ひとプロジェクト【第21回・前編】平成医療福祉グループ 医療政策マネジャー 坂上 祐樹先生
原点は離島で暮らした幼少期
適切な医療を届けるために医師として取り組みます!
今回は、グループに医療政策マネジャーとして携わる医師、坂上祐樹先生に話を聞きました。グループ病院の運営・経営に医師としての立場で関わる坂上先生。前編では、長崎県の五島列島で育った幼少時代と、そこから離島での医師を志した理由や、その後、厚労省の医系技官に転身された経緯や、そのお仕事の詳細などについてお聞きしました!
のどかな五島列島
近所のおばあさんの元で育った幼年期
―出身を教えてください。
長崎県の島原市です。半島で有明海に面していて、よく言えば自然豊かですが、悪く言えば田舎ですね(笑)。実家は島原だったんですが、両親の仕事の都合で小学生までは五島列島で育ちました。
―五島列島も島がたくさんあると思うんですが、そのなかではどちらですか。
小値賀島っていう島で、当時は人口4000人くらいだったかな。島原よりもさらに田舎でしたね。コンビニもありませんでしたし、当時は空港もあったんですけど今は無くなってしまって。
―だいぶのどかな環境ですね。
家からすぐ海という環境でした。遊ぶのもいつも海でしたね。
―小値賀島と島原でまた全然雰囲気が違いましたか。
違いましたね。島では周りの人がみんな僕のことを知っていて、「ゆうちゃん、ゆうちゃん」って呼んでくれていて。
―やっぱり距離感が密接なんですね。ご両親はどんなお仕事をされていたんですか。
2人とも教員でした。長崎県は離島が多いので、島に赴任することはよくあって、僕が生まれてすぐに異動で小値賀島に引越しました。共働きだったので、当時は親の知り合いのおばあさんに面倒を見てもらっていて。
―ご親戚というわけではないのに、とても親切ですね。
もう亡くなってしまったんですが、実の孫みたいに育ててもらっていましたね。
―おばあちゃん子だったんですか。
そうですね、島を出てからも会いに行っていましたから。今度もその法事で行くんです。
―その後は島原に戻られたんですか。
そうですね、小中高校は家のすぐ近くに通っていました。
休みはほぼナシ!
剣道に明け暮れた高校時代
―医師を目指したのはいつからだったんですか。
高校生になってからでしたね。それまではまったく考えていませんでした。
―それまで、ほかに何かなりたいものというのは。
なかったんですよね。小学生から始めて大学時代までひたすら剣道ばっかりやっていたので。
―長いですね。かなり熱心に取り組んでいたんですか。
めちゃくちゃ熱心にやってましたね。高校は島原高校という学校に通ったんですが、全国大会に行くような強豪校でした。部活の休みはお盆と元日くらい、っていうほど練習に打ち込む部活で。
―それしか休みがないんですか!
だから高校時代は私服を持ってなかったですね(笑)。平日はひたすら遅くまで練習ですし、土日も練習か遠征でしたし、ジャージしか着ていませんでした。
―それだけ詰まっていたら、私服を着るタイミングも無いですね。
一番多感な時期に私服を着てなかったので、今もどんな服を着たらいいのかって迷うんです(笑)。


