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ひとプロジェクト【第19回・前編】堺平成病院 救急センター長/定光 大海先生

ひとプロジェクト 定光 大海先生
ひとプロジェクト 定光 大海先生

長く歩んだ救急医療の道
最前線を経て、堺市の医療へ

4月に開院する堺平成病院にまつわる人物を3回に渡って紹介してまいりましたが、今週がラストとなります。4人目は、救急センター長を務める、定光大海先生です。定光先生は、山口大学や大阪大学で救急医療の最前線を経験され、当グループの堺温心会病院へと移られました。今回は、そこに至るまでの数々の経歴に迫ります! バリケードに阻まれた高校時代のお話などは必見です。ぜひご覧ください!

気づけば目指していた医師の道

―ご出身はどちらですか。

広島県の庄原市です。

―幼い頃は、どんなお子さんでしたか。

野球がとても好きで、野球選手になろうと思っていましたね。

―部活にも入られて。

小学生の頃は草野球を仲間でやっていました。ただ、中学校に入った時には背が小さいということで、野球は諦めてテニスを始めました(笑)。テニスは中学〜高校〜大学と続けましたね。

―医師になろうと思ったのはいつだったんですか。

そもそも記憶にあるのは、小学生の低学年の時に受けた耳鼻科の手術ですね。アデノイドだったかな。

―その時の医師がとても印象に残られて。

いや、全く顔も覚えてないんですよ。ただ、手術を受けた時に「自分もなりたい」と思った記憶はあります。

―そこで漠然と思われたんですね。

野球の選手になろうという気持ちもないこともなかったんですけど、中学校に入って野球を辞めてからは、もう自分は医師になるんだと思って、ほかの選択肢はなぜか頭の中にはありませんでしたね。

―強い志があって、というよりは、いつの間にかそうなった。

大層な意志はなかったんです。ただ、自分はそういう道に進むんだって、決めていましたね。
 
 

学校にはバリケード!?
通学できなかった高校時代

―高校は医師になることを考えて進学されたんですか。

必ずしもそういうことでもなかったんですが、地元の庄原からは離れた広島市内にある、修道高校という私立高校に進んで、下宿生活をしていました。

―親元から離れて進学をされたんですね。入ってみていかがでしたか。

進学校だったんですが、高校1年生で高校2年生くらいまでの内容に進むんです。しかも中等部から進学してきている人は、中学3年生の時に高校1年目くらいまでを終えている。「これは大変だぞ」って思いましたね。

―やっぱりできる人ばかりが周りにいて。

それと同時に、当時は70年安保(※)の時代ですから学園紛争が盛んな時期で、私の行っていた高校も学園閉鎖になりましたね。
※日米安全保障条約の自動延長に反対する大規模デモ運動。各地で盛んに学生運動が展開された。

―70年代を感じるエピソードですね! 学校に入れないんですか。

学校にはバリケードが張られて、中に入れなかったです。2年間くらいは普通に通えたんですが、紛争が激しくなって、あとは休校でした。

―先生ご自身はそういう運動はやられてはなかったけど。

テニスは続けてましたけどね(笑)。本格的な受験勉強は、高校時代にはやった記憶がないです。

―高校の上級生が学生運動に関わっていたんですか。

学内の生徒だけではなくて、近くの大学の学生も入り込んでいたみたいですね。自分はバリケードの向こう側(内側)にいたことはないんですけど、特に悪くは見ていませんでした。田舎からそういう市街地の学校に来て「勉強もがんばらんといかんな」と思いながら、「こういう世界もあるんやな」と。

―やっぱり当時の時代の雰囲気というか。

生徒が意見して制服もなくしていたような学校でしたし、校則でガチガチに固めるような時代は終わってましたね。でもグジャグジャの高校時代。卒業式すら行かなかったです。いつやるのかもよくわからなかったですから。

―休校になったら。もう単純に何も授業がないんですか。

なくなっちゃう。結局高校卒業時には高校3年までのカリキュラムが全て終わってない、そういう状況でした(笑)。
 


 
 

京都で卓球しすぎて不合格!

―学校に入れないような状態で受験されるのは、なかなか大変でしたよね?

