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ひとプロジェクト【第39回・前編】世田谷記念病院 在宅医療部 部長/佐方 信夫先生

    • 臨床、医療政策、研究
      幅広い分野に携わる医師の、葛藤の歴史に迫ります!

    • 今回は、世田谷記念病院の在宅医療部で部長を務める、医師の佐方信夫先生です。在宅医療部の立ち上げに携わり、現在、医師として診療を行いながら、大学での研究者の顔も持つ佐方先生。厚労省での仕事も経るなど、臨床だけでなく、政策や研究にも取り組む先生の経歴は、葛藤の歴史でもありました。ミーハーな気持ちで留学して大変な目にあった大学時代など、苦労話も必見です! ぜひご覧ください!

  • 成績優秀、だけど厳しく怒られる

    ではご出身から伺います。

    愛知県の名古屋市です。

    名古屋市のどんなところでしたか。

    市内の中心部で、とても便利なところでしたね。そこで大学に入るまで過ごしていました。

    ご家族に医療関係の方はいらっしゃいましたか。

    叔父は医師だったのですが、そんなに深い接点があるわけでもなく。父は商社で働くサラリーマンでした。

    商社で働くと聞くと、全国を飛び回って仕事をされるようなイメージです。

    バブル期の商社マンでしたし、接待も多かったみたいで、ウィークデーはほとんど顔を見ませんでしたね。でも土日はそれなりに遊んでもらった記憶はあって、優しい父親でしたよ。母親はいつも明るいけど厳しいところもある人で。

    厳しいというのはどういった面で。

    生活面でも勉強面でも私がいい加減なことをすると厳しかったですね。成績が良くても怒られるので「なんでこんなに怒られるんだろう」って思っていました。

    成績が悪くて怒られるのならわかりますけど。

    よく覚えてるのは中学生の時、成績が良い方ではあったんですけど、数学のテストで一番最初の基本問題を間違えたりするんですよ。それで「そんな注意力散漫では、今回点数がよくても全然ダメだ」みたいなことを言われて怒られ(笑)。

    ずいぶん厳しいですね(笑)。それは中学生当時のご自身には響いたのですか。

    今は理解できますが、当時は全然響かないですよ。「何言ってるんだろう」って(笑)。

    勉強は割とずっと得意だったのですか。

    う〜ん、中学校までは良かったと思うんですけど、高校に入ってみたら天才みたいな人がたくさんいて。同級生は本当に面白い人ばっかりで、今も付き合いがありますけど、もうとにかく抜群に優秀な人たちがいるんです。頭がすごく良い上に、人間もできていて。

    レベルの高い大学にも行くような方がたくさんいて。

    そんなにガリガリ勉強をやっていなくてもスパーンッと東大なんかに入っていく人間がたくさんいましたよ。自分も中学までは「頭がいい」と言われたことがありましたけど、世の中もっと上がたくさんいて、「自分のレベルってまあまあそこそこだよね」っていうことがわかりました(笑)。

    現実を受け止めたと(笑)。医学部に入るというのはいつ頃考えられたのですか。

    高校2年の時ですね。3年生に上がる前に、理系にするか文系にするかの選択があって。僕は人と話すのが好きだったので、仕事もそういう仕事に就こうと考えて、当初は教師がいいなと思っていたんです。でも親からは、医者とか弁護士がいいんじゃないかと勧められて。

    ご両親の勧めがきっかけになられて。

    「人と話すんだったら、医師の仕事で患者さんともお話しして、寄り添えるのがいいんじゃないか」って言われたことに乗っかりました。僕としても、会話をして人の考えや想いを聞いて、何か自分も返していくっていうのがいいと思ったんです。

    ボキボキに折れた…
    挫折だらけの留学経験

    大学はどういう風に選ばれましたか。

    実家から出たいと思って、神戸大学を選びました(笑)。帰るにしても新幹線で行き来しやすいですし。

    大学生活で印象深かったことはありますか。

    5年生が終わった頃に1年休学して留学をしたことですね。

    どんな動機で留学されたのでしょう。

    当時の日本の医学教育では、実習で学生が喋る機会はなくて、何をさせてもらうでもなく後ろでメモを取っているだけでした。僕はそれが嫌で、医学教育は欧米が優れていると言われていたので「海外の優れた教育を受けてみたい。英語ももっと喋れるようになりたい」と思ったんです。

