お知らせ ひとプロジェクト

ひとプロジェクト【第45回・前編】印西総合病院 事務長/森元 厚志さん

    • 病棟事務から総務の仕事へ
      人前が苦手な青年が、事務長職にたどり着くまで!

    • 今回は、印西総合病院で事務長を務める、森元厚志さんです。広島ののどかな米農家に生まれた森元さん。中学時代の体験を胸に、医療の道へと進みます。当グループに入職後、徳島、東京、千葉と各地でキャリアを重ねてきた森元さんですが、時には挫折も経験したと話されます。前編では、事務長を務めるまでの経歴を中心にお聞きしました。ぜひご覧ください!

  • タコの町の米農家に生まれた
    特進コースで勉強漬けの日々

    ご出身はどちらですか。

    広島県の三原市というところです。尾道の隣ですね。

    どんなところでしたか。

    高校生までしかいなかったので実はそんなにわかってないんですけど、タコが有名ですね。

    海の街なんですね。

    そうですね。ただ実家は海から離れていて、農家をやっていました。お米を中心に、それ以外にもいろいろ作っていましたよ。

    じゃあお手伝いされた経験も。

    小さい頃はよくやっていて、楽しかったですよ。今は田植えも機械ですけど、当時は手でもやっていましたね。稲刈り後の田んぼにブランコを作ってくれたりして。

    ブランコですか?

    木で組んだ骨組みに、ロープ状にした稲を通して作ってくれたんです。それで遊んでた記憶はあります。

    すごいDIYですね! その後部活などはされていましたか。

    中学校ではバスケットボール部に入りました。ちょうど『スラムダンク』が流行っていた時期だったので友達に流されて。でも高校では、特別進学コースのようなクラスに入ったので、部活動に入れなかったんです。

    だいぶ勉強熱心だったんですね。ではかなり勉強漬けの毎日だったのですか。

    ん〜、特別熱心なわけではなかったと思います(笑)。ただ、平日は放課後も予備校と中継をつないでサテライト授業をやっていましたし、帰りに寄り道して遊ぶような時間はなかったです。

    徹底してますね! 何か思うところがあってそういったコースに進まれたのでしょうか。

    自分に勉強が必要だなと思ったんです。きっかけが、中学3年生の時の実習で、近所の保育園と、特養に行ってボランティアをしたとき、どちらも自分にとって楽しかったんですけど、特養に行った時の方がしっくりくるものがあったんですね。当時は今以上に内気で大っぴらに心を開ける性格ではなかったので、保育士は仕事としては難しそうだなと思ったのもあるかもしれません(笑)。

    (笑)。ではその体験がきっかけになって。

    そこから福祉や医療に興味が湧いて、それには勉強をしないといけないなと思ってそういうコースに進んだ記憶があります。実際に何の道に進むかは、3年の間に決めればいいやという気持ちでしたね。

    勉強中心の生活だったと思うのですが、青春めいたことは何かありましたか。

    ないですね〜、楽しいことがあったら何か覚えてるはずですから(笑)。三原に1つだけゲームセンターがあったので、友達とよく一緒に行ってました。

    不真面目に過ごした大学時代を経て
    グループ病院へ就職

    その後は大学に進学されて。

    迷いはしたんですけど、やっぱり医療・福祉系に進もうと考えました。ただ、介護や看護の現場の仕事をしよう、という風にはならなくて、岡山にある医療福祉系の大学の医療情報学科に進みました。

    どういった学部なんですか。

    4年間通うと、診療情報管理士の受験資格を得られる学部でしたね。基本はパソコンを使っての実技が多くて、Word、Excelの授業や、プログラミングなどもやりました。培ったパソコンの技術は、かなり今も役立っていると思います。