だから僕たちの学年っていうのは、あんまり現役で進学できた人は少なかったですね。僕も2年間浪人して、山口大学に進みました。

―山口大学を選ばれたのは何か理由があったんですか。

本当は京都大学に行きたくて3回受けたんですが、落ちてしまったんです。最初の年は、京大に進んで吉田寮(※)に住んでいた先輩がいましたので、泊まらせてもらって。
※1913年から続く、日本最古の学生自治寮と言われる、京都大学の学生寮。

―当時の吉田寮なんて、今よりも混沌としていそうですね。

そうそう、行ってみたらやたら汚くて、学生がわんさかいましたよ。そこで試験の前の晩に、卓球をして遊んでたら、ちょっとやり過ぎてしまって、疲れ果てて寝込んだんです(笑)。次の日試験会場に行って「これは試験どころではないな」と思って、やっぱり落ちましたね。

―(笑)。そこから山口大学へと。

3年目に京大は落ちたけど山口大学が受かったので、親にあまり負担をかけるのも、ということもあって、医師の道に進むために山口に進学しました。
 
 

大学時代を経て
救急医療の道へ

―大学を経て専攻を絞っていかれたと思うんですが、どのように決めたんですか。

臨床実習では各診療科を回って、どの科を選ぶか決めていくわけですけど、とても迷いましたね。そのなかで、血液内科をやってみようと思って、広島の原医研(原爆放射線医科学研究所)で研修させてもらうことになりました。

―地元に魅力ある研究所があったのですね。

ただ、その前に救急やICUの仕事を経験したかったので、「大阪に1年間行かせてください」とお願いして、大阪大学の特殊救急部(現 高度救命救急センター)に行かせてもらったんです。

―救急医療を経験したいと思ったのはなぜだったんですか。

と言うより、全身管理を学びたかったんです。重症患者を診るために、そういう症例を診ている施設で経験を積まないとダメだなと。

―そういう症例を数多く経験できるとなると、救急だったと。大阪大学を選んだのは理由があったんですか。

その頃、1979年当時はオープンスペースのICUがまだほとんどなかったんですが、大阪大学にはあったんです。それがすごく進んで見えました。

―そこで救急を1年経験をして、広島に戻ろうと。

それが甘い考えでしたね(笑)。救急に携わってすぐに「これは外科のトレーニングをしないといけないな」と思い至ったんです。

―それはなぜですか。

本来は1年間研修してから、さらにそこから整形外科に行ったり、脳外科に行ったり、研修に出るんです。ここで中途半端に帰ってしまうと収まりがつかないなと思って、広島の血液内科の方にはお断りを入れました。先のことは外科を経験してから考えようって。

―まず初めに「これがやりたい」と決めていたわけではなかったんですね。

今思えば、その時はもう救急医としての道の中にいたんでしょう。とにかく外科的修行を終えないと、医師として一本立ちできないだろうなと当時は思ったんです。で、静岡県の国立東静病院(現 静岡医療センター)に腕の立つ外科医がいるということで、そこを勧めてもらって研修に行きました。

―そこからは大阪大学に戻ったんですか。

その後、大阪大学に戻って勤めながら、大阪市内の病院に出向もしたんですけど、山口大学の医学部付属病院が1982年に救急部を立ち上げて、人が足りないからとお声がけをもらいました。母校に義理を果たす気持ちで、3年くらい働いたら戻ってこようと思っていたんですが、結局15年勤めました(笑)。
 


 
 

山口大学で没頭した救急部の仕事
オン・オフを切り替えられることの大切さ

―山口大学ではどんなことをされていたんですか。

麻酔学講座から、集中治療部のポストで講師などを務めたほかに、後に救急医学講座ができた際には准教授を務めました。

―いろいろと携わることが多かったのですね。

救急医学講座ができた時に、教授と僕を含めて3人でのスタートでした。最終的には当直を全て救急医で回せるようにするため、医局員が増えるのを待っていたんですが、最初の10年は、集中治療室のスタッフなどに手伝ってもらいながら、ほぼ二人で現場をやっていました。

―じゃあその間はけっこう大変だったんですね。

ほとんど病院に住んでいたような感じで大変でしたが、そこで経験を積んでいって、救急医として自信を持てるくらいにはなりました。

―忙しかったけれど、それだけのことをやったと。

そう言えますね。72時間寝ずに働いたこともあって。

―ええっ…72時間目にはどうなってるんですか?