    欧米の教育に憧れがあったと。いざ留学してみていかがでしたか。

    カナダのオタワ大学に7カ月、アメリカのニューオリンズにあるチュレーン大学に4カ月留学して病院実習を受けたんですが、決して楽しいっていうものではなかったですね。「留学すれば、もっと英語がペラペラになって、すごい存在になれるんじゃないか」っていうミーハーな気分で行ったんですが、実際行ってみたら、自分に全く知識はないし英語も対して上手くもないしで…特にオタワにいた時なんて本当に酷かったです。

    えっ、どんな感じだったのでしょうか。

    「ノブオ、この患者さんのところに行って」って言われて行くんですけど、英語でコミュニケーションが上手く取れなくて患者さんが不機嫌になり、医師からは「できないならできないって言え!」と注意され…。ディスカッションも満足にできないと「後ろで見てて」と言われ、何もさせてもらえず…。休学してしまったので帰るわけにもいかず、何もできないまま暗い気持ちで7カ月を過ごしましたね…。

    辛いですね…無力感に襲われてしまいそうです。

    「せっかく大学を休んでまで来たのに、何しに来たんだろう」って、挫折ばかりでしたね。ただニューオリンズに行く頃には少し慣れてきて、カルテを書いたり問診を取ったりが英語でそれなりにできるようになってきていましたね。留学生も多くて、同じ境遇の人たちがいたのでまだ過ごしやすかったです。

    留学を通して英語力は向上されましたか。

    英語は僕に向いてない、「日本語で喋れるの気持ちいい!」っていうのが素直な感想です(笑)。もともと僕はよく喋る方ですが、日本語で100ぐらい表現できることが、英語では10も表現できない。言葉のニュアンスをうまく表せないことが自分にとってストレスでした。

    もどかしいですね。教育としての先進的な部分は感じられましたか。

    学生にも責任を積極的に持たせていろんなことをさせるという点で優れているなと思いました。ただ、それに応えるだけの能力は僕になかったなというところです(笑)。

    臨床現場の忙しさに圧倒され
    迷いながらも官僚の道へ

    その後は研修医になられて。よく聞く話ですが、やはり大変なものでしたか。

    札幌の手稲渓仁会病院というところで2年間研修医をしましたね。辛かったですけど多分みんなと同じような辛さだったと思います。もともと「研修医ってこんな感じなんだろうな」っていう認識はあったので。

    辛さはあるけど乗り切れたと。

    ただ、そうこうしてるうちに、臨床現場で働き続けることに不安を覚え始めたんです。

    どういう理由ですか。

    現場は圧倒的な忙しさで、若手だけじゃなく上の年代の医師たちも忙殺されながらとにかく疲れていて。このまま臨床医の一員になって働いて、果たして物事を良くできるんだろうかと、これを延々に続けていくことに不安を感じました。

    忙しさのなかに埋もれてしまう怖さがあったと。

    今思うと、それだけ大変な状況でも、医学自体への興味とか、自分の臨床能力が上がることで、さらに患者さんを助けられる、っていうことに魅力を感じられたと思うし、みなさんそういう熱意があってやられていたと思うんですけど、当時の僕はとにかくそこまで思い至らなくて。「仕組みを変えていかないとダメなんじゃないか」と考えるようになりましたね。

    興味の矛先が仕組みの方に向かったのですね。

    ちょうどその頃、厚労省に入った大学の先輩から「政策を変えれば日本の医療を変えられる」と話を聞いて、「これだ!」と、すごく魅力を感じました。

    研修医を終えると専門領域の研修に進んでいかれることが多いと思うのですが、そちらに進もうとは考えずに。

    臨床のなかでは、腎臓内科が特に面白いと思いましたし、指導医の先生もとても素晴らしい先生で、その道を極めるのもいいなとは思ったんですが、それでもなお、仕組みを変える方に興味を持ったんです。でも、ある意味「逃げ」なのかもしれないという想いもどこかありました。その葛藤でギリギリまでけっこう悩みましたね。医師ではなくなるわけですし、2年間とはいえ研修医としてやってきたことを、ここでやらなくなってしまっていいのかと。

    勇気がいる決断ですよね。どのように決められたのですか。

    ずっと迷ってはいましたけど、厚労省の試験を受けたところ合格したので、もう思い切って進むしかないと思いました。当時の病院長からも「君はまだ若いから、やろうと思ったことを思いっきりやって、ダメだったらまたやり直せばいいから!」って言ってもらって。

    それは心強い言葉ですね!

