お知らせ ひとプロジェクト

ひとプロジェクト【第41回・前編】大内病院/宮川 熱志先生

    • 精神科医としての原点は悩み尽した自分自身
      挫折や苦悩を経た紆余曲折の歴史に迫ります

    • 今回は、大内病院の精神科医、宮川熱志先生です。もともとは医師を志していなかった、という宮川先生。意外な前職を経て、さまざまな苦労や挫折を体験したことが、精神科医になるきっかけとなったそうです。前編では、そんな宮川先生の紆余曲折ある経歴を中心にお話を伺っています。ぜひご覧ください!

  • 中学生で知った挫折
    陸上競技を諦めた

    お名前に「熱」という字が入っているのは、どんな由来がありますか。

    父親が農学の研究者として熱にまつわる研究をしていて、自分の研究していることにちなんだ名前をつけたかったみたいです。

    研究テーマが由来になったと。どんな研究だったのですか。

    燃料のいらない温室の開発に携わっていて、寝ても覚めても研究という感じで、とても没頭していましたね。研究開発ってとても大変なことが多くて、思うようにいかないところをどうやって切り抜けるか、アイデアを出して、プランを立てて、実験でデータを取って、それをまとめるという、その苦しみを間近で感じていました。

    理系に強い家系なのでしょうか。

    最近は必ずしもそうというわけではないんですが、さかのぼると父方の祖父が工学系の開発者でしたね。もう100年近く前のことですけど、自動車のバッテリーにセルロイドという材料を使おうということで開発をして会社を起こしたんです。今もプラスチックやセラミックを成形する会社として大阪で続いていますよ。

    そういう血筋があるのかもしれないですね。ご出身はどちらですか。

    千葉県の柏市です。高度経済成長の頃にできた豊四季台団地という大きい団地があったんですけど、そのすぐ近くの一軒家で育ちました。もともと親は大阪にいたのですが、千葉県の我孫子市にある研究所で働くことになったので、こちらに引っ越してきたんです。

    学生時代に打ち込まれたことなどありましたか。

    中学時代は陸上部に入って、特に長距離をやっていました。割と速い方で、多くの種目で在籍していた中学の記録を塗り替えもしたんです。

    ランナーだったのですね! 高校では続けられなかったのですか。

    当時マラソン界では瀬古選手や宗兄弟が活躍して脚光を浴びていましたし、それに憧れていずれマラソンの実業団に入ってみたいという想いはあったんですが、父親が教育熱心だったために「人生のマラソンはどうすんじゃ」と言われてしまい(笑)。

    陸上よりも、勉強に打ち込んでほしかったと。

    でも僕としては続けたかったので、中学3年生の最初に「次の模擬試験でこの偏差値を達成できたら、陸上を続けさせてほしい」という交渉をしたんです。3年生の時には駅伝大会があって、そこで走る選手は花形なんですね。ところが模試で目標とした成績が残せなかったんですね。

    それはご本人としては…。

    大きな挫折でしたね。そのとき陸上部のエースだったんですけど、駅伝大会にも出られなくなり、目の前でチームが惨敗したんです。校長先生にも「お前が走っていればな」と言われて、初めて「穴があったら入りたい」というような気持ちになりました。

    そのころのお父様というのは、絶対的な存在だったのですか。

    非常に厳しい人でしたね。『巨人の星』に出てくる星一徹とでも言いますか。

    威厳も力もある父親だったと。具体的に「こうなってほしい」という想いはあったのでしょうか。

    父親自身は体が弱くて、それが原因で思うように学歴も重ねられず、研究者として生きていくなかで大きなネックになったらしいんです。当時は、学歴が高い人が優遇されて、苦労した経験があったみたいで。だからとにかく「10代のうちは勉強して、いい大学に行きなさい」と。そのときは反発もありましたけど、自分が大人になってみると、なんとなく意図するものは理解できるようにもなりました。