「離島のために何かをしたい」
その動機から医師の道へ
―その後、医学部に進路を定めたのは、何かきっかけがあったんですか。
高校2年生で進路を考える時、まず「将来何になろう」って考えて、漠然と「島に関わる仕事をしたいなあ」っていうのを思ったんですね。さらに、離島は医師不足だっていうことを知って、「じゃあ医師になって離島医療をしよう」って考えました。
―医学への興味より、離島のことが先にあったんですね。それはやっぱり小さいときに小値賀島で過ごしたっていうことが影響として。
自然がいっぱいで良いところでしたし、みんなに優しくしてもらって、いろんな恩を感じていたのが大きなきっかけとしてありました。
―実際医学部に入ってみてどうでしたか。
ついていけなくなるんじゃないかっていうぐらい、勉強が難しかったですね。
―やっぱり各進学校から優秀な人がたくさん来るわけですしね。
しかも僕は化学と物理はすごくやってたんですけど、英語は苦手、っていう典型的な理系学生で。最初の授業が「ヒューマンバイオロジー」っていう、生物学を英語で学ぶ内容で、全然わかんなかったんですよ(笑)。必死で勉強したんですけど単位を落としてしまって。ヘコんだんですが、挽回しようとしてすごい勉強したら、次のテストではトップ10に入るくらい良い点数が取れちゃって。
―おおすごい! 一気に取り返したんですね。
でもそこから調子に乗って勉強しなくなって(笑)。あまり授業に出なくなりました。
―(笑)。医学部って授業に出なくてもどうにかなるものなんですか。
当時は試験で点が取れれば何とか帳尻があったので(笑)。出席が必要な授業は出て、代返を頼んだり、出席票を配りに来る職員と仲良くなって、紙を事前に多めにもらったり…。
―今だから言える話ですね(笑)。そこから実際に離島の医療にも関わるようなるわけですか。
そうですね、研修医として五島列島に行きました。
―それは志願したらすぐにいけるものなんですか。
すぐ行けます。やっぱり離島は人気がある研修先ではないので。
―珍しがられたんじゃないですか。
同級生から「本当に行くの?」って聞かれました(笑)。
―それでも最初に志した気持ちは変わらなかったんですね。
入学後も、離島で医療に携わりたい気持ちはずっと持っていました。それと、大学って学問としての「医学」を学ぶのがメインなんですよ。人も多いので、実際の手技を学べる機会が少ない。勉強は好きじゃなかったですし、それよりは何でもやらせてもらって早く技術を身につけたかったっていうこともありましたね。
―人手の少ない環境だと、何でもやらないといけませんもんね。
2年間でいろいろとやらせてもらいましたね。手術もしましたし、お産も取らせてもらいましたし。
―お産も!
人がいませんからね。研修医と言えど医師免許を持ってますから。
島の温かさに触れつつも
次なる目的のため厚労省へ
―そもそも医師は病院に何人いたんですか。
五島列島のなかの中核病院ではあったので、20人くらいはいました。でも、外科が3人、内科が5人とか、各科で見ると少なかったですね。
―やはり島は高齢者の方も多かったですか。
本土より割合が多かったです。それなのに、一番大きい福江島でも介護施設は本土より少ない状況でした。救急患者を受け入れられるのも僕がいた病院だけでしたしね。
―例えば以前住んでいた小値賀島で救急患者さんが出たってなると、船で福江島まで行くことになるんですか。
そうですね、船でほかの島か本土に行くか、本当に緊急な時はドクターヘリで本土の病院に運んでいました。
―なかなか厳しい現場ですね。
病院にヘリポートがありました。僕自身もヘリコプターの訓練とか洋上訓練もしていましたし、船で島に往診にも行っていましたよ。
―患者さんとの関係性がより近そうですね。
医師が少ないんで、「先生、先生」って言って、かわいがってもらいましたね。
―余談としてお聞きしたいんですが、島に住んでいると、近所の方から魚をもらうことってあるんですか。
めっちゃありました(笑)。築地とかで見るような青い大きな発泡スチロールを漁師さんが「食うてくれろ!」って言って持ってきてくれるんですよ。ゴソゴソ音がするから何かなと思ったら、伊勢エビが入っていました。
―え〜すごい(笑)。
あとはウニの時期になると、生ウニをたくさんもらうんですよ。ただ僕だけじゃなくて、みんながもらうので、その時期は医局の食堂に「ご自由にお食べください」って生ウニが置かれてましたね(笑)。
―うらやましい(笑)! 顔と名前もすぐ覚えてもらえそうですね。
プライバシーは基本的になかったですよ。「先生、昨日誰かとご飯食べてたでしょ」とか(笑)。
―五島列島での研修を終えた後はどうされたんですか。
医系技官(※)として厚生労働省に入りました。
※医系技官:医師として保健医療に関わる制度作りに関わる技術系の行政官。
―そちらに進もうと思われたきっかけを教えてください。
研修が終わる頃に次の進路を真剣に考えて「自分が医師でいるだけでは、やれることが限られてるな」と思いました。五島で赴任していたのは急性期病院だったので、患者さんを治して退院させてあげたくても、このグループが運営しているような回復期の病院とか介護施設もないし、人もそもそも少ないために、自分1人の力ではどうにもできない。この状況を変えるためには「国の仕組みを変えないといけないんじゃないか」っていう青臭い想いを持つようになったんです。
―名残惜しい気持ちもあったんじゃないでしょうか。
もちろん、その気持ちもありました。患者さんからも病院スタッフからも「残ってください」って言ってもらえましたし、楽しかったしやりがいもあった。でも、「厚労省に入ってやりたいことがある」っていうことを伝えると、逆に「がんばって」「島の声を国に届けて」って言って応援してもらえましたね。