    また臨床業務に戻ろうと思ったら大変かもしれないけど、とりあえず今は厚労省に受かったので、チャンスと思って進むことにしたんです。

    社会問題の渦中に飛び込み
    多くの経験を積んだ厚労省時代

    以前このインタビューに出てもらった、坂上先生(※)と同じように、医系技官になったということですよね。

    まさにそうです。坂上先生は医系技官としては僕の2年後輩として入省しましたね。ただ入ってみると、厚労省は研修医よりはるかにハードで、結果的に4年間在籍したんですが、特に最初の2年間は激務としか言いようがなかったです。当時は特にブラックとかそういう概念もなかったですし(苦笑)、かなりなものでしたよ。

    ※ひとプロジェクト 平成医療福祉グループ 医療政策マネジャー 坂上 祐樹先生

    なるほど…(笑)。入省当時はどのような状況だったのでしょうか。

    2006年の4月に入省して、保険局医療課という診療報酬改定を担当する部局に入ったんですけど、当時は診療報酬改定の影響で「リハビリ難民」が社会問題化した年で、たくさんの患者さんたちがリハビリできなくなって困っている、とメディアで報じられた時期でした。

    あらためて「リハビリ難民」という問題について教えてください。

    ちょうど入省したタイミングで診療報酬改定があったのですが、そこで「リハビリを医療保険で受けられるのは何日まで」ということが決められたんです。脳梗塞だったら180日、骨折だったら120日、それを過ぎたら、医師から改善の見込みがあると認められない限りは医療保険では続けられませんと。

    どういった目的だったのでしょうか。

    当時、効果が明らかでないリハビリテーションが長期間行われているということが問題意識としてあって、リハビリを卒業する目標期間を設定するという狙いで改定が行われました。本当は、「改善が見込める、リハビリが必要な人は続けられます」という仕組みにはなっていたのですが、うまく現場に伝わらず、結果としてリハビリの実施に支障が出るなどしてしまい。ちょうどその渦中に僕は入省しました。

    まさに問題の真っ只中に入っていかれて。

    患者団体の方からの陳情の対応などもしましたね。何十人もの患者さんや関係団体が厚労省に来られるんですが、僕とほかの若手2人くらいでお話を伺うわけです。「人殺し!」「何をやっているのかわかってるのか!」といったお叱りも受けて。

    入省早々、そういった直接の声を受ける立場に置かれたと。

    僕は「厚労省としては…」っていう説明を粛々と読んでご説明するんですが、それが余計に怒りを買ってしまうことになって。

    まさに、文字通り官僚的な対応をされたと。

    でもやっぱり、患者さんにそれだけ迷惑をかけてしまう不備のある制度だったということでしょうかね。僕はそのままリハビリの担当になって、問題となった制度の改正にも携わっていきました。

    想いを持って入省されたわけですが、当然医師とは全く違う仕事内容になったことに、戸惑いはありませんでしたか。

    確かに、やることなすこと全然違いました。陳情の対応をする、会議の資料を作る、国会にも随行する、政策立案もしなきゃいけない、っていうところで、ひたすら走り続けましたけど、やっぱり仕事としてはインパクトが大きかったですね。

    特にそうした時期に入省したことが大きかったのでしょうか。

    そのおかげでリハビリの診療報酬のことや、医療機器の保険適用であるとか、DPC(※)っていう急性期病院での入院医療費の点数体系のこと、多くの仕事をさせてもらえたのは、とても貴重な経験となったと思います。
    ※Diagnosis Procedure Combinationの略。医療行為ごとの出来高ではなく、国が設定した病名や診療内容に応じて1日あたり定額の医療費を設定し、入院費を算出する制度。

    入省前のモヤモヤが再び
    臨床現場に戻る決意を

    在籍していた4年間は、ずっと診療報酬改定の担当だったのですか。

    最初の2年だけで、残り2年は環境省に出向しました。環境保健部門というところで、人体に影響を及ぼす環境のこと、例えば環境ホルモンや電磁波の影響、花粉症や熱中症について担当したり、あとは公害関連の訴訟についても担当したりしました。

    まただいぶ違う仕事になりましたね。

    厚労省の仕事や医療行政の仕事の幅広さを感じました。環境保健についても、医学的な知識や知見は必要ですから「やることはいっぱいあるんだな」ということを実感しながら仕事をして、それは純粋にすごく興味深かったですね。

    ちなみに在籍中、国会答弁もされたのですか。

    僕が答弁するわけではもちろんなくて、局長や大臣が答弁する時に後ろに控えて、想定問答を準備したりしましたね。局長が質問を受けて不明な点があると、僕が後ろからメモを出したりして。