    医学ではなく
    まずは工学の道へと進む

    高校に入られて、勉強へのモチベーションは高まりましたか。

    父は僕だけでなく、母親とか家族みんなに対しても本当に厳しくて、それは世の中が厳しいっていうことからきてたんだと思うんですけど。自分が思春期になって、この強大な父をどうにかできないかと思いました。先ほど話に出た祖父というのが東北大学工学部機械工学科の3期生なんですが、父親自身はそこには行けなかった。もし僕がそこに合格できれば、父も少しこちらの言うことを対等に聞いてくれるのかもしれないと思って、必死に勉強するようになりました。

    自分がお父様の悲願を達成することで、関係性に変化が訪れるかもしれないと。実際に合格されたのですか。

    無事に工学部機械工学科に合格することができました。そこで本当に喜んでくれましたね。関係としても、以前より話しかけやすくなったという記憶はあります。

    その頃はまだ医学ではなく工学の方に進まれたのですね。

    自動車がとても好きで、作ることに携わりたい、という気持ちがあったんです。ブームもありましたしね。

    工学を学ばれていかがでしたか。

    いざやってみると、僕はエンジニアには向いていないと気がつきましたね。修士論文のテーマなんかはそれなりに面白かったし、没頭してできたんですけど。でも大学院までせっかく来たので、学び尽くしてから考えようと思いました。

    向いてないというのは、どういうところで思われたのですか。

    自分にとっては少々かっちりしすぎていたと言うか、ストイックに突き詰めるところがなんとなく合わないなと思いました。自分もそう言うところはあるんですけど、何か肌に合わなかったんでしょうね。

    では卒業してからは工学の道には進まずに。

    いえ、まだ世の中に出てないのにいろいろ言うのも良くないと思って、幸い工学部は就職も比較的しやすかったので、とりあえず一度仕事をしてみようと思って就職をしました。

    環境問題に取り組みたいと就職も
    真逆の状況に大いに悩む

    就職されたのはどういった会社でしたか。

    石油関連の会社です。卒業して何をしようかと考えた時に、環境問題に興味があったので、新しいエネルギー開発に力を入れている会社があるという話を聞いて、それに携わってみたいと思いました。

    代替エネルギーの開発ということですか。

    石油は資源としていつかは尽きるものですから、その会社では、先を見据えて太陽電池や燃料電池の開発に取り組んでいました。

    ではそういったエネルギー開発の仕事に携わられて。

    その予定だったのですが、入社1カ月後に社長が変わっちゃったんです。新社長は開発よりも現業に力を入れると方針を変換したので、僕は開発ではなく工場で石油プラントの機械メンテナンスの仕事をすることになりました。

    携わる内容がずいぶん大きく変わりましたね。

    将来的にはその機械やプラントの設計を担ってほしいので、まず現場のことを知るために工場で働いてくれと。理屈としては通ってるんですけど、もともとやりたかったことがあった自分にとっては、ものすごい試練でした。しかも、こういう流れで工場に新卒が入るのは今までにない試みだったので、現場も戸惑ったんですね。つまりは、あまり歓迎されませんでした。

    冷遇されてしまったのですね…。そこはどのくらい続けられたのですか。

    2年半くらいでしたね。働きながら、本当に悩みました。やっぱり代替エネルギーの開発はやりたいと思っていたので、会社を辞めてもう一回大学に戻るか、他の大学でそういう研究をやってるところに編入し直すか、とかいろいろ考えましたね。

    みなさんやりがいあって取り組まれてると思いますが、もともとやりたい仕事があると、感じるギャップが大きそうですね。

    大変ではありましたね。原油がタンカーで運ばれて来る時に、事故が起きて原油が海に流れてしまうこともあるわけです。徹夜で油まみれになりながらその除去作業をして。当時はまだ若くてピュアだったし、毎日海に向かって泣いて、本当にどうしたものかと悩みました。この仕事どうしよう、エネルギーどうしよう、このままじゃ地球が壊れちゃうんじゃないかって。

    環境問題への意識が高まって、かなり悩まれていたのですね。

    今考えると、ストレスで心理的視野狭窄みたいな感じになっちゃって、視野が展開できずに非常に悩んでいましたね。会社の誰にも言えないし、親にも相談できない状況でした。

    自分を見つめ直すなかで
    医師を志す

    そこから医師になるまではどのような経緯があったのですか。

    当時の自分を思うと、完全にうつ状態でしたね。誰にも相談できずにすごい孤独を感じて。極端な話、いろいろ考えていくうちに「悩むって何なんだろう。自分の体の中で何が起こってるんだろう」っていうことを考え始めて。

