第20回となる「ひとプロジェクト」。今回は、この4月に東京都足立区にオープンしたばかりの精神障害者支援施設「OUCHI(おうち)」の運営に中心的に携わる3名の方に登場いただきます。作業療法士の石坂さん、公認心理師の齋藤さん、精神保健福祉士の溝呂木さんは、連携する大内病院でそれぞれキャリアを積んでこられました。前編では、3人が精神領域の仕事に就いたきっかけや、OUCHIに関わることへの想いを中心にお聞きしています。
開設直前の慌ただしいタイミングでのインタビューでしたが、とても楽しそうに話される3人の様子がとても印象的でした。ぜひご覧ください!
地域に出て行く起点であり
いつでも戻れる場所
―まず初めに、OUCHIという施設のことを知りたいのですが、どういった目的の施設なのか、教えてください。
石坂僕が言っちゃっていいですか。
齋藤いいですよ!
一同(笑)。
―こういう説明はいつも石坂さんがされることが多いんですか?
溝呂木いつも任せてます(笑)。
石坂もともとの原点は、北海道浦河町にある「べてるの家(※)」にあります。精神障害を抱えた方が、精神病院から退院した後に行き場がなくなってしまうという問題があって、そのサポートをするための施設がOUCHIです。
※1984年に設立された、北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点。生活共同体、働く場としての共同体、ケアの共同体という3つの性格を持ち、100名以上のメンバーが地域で生活する。
―具体的にどういったことをされるんでしょうか。
石坂地域で生活するためには、働く場所が必要ということで、就労支援の機能や、一人暮らしをする前に生活訓練をするグループホーム、交流ができて集える場所もあって、すぐ近くに病院もあって、サポートするスタッフもいる。地域に出ていくための起点になるとともに、いつでも帰ることもできる場所を作っていこうというのが大きな目的です。
―みなさん、そもそもはどういった職種で、OUCHIにはどう携わってらっしゃるのでしょうか。
石坂もともと、精神科病院である大内病院で、作業療法士としてリハビリテーションに携わっていました。OUCHIの運営についてはサービス管理責任者という、就労施設やグループホームでの支援計画を立てる役割です。
齋藤僕はずっと大内病院のデイケアで臨床心理技術者として働いていました。この2月からその資格が国家資格化しまして、公認心理師という名前になりました。OUCHIでは管理者として、業務全般の管理を担当します。
―いわゆる施設長的な立場になるわけですか。
齋藤そうですね。
溝呂木私は精神保健福祉士として大内病院で働いていて、グループホームの管理者でした。OUCHIでは世話人として関わっていきます。
トイレの修理をしたことも
入職後は幅広い仕事が待っていた
―それぞれお仕事に就いた経緯を教えてください。
齋藤とてもミーハーな理由で、大学の進路を決めようとしてる頃に、ちょうど「プロファイリング(※)」が流行っていて、単純に「面白そうだな、心理学いいじゃん」っていう理由で(笑)。それで心理学部を受けました。
※犯罪事件の捜査で、現場の状況や遺留物や過去の事件の傾向などから、犯人像を割り出す方法。
―割とノリで受けられたのですね(笑)。実際その中からこの職種を選ばれた理由を教えてください。
齋藤それしか職種を知らなかったっていうのがあったと思います。当時、精神保健福祉士も知らなかったんで、人の心と関わる職といえば「心理職なんだろうな」って勝手に思って、進みましたね。
―基本的な質問なのですが、臨床心理技術者とはどのような仕事でしょうか。
齋藤病院であれば、患者さんに心理検査やカウンセリングを行います。僕はデイケアでずっと働いてきたのですが、そこでは通われるメンバーさんの日々のプログラムを運営していました。デイケアでは精神保健福祉士と心理職が一緒に働いていたので、同じように行政など外部とのやりとりもしつつ、メンバーさんから相談があれば、それを聞かせてもらう、という感じでしたね。
―大内病院にはどうやって入られたんですか。
齋藤ちょうど大学院を卒業して就職先を探していた時、大内病院のデイケアに勤めていた大学の先輩が退職するので、後任として誘われたのがきっかけで。
―最初の職場として入職して、ずっと長く働いてこられたんですね。
齋藤そうなりましたね。その時々でいろいろな経験させてもらいました。アルコール依存症や、知的障害、統合失調症、うつ病の方。一時期は簡易宿泊街に行って、そこに住む利用者さんに声をかけにも行きました。

―幅広く経験をされているんですね。溝呂木さんはどのように精神保健福祉士までたどり着きましたか。
溝呂木高校卒業後の進路を決める時に「大学に行っても特にやりたいことがないな」と思ったんですが、福祉には興味があったんで調べたら、「精神保健福祉士」っていうかっこいい名前の職業があって(笑)。
―まず名前に惹かれたと(笑)。
溝呂木最初、社会福祉士と精神保健福祉士で迷ったんですよね。ただ、精神保健福祉士は精神領域に限定されていて、スペシャリスト的に仕事をできるんじゃないかと、魅力を感じました。
―大内病院に入られたのは。
溝呂木新卒で、こちらに就職しました。
―実際、仕事に就いてみてどうでしたか。
溝呂木私もデイケアの担当になったんですけど、始まってみたら思ったより何でも屋の印象でしたね。
―実際にどんなことがあったんですか。
溝呂木メンバーさんのお家に行った時に「トイレが詰まった」って言われたので、スッポンを使って詰まりを取ったり、「電話が壊れた!」って言われたので直したり(笑)。
―本当に何でもするんですね!
