ひとプロジェクト 第60回【前編】世田谷記念病院 臨床心理士・公認心理師/岡崎美帆さん

世田谷記念病院

臨床心理士・公認心理師

岡崎 美帆 さん

Okazaki Miho

心理士として目にしてきた、人は変わっていけるという可能性
教育の現場での約10年を振り返ります

今回は、世田谷記念病院で臨床心理士・公認心理師として働く、岡崎美帆さんです。もともと心理職を目指していたわけではなかったという岡崎さん。商社への就職や、「宝物だった」と語る濃密な子育て期間を経て、あらためて臨床心理士を目指しました。前編では、心理職に就くまでの経歴や、実際に心理士として教育の現場で多くの親子と向き合った日々について、伺いました。ぜひご覧ください!

  • 鎌倉が自分の原風景

    心理職の方にメインで登場いただくのは初めてなので、どんな職種なのかというところも含めて今日はお聞きできればと思っています。

    うまく話せるかな(笑)。

    (笑)。資格としては、以前からあった臨床心理士に加えて、最近、公認心理師という資格ができたんですよね。

    心理職で、初めて国家資格として3年前に認定されたのが公認心理師ですね。そちらも取得して、ダブルライセンスで今は仕事をしています。資格が増えても、仕事の内容自体には特に変わりはないですね。

    普段は心理職として病院でどのように動かれているのでしょうか。患者さんのメンタルのケアというイメージがあります。

    そうですね、当初は医療療養病棟があったので、そこでは緩和ケアであるとか、回復期リハビリテーション病棟の患者さんに関しては障害受容(※)であったり、復職に対する相談だったりとか。あとは例えば、突然一家の大黒柱が倒れたことで、戸惑われるご家族へのケアであったりですね。スタッフのメンタルケアにも携わっています。

    ※障害を受け止め、ともに生きる決意をすること。

    患者さんだけでなく、ご家族やスタッフのケアにも関わるのですね。もともと出身はこちらの方なんですか。

    出身は神奈川県の鎌倉市です。

    歴史ある土地ですね。

    すっかり観光地化されているけど、一歩路地に入ると、幼少期の頃の風景がそのまま残っていて、私の原風景は鎌倉かもしれない。

    ご自身にとっては当然、観光地としての側面よりも、生まれ育った大切な場所なわけですよね。

    「あそこをおじいちゃんと手をつないで歩いたな」とか、「あの店におばあちゃんと入ったな」とか、そういうことを思い出しますね。父は海に素潜りで入ってタコを取ってました(笑)。

    豪快ですね(笑)。どんなお子さんでしたか。

    どうだったかな。まあ元気な子どもでしたし、自分のなかでは「幸せな幼少期」という思い出ですね。

    鎌倉にはある程度の時期まで住んでいたんですか。

    中学・高校時代は、東京で寮生活をしていました。

    小学校を卒業して地元の友だちの元を離れるのは、寂しい気持ちになりそうです。

    もちろん。だから泣いて抵抗した記憶もありますね。でも祖母の代から縁があって、私も考える間も無く入学していて(笑)。入ってしまえば楽しかったですけどね。

    その後はどういう進路を辿られたましたか。心理職につながるような進学をされたのですか。

    それが、恥ずかしいんですけど当時の私は受験の「じゅ」の字も知らないような状態で、高校3年生の2月くらいに受験しようと決めた時には、大学の名前自体を2つか3つくらいしか知らなかったんです。憧れだけで、そのうちのひとつを受験して、入学できました。

バブルの波に乗った
イージーな就職活動

大学当時は心理系の仕事に就こうという考えはありましたか。

それこそ、臨床心理士が資格として認定されたのが、私の大学在学中なんです。その頃はぼんやりと、そんな職業もあるんだなくらいの認知しかなかったですし、そもそも「将来こんな仕事をしたい」みたいなこともなかったので、頭の片隅に置いたぐらいでしたね。

まだまだ大学在学時は心理職を志してはいなかったのですね。

卒業の頃はバブルの時期だったので、イージーな就職活動の波に乗って(笑)、総合商社に就職しました。

イージーな(笑)。バブルの頃の商社と聞くと、派手というか、今以上に勢いがあったというイメージです。

なんだろう、今思えば業界全体が活気があって、勢いづいてた感じはありましたし、楽しい思い出もありますよ。でも私自身は深く考えることなく入社したのに、社会人として大事なことをたくさん教えてもらって、すごく貴重なステップを踏ませてもらったなって思います。

社会人的な基礎とか仕事の仕方を教わったと。お仕事自体はどんなことをされたのですか。

為替を扱う部署に入ったんですけど、商社は海外との取引があるので、輸出入で扱う費用を、どの国のレートで換算すると得になるか、という、社内の銀行的なお仕事でした。ただ、勉強することもたくさんあり、まだまだこれからという時期でしたが、結婚、妊娠を機に退職することとなりました。