    森元さんとしては診療情報管理士の資格は取りたいと思っていたのですか。

    そのために入ったわけではなかったんですが、実際入って勉強するうちに、資格取得のためにがんばろうかなと思った時期もあったんです。

    「あった」ということは実際は。

    取らなかったです。ちょっと遊びに走ってしまって(笑)。悪い友達ができてしまったんですね。

    では、ちょっと授業は控えられて。

    けっこうギャンブルできる場所が多い土地柄だったんですよ。地元から通っている同級生はそういったことにくわしい人が多くて…本当に親には申し訳ないですね(笑)。

    就職はどうされたのですか。

    かなりギリギリになってから動き出したんですが、そこでこのグループの博愛記念病院(徳島県徳島市)の面接を受けて、採用されました。

    徳島県に就職したのは何か理由があったのでしょうか。

    僕が入っていた大学のゼミから、博愛記念病院に先輩が何人か入っていたんです。

    何かつながりがあったのですか。

    それが特になくて、たまたまその大学から何人か就職していたようで、教授から「徳島にこういう病院があるけどどう?」っていう話を聞いて、面接を受けて、採用していただいたんです。

    医療知識の基礎を身に付けた
    病棟事務の仕事

    キャリアのスタートはどんなお仕事でしたか。

    まずは病棟の配属になって、診療情報管理士が行うような仕事を担当していましたね。

    お仕事としてはどういったことになりますか。

    例えば肺炎であれば「Jの〇〇」というように、病気に応じてコードが決まっているので、それを打ち込んで、統計学的に分析を行う仕事です。ただ、グループではちょっと特殊で、システム管理の仕事もして、何でも屋な部分もあります。

    では最初はシステムっぽいお仕事も携わっていたのですね。

    電子カルテの管理なんかもやっていましたね。配属の先に大学の先輩もいて、みなさん優しく仕事を教えてくれて、とてもありがたかったですね。そのうちに、医師の回診についていく、病棟事務の仕事に変わりました。

    そちらはどんなお仕事になるのでしょう。

    医師が患者さんを診て話した内容を電子カルテに打ち込んで、検査や点滴、薬のオーダーを代行で行うものですね。今では医師事務とも呼ばれています。仕事を通じて医療用語の知識をつけることができましたし、全く知識のなかった当時の自分にとっては、とても濃い内容の仕事でしたね。

    そこで学んだことも多かったのですね。

    最初は略語で言われても全然意味がわからないわけです。それをひとつひとつメモしながら学んで。先輩たちもそうですし、その時ついて回った先生も優しく教えてくれました。その経験で身につけたことは大きかったですね。

    今につながる仕事の基礎になったと。博愛記念病院ではその後どんなキャリアを重ねられましたか。

    そのうち、グループの副代表が、当時博愛記念病院に医師として入ってきて、私が病棟事務を担当することになりました。1年くらい担当した頃、グループが東京に世田谷記念病院を開院するということで、副代表も準備のために東京に移ると。そこで僕にも、東京に行って手伝ってくれないか、という話をいただきました。

    そこで東京に異動することになったのですね。

    驚いたのですが、行ってみようと思いました。そこで初めて病院総務の仕事に携わることになったんです。

    病院総務として東京へ
    心が折れた時は外に走った

    病棟事務の仕事から、今度は総務の担当に。

    初めは何をしたらいいのか全くわからなかったです(笑)。なのでひたすら当時の事務長から頼まれた仕事をやって、とにかく当時は準備準備でバタバタしていましたね。

    開院してからはどんなことをされていましたか。

    いろいろルールを決めたりという仕事もありましたし、僕は売店の担当になったので、商品の発注をしたり、とにかく世田谷記念病院ではいろいろやりましたね。

    幅広い仕事に携わっていたのですね。

    カルテが博愛記念病院と同じだったので、それを現場で教えたり、システム管理者の仕事もしたり、本当に何でもやりました。スタッフさんからの相談窓口にもなりますし、多岐に渡っていましたね。

    総務の仕事をやられてみていかがでしたか。

    仕事の内容自体は楽しかったんですが、けっこう挫折もありましたね。

    挫折…どんなことがありましたか。

    ベッド稼働状況のことや、ほかにもさまざまな問題があり、そこで何度か心が折れたんです…。一度、副代表から指摘を受けた後に「もう無理だ!」って思って、走って外に出ていったことがありました(笑)。

