着けている人とか、あとは残念ながらケガのせいでスポーツを続けられなくなってしまった人を目にする機会があったんですね。そういうことに関して、興味があると言ったら変ですけど、けがや障害を負ったまま、どう過ごしていくんだろうっていうことに、なんとなく興味はありました。

    身近でそういったケースを見たことが影響したと。

    最終的には、母親の勧めも大きかったですね。自分が看護師になりたかったけど、ならなかったという想いがあったのと、手に職を持った方がいいっていうアドバイスもあって。山形県の看護学校に進みました。

    学校はいかがでしたか。

    楽しかったですよ〜。山形はいいところでしたし、仲間にも恵まれて、それと高校時代とのギャップですね(笑)。「自由になった!」って思いました。

    大変なことはなかったですか。

    勉強はそれなりにがんばりましたよ。実習も大変でしたけど、高校生活と比べると、どうしてもそっちの方が辛かったですから(笑)。

    やっぱりその体験が強烈だったと(笑)。

    今までそれで乗り越えてこられたのかもしれないですね。

    実習が厳しくてという話もよく聞きますけど、そんなこともなく。

    ん〜記憶にないですね。逆に、学生のくせに生意気だったと思います。

    どんなことがあったのでしょう。

    急性期病院の脳外科病棟に実習に行った時、脳卒中で片麻痺になられていた60代の男性患者さんを担当させてもらったんですけど、その方は学生の私が担当することも快く引き受けてくださって。本当に良くなってほしいと思って、奥さんに「どんな状態で退院してほしいですか」とお聞きしたら、「自分でトイレに行けるようになって欲しい」って言われたんですね。

    当初はまだその状態ではなかった。

    寝ている姿しか見たことがなかったですし、最初受け持ったときはオムツをつけていて、看護師さんも「オムツの中にしてくださいね」って、伝えていて。忙しいので仕方ないとは思うんですけど「トイレに行きたいっていう希望があるのに、オムツにさせるってどういうこと?」って思ってました。そこで「私だったらトイレに連れて行けるような気がする」って勝手に考えたんです。

    まだ学生だったのにすごいですね。

    現場の看護師さんに「トイレに連れて行っていいですか」って言ったら、「えー」って言いながらも「まあ行ってみようか」って、オッケーしてくれました。そのうち、失禁もなくトイレで排泄できるようになって。

    すごいですね!

    実習生なのに生意気だったかもしれないんですけど、患者さんのためを思っての行動でしたし、その時「リハビリに取り組める看護師っていいな」って、リハビリに興味を持ったんです。結局それが今に至るまで自分のやりたいことになっています。

    念願のリハビリテーション病院
    「楽しちゃダメ」の教え

    では就職もリハビリを意識されたのですか。

    もともと関東に出てこようと思っていて、リハビリテーションと名のつく病院を探したんですけど、当時は本当に少なかったですね。横浜にあるリハビリテーション病院を受けようと思って、専門学校の先生に相談したら「その病院の看護部長、私の同級生だよ」っていう偶然もあって、そこにすぐ応募しました。

    すごい偶然ですね! そこはどんな病院でしたか。

    整形外科と脳外科の混合病棟で、みなさん手術目的で入院してくるんですけど、手術後ではなくて、事前にリハビリを始めて、手術をしてさらにリハビリをしていました。

    実際仕事されていかがでしたか。

    楽しかったですね〜。そこでやっていたのが、自分がやりたかったリハビリだったんでしょうね。

    どんなことをされていたのですか。

    「この人もベッドから起こしちゃうんだ!」っていうくらいの患者さんを起こしてトイレに連れて行っていましたね。今は当たり前のように「どんどん起こしなさい」「どんどん早くからリハビリしなさい」っていう考えも浸透していますけど、当時はまだまだだったので、最初は驚きましたね。日中も、患者さんには病衣やパジャマから日常着に着替えてもらって、っていうこともその頃からやっていましたし。そこで先輩から教えてもらったことは大きかったです。

    どんなことがありましたか。

    「家に帰れるようにしてあげるためには、何をしなきゃいけないか、看護師として常に考えなきゃいけない」って言われましたね。「患者さんが寝たきりになっているのはこちらの都合でもあるから、どんどん離床させてADL(日常生活動作)を拡大して、ご自分でできることを増やしていかなければいけない。手を抜いたら良くならないんだよ」って教えられました。

    大切な教えですね。そこではどのくらい働かれていたのですか。

    3年くらいですね。やりたかったリハビリについて関わりつつも、実は急性期医療についても気になっていたんですね。専門学校の同級生たちは急性期病院に行った人も多かったので、自分には急性期医療の知識が足りていないのでは、っていうところが少し気になったこともありました。

    実際に急性期病院で働かれたのですか。

    その後、実際に移って働いてみたんですが、やっぱり私はリハビリに関わる看護に携わりたいなとあらためて思いました。医療機関によって役割が違いますし、看護への考え方も人それぞれですから、私としては、患者さんがリハビリを通して良くなっていくお手伝いをしたいと。