    そういったことを探求したくなった。

    あとは環境問題についても悩んでいたんですけど、クリーンなエネルギーが実現したところで、世の中どういう風になるのかなと考えたら、みんな自分のために動いて、結局は地球が壊れてしまうのでは、と。だから環境問題も、結果的には人の心の問題なんじゃないかと思ったんです。

    そういった考えが当時重なった結果、医療、特に精神医療を志すように。

    自分がこれだけ普通に生きててもこんなに悩んで苦しいのに、心の病にかかった人は、どうなるのだろう、と思いました。会社に勤めていてもやりたいことがないし、居場所も見つけられない。少なくともここで働くのは自分が生きる道じゃないんだなと思った時には、もう参考書を買って勉強を始めていましたね。

    まずは会社に在籍しながら医学部への勉強を始められたのですね。

    精神医学の世界は
    未知のことだらけ!

    ではそこから医学部を受験されて。

    必死に勉強をして、東北大学に入りました。

    再び東北大学に入学されたのですね。その時は当然会社も辞められて。

    本当にみなさんすごい投資というか、エネルギーを使って勝負されているので、僕も人生を賭けてやらないといけないと思いました。ただ父親は怒ってましたね。「今から医者になる苦労をするのなら、会社で同じ苦労をした方が成功するっていうことぐらいわからないのか!」って。もっともではあるんですけど(笑)。

    いざ医学を学び始めてみて、いかがでしたか。

    一度目の大学時代と違って親の力も借りられませんし、その頃には結婚もしていて、勉強しながら日々の生活の心配もしなければいけなかったので、勉強を楽しむ余裕は当初あまりなかったですね。生活をしながら課題をクリアしていって。当時は30代に突入していたので、記憶力もどんどん低下していって、ある意味途中から拷問に近いような感じがありました。

    学びながらも辛いものがあったと。

    ただ、やっぱり脳とか精神の分野は学んでいて面白かったですね。それとともに、精神医学って、まだあまりにわかっていないことが多くて、そのことにびっくりしました。生きている人の脳からデータは取れませんし、精神は目に見えない世界ですからね。

    学び始める前は、もっと解明されているだろう、という期待もあった。

    もうちょっとわかっていることが多くて、自分の苦しみとか脳の中で起きてることが全部わかるんじゃないか、と思って医学部に入ったんですが、ここまでわからないものか、と。でも逆に言えば、どんなやり方もできる余地があるのだなと思いました。

    わからないことが多い分、できることも多い。

    そうやって見方を変えた時、学ぶことは楽しくなりました。ただそこまでたどり着くまでに、課題や試験が押し寄せるし、周りは私より年下で天才的な人ばかりでしたし。それはそれは本当に、この1回のインタビューだけでは語れないくらい、すごく苦労しました(笑)。

    (笑)。ご苦労が伺えます。当時は勉強とともにお仕事もされて。

    家庭教師や塾講師のアルバイトをしていました。一日中勉強をしているか、勉強を教えているか、とにかく時間がなかったですね。

  • 次回:精神医療をさらに地域で展開。大内病院で新しくスタートする「ACT」 とは!

    後編は2020/03/20公開予定

    profile

    大内病院 宮川 熱志(みやがわ あつし)

    【出身】千葉県柏市
    【専門】精神科
    【趣味】音楽鑑賞
    【好きな食べ物】カレー(柏市のボンベイ)

    病院情報

    大内病院

    東京都足立区西新井5-41-1

    精神科・内科・歯科

    認知症や感情障害、神経症性障害などの方が治療を行う場として、多職種が密に連携をとりあって患者さんをケアしています。また院内に『診療適正化委員会』を設置し、常に適切な医療が提供できるよう、職種の垣根を超えて自由に意見交換を行っています。地域の総合医療福祉センターとして、予防・治療・リハビリテーションの一貫した最新医療サービスを提供すべく職員一丸となって日々努力を続けています。