    えっ(笑)! みんながいる前でですか。

    いえ、気づかれないようにスーッと出て行って、頭を冷やすためにその辺を少し歩いて、また戻って仕事をしました。

    頭のなかがいっぱいいっぱいになってしまった。

    けっこう1人で抱え込む性格だったんですね。結果的にそれで報告が遅くなることが多々ありました。

    どうやってそれから気持ちを保たれたのですか。

    そういうことがあってから、副代表が「自分1人だけでできることは限られているから、周りのみんなに振り分けてていこう」っていうアドバイスをくれたんです。「確かに自分1人じゃ何もできないな」と思って、すごくしっくり来ました。自分で抱え込んだところで、結果が出せないなら意味が無いですし、そこからまたがんばれるようになりました。

    その後は仕事のやり方も少しずつ変えていかれて。

    今もなんですけど「大きな問題があったら、まず一個ずつやっていこう」っていうことを、周りのスタッフみんなにも口癖のように言ってます。大きいものを抱えすぎると、何からやっていいのか見えなくなってしまうので、どうしようと思っている間に時間が経ってしまう。まずやることをリスト化して「最初にできることはなんだろう」っていうことを考えて、順々にやっていきましょうと。

    こうした一件が働き方を考えるきっかけになったのですね。

    そうでないと続けていけなかっただろうなと思います。

    ついに印西の地へ
    そしてまさかの事務長へ

    印西総合病院へ移られたのはどんな事情だったのでしょうか。

    当時、印西総合病院が、このグループに経営譲渡されることが決まって、開院準備が進んでいたんですが、なかなか忙しくて手が回らなくなってしまっていたようで、手伝ってきてほしいと話を受けたんです。

    元々はどんな病院だったのですか。

    小児科と産婦人科の病院で、総合病院化する準備をしていたタイミングで経営が変わることになったようでした。

    森元さんは移ってどんなお仕事をされましたか。

    指示を受けながら、また総務として開設準備に携わりました。改装も必要でしたのでその手配や、行政などへの届け出についても、その時初めて教わりました。そのことを通じて、総務としての経験はかなり積めたとは思います。当初はグループでの経験者が一緒にやってくれましたので、一つひとつ教わりながら。

    周囲にもそういった方がいて。

    恵まれていたと思いますね。これについてわからなければ、この人に聞けばいい、という環境が揃っていましたから。グループの強みだと思います。

    特に土地勘のないところに移られて、不安もありそうですね。

    僕自身、当然この近辺の情報が何もわからなかったのですが、前身の病院から残ってくれた事務スタッフさんにいろいろ聞いて教えてもらっていましたね。

    事務長に就いた経緯を教えてください。

    開院して2ヵ月くらい経ったところで、「事務長をやらないか」という話が僕に回って来たんです

    話を受けてどう思いましたか。

    「無理です」って言ったんですけど、「できるできる!」って説得されて(笑)。

    ずいぶんシンプルな説得ですね(笑)。

    ただ、評価してくれてたっていうことではあるのかなと思いました。とは言え、その時はまだ事務主任で、僕の性格上、人前で話すのも苦手ですし、旗振り役をするのも苦手でしたから、不安ではありましたね。

    でもそこで引き受けられたんですね。

    一度持って帰れば良かったのに、その場で「やります」と答えたのが失敗でした(笑)。でも基本的に「やってみないか」と聞かれて、「やらない」とは返事しないんですよね。これもチャレンジだなと思いました。

  • 次回:挫折を超えて掴んだ協調型の問題解決スタイルとは! 地域の医療のため、より良い病院作りを目指します!

    後編は2020/08/14公開予定

    profile

    印西総合病院 事務長 森元 厚志(もりもと あつし)

    【出身】広島県三原市
    【趣味】ドライブ、旅行
    【好きな食べ物】甘いもの全般(エクレア、スイートポテト、プリンなど)

    病院情報

    医療法人 平成博愛会 印西総合病院

    千葉県印西市牧の台1-1-1

    救急外来・整形外科・リハビリテーション科・内科・小児科・循環器内科・神経内科・外科・脳神経外科・皮膚科・眼科 ・耳鼻咽喉科・泌尿器科・乳腺外科・婦人科・形成外科

    安全で質の高い医療を継続して受けられる後方病院としての機能を充実させ、総合病院としての機能を果たすことを目標としています。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。