ひとプロジェクト【第22回・前編】平成医療福祉グループ 介護福祉事業部 部長 前川 沙緒里さん
社会福祉士から入職し、グループ介護部門のまとめ役に
さまざまな現場を経てきた、その経歴とお仕事に迫ります!
今回は、グループの介護福祉事業部の部長を務める前川さんです。社会福祉士として入職しながら、さまざまなお仕事を歴任されてきた前川さん。今回は、まだグループの介護事業が部門として立ち上がる前の取り組みについてお聞きしています。いろいろな経験談が飛び出るインタビューは必見です! ぜひ来週の後編と合わせてお楽しみください。
泥を投げ、泳ぎが好きだった
―出身を教えてください。
徳島県の徳島市です。
―生まれ育った場所はどんなところでしたか。
田んぼに囲まれた、のどかな場所でした。
―小さい時はどんなお子さんでしたか。
近所の同級生は男の子しかいませんでしたので、一緒になって田んぼとか神社で遊んでましたね。ゲームより外遊びで、木に登ったり泥を投げたり(笑)。
―ヤンチャですね(笑)。学生時代は部活動は何かされていましたか。
中高生の時は、剣道と水泳をやっていました。
―掛け持ちされていたんですね。
メインとして剣道部に入っていて、水泳部の方はとてもゆるかったので、大会前に合宿だけ参加して、あとはスイミングクラブで泳いでいました。
―泳ぐのがお好きなんですね。ちなみに吉野川で泳いだりは…。
吉野川は流れが急で深いので、泳いじゃダメなんですよ(笑)。でもそれこそ、子どもの頃はグループの博愛記念病院の近くの川で泳いでました。
―もうその頃から縁があったんですね。
同級生のおばあちゃんの家がその近くにあって、よく行っていました。岩から飛び込んだりして。
―博愛記念病院のことは認識していたんですか。
いつも前を必ず通っていたので、「病院があるなあ」っていうくらいの認識でした。
阪神淡路大震災での体験がきっかけ
看護師に憧れた高校時代
―福祉の道を志したのはいつからですか。
実はもともと、看護師にずっと憧れていたんです。看護体験も行って、看護学校の受験も考えていました。
―看護師に憧れたのは、何かきっかけなどありましたか。
高校生の時、阪神淡路大震災のボランティアで避難所に行ったことです。大切な人を亡くされた方もいらして、家も崩れて、お風呂にも入れないような過酷な環境の中でみなさん暮らしていて。そこで、お医者さんと看護師さんのお手伝いとしてついて回っていたのですが、そんなしんどい状況のはずなのに、「ありがとう」って言ってくださるんです。自分たちが大変な時なのに、関わることで感謝の言葉をいただける仕事ってすごいなと思って、そこから興味を持ち始めたんです。
―価値観が変わるような、とても大きな体験ですね。ただ、実際は看護師にはならず。
実は私、数学がとても苦手で…トラウマがあったんです。看護師の試験には数学があると聞いて、そこで諦めました(笑)。
―そこがネックになったんですね(笑)。
でも「医療・福祉の仕事に関わりたい」と思って調べていたら、初めて「社会福祉士」という仕事があるということを知ったんです。


