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ひとプロジェクト【第33回・前編】HMW Rehabilitation Clinic /看護師 エルナさん(Erna Arsinawati)

    • 看護は私が心からできる仕事
      日本で看護を学び、母国インドネシアで働く看護師に話を聞きます!

    • インドネシア南ジャカルタ市に当グループが開設するHMW Rehabilitation Clinicに関わるスタッフインタビュー、第2弾は看護師のエルナさんです!
      もともとは看護師としてインドネシアで働いていたエルナさん。紆余曲折の末、6年前に、EPA候補者として日本へ渡る決意をされ、グループの豊中平成病院へ入職。今回は、その決断に至るまでの経緯を中心にお聞きしました。看護師から離れた時期を経て、今は「看護師は心からできる仕事」と語る、その真意とは…。ぜひご覧ください!

  • 育った土地は
    自然豊かな都市バンドン

    ではよろしくお願いします!

    もし私が日本語を間違えたら直してくださいね。

    わかりました。でもきっと大丈夫ですよ!こういったインタビューに出るのは初めてですか。

    実は前にテレビに出たことあるんですけど、恥ずかしくて嫌でした(笑)。もう4年くらい前に、EPA候補者の特集で、NHKに出たんです。

    そんなことがあったのですね! 放送は見ましたか。

    みんなで見ましたし、録画もしましたけど、恥ずかしかったのでもう見返したくないですね。

    このインタビューも多くの方が見ますので、よろしくお願いします(笑)。では、出身はどちらですか。

    ジャカルタから3時間半くらい離れた、バンドンという都市です。そのなかでもマジャレンカ(Majalengka)という街でした。父と母はバンドンで仕事をしていたので、私はそこで中学生まで、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしていました。

    インドネシアでは、仕事のために家族が離れて住むということも多いとお聞きしました。

    多いですね。今の私もそうなんです。もちろん、みんながみんなそうではないですが。でも、やっぱり寂しかったので、高校生になった時にバンドンに出て、両親と暮らしていました。

    バンドンはどんなところですか。

    有名な山、タンクバンプラフ(Tangkuban Parahu)の下の方に広がっていて、涼しいところです。最近はちょっと暑くなって、渋滞も起こるようになってきましたけど。観光地として有名で、温泉もありますよ。

    温泉があるのはいいですね!

    それと、大学も多くある場所です。有名な教育大学もありますね。

    生まれ育ったマジャレンカはいかがですか。

    山と田んぼが多くて、高いビルも少ないです。でも最近、大きな空港ができました。便利になりましたけど、それで緑が減るのは寂しいですね。私は緑が好きなので、ジャカルタよりバンドンが落ち着くんです。

    カラオケで優勝も
    歌うことが大好き!

    エルナさんは学生時代、運動が好きとか、勉強が得意とか、どんな学生でしたか。

    ふたつとも嫌いでした(笑)。

    (笑)。

    それよりも、歌を歌うのが好きでした。

    合唱などをやっていたのですか。

    いえ、中学生の時に弟たちとバンドをやっていました。

    家族バンドですね!

    3人姉弟だったんですけど、一番下の弟がドラム、次の弟がギター、私がボーカルでした。そんな本格的なものではなくて、楽しむためにやっていましたよ。学校でイベントがあった時に演奏したり。

    ちなみにどんな楽曲をやっていたのでしょうか。

    オリジナルの曲が少しだけあって、あとはその時に海外で流行っていたものですね。The Cranberriesとか、DIDOですね。

    なるほど、どちらも日本でもヒットした洋楽アーティストですね。

    そうです! 今はもうバンドはやってませんけどね。でも以前、グループ忘年会のカラオケ大会で、平井堅の『僕は君に恋をする』という曲を歌って、優勝しましたよ(笑)。

    すごい! ぜひ歌声を聞いてみたいです。

    当時一緒に働いていたEPA候補者とデュエットで歌いました。

    看護と建築、2つの夢で悩む…

    看護の道に進んだのは、高校を卒業されてからですか。

    はい、バンドンの大学の看護学部に通いました。

    以前から、看護師になりたいと思っていたのでしょうか。

    いえ、実は思ってなかったんです。看護師の仕事って、患者さんの対応をするのが難しそうだし、大変そうだなって。私自身、小さい頃から病気がちで、看護師さんにたくさんお世話になったので、大変さを目の当たりにしてました。注射を刺すっていうのも怖かったですし、元々はなりたくなかったんですね。