溝呂木でも楽しかったですね。自分の家のトイレが詰まっても直せる自信がつきましたし。
一同(笑)。

法律家志望から一気に転換!
作業療法士を目指した
―石坂さんが作業療法士になったのはどういった経緯でしたか。
石坂実は、もともと大学では法学部に通っていて、法律家を目指そうとしていたんです。
―また全然違う分野ですね!
石坂でも実際「厳しいな」と思ったんです。そもそも卒業後の道が多いわけではないですし、司法試験だって、受かるために卒業後も勉強し続ける人がたくさんいます。当時は、弁護士を増やそうとか、ロースクールの設置とかもまだまだの時でしたから「これはまずいな」と(笑)。
―司法関係の仕事に就くのが難しいと判断したのですね。
石坂僕の奥さんが看護師なんですが、「手先が器用だから向いてるんじゃない?」と作業療法士を勧めてくれたんです。それがきっかけで、大学を卒業してから専門学校に通うことにしました。
―勧められた時、すぐにピンと来ましたか。
石坂最初は正直「どんなものかなあ」って思いながらでした。でも、ちょうどその頃やっていたドラマ『オレンジデイズ(※)』で、妻夫木くんが作業療法士を目指すっていうのもあって、自分の中ではタイムリーでしたね。それがきっかけだって言ったら怒られるかもしれないですけど(笑)。
※2004年4月11日よりTBS系列の『日曜劇場』枠で放送されていたテレビドラマ。主演は妻夫木聡と柴咲コウ。
―実際学校入ったら、より興味が湧いたという感じですか。
石坂作業療法士は精神領域と身体領域に分かれて実習に行くんですけど、当時は精神科については全然知らなくて、実際に実習で行ってみるとすごい面白かったんですね。
―ご自身で経験して、精神の方に惹かれていったんですね。
石坂ただ、担当した患者さんのことを巡って、実習の指導者の方と喧嘩してしまいまして…。
―けっこう熱い気持ちでぶつかっていたんですね。
石坂閉鎖病棟にいた患者さんを担当させてもらっていたんですが、僕としては、その方は外に出て生活できる能力があるので退院できると思って、退院を目標として掲げたんです。でも「この方は身よりもなくて、ずっと入院しなければいけない。入院の中でできる目標を立ててください」と言われて、反論してしまったんですね。
―石坂さんとしては、道を模索できないかと考えて。
石坂でも実際は、それ以前に身元引き受け人とか成年後見人とか、いろいろと手を尽くそうとしたけど難しかったと。「あなたは作業療法士の実習で来たんだから、まずは作業療法士としてできることをやりなさい」と言われました。
―まず作業療法士としての仕事を身につけなさいという。
石坂実習の場でこれをやってしまったことに反省しましたね。ただ最終的には「そういう熱い想いを持ってやっていけ」って言ってもらえて、それもあって「精神領域に進んでいこう」っていう気持ちになりました。
―そこから大内病院に入られたんですね。
石坂専門学校の先生が大内病院の北上先生と知り合いで「いい先生だよ」と勧めてくれて、入ることにしました。ただ入ってはみたんですが、実際に配属されたのは北上先生の下ではなく、デイケアでした(笑)。

三者三様、それぞれの印象は
―みなさんデイケアに務められていたことがあったんですね。
石坂齋藤さんとは最初の2年くらいは一緒に働いてました。
―当時の石坂さんの印象はいかがでしたか、先ほどの話からすると、熱い想いを持った若者という感じだったのでしょうか。
齋藤熱い想いはそんなに感じなかったですね(笑)。がんばって笑いを取るタイプだとは思いました。
一同(笑)。
―溝呂木さんも、お2人と仕事をされてきたんですか。
溝呂木私が入ったとき、齋藤さんが職場長でした。すごい優しくて、話も聞いてくれる上司でしたね。
