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ひとプロジェクト【第17回・前編】堺平成病院 看護部長/岩城 八重喜さん

ひとプロジェクト 岩城 八重喜さん
ひとプロジェクト 岩城 八重喜さん

中学卒業と共に故郷を飛び出し
飛び込んだ看護師の世界で羽ばたく!

堺温心会病院と浜寺中央病院が合併して、新しくこの4月に開院する「堺平成病院」。今週も、堺平成病院にまつわる方にインタビューをします!
今回ご登場いただくのは、看護部長の岩城さんです。岩城さんは堺温心会病院でも看護部長を勤められ、長年看護に携わってまいりました。しかし、その人生はまさしく波乱万丈。インタビューでは、さまざまな経歴が飛び出します。ぜひ2週に渡ってお付き合いください!

長崎の島で
家族の想いを一身に受け、生まれた

―岩城さんの下のお名前、とても珍しいですよね。

「やえき」って読むんですけど、同じ名前の方には会ったことがないです。

―お名前の由来はご存知ですか。

両親それぞれの祖父祖母の名の頭文字なんです。両親がなかなか子どもを授かることができなかったところ、40代になってようやく私が生まれたので、親族の想い全部を入れて、たくさんの先祖を託された感じです。

―ご出身はどちらですか。

長崎県の平戸市です。島で生まれました。オランダ貿易の発祥の地と聞いたことがあります。

―最近も帰られることはありますか。

100歳を超えた母がまだ住んでいますので、年に1、2回は帰っています。

―ご長寿ですね!

昨年の5月に体調を崩したんですが復活しました。足腰は弱くなっていますけど、頭はハッキリとしていますね。

―岩城さんはお話好きな印象を受けますが、お母様譲りですか?

似てると言われますね。

―お父様はまた違う性格でしたか。

父親はもう、正義感の塊の様な人で、融通がきかないというか、頑固者で厳しかったですよ。食卓の遠〜いところに父親がいるような家庭でした。
 
 

強い冒険心をもって
15歳で単身大阪へ!

―平戸にはいつまでいられたんですか。

中学校を卒業した時に大阪に出てきました。

―それは家族でお引越しをされて。

いえ、私だけです。本当は行きたい高校があったんですけど、うちが経済的に厳しくて、学費を出せないと言われていたので、「自分でやるしかない」と思って大阪に出てきたんです。

―えっ、おひとりで?!

びっくりするでしょ(笑)。大阪に出て就職して、働きながら定時制の高校に通いました。

―地元ではなく大阪に出たのはどうしてだったんですか。

地元でもできたとは思うんですが、何しろ冒険心が強かったので全然知らない世界に行って、自分だけでやってみたかったんです。

―それを中学生の頃に思って、さらに実行するのはすごいですね。

やっぱりそういう経済環境でしたし、妹もいましたので、早く自立して「家族を支えたい」っていうのがあったんです。

―厳しいお父様もよく許してくれましたね。

実際家計は厳しかったので、止めることもできなかったのかもしれませんね。ただ、いざ自分が子どもを産んでみると、果たして同じように15歳で「家を出て行く」って言われたら、行かせてあげられたのかなって思います。手放す親の方がつらく、勇気が必要だったと思いますね。
 


 
 

家族に楽をさせたい
その想いで看護師の道へ

―そこから看護師になるまではどんな経緯だったんですか。

まず、高校を卒業した後も大阪で働いて、家族に仕送りをしたいと思ったんです。そのためには「何か資格を取って働いた方が給料が上がるんじゃないか」と。その話を高校の数学の先生にすると「看護学校に行きなさい」と勧められたんです。そこから自分で病院を探して、勤めながら看護学校に通って、准看護師の資格を取りました。

―看護師を勧められた時はどう思ったんですか。

「やりたい」って思いましたね。ただ、「看護師のお仕事が素晴らしい」と思って入った訳ではなくて、根本には「仕送りをしたい」っていうのがあったんですが(笑)。でも、働いていくうちに「奥が深いなあ」とのめり込みました。