自分では大丈夫だと思っていても、周りから見るとヨレヨレらしいんですよ。で、帰ったら24時間寝てしまうんです。平均すると4日間で1日6時間ずつ寝たことになるんで、帳尻は合ったような気持ちにはなるんですが(笑)。

―計算上だけですけども(笑)。

でもそういう働き方はやっぱり無駄ですし、良くないですよ。人員がいて、ちゃんと二交代で回せれば、オン・オフも切り替えられますから。
 
 

山口大学で立ち上げに関わった
国立大学で初の救命救急センター

―医師の業務以外にもいろいろと尽力されたと思うのですが、どんなことをされましたか。

当時、国立大学付属病院では初となる、救命救急センター(※)の設立に関わりました。当時は文科省の人ともやりとりもしていました。
※山口大学 医学部附属病院 先進救急医療センター(AMEC3)。1999年に設立。

―国立大学でそうした救命センターができるというのは珍しいことだったんですか。

救急医療は大阪大学が当時イニシアチブを取っていましたけど、国立大学の病院で救命センターを作る、という発想自体はありませんでしたね。救急というのは、専門科目のなかでも、主流とは言えませんでしたから。

―位置付けが多少今とは違ったと。

重要な医学的ポストとして認められるまでに時間がかかったんです。そのうち、救急医療が医療のなかの基本だっていう話になっていったんですよ。

―その前までは、そういう空気っていうのは。

無かったですね。救急医という標榜ができるのはずいぶん後のことなので。だから「救急医って何科ですか」って聞かれても、外科でもあるし麻酔科でもあるし、なかなか表現しづらかったですし、社会に理解してもらいづらかった。そういう時代が長く続きましたが、そのなかで、ずっと現場を作ってきたんです。

―先生がいた以外の現場では、どうやって対応されていたんですか。

みんな各科救急です。2、3人の救急医と、あとは各科の先生がいて、救急の患者さんが来たら、各科へと振り分ける。今でもそうですけど、救命救急センターといっても、救急の専門医が、全部カバーしているようなところって、限られていますからね。

―以前と比べて変わった点もあるけれど、変わってない現状も多いと。

医師の数は限られてますから。だから当直医が一人しかいないと、急性期病院と言えども大変ですよね。けがをしたと言っても、「今日は内科医しかいませんから、ダメです」ということにつながります。病院が救急患者さんを断る大きな理由です。

―問題が根深いですね。

ずっと言われていることではあります。救急医を育てて救急救命センターに配置して、24時間365日見れるようにしよう、と。それと、ER(総合診療医)を育てよう、というのが今の流れですよね。
 
 


 
 

次回:東日本大震災では現地で活動、災害医療に携わった経験。さらに、堺平成病院として地域での使命とは!


 



profile


堺平成病院 救急センター長
定光 大海先生(さだみつ だいかい)

【出身】広島県庄原市
【専門分野】救急医学
【好きな食べ物】好き嫌いなく何でも食べる(生エビ以外)

 

病院情報



https://sakaiheisei.jp/

医療法人恵泉会 堺平成病院

大阪府堺市中区深井沢町6番地13

内科・循環器内科・消化器内科・リウマチ科・放射線科・眼科・整形外科・泌尿器科・歯科・リハビリテーション科・脳神経外科・皮膚科・外科・糖尿病内科(代謝内科)・人工透析内科・心療内科

2019年4月、長らく堺市でご愛顧いただいた堺温心会病院と浜寺中央病院が合併して誕生する病院です。救急医療から回復期医療、慢性期医療、そして在宅サービスまでの幅広い機能を持ちます。地域にあるさまざまな事業者と遠慮なく無駄なく連携できる関係を作れるよう、地域医療のハブになり、地域全体で患者さんをサポートできるよう、努力を重ねてまいります。