    そうなんですね! くだらない質問で恐縮ですが、あそこに控えている時は、国会中継に映っていることは意識されているのですか。

    カメラが斜め上の方にありましたからね。居眠りしたら映ってしまうので「絶対寝ちゃいけない」っていう意識はありましたよ。インターネットで見られるので、自分でも見ていました(笑)。なのでネクタイもちゃんとしたものを着けて「ああ映ってた」って。

    (笑)。4年間勤められて、厚労省を離れられたのはどういった理由でしたか。

    貴重な経験をさせてもらえてやりがいもあった一方で、そういうすごく大きな仕事を、こんな大して何もわかってない若者が担当していいのかなみたいな、気持ちがありました。やっぱり入省前から持っていた「臨床を2年しかやってなくていいのか」っていうモヤモヤ感がずっと残ってたんです。

    入省前に感じていた悩みが、医療政策の仕事を経験するうちに、あらためて表出されて。

    官僚は官僚で仕事の専門性があるので、若い時からやり続ける必要もあるし、医療政策だけを考えて官僚をやり抜くということも考えたんですが、僕は医療の現場で医師として患者さんを診て感じた問題を、政策に何らかの形で反映する方がいいなって思ったんです。

    ではそこで、また臨床に戻ろうと。

    かなり悩みはしましたけど、このモヤモヤを抱えたまま厚労省にい続けるのはダメだと思ったので、岐阜県の松波総合病院という急性期病院に入って、総合内科医としてまた一から臨床をやり直すことにしました。

    臨床に復帰して、ついに得た
    医師としての自信

    その病院に入られたのはどういった経緯がありましたか。

    総合内科で自由に教えてもらえる環境があって、なおかつブランクがあっても受け入れてくれるところを探したら、松波総合病院が「一緒にいちからがんばりましょう」と言ってくれたんです。

    実際に現場に戻ってみていかがでしたか。

    急性期病院だったので、とても忙しかったしバタバタはしていましたね。でも指導医の先生方が本当に素晴らしくて、ブランクドクターの僕に丁寧に教えてくれました。症例もたくさん診させてもらって、いい経験を積むことができました。

    厚労省の仕事を経たことで、現場での視点にはどんな変化がありましたか。

    医療政策が現場で実際にどう運用されているかわかったのは良かったですね。厚労省で想定していた以上に、真剣に運用されている部分もあれば、逆にルールで定められていないところがなんとなくルール化されているところもあって、必ずしも想定した形で運用されているばかりではありませんでしたけど、それがわかったのは大きかったです。

    ご自身が携わってきた政策の仕事について、現場での実情がよく見えたと。

    それと、以前より視野がちょっと広くなりました。「この患者さんは医療だけやっても良くならない、むしろこれは介護保険との関連が重要だ」とか「社会的に生活保護を導入したほうがいい」とか、そういう視点はできましたね。ただ、とにかくその頃は臨床の仕事に追いつくことに必死でした。

    臨床経験を積んでいくうちに、また気持ちに変化が訪れたのでしょうか。

    ようやく3年くらい経った頃に、まだまだわからないことは山ほどあるけど、自分1人である程度患者さんに対応できるっていう自信がついて、「医者になった」と、やっと思えましたね。

    厚労省時代のモヤモヤが晴れたのですね。

    そこから、今後のキャリアを考え始めたんです。そこで次にできることとしては、医療政策の研究だろうなと考えました。

    なぜそう思われたのでしょう。

    厚労省にいた時、専門の研究者の助けを得て政策を作ることもあったのですが、時間がない時には、官僚が一生懸命考えて作る、ということもありました。そうすると、十分詰め切れてないことや、学術的なエビデンスに欠けると指摘を受けることもあるんですね。そういう経験を通して、自分で研究ができるようになりたい、医療政策の研究を勉強したいなと。そこでまたアメリカに留学しようと思ったんです。

  • 次回:「中途半端を極めたい」。その言葉に秘められた想いとは! さらに、新しい在宅医療の形にも挑みます。

    後編は2020/02/21公開予定

    profile

    世田谷記念病院 在宅医療部 部長 佐方 信夫(さかた のぶお)

    【出身】愛知県名古屋市
    【肩書】総合内科専門医、プライマリ・ケア認定医、筑波大学 准教授
    【趣味】園芸、コーヒー、盆栽(これから極めたい)
    【好きな食べ物】てっさ(フグの刺身)

    病院情報

    医療法人 平成博愛会 世田谷記念病院

    東京都世田谷区野毛2丁目30-10

    内科・整形外科・リハビリテーション科

    急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。