お知らせ ひとプロジェクト

ひとプロジェクト【第27回・前編】平成横浜病院/看護部長 古谷 茂美さん

    • 前身の病院時代から、長くこの病院を見守ってきた
      その看護師キャリアに迫ります!

    • 今回は、平成横浜病院で看護部長を務める古谷さんです。お祭りと運動が大好きな少女だった古谷さんは、とても現実的な理由で看護師を目指し、高校の衛生看護科に進みます。今回は、看護師としてキャリアをスタートされるまでのお話から、厳しい指導を受けた新人時代のこと、さらに、平成横浜病院の前身となる企業立病院に就職して感じたいろいろなことなど、現在につながるお話をあれこれお聞きしました。
      ぜひご覧ください!

  • だんじりで血が騒ぐ
    お祭り好きのDNA

    ご出身はどちらですか。

    私、実は大阪の出身なんです。グループの岸和田平成病院の近くで。

    岸和田市のご出身なんですね!

    そうなんです、職場では標準語で話していますけど、家に帰ると関西弁が出ます。子どもたちも家では関西弁で喋っています。

    岸和田市というと、だんじり祭りのイメージが強いですけど、やっぱりお祭りは好きなんですか。

    もう大好きです! 小さい頃は男の子に生まれたかったって思ってました(笑)。

    当時はあまり女性が出ていなかったのですか。

    今はまた違うかもしれませんが、その頃女の子はお祭りに参加したとしても高校生ぐらいまででしたね。私も短大に入る頃はもう出ていませんでした。でも男子はもうずっと参加していましたから。

    岸和田はどんな場所ですか。

    下町でしたね。お祭りがみんな好きで。岸和田の人って、正月よりもお祭りが一年の中心で、そこがもう全てなんです。1年で一番お金を使いますから(笑)。地元を出た人たちも、たとえ正月に帰らなくても、お祭りのある9月には帰ってきていましたね。

    最近もお祭りのために帰られるんですか。

    あまり帰ってないですね。最近ではお祭りも変わりました。以前は曜日も関係なく9月14、15日に開催されていて、その日は学校もお休みだったんですよ。それが普通だったので、高校で初めて学区外の学校に通って、お祭りの日が休みじゃないことに驚きましたね。

    地域限定の話ですねきっと(笑)。じゃあ高校では授業に出られたんですか。

    いえ、休みました(笑)。

    あ、やっぱり休むんですね(笑)。

    高校から看護の道へ
    衛生看護科で学んだ青春時代

    ちなみに学生時代、勉強はいかがでしたか。

    勉強はねえ、しなかったんですよ(笑)。

    ずっとしなかったんですか。

    そうですね。高校の衛生看護科に通っていたんですけど、大学か短大に行きたいなと思っていて。私立はお金がかかるから避けたかったので、大阪府立看護短期大学(※)という学校を志望しました。ただ、自分の学力より少し上のレベルだったので、その時はすごく勉強して、何とかそこに合格できましたね。

    ※現 大阪府立大学地域保健学域看護学類。

    高校の時点で看護の道に進んでいたんですね。衛生看護科って卒業後はどういった進路が多いんですか。

    在学中に准看護師の資格が取れるので、卒業後に准看で働くっていうことはできるんですけど、進学する人が多かったですね。

    衛生看護科がある学校って珍しいですよね。

    特に今は少ないかもしれないですね。私の母校ももうなくなりましたし。

    衛生看護科と専門学校とは何が違うんでしょうか。

    准看の資格を取るまでに3年間かけるので、ある程度ゆったりと学べるっていうのは言えますね。

    そもそも高校に入る前から看護師になりたいと思っていたんですね。

    何か憧れがあってというよりは、結果的に看護師さんだった、という感じですかね。私は社会人になったらずっと仕事をし続けていきたいなっていうことを考えていました。そのために資格を取って働こうって考えたときに、看護師さんか美容師さん、保育士さんが候補としてあったんですが、私としては高校は行きたいなって考えていて。それなら、通いながら資格も取れる衛生看護科に行こう、って考えたんです。割と現実的な中学生でしたね。