患者さん・利用者さんと社会をつなぐ
社会福祉士のお仕事
―そこから社会福祉士を目指されたんですね。
こちらは試験で数学がなかったんです(笑)!
―そこは大きいですね(笑)。当然、仕事としての興味もお持ちで。
もちろんありました。阪神淡路大震災のボランティアの時、思い返せば間近でその仕事を見ていたんです。それが社会福祉士さんだとその時はわからなかったんですけど。
―どんな風に支援に関わっていたんですか。
高齢者の方たちのところに行って、とにかくお話を聞いていました。今悩んでること、辛いこと、なんでもお話を聞いて、何か利用できる制度があれば紹介をしたり、体調が悪いようであれば、お医者さんや看護師さんにつないだり、という関わり方ですね。
―基本的な質問なのですが、社会福祉士とは具体的にどういったお仕事でしょうか。
基本的には相談役として、患者さん・利用者さんを、いろいろな機関や制度につなげるのが仕事です。例えば病院であれば地域連携室に入って、患者さんをほかの病院や、退院後のサービスにつないだり、公的な補助についての相談役をしたりということをします。その人の抱えている問題をどうやったら解決できるか、導くお仕事ですね。実際に解決をするのはあくまでご本人ですので。
―患者さん・利用者さんを社会とつなぐということですね。
壁もたくさんありますし、必ずしもすぐ目に見える成果が出ないという難しさはあります。ただ、もちろん感謝していただけることもありますし、必要とされる、やりがいのある仕事なんです。
青春! 楽しかった大学時代を経て
なじみのあった地元の病院へ
―社会福祉士を目指して、その後どのように進まれましたか。
大阪の柏原市というところにある福祉系の大学に進学しました。奈良に近いのどかなところで。でも大学や専門学校が集まっていたので、学生は多くて活気もありました。
―大学時代は真面目に通って勉強されて。
いや、決して真面目な学生とは言えなかったですね…。どちらかと言うとアルバイトに力を入れるようになっていって、授業の取り方もそっちに合わせるように(笑)。
―(笑)。どんなアルバイトをされていたんですか。
特養での夜勤、障害者施設や精神科でのお仕事とか、医療・福祉関係のアルバイトですね。それと、今までアルバイト経験がなかったのでいろいろなことをしようと思って、マクドナルドとかサブウェイなど飲食店でも働きました。
―けっこうたくさんやっていたのですね。
それが楽しかったので、学校には行っても授業を受けたらすぐ帰ってましたね。
―放課後サークル活動をしたりとか、学校の友達と遊んだりということもなく。
でもバイトが終わって家に帰ると、友だちが誰かしら部屋にいましたね。
―えっ、勝手に部屋に入っているんですか。
そのマンションに大学の同級生が何人も住んでいて、常に誰かの部屋に集まっていたんです。大家さんがすごくいい人で、BBQとか花火を企画してくれましたし、とても楽しかったです。
―卒業後、社会福祉士として就職されたんですか。
はい、うちのグループの博愛記念病院に入職しました。そもそも、その頃は社会福祉士を募集している職場自体がほとんどなかったのに、ここだけ「社会福祉士を5人募集します」っていう求人があったんです。
―貴重な求人ですね!
当時介護の求人は、介護スタッフとか、介護士だけという時代だったので、とても珍しかったですね。しかも小さい頃に泳いでいた川の側の病院でしたし、すぐ受けて、内定をいただけました。


さまざまな現場を渡り歩き、経験が糧に
でも、異動は寂しい…
―そこから、社会福祉士としての仕事がスタートされたのでしょうか。
最初は、社会福祉士の新人全員が介護士として現場で働きました。
―まずはしっかりと現場を知るということですね。
当時「社会福祉士は全てのサービスを理解しないといけない」っていう代表の考えがあって、いろんな職場を経験していきましたね。私も最初に病院で介護士をして、そこからケアハウスに行って、在宅介護支援センター、居宅介護支援事業所、特養に行って老健に行って、また特養に戻って、次は地域連携室に行って…。
―多くの現場を知ることが、社会福祉士としての糧になるという考えだったわけですよね。
そうだったと信じています(笑)。
―社会福祉士として入職はしつつも、さまざまな経験を積まれてきたんですね。
今思えば「たくさん勉強させてもらえたな」と感じます。ただ、その当時は異動のたびに辛くはありましたね(笑)。せっかく慣れてきて楽しくなってきたところで移ることになりますし、利用者さんやスタッフさんと離れるのが寂しかったです。
―先輩の社会福祉士さんも同じ様にやってこられていたんでしょうか。
私たちが入った時点では先輩はとても少なかったんですが、すでにグループ本部の仕事もされていました。きっと同じようにさまざまな職場を経たんだろうなと思います。
―前川さんも本部の仕事をされるようになっていかれて。
私が施設長を務めるようになってから、徐々にですね。当時は今みたいにグループの部門や機能が確立されていなくて、本当になんでもやっていましたよ。人事部もありませんでしたから、新卒スタッフの制服の準備から、有給休暇の管理、各施設が提出する書類の管理、あとは新人研修、慰安旅行、忘年会の準備とか、何でもでしたね。
―そこまでやられていたんですね!
「本部」と聞くと、全体を動かす大きい仕事をしているイメージを持たれるかもしれませんが、当時はもう少し現場に寄り添った仕事を担当していました。
早いタイミングで就いた施設長の仕事
―施設長も務められていたのですか。
グループの特別養護老人ホーム、ヴィラ勝占の施設長を務めました。オープン時に相談員として働いて、一度離れたのですが、施設長の席が空いてしまったので務めることになったんです。
―施設長とはどんなお仕事でしたか。現場の職員から管理側に移るわけですよね。
最初は全然わかりませんでしたね。当時まだ27、8歳ぐらいで経験も浅かったですし、しかも前任もすでにいない状況でしたので、「管理」と言われても、何を管理していいのかわからない(笑)。
―やりながら覚えたような感じですか。
とにかく職員さんと一緒に何でもするところから始めました。ただ、博愛記念病院の敷地内にある施設だったので、そちらである程度の方針が決められていたのが大きかったです。それが現場に降りてきて、どう動かすかというのが私の仕事でした。
―比較的若くして管理者側に立たれて、そこでの苦労はありましたか。
ヴィラ勝占については開設時から働いていて、すでに職員さんとは関係性がありましたので恵まれた状況ではありました。今の施設長さんは自分の時より遥かにたくさんの仕事があって、大変だろうなと思います。
―施設長のお仕事は病院の事務長とはまた違いますか。
似た部分も多いと思います。ただ、病院は看護、リハビリテーション、介護など各職種に役職者が立って組織ができていますが、施設は病院ほど職種がいないですし、役職者もまだまだ少ないところが多いです。その点では、各職種での相談などが全て施設長に集まるということはあると思います。これからは施設も、もっとしっかり組織を作っていかなければいけないと思っています。
―施設長が判断を担う部分が大きいと。グループの特長として、比較的若い施設長の方も多いですよね。
だからこそすごいなと感じています。もちろん悩むところも多いと思うんですが、その分やりがいはとてもあるし、熱意を持って仕事に当たってくれています。