為替の仕事に本格的に取り組む前に、退職を迎えたんですね。

先輩たちとしたら「今から教えるぞ」っていうところだったと思うんですよ。今思えば、そんな私を快く送り出してくれたのは、感謝しかないですね。同期入社の子たちとは今も付き合いがあって、お互い人生の支えになっています。

  • 宝物のような子育ての時間
    経験を生かして臨床心理士へ

    退職されてからはどのような生活を送られたのですか。

    私は、専業主婦になることが、夢じゃないけど、楽しみだったんですよ。子どもは年子で生まれたので、ギュッと凝縮した濃密な子育て期間を経験して、大変だったけど楽しかったんですよね。

    では専業主婦として、年子のお子さんを育てられて、充実した時を過ごされたのですね。

    自分でもそれをしたかったんでしょうね。もう、今振り返っても私にとって宝物の時間です。

    そこから臨床心理士になったのはどのような経緯なのですか。

    子どもたちが小学校にあがるころになって、子育てのステージとしても、ここから先は彼らの自立を見守る役割になっていくんだろうなと思ったんですね。「じゃあこの先の自分の人生をどうしよう」と考えた時、仕事として頭に浮かんだのが、臨床心理士だったんです。

    そこで初めて仕事として心理士を考えられたと。以前から心理学や心理職に興味を持っていたのですか。

    昔から心理学というか、人が好きで、興味関心はありましたし、専業主婦の頃も、心理系の本を読んでいました。私自身がそういうところにアンテナを張っていたからだとは思うんですけど、臨床心理士という仕事も認知度も上がってきて「この仕事なら、生涯なんとか自分の仕事として続けていけるかな」と思ったんです。

    先々まで続けていけると思われたのですね。

    あと、自分にとって大事だった子育ての時間を、回り道としちゃうのはもったいない気がしたんです。このこともちゃんと次に生かしていけると思ったんでしょうね。でも、その時初めて調べて、臨床心理士になるには指定された大学院を卒業しないといけない、っていうことを知って「ウワッ」と思いました(笑)。

    (笑)。そこで初めて、道筋を知ったわけですか。

    なので当時、夫には「半年だけ勉強して、翌年2月の大学院の入試を受けさせて欲しい」と伝えました。受かるまで挑戦するという気持ちもなくて、そこでダメだったら潔く諦めようと。勉強からも離れていたので、実際あんまり自信はなかったんだと思います。

    でも努力の甲斐あって無事に合格されて。

    大学院に入ってからは、子育てをしながらの修士論文や修士課程が思ったよりも大変だったので、ヒイヒイ言いながら卒業をしました(笑)。

    その時はお子さんおいくつになっていたんですか。

    小学校の2年生と3年生でしたね。もともと専業主婦だったので、そこを手放すのもなかなか大変でした。最初から共働きで子育てしていたら、子どもにとってもそれが日常になって、お互い理解や工夫ができたと思うんですけど。私はどっぷりと子どもとの時間に使っていたので、お互い切なくなってしまったし、ちょっと苦労したかもしれない。だからって、後悔したということではないですけどね。

    お互い戸惑うことがあったのですね。2年間はかなり大変だったでしょう。

    家でも子どもたちを寝付かせた後に勉強していましたね。大学院受験も含めて、若さゆえの奮起力。今となってはとてもとてもできないかな。

    そこから大学院を卒業されて、臨床心理士の資格を取得されたと。

    卒業した年に資格試験を受けて、自治体の教育委員会に就職をしました。

学校生活につまずいたお子さんの
成長過程を見守る

当時の臨床心理士の活躍の場は、どんなところが多かったですか。認知度は、それこそ制度ができたときよりは広まっていたと思うのですが。

教育分野が一番多かったんじゃないかなと思います。スクールカウンセラーや教育相談もありましたし。あとは児童相談所など福祉の分野と、医療分野、その3つが大きかったと思います。

岡崎さんはそこから教育分野を選ばれたと。

自分の子育てのステージともかぶっていたこともあって、一番興味があった分野でした。

そこでは実際にどういうお仕事をされていたんですか。

学校生活につまずきのあるお子さんと親御さんのプレイセラピーとカウンセリング、教育相談室みたいなことをしていました。9時から17時まで50分ごとで枠が決まっていて、そこは母子並行面接といって、心理士がそれぞれ、お母さん担当とお子さん担当でついて、2週間に1回、定期的に会っていくんですね。1日のケース数で言うと、多くて7ケースぐらい。このケースでは親御さん担当、このケースではお子さん担当、という感じで会っていました。