    でも中学でそう思ったのは早かったですね。周りからの勧めもありましたか。

    特にはなかったですね。その学校が学区外だったのもあって、うちの中学から行った前例もなかったのでデータもなくて。むしろ「大丈夫なの?」って言われたんですけど、「大丈夫も何も、よくわからないから、ちょっと受けてみます」って感じで(笑)。

    勢いがいいですね(笑)。高校生活はどうでしたか。

    楽しかったです。うちの学年は幼かったので、みんなキャッキャしていて。よっぽど下級生の方が大人でしたね。楽しい学校で良かったなと思ったんですが、その分、実習は辛かったですね。

    大人でも大変と聞くのに、高校生の年齢で行くとなると、より大変そうですね。

    あくまで当時の話ですが、高校生には当たりが厳しかったというか。まだ子どもですし、わかってないことも多かったですので。卒業生の先輩がいる病院では良くしてもらえたので「自分も受け入れる側になったらこうなろう」って思いましたね。

    跳馬が得意!
    器械体操部にも打ち込む

    素朴な質問なのですが、衛生看護科の生徒も部活動は普通にするのですか。

    やっていましたよ。私は器械体操部でした!

    意外な部活ですね!

    中学の時はバスケットボール部をやっていて、けっこう強い部だったんですね。でも衛生看護科って、やっぱり看護の勉強に重きを置くので、そんなに強い部活はないんですよ。

    資格を取るという目的がありますからね。

    でも私は「強い部活に入りたい」って思っていて(笑)。入学してから、たまたま器械体操部の練習を「きれいだな〜」って思いながら見ていたら、その部にいた同じ中学の先輩から「いらっしゃい」って声かけられて。「まずいなあ」って思いながらも、もう抜けられなくなってしまって。

    器械体操をやるくらいだと、体が柔らかかったんですか。

    それが硬かったんです。でも柔軟を毎日やっていると柔らかくなってきますよ。

    ちなみに何の種目が得意でしたか。

    跳馬ですね。あれが一番好きでした。

    おーっ。じゃあクルッて回るのも?

    できましたよ。

    今もできますか。

    できません(笑)。体も硬くなっちゃいますね。短大まではやっていましたけど。それもまた別の先輩に誘われて。

    よく先輩に誘われますね(笑)。

    「器械体操部見に来て〜」って言われてしまったので(笑)。

    当時は今より厳しかった?
    実習や新人時代の話

    短大は何年制でしたか。

    そこは2年制と3年制どちらもある学校で、私たちのように衛生看護科で准看の資格を持った生徒は2年、短大から看護の勉強を始めた生徒は3年でした。

    2年間で、今度は正看護師の資格を取るわけですか。

    そうですね、また実習もありました。でもそこは実習はそこまで多くなかったので、それは少し良かったです(笑)。

    卒業後はどのように進まれたんですか。

    もともと私は小児科志望だったので、こども医療センターのようなところに行きたかったんですが、大阪には当時はなくて。神戸に同様の医療機関があったので、そこに行こうと思ったんですが、大阪府からの奨学金をもらっていたのをすっかり忘れていまして…(笑)。

    なるほど(笑)。

    大阪で3年間務めたら免除っていうものをいただいていたので。府内の病院に就職をして、小児科がないなら内科がいいなと思って、そこで5年ほど働きました。

    最初の就職先はどうでしたか。

    緊張しましたね〜。もう実習生と同じですよ。先輩についてもらいながら1から10まで教えてもらって。よく怒られましたね(笑)。

    どういったことで怒られるんですか。

    夜勤中に「今ここで急患の方が来られたらどうする? じゃあ今から挿管セット並べて!」って抜き打ちで言われて。戸惑いながら並べると「これじゃ足りない!」って怒られて(笑)。今はもうみなさん優しくなりましたけど、当時は就職したら先輩は怖いものだって思っていましたね。でも優しさもありました。