施設の立ち上げをサポート!
グループの方法を伝える難しさ
―介護福祉事業部として部門が立ち上がったのはここ何年かのことだったと思うんですが、それ以前は本部にいてどのように動いていたのですか。
明確に誰が何をという決まったことはなく、病院・施設の立ち上げや、新たにグループ加入する施設などがあれば、本部から何人かのメンバーが入り込んで、そのサポートをするという感じでしたね。
―新たに介護施設がグループに加入する場合、以前から働いているスタッフさんの中に入ることになるわけですよね。
すでに利用者さんもスタッフさんもいるところに入っていって、うちのグループとしての仕事のやり方を研修しました。ただ、形としてはうちのグループに加入、ではあるけれど、現場からすると、いきなり外部から人が入ってくるように印象になってしまうので、大変なことも多かったです。
―やっぱり、グループのやり方に合わせられない、ということも当然ありましたか。
グループとしては、今も言われている「患者さんのために良いことは、損をしてでもする」というような姿勢は一貫してありました。ただ、実際現場に入ってみると、職員さんにとってはやりやすいんだけれど、利用者さんにとっては良くない、という事例がたくさんあるんです。それを変えてもらうのは難しいので、大変ではありましたね。離れてしまう人も多いですし。
―以前からのやり方に慣れていると、変化するのは難しいのですね。
ただ「合わなくて辞める人は追わない」というのは、当時から代表が言っていました。去る人ではなく、残ってがんばってくれる人たちを大切にして、現場を託していけるように、必要なことを伝えていくわけです。
―どのくらいの期間、常駐されるんですか。
3カ月〜半年くらいです。ほぼ同時に2施設が立ち上がった時期もありました。その頃のことは、何をどうやっていたのかをもう思い出せないくらい、大変でした(笑)。
次回:介護福祉事業部の立ち上げで感動! 介護の現場に光を当てるお仕事に迫ります!




前川 沙緒里(まえかわ さおり)さん
【出身】徳島県徳島市
【職種】社会福祉士
【好きな食べ物】カレー(バーモントカレーみたいなおうちのカレー)
施設情報


https://www.itabashi.tokuyou.jp/
ケアホーム板橋
東京都板橋区向原3丁目7-8
2019年6月オープン予定。特別養護老人ホーム(ユニット型、従来型)、ショートステイ、グループホーム、ケアハウス、地域包括支援センター等の介護保険サービスを提供する高齢者施設です。