―それはどういう点ですか。

最初に勤めたのが産婦人科だったんですけど、命が誕生する現場に出会って、母親の強さとか家族の絆とか喜び、赤ちゃんの匂いとか、全てが初めての経験で、すごく感動したんです。そこで、もっと色々勉強したくなりましたね。

―産婦人科に勤めながら看護学校に行くのもなかなか大変そうですね。

もうほとんど寝てませんでしたね。2日に1回寝られてたかどうか。ただ、現場に立って経験することすべてが目新しかったし、わからないことを知る楽しみもあって、自分にとってはしんどいとかは本当になかったですね。若いからできたんだと思います。今はもう無理ですね(笑)。

―辛さよりも好奇心の方が強かったんですね。

子どもの頃から好奇心の塊でしたね(笑)。
 
 

生死のかかった現場で
さらに経験を積む

―その産婦人科はどのくらい勤められたんですか。

3年くらいです。その後はけっこういろいろな病院に勤めていて、まず次は救急病院に5年ほど勤めました。それから急性期病院に勤めて、またいろいろな経験をさせてもらいましたね。そこは線路が近くにあったんで、飛び込まれた若い方が運ばれたりとかもあって…。

―生死の境のような場面をいくつも乗り越えて。

手術室もICUの看護師もしました。脳外科の手術の前に頭髪を剃ったこともあります。やったことないのに「やって!」と頼まれてしまい、がんばって剃ったら、執刀した脳外科の先生から「俺の前に執刀したのは誰だー!」って怒られました(笑)。

―(笑)。キャリアの中でポイントになったタイミングはありましたか。

その次に勤めた急性期病院は一番長くて10年働いたんですが、とても勉強になりましたね。すごく楽しかった時期です。

―「楽しかった」っていうのは、どういう意味で思われたんですか。

いろんな科で働いて業務を覚えることが楽しかったですし、人との関わりも楽しかったですね。日にちや曜日がわからなくなるくらい、仕事にのめり込んだ時期でした。しかもその当時に結婚をして子どもも産んだんですね、男の子を2人。

―すごいタイミングですね!

病院に託児所があったので、産休後も預けて働き続けました。でも忙しい時期だったので、本当に子どもたちには大変な想いをさせたなと思います。本人たちは覚えてないって言うんですけどね(笑)。当時は、育児に専念する道を選ぶより、仕事への興味が勝っていたかもしれないです。

―ご主人とはそのことについては何か話されましたか。

特に私の仕事に口を出すことはありませんでした。主人は建築の仕事をしていたんですが、お互い違う分野についてはわかりませんしね。ただ、家のこともやらなければ、というのが私の中ではありましたので、どっちもしっかりやって、睡眠時間が3時間、というような毎日でしたね。
 


 
 

「鬼」と呼ばれた
看護主任時代

―同じ病院で10年勤めていく間には立場も変わっていかれたんですか。

大半は看護主任として働いていて、最終的には師長になりました。27歳で初めて主任になってから、管理職歴は長いです。

―管理の仕事ではどんなことに留意しているんですか。

人材育成でいろいろと考えることが多いですね。人間は誰でも強みと弱みがあるでしょ。人の優れた部分を見つけるのが好きなんです。それで実際にその人が成長すると、何よりも嬉しくて。

―そうやってスタッフの成長を見守ってこられたんですね。

ただ、自分が2、30代の頃は、やりたいことにまっすぐだったので、スタッフに言わせれば、かなり強烈だったらしいんです(笑)。

―えっ、どんな感じですか。

「鬼」とか「氷の心」とか、いろんなことを言われましたね。今はそんなこと無いですけど、当時は突っ走ってたんでしょうね。

―ずいぶんな言われようですけど、相当厳しかったんでしょうね(笑)。

でも当時一緒に働いていたスタッフの中には、今でも連絡をくれる人もいますから、心に何かは残せたのかなと思います。

―ご自身では、「当時と比べて丸くなったな」っていう意識はあるんですか。

ありますね。色々なことに対して俯瞰して見られるようになりました。人はそれぞれですので、忍耐力はずいぶんついたと思います。そして体も丸くなりました。

―そっちの「丸い」ですか(笑)。

 
 