    意地悪じゃなく、ちゃんと実践的なことを教えてくれて。

    後輩たちにしっかり教えていかないと、という想いがあったんだろうと思います。本もたくさん貸してもらいましたし。今だと、1年かけてしっかり一人前に育てる流れに変わっていますね。なので夜勤を始めるのもだいぶ時期が遅いですけど、当時はもう夏には始まっていましたし、覚えることを詰め込まれるようなイメージでしたね。脱落していく方も中にはいましたね。

    ついていけなくなってしまうんですね。

    最近はそういう意味で脱落する人は少ないかもしれないですね。でも、あの頃があったから、看護師として成長できたんだと、今となっては思います。

    ご自身が先輩になってからも、教わったように指導されたのですか。

    私は抜き打ちチェックはしなかったですね(笑)。でも「これをやって欲しい」っていうことはしっかり伝えてましたし、注意するときはしっかり注意していましたね。そういう点では、先輩たちの想いを引き継いできたとも言えるかもしれないです。

    今とは違う雰囲気のなか働いた
    前身の病院でのこと

    関東に来てからは、どんな病院に勤められたんですか。

    ずっとこの病院で勤めてきました。

    長くここにお勤めなんですね。入職当時はキャリア何年目くらいでしたか。

    6年目ですね。当時、平成横浜病院は日立横浜病院といって、企業が運営する病院でした。この辺は一帯に会社の工場や寮、体育館があって、企業の街という感じでしたね。

    企業の病院だと、従業員とそのご家族が来られるような感じですか。

    そうですね、地域の方も来られますけど、大半は従業員の方でしたね。

    いわゆる一般の病院と雰囲気は違うものですか。

    今まで見てきた病院とは違いましたね。独特だなって思いました。

    どういう違いがありましたか。

    徐々に変わってはいきましたが、あくまで福利厚生の一環としての病院、というのが当初の役割ではあって。一流企業としてのブランドイメージを守りながら、従業員の方をメインに診療をしていくという方針でした。院内に置いてあるものも一流品ばかりで、初めは驚きましたね。

    まずは企業として病院があるということ自体が、大きな役割だったんですね。

    もちろん診療はしっかりやりながらも、まず従業員の方のためという性格が強かったので、一般の病院から移ってくると、少し雰囲気が違うと感じられたんです。後々は、より地域の患者さんのためにとか、特定の分野に特化していこうとか、いろいろ取り組みも進めようとしていましたね。

    古谷さんご自身はどのように働いてこられたんですか。

    最初は外来で働いていたんですが、そのうち手術室の担当になって。手術室はほかの病院と同じですから、日々手術が入って慌ただしく仕事をし続けてきたような印象でした。

    そのうちに経営が平成医療福祉グループに変わっていったと。

    2013年にこのグループに経営が移譲されたことで病院機能が変わって、私としては、より病院らしくなったなと感じました。まだまだのところもありますけど、新しく生まれ変わって、より良くなっていっているなと思っています。

  • 次回:古谷さんが見てきた平成横浜病院の移り変わり、そして、衝撃を受けたある一言とは!

    後編を読む

    profile

    古谷 茂美(ふるたに しげみ)

    【出身】大阪府岸和田市
    【職種】看護師
    【趣味】スキー、ツーリング(以前はオフロードに乗っていた)
    【好きな食べ物】チョコレート(どんなものでも好き)

     

    病院情報

    医療法人横浜 平成会 平成横浜病院

    神奈川県横浜市戸塚区戸塚町550番地

    内科・神経内科・呼吸器内科・消化器内科・循環器内科・外科・泌尿器科・皮膚科・整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科・眼科・歯科・歯科口腔外科・麻酔科・脳神経外科

    地域に根ざした病院として、一般病棟、地域包括病棟を備え、回復期リハビリテーション病棟を新設しました。さらに救急告示病院として24時間365日、患者さんの受け入れを行っています。2018年6月には、総合健診センターがリニューアル。地域の健康を支えていけるよう努めています。