    デイサービスなどの現場も経験
    さらに深まるリハビリテーションへの興味

    急性期病院を経験された後は、どんな働き方をされたのですか。

    病院を退院された患者さんは、ご自宅に戻る方もいれば、施設に入られる方、デイサービスや訪問看護を利用される方、さまざまじゃないですか。みなさんどうやって生活を送っているんだろう、って興味を持ったので、派遣会社の方に頼んで、いろいろ見させてくださいってお願いして、数カ月単位でそういった事業所を回らせてもらいました。そしたら、もっとリハビリテーション看護に興味が湧いたんです。

    それはどうしてですか。

    受け持った患者さんが良くなるもならないも、私たちに責任の一端があって、その方の人生を左右する仕事なわけですよ。患者さんやご家族が望んでいるのに、状態が悪くてお家に帰れないとか、諦めざるを得ないっていうこともあり得ると思うと、想いをもっともっと叶えられるように、看護師ができることがもっとあるはずだ、と燃えてきたんです。

    患者さんのご自宅や生活を見ることで思うこともありましたか。

    実際に生活の場に伺うことによって、退院後の生活がイメージできるようになりましたね。

    ずっとリハビリのことを考えながら看護師のキャリアを積んでいかれていますね。

    やっぱりあれもこれもはできないので、自分が取り組んでいきたいことを考えてきたと思います。

    世田谷記念病院に入職するのはどういった経緯でしたか。

    都内のリハビリテーション病院で5年ほど働いて、そこでのつながりで、世田谷記念病院の立ち上げに誘われて、移ることにしました。

    ちなみにそのリハビリテーション病院はどういった病院でしたか。

    チーム医療にいち早く取り組んでいる病院で、面白いなと思いましたね。制服が全職種同じだったり、全員が「さん付け」で呼び合っていたり。患者さんも良くなっていましたしね。

    新鮮な環境だったと。

    でも大変さもありましたよ。脳卒中の方がほとんどで、重症度が高い方も多かったですし、夜勤の時は一晩中走り回っていないといけませんでした。その分スタッフも多めに配置はされていたんですけどね。

    体力的な大変さが大きかったですか。

    自分は体力があると思っていたんですけど、「これはキツイ」って思いました。いいところもいっぱい吸収できたし、ここまでずーっと働き続けていたので、ちょっと息抜きをしようと思って離れたんですけど、その後に世田谷記念病院に入ることになりました。

    世田谷記念病院が開院
    病棟立ち上げで感じた苦労

    移った時は開院前だったのですか。

    開く前の準備段階で入りましたね。師長候補と、看護部長の候補が定期的に集まって、マニュアルとか看護手順を作るところから始めました。なかなか苦労しましたけど、みんなで手分けしてどうにか開院前に準備しましたね。

    最初はどんな立ち位置でスタートされたのですか。

    回復期リハビリテーション病棟(以下、回復期リハビリ病棟)の師長でしたね。その後、2014年に地域包括ケア病棟の立ち上げに師長として関わることになりました。

    当初は回復期リハビリ病棟と、医療療養病棟の2つだったと。

    当時は医療療養病棟が2つあったので、そのうち1つを地域包括ケア病棟に転換することになりました。どんどん地域から患者さんを紹介してもらって、状態を改善して、在宅復帰してもらう。今よく言われている「ときどき入院、ほぼ在宅」の実現ですね。ただ、かなり大変でした(笑)。

    どんなご苦労がありましたか。

    地域包括ケア病棟自体、2014年に新しく始まったばかりの制度でしたので、前例がありませんでした。どうしようと思ったけどやるしかないですから。入院日数の上限が60日と回復期リハビリ病棟よりも短いので、治療とリハビリを並行して積極的に行って、早い段階で良くして退院につなげていくのが使命だなと思いました。

    実際どう取り組まれたのですか。

    病棟スタッフは、もともと医療療養病棟で働いていたので、リハビリに長く携わってきたスタッフも必要だなと思って、部長にお願いして何人か回復期リハビリ病棟から移ってもらいました。ただ、もちろん療養の病棟とはやり方が違うので、方法が浸透するまで苦労がありました。

    みなさん、今までやられていたようなやり方で当初は仕事をされて。

    その状況で、新しく回復期リハビリ病棟のやり方を押し進めていったので、当初は「めんどくさいのが来た」っていう怖い視線も感じながらでした(笑)。

    やり方がガラッと変わることに抵抗がある方もいたかもしれないですね。今も残っているスタッフさんは。

    もちろんいますよ。今の看護副部長もその時からのメンバーです。

    当時はその副部長も榎並さんを怖い視線で見てたのですかね。

    どうでしょうか…その話はしたことがないですね(笑)。でも「大変だったねあの頃」っていう話はしますよ。そのうち、自然と地域包括ケア病棟のスタッフとしての役割が浸透していって変わりましたね。それこそ日中、病衣やパジャマから着替えるっていうことも、当たり前のことになっていきました。

  • 次回:さらに強化し続ける看護への取り組み。患者さん・ご家族のため、後輩たちに伝えたい、ある「想い」とは!

    後編は2020/09/11公開予定

    profile

    世田谷記念病院 看護部長 榎並 由香(えなみ ゆか)

    【趣味】犬と過ごすこと、バレーボール
    【好きな食べ物】ワイン(重いやつ)

    病院情報

    医療法人 平成博愛会 世田谷記念病院

    東京都世田谷区野毛2丁目30-10

    内科・整形外科・リハビリテーション科

    急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリテーションにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。