ひとプロジェクト【第15回・前編】平成医療福祉グループ 看護部 部長/加藤 ひとみさん
初めはなんとなく目指していた看護師
紆余曲折を経て、看護部門の部長になるまで
今回が2018年最後の更新となる「ひとプロジェクト」。今年のラストを飾るのは、グループの看護部門で部長を務める、加藤ひとみさんです。キャリアのスタートは介護士だったという加藤さん。凛とした雰囲気の中にもやさしさがあり、部長として多くのスタッフに慕われています。前編では、香川で過ごしたちょっとやんちゃな幼少期から、世田谷記念病院に看護部長として移られるまでのキャリアをお聞きしました!
宿題はあえてやらない?!
やんちゃな小学生時代
―ご出身はどちらですか。
香川県の高松市です。
―育ったところはどんな場所でしたか。
なんて言ったらいいんだろう、屋島ってわかりますか。
―香川県の島でしょうか。
いえ、陸続きです(笑)。観光地ではあるんですけど。あ、子どもの時は栗林公園の近くに住んでいました。
―そちらはわかります。市内の中心部にお住まいだったんですね。
小学生くらいまではそうでしたね。その後もずっと市内には住んでいました。
―当時はどんなお子さんでしたか。
元気な方だったと思います。
―やんちゃと言いますか。
分類をするならそっちの方に入りますね(笑)。
―怒られたことはありましたか。
忘れ物はすごいしてましたね。宿題も全然してませんでしたし(笑)。
―え、それは意図的にですか(笑)。
そう、意図的に。放課後は、帰っても家にあがらず、玄関にランドセルを置いて遊びに行ってましたし、当時は勉強が嫌いとかいうよりも、遊びの方が優先順位が高かったんですよね(笑)。でも中学生になったらさすがに宿題もしていましたよ。ただ成績が良かったのは体育でしたけども。
―体を動かすのが好きだったんですね。部活は何をされていましたか。
中学時代はバドミントン部で、高校は弓道部でした。
―弓道ってなかなか触れる機会が少ない部活ですよね。
入った高校にバドミントン部がなかったんです。私の選択肢には帰宅部は無かったですし、文化部はとてもじゃないけど性格的に続かないだろうなと(笑)。いちからスタートする部活がいいなって思って、弓道部にしました。
―ちなみに高校時代は宿題は…。
その頃は普通に、怒られない程度にはやってました(笑)。
強い意志はなかったけれど
目指した看護師の仕事
―そもそも、看護師になりたいっていうのはいつから考えていたんですか。
みなさんいろんな動機があると思うんですけど、私には「人のためになりたい」とか、「おばあちゃんが入院していた時の看護師さんに憧れて」とか、そういう良い話が全然なくて(笑)。
―(笑)。どういうことがきっかけだったんですか。
小さい頃なので記憶が曖昧なんですが、家の近くに父親のかかりつけの診療所があって私もそこについて行っていたんですね。受付の奥を覗くと、看護師さんが、処方する粉薬を天びんで計って、紙で三角に包んで、っていうのを上手にやっていて、それが面白くてジーッと見てたんです。その場面がなんとなく頭の中にずっと残ったまま成長していったというのがあって。だから憧れたとかじゃないんですけど。
―でもずっと印象にはあったんですね。
本当になんとなくですね。それで中学生の時に進路を考える時に「看護師かな」って思いました。
―じゃあ高校進学の段階で、初めてちゃんと意識されたと。
「衛生看護科っていうものがあるんだ」って知って、そこからですね。
―高校から看護の道に進んだのですか。
いえ、衛生看護科のある学校が、家から通える距離の場所になくて。私は寮に入ってでも通いたかったんですけど、当時は体が弱かったので、家族からは「無理だろう」って止められて、断念して普通科に通いました。
―一旦は普通科の高校を出られたんですね。
卒業してから看護学校に行こうかとも悩んだんですけど、結局その時は行きませんでした。で、結婚して徳島に移ってきて、何か仕事をしたいなって思った時に、看護師になりたかったっていうこともあって、医療に関する仕事ができないかなと。だから医療事務の仕事につこうかとも考えましたが、ただ自分には向いていないなと思ったんです。
―やっぱりご自身の性格としては、現場で体を動かす方が合っていた。
そうです。それでグループの博愛記念病院(徳島県徳島市)で介護士として働き始めて、介護福祉士の資格も取りました。