    そもそも憧れていたわけではなかったんですね。

    昔の考え方かもしれないんですけど、私はママから「あなたは女の子だから、ちゃんとした大学に入って、しっかり仕事を探してほしい」って言われていました。そこで「例えば、どんな仕事?」って聞き返して勧められたのが看護師だったんです。最初は「えっ?」って思ったんですけど、インドネシアでは両親の言うことを尊重する文化があるので、結局その道に進むことにしました。

    もともとやりたかったことはあったんですか。

    建築の仕事をしてみたかったです。その関係の大学に行きたいと最初は思っていました。親にもその話をしたら、ママが「じゃあ大学に2つ入ったら?」って言われたんですが、「そんなのできないよ!」って返しました(笑)。

    同時に2つとも通うわけにはいかないですもんね(笑)。

    ただ、どちらも試験は受けて、実は両方受かったんです。

    すごいですね! どう入学を決断したんですか。

    建築の方は、やりたいことではあるんですけど、それを学んだうえでどう仕事になるかは、まだわからない。でも、看護師なら、きっと卒業したらすぐに働けるって思ったんです。

    なるほど、就職への道のりは看護師の方が見えていたんですね。

    だから、やりたいことを一旦置いて、やるべきことを取りました。ただ、看護師をやり始めてみたら、素晴らしい仕事だなと感じました。

    どういうところでそう感じましたか。

    状態が悪かった患者さんの対応を続けていくうちに、だんだんと回復していって、無事に退院までたどり着けたことに、満足感を得られたんです。

    患者さんが回復する過程を通して、仕事に喜びを感じられたのですね。

    自分だけの力ではなくて、もちろんチームの力があってこそでしたね。看護師としてはたらくうち、徐々にそういった気持ちが芽生えていきました。患者さんの笑顔を見られることに喜びを感じられるようになったんです。

    心からの仕事をしたい!
    看護師に復帰し日本を目指す

    その後、EPA候補者として応募されたのですか。

    もう少し後ですね。最初の病院を離れて、結婚と出産を経て、1年半くらいは仕事をお休みしていましたね。復帰後は研究施設のようなところに就職して、約1年半くらい働きました。ただ、ほかのこともやってみたかったので、看護師から離れて、バンドンでも大きな不動産会社に就職したんです。

    だいぶ医療から離れましたね。

    その頃は子どもがまだ小さくて母乳が必要でした。病院で働くと夜勤をすることになりますから、当時はちょっと難しかったです。

    お子さんを育てながら仕事をするのは大変でしたか。

    その頃インドネシアの病院では、日本のような時短制度や育休制度はなかったです。最近は増えてきたとは聞いています。なんで当時はなかったのかなと思います。不動産の仕事自体はいい経験でしたよ。物件が売れるとボーナスももらえましたので(笑)。

    (笑)。しっかりと営業職をされていたんですね! 不動産業界にいるうちに、看護師に戻りたい、という気持ちが出てきたのですか。

    私が看護業界から離れているうちに、周りの友だちがEPA候補者として日本に行っていたんです。みんなから「エルナもこっちおいで」っていう誘いを受けました。

    その声に影響を受けたんですね。

    「私にできる?」って聞いたら、「できるできる、大丈夫!」って後押ししてくれました。

    それまで、日本で働くということは考えていましたか。

    全然考えていなかったですが「やってみよう」って思いました。ただ、子どもと離れることにはなるので、そこですごく悩みはしました。単純に日本に行ってみたいという考えだけで決めたわけではありませんでしたので。でも、家族がみんな応援してくれたので、決断できましたね。

