ひとプロジェクト

ひとプロジェクト【第35回・前編】平成医療福祉グループ 海外事業部/山本 浩子さん

    • 看護師の仕事を経て、インドネシアに携わる道へ
      その看護師時代の葛藤に迫ります!

    • インドネシア南ジャカルタ市に当グループが開設するHMW Rehabilitation Clinicに関わるスタッフインタビュー。最後を飾るのは、海外事業部スタッフとしてクリニック開設と運営に携わっている山本浩子さんです。山本さんは、もともと長く看護師として働いていましたが、あることをきっかけに医療から離れ、海外で働く道へ進みます。小さい頃からかなりしっかりした考えを持っていた山本さん。前編では看護師時代の話を中心に、どのようなお仕事をされてきたかについてお聞きしました。ぜひご覧ください!

  • あまり敬語は使わない
    素直に生きた学生時代

    では出身から伺います。

    兵庫県の西宮市です。

    小さい頃はどんなお子さんでしたか。

    ん〜普通の子どもだったと思います(笑)。どちらかと言うと人見知りでしたね。目立つのが嫌でした。

    今と比べて性格は変わりましたか。

    中学生くらいまでは「嫌だったら喋らない」っていう部分がありましたけど、社会生活を経て行くうちに、さすがにそういうことはなくなりました(笑)。

    喋らないっていうのは、どういった意味で。

    「尊敬していない人に、ただ年上というだけで、なぜ敬語を使わないといけないのか」とか、そういうことを普通に先生に言ってしまう人だったので、だいぶ痛かったと思います。

    なかなか主張が強かったんですね。

    でもだからといって特に目立つ方でもなく、謝りたい人がとても大勢います(笑)。

    思い返すと謝りたくなると(笑)。その頃は、将来こうなりたい、みたいなことは考えていましたか。

    中高生の頃から、看護師になりたいって考えていましたね。

    何かきっかけはありましたか。

    仕事というものは一生やっていくんだろうなと考えて、じゃあ一生続けられる仕事ってなんだろうと思った時に、看護師に行き着いたんです。

    中学生にしてはなかなか冷静な選択ですね。

    きっと、看護師でなく一般の企業で働くことになってたとしても、女性が虐げられずに働ける職場を選んだと思います。

    なるほど…10代でそこまで考えられていたのはすごいと思います。

    友だちからもそう言われました。それに人の世話をすることも好きでしたし、専門職として自立できて、なおかつ自分のためにも社会のためにもなる仕事だなと思ったことも大きかったです。

    辛いこともあった
    看護学生の頃…

    高校を卒業してからはどう進まれましたか。

    大阪の看護学校に通いました。

    そこでの学生生活はいかがでしたか。

    ん〜、辛かったです…(笑)。

    (笑)。それはどういったことが辛かったんですか。

    実習と勉強ですね。40人のクラスで始まって、卒業する時は28人に減ってました。

    だいぶ減るものなんですね。

    辛くて辞める人もいましたし、もちろん勉強していくなかで、看護師が合わないって気づく人もいましたし。

    そこからはどう進んだんですか。

    看護学校の系列の総合病院に進みました。

    その後はずっと看護師としてキャリアを重ねていかれて、このグループまでたどり着いたと。

    そうですね、関西のいくつかの病院で働きました。でもその間にもいろいろありましたよ(笑)。

    失礼しました(笑)。

    慢性期医療から得た学び

    看護師としては通算で何年間働かれましたか。

    14年間ですね。でも、途中に看護師を辞めて留学もしました。

    そうだったのですね。いつぐらいのことですか。

    看護師4年目くらいの頃でしたね。前々から語学留学をしたいと思っていたんです。

    どの国に留学されたのでしょう。

    オーストラリアです。向こうの語学学校に入学しました。

    オーストラリアでの生活はどうでしたか。

    10カ月ほどいたんですけど、楽しかったですね。

    看護師の仕事に生かすという目的で行ったわけでは。

    そういうことではないですね。純粋に語学を学びたいから行ったという感じです。

    そこからまた帰国して、別の病院で看護師として働かれて。

    帰ってきてから働いた職場がとてもいい病院で、楽しかったです。

    いい職場に巡り会えたのですね!

    人間関係が良かったのはもちろん、今までずっと急性期の病院でやってきたのが、そこで初めて療養病棟に配属されて、新しいことだし良さそうだなと思っていたら、想像以上に学ぶことがたくさんあって。

    どういった違いがありましたか。

    急性期病院では毎日患者さんごとに、検査や手術、抗がん剤の投与とか、日々やることが多いんですが、療養病棟は寝たきりの患者さんが多いので、日常的にそういった出来事とか大きな変化が多いわけではなくて。

    求められる看護の内容も変わってきますか。

    療養病棟では、看護の力で患者さんの状態が変わるのが、急性期よりもわかりやすかったです。看護師がサボれば悪くなるし、一生懸命刺激を与えれば良くなると思いました。

    目に見えてわかる部分があるのですね。そこではどれくらい働きましたか。

    3年目くらいで病棟が閉鎖になってしまって、それでまた急性期の病棟に戻ることになりました。悲しかったんですが、学べたことも多かったなと思いました。それと、私は働いているうちにその職場が楽しくなるタイプなので、異動があってもそんなに嫌な気持ちもなく。