燃え尽きた後に見つけた
看護師として本当に大事なこと

―キャリアを重ねていく中で、壁みたいなものはあったんですか。

その病院に10年勤めて、一旦看護師を辞めた時ですね。

―なぜ辞められたんですか。

自分の中でいろいろと追求してやってきたんですけど、突っ走り過ぎて、家庭も仕事も目一杯のところまできて、燃え尽き症候群みたいになったんですね。

―職場を変える、ではなく看護師自体を辞めるという選択だったんですね。

そこで家庭に入ったんですが、やっぱり体が働くようにできているのか、じっとしていられませんでした。

―またすぐ復帰されたんですか。

ウズウズしてきたので(笑)。ただ、その時に入った職場は当時の自分には合わず、割とすぐ辞めてしまって。そこでご縁があって、堺温心会病院で働くことになったんです。ちょうどその頃、正木院長(※)も医師として勤めていたんですよ。不思議な縁を感じます。
※ひとプロジェクト 第16回 堺平成病院 院長 正木 浩喜

―そうなんですね!

当時は婦人科も小児科もあった頃で、私は小児科で外来を担当したんですけど、とてもいい勉強をさせてもらいました。

―どういった点で学ばれたんですか。

小児科の救急外来が当時近隣に少なかったので、遠いところからいらっしゃる方が多くて。夜の診察が本当は20時で終わるところが、いつも0時を回るくらい忙しかったんですね。

―日をまたいでもずっと忙しい環境で。

そんな状況でも、担当している若い先生たちが疲れを見せず熱心に対応していたんです。人間、疲れてくるとやっぱり顔に出ることもあるじゃないですか。私も、来院が続いて疲れた時「またか…」と、思ってしまったこともありました。でも先生たちは夜中の0時を過ぎても全然対応が変わらない。

―忙しいなかでも変わらぬ対応を続けられていたんですね。

それが「人間としてすごいな」と思い、看護観が変わるきっかけとなりましたね。私にとって宝になりましたね。親からすると子どもは自分の命のような存在なわけです。だから小児科には、ちょっとしたことでも心配で来院される方もいる。そういう時にやさしく接してもらうことって大事なんですよね。

―その仕事ぶりが心に刺さったんですね。

「自分本位の看護ではダメ」ということを学びましたね。自分に不足しているものがよくわかったというか。患者さんに対応する際の本当に大事な部分を教えていただきました。
 


 
 

次回:いよいよ開院する堺平成病院! その強みや開院に向けての意気込みは!


 



profile


堺平成病院 看護部長
岩城 八重喜(いわしろ やえき)

【出身】長崎県平戸市
【専門】看護師
【趣味】写経、ドライブ、絵画など
【好きな食べ物】肉、野菜(セロリのピクルス)

 

病院情報



https://sakaiheisei.jp/

医療法人恵泉会 堺平成病院

大阪府堺市中区深井沢町6-13

内科・循環器内科・消化器内科・リウマチ科・放射線科・眼科・整形外科・泌尿器科・歯科・リハビリテーション科・脳神経外科・皮膚科・外科・糖尿病内科(代謝内科)・人工透析内科・心療内科

2019年4月、長らく堺市でご愛顧いただいた堺温心会病院と浜寺中央病院が合併して誕生する病院です。救急医療から回復期医療、慢性期医療、そして在宅サービスまでの幅広い機能を持ちます。地域にあるさまざまな事業者と遠慮なく無駄なく連携できる関係を作れるよう、地域医療のハブになり、地域全体で患者さんをサポートできるよう、努力を重ねてまいります。