齋藤ありがとうございます(笑)。
―逆に、溝呂木さんについてはどういう印象でしたか。
齋藤変わってるなとは思ったんですが、「熱心な人が入ったな」と思ってました。
―石坂さんと溝呂木さんは、これまで仕事上の絡みはあったんですか。
溝呂木実際そんなに絡みがなかったんですよね。重なっていた期間も短かったですし。ただ、ほかの作業療法士から「フォローしてくれるいい上司だ」って聞いていました。
石坂もっと言ってください(笑)。
一同(笑)。
「べてるの家」から受けた
大きな影響
―このOUCHIの立ち上げにはどう関わるようになったのでしょうか?
齋藤2、3年前に、このグループで医療事業部長を務めている田村さんから、北海道の「べてるの家」を見に行こうと声をかけてもらって見学に行ったんですね。行った時はまだOUCHIの話はなくて、「ここで見たことをどうデイケアに生かそうかな」って考えていたくらいでした。
―当時はまだOUCHIの話は知らずに。
齋藤そうですね。戻ってしばらくして、「今度べてるのような施設を作りたいんだけど、やりたくない?」って聞かれて、OUCHIとの関わりが始まったっていう感じですね。
―べてるの家はどういうところが参考になったんですか。
齋藤まず、町ぐるみで患者さんをみているということに驚きました。特に一番驚いたのは、調子悪そうにされてる方、幻聴とか妄想がある方たちが、普通に地域の中で生活をされていたことです。もちろん、地方の小さな街だからこそできることではあると思うんですけど、「このレベルであれば、大内病院では入院かな」っていう方ばかりだったので、それができるということにびっくりしました。
―じゃあ、OUCHIを作ろうと声をかけられたときは、前向きな気持ちで。
齋藤そうですね。それで、僕と田村さんで話を進めていくうちに「こういう人を立てなきゃいけない」っていう基準がだんだんわかってきたところで、一番手に名前が上がったのが石坂さんだったんですよ。
―石坂さんとしてはどういう気持ちでしたか。
石坂面白そうだなと思いました。新しいことが好きなので、やってみたいなと。そうやって名前を挙げてもらえるのも光栄でしたし。
―溝呂木さんはどういった経緯で。
溝呂木私はもともと、グループホームで障害者の方の日常を支援する世話人になりたいって言っていたんですね。
齋藤グループホームとか、地域で働きたいっていうのは聞いていたので、声をかけたんです。
溝呂木ただ、私は管理者になるとは思ってなかったです。世話人になると思っていたので、気づいたら「管理者か!」って(笑)。
石坂僕は就労支援の作業の担当で、溝呂木さんがグループホームの管理、齋藤さんが全体の管理者っていう分担です。
―管理者になると、今までやっていたような現場的な仕事については離れるんでしょうか。
溝呂木私はやりたいと思ってるんですけど、バイトリーダーみたいな形で。
一同(笑)。
―管理もしつつ現場も見つつという。
溝呂木そうですね、携わっていきたいです。
―その点は石坂さんも同じくですか。
石坂自分は作業療法士としての気持ちは忘れないようにしながら、就労の方でやりたいなと思っています。作業療法士が入ることで、利用者さんの生活が良くなっていく、っていうことにつなげられればいいですし、そのことで僕らの職域も広がっていきますので。
―齋藤さんは完全に管理者になるわけですが、現場から離れることについてはいかがですか。寂しさなどもあるものですか。
齋藤そうですね、デイケアで職場長になった時点でもありました。でも、もちろんそれは必要なことですし、全く関われないわけではないですから。これからも、この立場でやれることをやっていこうと思っています。

次回:チョコレートやワンコインランチも作る?! OUCHIの機能をひもときます!