    何が日本行きの決め手になったのでしょうか。

    不動産の仕事は、とても良い待遇で働かせてもらえましたし、いい仕事でした。ただ、心のどこかで「私は看護師だ」と自分自身のことを思っていたんです。家族のことを考えたら、給料が重要なのはもちろんなんですが、心からやりたいと思う仕事をすることも、同じくらい大事だと考えました。

    看護師は、エルナさんにとっては心からの気持ちでできる仕事だったと。

    心からの仕事であれば、やりたいことですから、私にとって苦はないんです。

    そのなかで、日本へ行くというのもまた大きな決断ですね。

    自分が心からやりたい仕事をしながら家族のために貢献したい、と考えて、日本に行く決断ができました。

    看護師として成長することで、より良い条件で働くことができれば、家族にもプラスになりますものね。 

    そうなんです! それが決め手でした。ただ、子どもと離れてしまい、日本に来てからは1週間ぐらいずっと泣いていましたね。勉強も手につかず…。両親や弟の支えがあったので、なんとかがんばれました。

    助けたい人を
    助けられない現実に悔しさ

    いざ日本に来てみて、日本語の勉強などはいかがでしたか。

    難しくて泣きそうでした。「なんでこんなに難しいの!」って(笑)。英語は不動産の仕事で喋れるようにはなってたんですが、日本語は読み方がいっぱいあったりして、本当に大変でしたね。

    ひとつの漢字で読み方が複数あるって、なかなか覚えるのは苦労しますよね。

    「意地悪〜!」って思いました(笑)。先生も厳しかったです。

    日本に来たら、今度は看護の研修も始まったと思うんですが。

    それも大変でしたね。まだまだ日本語も十分ではないうちに、専門用語を学ばないといけませんでしたので。

    グループの豊中平成病院で仕事をし始めてみて、インドネシアとの違いはどういうところに感じましたか?

    国に関わらず、基本的なことは一緒だとは思っています。でも医療機関としての対応の仕方とか仕事の仕方は違いましたね。いっぱいあるのですが、日本はいいことが多いなと思いました。

    特にどういうところですか。

    療養とかリハビリテーションのために入院するっていうことがなかなかインドネシアではなかったです。病院にもよりますが、私がいた市民病院の患者さんの多くは、成人で、自力で歩けて、1カ月くらい退院されていました。豊中平成病院では、高齢の方がメインで、1年以上入院をされる方もいます。そんなに長く医療を提供することが可能なんだ、と驚きました。

    豊中平成病院には医療療養病棟がありますからね。

    それと、日本では患者さんが来られたら、保険のことは聞かずに受け入れます。インドネシアでは、まず保険のことを最初に聞いていました。「保険ですか? 自己負担ですか?」って。

    保険に入っていなくて、自分で負担もできない場合、受け入れが難しいと。

    そういうことです。特に小さい病院しかないような田舎だとなおさらですね。救急車も一台しかない、ということもありましたし、それで助けられないのは本当に悔しくて悔しくて…。

    ひょっとしたら助かってたかもしれない、っていうこともあったのですね。

    看護師になる前にも、そういったことを見てましたので、それも私が看護師になろうとした一つの理由かもしれないです。日本に来てからは対応の早さを感じましたね。

  • 次回:看護の資格は「どこでもドア」。 EPA候補者の後輩たちにエルナさんが伝えた想いとは!

    後編は2019/10/11公開予定

    profile

    HMW Rehabilitation Clinic 看護師 エルナ(Erna Arsinawati)

    【出身】インドネシア 西ジャワ州バンドン市
    【好きな食べ物】サテ・カンビン(ヤギの串焼き)
    【趣味】歌うこと(十八番は『糸』)

    病院情報

    HMW Rehabilitation Clinic

    JL. Daksa 4 No. 69 Selong, Senopati, Kebayoran Baru,Jakarta Selatan 1220

    インドネシア ジャカルタ州南ジャカルタ市に開設。脳卒中や脊髄損傷による後遺症だけでなく、肩こり・腰痛、スポーツによる外傷に悩む方などに、日本で培った技術を提供してまいります。当グループで学んだインドネシア人のスタッフや、指導者として日本人スタッフも常駐し、日本式のリハビリテーションを展開。日本のリハビリテーションロボットも導入を予定しています。