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ひとプロジェクト【第18回・前編】平成医療福祉グループ 成長戦略部・第二医療事業部 部長/松木 泰昭さん

ひとプロジェクト 松木 泰昭さん
ひとプロジェクト 松木 泰昭さん

SE、コンサルを経て医療の道へ
グループ病院を支えながら、多くの患者さんを救いたい!

今週も、この4月に開院する「堺平成病院」にまつわる人物をご紹介します。今回は、裏方として各所の調整を行いながら開院を支える、成長戦略部・第二医療事業部 部長の松木さんです。医師になりたかった学生時代を経て、事務方として医療に携わることを目指した松木さん。前編ではそこに到るまでの決意や、「天狗」だったと語る社会人ルーキーの頃の経緯を伺っています! ぜひ2週に渡ってお付き合いください!

学校が好き!
友だちに囲まれて育った学生時代のこと

―生まれはどちらですか。

福岡県の久留米市ですね。高校までは地元にいて、大学進学で東京に出てきました。

―久留米っていうのはどんなところですか。

当時は割と荒っぽい土地柄でしたね。怖い家業の人も多くて、発砲事件とかも普通でしたね。「あそこのケーキ屋さんに銃弾が撃ち込まれた」とか、それが普通だと思ってましたけど、「普通じゃなかった」って気づいたのは、大人になってからですね。

―ちなみに松木さんご自身が危ない目にあったことは。

それは全然ないですね。生活は至って普通でしたね。

―逆に悪いことをしたことは。

それも全然ないです(笑)。当時は荒れてる時期でしたけど。

―どんなお子さんでしたか。

中学ではバスケットボール部に入っていて、学校が好きでしたね。

―学校を「好き」と言えるのはいいですね。どういう理由で好きだったんですか。

行けば友だちがいるからですね。だから逆に夏休みや冬休みなどの長期休暇は好きじゃなかったです。

―なるほど! じゃあ友だちが多かったんですね。

今もずっとつながっている人は少ないですけどね。

―勉強はどうでしたか。

嫌いでしたけど、努力はする方でした。同じことをやるにしても、人の倍はかかっていた、というのもありましたが。
 
 

図書館のカップルを羨んだ
勉強漬けの青春

―東京に出られたのは大学からですか。

そうですね。

―もともと行きたい大学だったんですか。

どちらかと言うと東京に行きたかったんです。親には福岡の大学を勧められましたが、自分でバイトして受験料を貯めて受験しました。

―東京に行きたいっていうのはどういうモチベーションだったんですか。

もっと視野を広げたかったんですね。今となっては福岡がいいな、とも思いますけど(笑)。

―高校の時はバスケットボールは続けなかったんですか。

特待生だったので、部活に入れなかったんです。

―すごい、じゃあ勉強漬けの3年間だったんですね。

ずっと勉強してましたね。でも周りもそうだったので、それが当たり前っていう環境でした。

―ずっと勉強してるなか、青春っぽい出来事はありましたか。

土日は図書館で勉強していたんですけど、カップルで勉強しにくる男女がいるんですよ。そういうのが羨ましかったですね(笑)。

―松木さんはカップルで勉強したりは…。

ない! 「落ちちゃえ!」って思って見てました(笑)。

―(笑)。大学に入ってからは、どんな勉強をしていたんですか。

工学部に入って金属の結晶について学んでいました。私にとっては面白くはなかったですね(笑)。

―え! でも受けたと言うことは、興味はあったんですよね。

そうですね、それと理系のなかでも特に工学部の就職率が高かったっていうのがありましたね。

―なるほど、入ってからはどうだったんですか。

勉強自体はがんばってましたよ。相変わらず学校は好きだったので、ちゃんと行ってましたし(笑)。

―「面白くない」と思いながらも真面目にやられて。

どっちかっていうと、留年したくないなっていう思いで勉強をしてましたね。それで続けていたら、いい点数が取れたっていう。
 


 
 

「向いてない」と思った
家庭教師のアルバイト

―大学時代、勉強以外にアルバイトやサークルなどはされていましたか。

アルバイトは、まず家庭教師をやっていました。でも向いてなかったですね。

―そうなんですか、教えるのが上手そうな印象ですけど。

一番最初に教えた生徒が小学6年生の女の子だったんですけど、勉強を教えていると30分おきぐらいに、お父さんがガチャッとドアを開けて見に来るんですよ。結局は女性の先生と交代してもらいました(笑)。

―何もしてないのに怪しまれたんですね(笑)。

次は高校2年生の男子で、お母さんと2人暮らしのご家庭でした。でも、お母さんが夜遅くまで働いていて大変そうで「私みたいなものにお金を使うのはもったいない」って思ってしまって。彼は勉強ができるタイプだったので、コツさえ教えれば1人でもできると思って、ある程度まで教えたら「家庭教師はもうやめましょう」ってこっちから言ったんです。だから向いてないなって。