    働いているうちに楽しくなるんですね。

    外科に行ったら外科が楽しいし、内科に行ったら内科が楽しいです。

    看護師として燃え尽き…
    新たな道へと一歩を踏み出す

    その後はどうされたのでしょうか。

    その病院を退職して、オーストラリアへワーキングホリデーに行きました。

    またオーストラリアへ行かれたんですね。そのタイミングで行かれたのはどうしてですか。

    同僚にオーストラリア留学経験者が何人かいて、「やっぱりいいよね」「行きたいよね」っていう話をしていたんです(笑)。

    話してるうちにオーストラリア熱が高まったと(笑)。

    そうです(笑)。やっぱり海外は楽しいんですよね。

    また帰国後は看護師として働かれたのですか。

    また別の急性期病院に入って、そこから職場が変わりながら10年くらい働いたところで、看護の仕事から離れました。

    どういう理由で看護師から離れようと思われたのでしょう。

    多分最後の5年間働いた病院が忙しかったっていうのもあってか、自分では気がつかなかったけど、燃え尽き症候群みたいになっていたんだろうなと思います。

    どんな病院だったんですか。

    泌尿器科と腎臓内科の混合病棟で、泌尿器科は毎日オペ続きでした。稼働率は常に100%を超え続けていましたね。毎日のように10人患者さんが退院しては10人が入院するという感じでした。だからずっとバタバタで。終末期の患者さんに深く関わることもできず。

    そこで辞める決断をされて。

    自分が14年ほど看護師を経験して、学びたいことはある程度学べたという気持ちがありました。消化器とか呼吸器、外科や内科やICU、それに療養病棟も経験できましたし。

    辞めた時点で次にどうしようっていうのは決められていたんですか。

    今までは、次にやることを決めてから辞めてましたけど、その時だけは特に決まってなかったです。ただ、次の就職先は病院ではないかなって思ってました。

    なるほど、看護師からは離れようと。

    というよりは、スタッフの育成で苦労した経験があったので、教育の方面に進みたいと思ったんです。

    それは看護師の教育ですか。

    そう、看護学生ですね。でもとりあえず時間ができたし、まずは海外に行きました。

    旅行に行かれたんですね。長期ですか。

    5カ月くらい行きました。アジア、ヨーロッパ、北米、中米、南米、イースター島と回って、また南米に行き、乗り継ぎでロサンゼルスに行って、日本に帰国しました。

    大旅行ですね! 余談ですけど、どこが良かったですか。

    ペルーですね。ベタですけどナスカの地上絵は良かったですし、あとはクスコの街並みがきれいで素晴らしかったです!

    インドネシアの高校で
    日本語教師のアシスタントに

    看護師の仕事から離れて、その後はどうされたのですか。

    ちょうどその時に、アジア各国に日本語を教えに行く人を政府が募集していたんです。

    仕事として海外に行けるというのは魅力的ですね。

    その募集を見て「行ってみたい!」と思いました。その時の募集がインドネシア、ベトナム、フィリピンの3カ国のどれかに派遣されるということで、私としてはどの国も行ってみたくて。それが2年前くらいのことでしたね。

    そこでインドネシアに派遣されることとなったのですか。

    はい、派遣先はインドネシアのバンドンでした。以前このインタビューに出たエルナさん(※)の出身地です。
    ※ひとプロジェクト HMW Rehabilitation Clinic エルナさん

    実際にどんなお仕事をされましたか。

    現地の高校で、インドネシア人の日本語の先生と一緒に日本語を教えていました。

    アシスタント的な役割なんですね。インドネシア語はその際に習得したのですか。

    そうです。出発1カ月前に研修がありました。

    えっ、1カ月で!

    もちろん完全に習得したわけではないですけどね。生活するために必要最低限なところだけで。

    いざやってみてどうでしたか。

    みんながみんな、勉強をそんなにがんばってやる、ということではなかったです(笑)。授業も、日本語学校ではなくてあくまで高校の授業の一環なので、興味がある子はあるし、全然ない子もいて。でも生徒たちがみんな本当にかわいくて、それがすごく良かったんです。

    日本語の教師はどのくらいやられたのでしょうか。

    任期の8カ月ですね。それを終える頃に、せっかくインドネシアに触れたのだから、これからもインドネシアにもうちょっと縁がある仕事ができたらいいなと思いました。そこで、次の就職先として、このグループにたどり着いたんです。

  • 次回:「日本人ってかわいそう」。
    インドネシアの生徒に言われた一言から考えた、この国の幸せとリハビリの関わり方とは!

    後編は2019/11/01公開予定

    profile

    平成医療福祉グループ 海外事業部 山本 浩子(やまもと ひろこ)

    【出身】兵庫県西宮市
    【趣味】旅行
    【好きな食べ物】お母さんの作るオムレツ(ひき肉、ジャガイモ入り)

    病院情報

    HMW Rehabilitation Clinic

    JL. Daksa 4 No. 69 Selong, Senopati, Kebayoran Baru,Jakarta Selatan 1220

    当グループが培ったリハビリテーションなどの技術を普及するため、インドネシアの南ジャカルタ市に開設するクリニックです。当グループで学んだインドネシア人のスタッフや、指導者として日本人スタッフも常駐し、日本式のリハビリテーションを提供します。日本のリハビリテーションロボットも導入を予定しています。