膨大な時間がかかる診療報酬改定
グループとの意外な接点
―ちなみに医系技官は、どういう動機でなる方が多いんですか。
何かしら現状を変えたいっていう気持ちを持った人が多いですね。小児科医になったけど、小児医療に関する行政に関わりたい、とか。
―何かしらの想いがある人が入ると。
やっぱり仕事量も多いですし、医師時代より給料も下がることがほとんどなので、想いがないとできない仕事ですね。実際、僕自身も減りましたし(笑)。
―携わるのはどんなことになるんですか。
いろいろあるんですが、診療報酬改定などですね。診療報酬は2年に1回改定されるんですね。なぜかというと、2年経つと、新しい医療技術が出てきたり、社会情勢も変わるので、実情に合わせる必要があります。
―なるほど、アップデートしなければならない。
点数を動かすと何億円っていう金額の影響があるので、その上げ下げの判断や、まだ保険適用されていない新技術に医学的な妥当性があるのかとか、見極めながらですね。あとは関係者がたくさんいるので、その調整ですね。結構膨大な時間がかかる作業になります。
―診療報酬の冊子ってとても分厚いですもんね、気が遠くなりそうです…。何人くらいで作業に当たるんですか。
医師は10人くらいでした。それぞれ担当分野に振り分けられるんですが、僕は慢性期医療と在宅医療を見ていて。ちょうど、6年に1回の医療と介護の同時改定に当たるときで、このグループと出会ったのも、その頃でした。
―どんな形での会い方だったんですか。関係性としては、意見される側とする側ですよね。
慢性期医療について議論をする国の会議があって、グループの武久代表が、日本慢性期医療協会の会長として出席していたんです。僕自身、急性期病院の経験しかなかったので、慢性期医療の現場を知らなかった。そこで「慢性期の病院を見学させてください」ってお願いしたのが初めての接点でした。
―その時はどういう印象でしたか。
緑成会病院と多摩川病院に行きましたが、面白い取り組みをしてるなっていうのは思いました。例えば栄養管理にとても力を入れているところとか。
―当時から病院の中で食事を作るっていうことにも取り組んで。
その頃、病院食は外注する方が主流だったので、自前で作っているのは珍しかったです。しかも付加食(※)の種類も多くて、自前でパンを作っている病院なんてなかなか無かったですしね。そのパンもおいしかったですし、「面白いな」と印象に残りました。
※付加食:食事が十分に取れない方や、取れていても栄養量が不足している方への栄養補給のため、食事に付加する栄養補助飲料やゼリー。
災害医療の現場にも携わる
熊本の被災地のために奔走
―厚労省時代、これは大変だったなっていうのはほかにありますか。
2016年に起きた熊本地震の対応ですね。
―実際どういったことを担当していたんですか。
当時災害医療を担当する部署のトップだったんですが、災害が起きるとDMAT(※)をどう派遣するかっていうことを考えるんですね。
※DMAT:※Disaster Medical Assistance Teamの略。大規模災害や事故の発生時に活動する、専門的な訓練を受けた、医師・看護師・業務調整員からなる医療チーム。日本DMATは2005年、厚労省により発足。
―ちょうど先日、堺平成病院の定光先生(※)に、DMATで副事務局長をやられていたお話を伺いました。
実は定光先生ともその時に出会っていたんですよ。現地にDMATを派遣するところで連携をしました。
※ひとプロジェクト 第19回 定光大海先生
―そうだったんですね! その後、同じグループにいるというのも縁ですね。現地入りもしていたんですか。
最初は厚労省にいてずっと指示をしていたんですが、少し落ち着いた5月くらいからは復興のステージに入ってきて現地入りして対応に当たっていましたね。
―予断を許しませんし、とても大変そうですね。
そのほかに、災害情報や被災した病院の情報を集めて、どう復興していくか調整役をやっていましたが、ずっと働きづめだったので、さすがに倒れるかと思いました。


次回:厚労省を離れ、再び医療の現場に! 病院の運営・経営のほか、インドネシアにも関わっています!




平成医療福祉グループ 医療政策マネジャー/海外事業部長
坂上 祐樹先生(さかがみ ゆうき)
【出身】長崎県島原市
【専門分野】医師/医学博士
【好きな食べ物】蕎麦(戸隠で食べたのがおいしかった)


http://setagayahp.jp
医療法人 平成博愛会 世田谷記念病院
東京都世田谷区野毛2丁目30-10
内科・整形外科・リハビリテーション科
急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。