―その判断ができるってすごいですね。

気を使ってご飯も作ってくれたこともありましたし、情が入っちゃいましたね。

―ちなみにサークルは。

バレーボールですね。

―もともとやっていたバスケットボールは選ばなかったんですね。

それは不純な動機で、バスケだと男しかいなかったんですが、バレーだと女子もいたんです(笑)。

―そこだったんですね(笑)。そもそも東京理科大自体、男性の割合の方が多そうですよね。

女性は少なかったです。それこそ入学する前は、テレビで見るようなキャンパスライフがあるかと思ってたんですけども…(笑)。

―女子と出会う場所とかあったんですか。

ほぼ無いですね。女子を見るためには学食とかに行くぐらいしかなかったですね。

―風の噂で、バンドをやっていたっていう話を聞いたんですが…。

それは、やってなかったことになってるんです(笑)。モテたくて始めたんですが全然モテませんでしたね。

―そんな(笑)。

ドラムを叩いて、歌も歌っていたんですが、学祭に出た時に外しすぎて、それで嫌になってやめました(笑)。
 
 

本当は医師になりたかった
SEの道に進んだ大学卒業後

―大学からはどんな業界に進んだんですか。

SE(システムエンジニア)の世界に進みました。

―もともと目指していたというわけではなく。

本当を言うと、もともとは医師になりたかったんです。

―そうだったんですね。諦めた理由を教えてください。

私立の医学部は学費の面で難しくて、でも国公立の医学部を目指すには学力が及びませんでした。

―そもそも医師を目指したのはどういう理由だったんですか。

小さいとき「先生」って呼ばれる職業に憧れていて、人から頼られる仕事がいいなと思ったんです。

―じゃあ例えば、政治家でもよかったんですか。

まさに小学生の卒業式で、将来の夢として「久留米市の市長になりたい」って言いました(笑)。

―小学生で市長を目指すのは珍しいかもしれないですね(笑)。

でも今思うと、そのくらい仕事のやりがいを感じたかったっていうのがありますね。

―だからこその医療ということですか。

やっぱり医療は直接患者さんに手を尽くしますので。その点でやりがいを感じられる仕事として目指しましたね。

―では、SEになったのはなぜでしたか。

やはりこれからはパソコンが使えた方がいいだろうというのがあって、将来性も考えてSEの道に進みました。
 


 
 

「SE天狗」の時代を振り返る

―SEとしてはどれくらいやっていたんですか。

3年くらいやりましたね。ただ当時は天狗になってしまったところもあって…。

―えっ、天狗ですか?

同期と比べてプログラムもガンガンやって、プロジェクトリーダーもやっていましたし、その会社の中で自分が一番優秀だと思っちゃったんです。2年目の若手なのに、上司に怒鳴ったこともありましたし。

―それはなかなかのことですが、なぜだったのでしょう。

当時、大学の仕事をしていたんですがトラブルがけっこうあって、夜中に対応することもあったんですね。そんなとき、お客さんも立ち会ってるのに上司が深夜2時くらいに寝始めたので「お客さんが困ってる時に寝るってどういうことですか! 寝るなら帰ってください!」って言ってしまって(笑)。

―そこで上司にビシッと怒れるのはすごいですね。

それもあって、この環境では問題があるなと思い、スキルアップするために転職することにしたんです。

―「天狗になってたな」っていうことは客観的にどうやって気づかれたんですか。

いざ転職してみたら、自分より上がたくさんいるっていうことに気づかされましたね。

―環境が変わったことが良かったんですね。ちなみに次はどういう仕事をされたんですか。

システムから離れて、経営コンサルティング会社に入りました。

―企業の困りごとを解決するような。

そうですね、仕事の内容はさまざまで、黒字の企業がもっと利益を上げたいっていう依頼もあれば、赤字でこの先どうしたらいいかわからなくて困っている話もありましたし。

―経営的な感覚を身につけようと思われて転身したんですか。

というよりは、企業がどういうことをやっているのかを知りたかったんです。それぞれの企業が、どんな運用をしているのかを見たかった。たくさん見れば見るほど、自分の引き出しが増えますので。

―医療の道に進まれたのはそのあとですか。

当時35歳でしたが、世の中で転職のタイミングとも言われる歳ですから、最後の転職にしようと思って、このグループに入ったんです。いろいろ勉強したことを医療業界で生かせればと思っていました。
 
 


 
 

次回:驚異の粘りでグループへ転身! さらに堺平成病院スタートを支えるお仕事にも迫ります!


 



profile


平成医療福祉グループ 成長戦略部 第二医療事業部 部長
松木 泰昭(まつき やすあき)

【出身】福岡県久留米市
【趣味】読書
【好きな食べ物】韓国料理(スンドゥブチゲ)
【尊敬する人物】みんな(周りの人のことを尊敬しながら仕事している)

 

病院情報



https://sakaiheisei.jp/

医療法人恵泉会 堺平成病院

大阪府堺市中区深井沢町6-13

内科・循環器内科・消化器内科・リウマチ科・放射線科・眼科・整形外科・泌尿器科・歯科・リハビリテーション科・脳神経外科・皮膚科・外科・糖尿病内科(代謝内科)・人工透析内科・心療内科

2019年4月、長らく堺市でご愛顧いただいた堺温心会病院と浜寺中央病院が合併して誕生する病院です。救急医療から回復期医療、慢性期医療、そして在宅サービスまでの幅広い機能を持ちます。地域にあるさまざまな事業者と遠慮なく無駄なく連携できる関係を作れるよう、地域医療のハブになり、地域全体で患者さんをサポートできるよう、努力を重ねてまいります。