介護士からスタートした
医療人としてのキャリア
―介護士として働くうちに、もともとやりたかった看護の方に興味が湧いたんですか。
そうですね。介護の仕事も楽しかったんですが、やっていくうちに興味が移っていって。当時、仕事をしながらでも通える徳島県立看護学院(現・徳島県立総合看護学校)っていう看護学校があって、博愛記念病院からもそこに通ってる人がたくさんいたので、それを見て「あ、行けるんだ」って思ったのもあります(笑)。
―でも大変ですよね、仕事をしながらっていうのは。
大変でした。午前中に学校に行って、午後から介護士の仕事をして、当時は子どもも生まれていたので、家に帰ったら世話もして。
―わー、それは慌ただしそうですね。
そうですね、まだ子どもも小さかったですし。
―学校は何年間でしたか。
准看護師の学校は2年でした。しばらく准看護師として働いて、正看護師の資格を取るために、さらに2年通いました。
―その間、ずっと博愛記念病院で働いていたんですか。
そうですね。正看護師の学校に通っている時は、もう1日中授業があったんで、夏休みや土日だけ働いていました。ただ、学校を卒業して正看護師の資格を取れた時に、違うところも見たいなと思って、博愛記念病院を離れました。
―一度グループから離れて働かれたんですね。
そこも良い病院ではあったんですけど、自分のしたいことが違うというか、しっくりこなかったんですね。1年くらい働いて、また博愛記念病院に戻りました。
まさかの朝礼での波乱!
戸惑いながらも管理者の立場に
―戻られた時は、キャリアでいうとどのくらいでしたか。
准看護師から含めて、5年目を迎える頃でしたね。配属されたのが、その当時たまたま師長さんがいない病棟でした。しかも主任さんが結婚か出産で退職されて、別の病棟の師長さんが兼務していました。そんな状況だったので、勤務表もスタッフが作っていたんです。
―ちょうど人が少ないタイミングで戻られたんですね。
そのうち私が勤務表を作るようになって、なんだかんだと戻って2年くらいで師長になったんです。
―それは一般的に考えたら早い方になりますか。
早かったと思います。なので、最初に役職の話をもらった時は「無理です」って固辞していたんですけど、「みんなでフォローするから大丈夫」って粘り強く説得されて、引き受けることにしました。
―けっこう迷ったうえで決断されたんですね。
ただ、私はてっきり師長の下にあたる主任に任命されると思ってたんですよ。そしたら、その辞令が交付される朝礼で「辞令、加藤ひとみを看護師長に任命する」って言われて、「あれ!」って(笑)。
―えーっ、そこで初めて知ったんですか(笑)!
まだ戻って2年と経ってないのに、いきなり師長になると思ってなくて、主任になるものだと決め込んでいたんです。事前にちゃんと確認してなかった自分も悪かったんですが(笑)。主任になることを想定して挨拶を考えていたんですけど「全部師長に変えないと」と思って、頭の中で変換してから挨拶をしました。
―でも、経験年数に関わらず、実力に応じてキャリアアップの機会があるっていうのは良いとも言えますね。そこからは管理者として働くようになっていくわけですか。
そうですね。最初は医療療養病棟にいて、その後、障害者病棟の立ち上げがあったので、そちらに師長として移りました。そこで多分2年くらいいたのかな。今度は「病棟ではなく全体を見てほしい」ということで、地域連携室に移って病床管理をやりました。その時は総看護師長という肩書きでしたね。
―キャリアアップのスピードが早いですが、その都度戸惑わなかったですか。例えば「現場をもっとやりたい」ですとか。
現場をやりたいっていうのは思いましたね。それは当時も今もあります。今でもたまに呼ばれてやると、やっぱりいいなって思います。
―だからといって「現場ができないなら辞めよう」っていうこともなかったですか。
それが嫌だっていう感覚もなかったです。もともとが飽き性なんで、いいタイミングで違う仕事がやってくるのがちょうどよかったというのもありましたね。


一番辛かった…
看護部長として苦労の日々
―いま現在はお仕事の拠点は徳島ではなく東京にあるかと思うのですが、どのような経緯で移られたのでしょうか。
まずは、2012年にこの世田谷記念病院を立ち上げがあり、手伝っているうちに看護部長に任命されたんです。最初はオープニングスタッフの研修をするから手伝ってほしい、ということだったので、ちょっと長めの海外旅行に行くぐらいの感じで旅行バッグひとつ持って東京に出てきていたんですけど(笑)。
―図らずも看護部長に任命されたと(笑)。そこで博愛記念病院から世田谷記念病院に移られたわけですか。
そうですね。自分も立ち上げに関わって、思い入れも強く持っていたので、本腰を入れて取り組もうと思って、看護部長を受けることにしました。
―そこはスッと受け入れられたんですね。
新しいお仕事でしたし、きっと楽しいだろうなと思いましたね。博愛記念病院にいた当時は、グループの看護部門の部長もそこにいて、何かあればすぐ相談に行ってましたから、自分の意識のなかで、その病院のトップを任されてるっていう認識は薄かったかもしれないです。ただ、新しい病院ではそうはいかないので、そこで意識も変わりましたね。
―そういう責任ある立場っていうのは、進んで自分からいくタイプでしたか。
いや、昔からそうなんですけど、前に立つよりは後ろで楽に過ごしたいタイプです(笑)。
―今みたいな立場ですと、真逆ですよね。
今はもう腹をくくりましたね。ただ、世田谷記念病院で看護部長を始めた当時は、精神的に大変でした。
―がんばりすぎて無理をしていた、みたいなところがあったんでしょうか。
というよりは、今よりもまだ打たれ弱かったですね。当時、世田谷記念病院にはグループの副代表がいたので、いつも弱音を吐いていました。強くなったのはここ最近かもしれないですね(笑)。
―だいぶ苦労しながらやっていた感じだったんですね。
最初は看護部長の業務というのが、何をすればいいのかわからなかったんですよね。人の管理や数字の管理については、教えてもらったわけではなかったので。どんな数字を知っておかなきゃいけないのかもわからなくて。
―今までのキャリアの中で一番苦労したなって思えるのは…。
その頃かもしれませんね。そこからグループの組織がだんだんしっかりとできてくるうちに、グループ病院の看護部長同士とか、事務長とか他の部門の部長とか、やり取りする機会が増えてきて、仕事のやり方もわかるようになってきたというか。でも書類なんかは、今もがんばって作っても直されることはありますけど(笑)。


次回:加藤さんの胸に響いた、実習時代に患者さんからもらった言葉とは…!




平成医療福祉グループ 看護部
部長 加藤 ひとみ(かとう ひとみ)
【出身】香川県高松市
【資格】看護師
【好きな食べ物】ポンパドウルの塩パン
【最近食べて美味しかったもの】北海道で食べたジンギスカン
【尊敬する人物】グループの副代表(相談しやすい存在)


http://setagayahp.jp
医療法人 平成博愛会 世田谷記念病院
東京都世田谷区野毛2丁目30-10
内科・整形外科・リハビリテーション科
急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。