どんなお悩みが多かったでしょう。

学校生活につまずきということで言うと、不登校のお子さんの悩みが一番多かったです。親御さんの意志で来られる場合もありましたし、先生からの依頼もありました。

どのようにお話をされていくんですか。もちろんケースバイケースだとは思うんですが。

そうですね、本当にいろんなケースがありました。発達が特性としてグレーゾーンのお子さんがいたり、場面緘黙(かんもく)って言って、自宅では話せるのに、学校では一切話せなくなっちゃう、動けなくなっちゃう子がいたり。そういう子のプレイセラピーでは、初めは入り口から一歩も動けないから、その横にずっと一緒にいるところから始まるんです。

まずは入り口から関係性を作っていくと。

でも、その子は私がそこで働いている間、ずっと長い期間通ってくれて。低学年の頃から通い始めて、中学生になった頃は、本当にたくさんお話ししてくれるようになりました。そういう子どもの成長過程をみれるのは、醍醐味だったかなあ。

時間をかけるうちに、そこまでの関係になっていかれて。

「学校でこんなことを言われたけど、その場では何も言えなかった」みたいなことを、ここで振り返ってくれるんですけど、そのなかでだんだんと「こんなこと言ってみたよ」とか、「じゃあ次はこんなことを言ってみよう」とか、学校のこともいろいろと話してくれるようになって。

いい居場所ができたと言う感じだったのかもしれませんね。

そうだったらいいですね。自分を振り返りながら調整しながら、また学校に出向いて、また戻ってきて一休みしながら立て直す、みたいな感じでしたから。

お話を聞いて完結することもあれば、例えばほかの福祉のサービスにつなぐこともあるんですか。

必要があればそういうこともあります。例えば、発達的な検査を受けてみることが、お子さんにとっていいと思ったら提案します。親御さんがそういうことに抵抗がある時は「発達的な特性を理解することが、お子さんのためにも親御さんのためにも有益なんですよ」っていうことをお話ししていました。

固有の特性として理解するということなんですね。やはり戸惑われる方も多いのでしょうか。

ようやく今は発達障害という言葉も認知されてきていますけど、抵抗を持たれる方も多かったと思います。

どんなことを大事に接していかれていましたか。

不登校になったお子さんを含めて、どんなお子さんであれ、学校生活を軸にした場合、学校に行けないことがマイナスになってしまう。けれど、その子の人生や、その子の今の時間にとって何が必要かと考えると、学校生活からちょっと違う一息つける場所としてここを使ってもらって、また元気になって、もし戻れるなら自分のタイミングで学校にも戻れたらいいね、って。

確かに、つい学校生活を軸に考えてしまいがちです。

ただ、一方で教育委員会にいる立場なので、先生方とも連絡は取り合いますから「いつ戻れますか」と聞かれることもありますし、間には立たされていましたね。そこは理解してもらえるように、学校に出向いてお話をすることもありました。

難しい立場として、いろいろなケースを目にされてきたわけですね。

そうですね、10年近く働きましたが、心理職としてすごい鍛えられる時間だったと思います。

  • 人が変わっていく可能性を
    たくさん見てきた

    ここまで伺ったようなやりとりというのは、大学院などでもある程度学ぶことなのですか。

    基礎知識だったりセオリーは学びますけど、それは机上の勉強なので、やっぱりやっていきながら、経験値を積んで学びました。あとは事例検討会で、ほかの方の事例を聞いたり、自分もスーパーバイザーからアドバイスを受けたり、鍛錬の時間でしたね。

    素朴な疑問なのですが、深く悩みを聞きすぎて、自分が落ち込むということはないのですか。

    それはよく聞かれるんです。「一緒に落ちていかない?」とか「持ち越しちゃわない?」とか。でも、私の考えとしては、相談者の抱えている悩みを、私が代わりに担ってしまうことや「こうしたらいいですよ」っていうおこがましいことは言えないわけです。相談者の方が、この問題を解決も含めてどう抱えたらいいだろうと考えるには、1人だけで考えるよりは、安全な場所でそれを少しずつ言語化していく作業の方が、建設的で、ちょっと違う視点で捉えることができる、っていうイメージでいます。

    適切な距離感が大事そうですね。

    私が教えてもらったのは、相談者の方の悩みに対して、向き合って解決するのではなくて、「〇〇さんのこの問題は、どうしたら楽になるんでしょうね」って、問題を2人で俯瞰して見るんですね。私と相談者と問題、その三角形を作るっていう考え方は、けっこうコツだと思います。

    そうやって関わっていくうちに、少しずつ変わっていくと。

    子どもも親御さんも、その人の持っている力で成長していく、変わっていきます。例えば虐待に近いようなことをしていたお母さんであっても、変わっていきましたし、そういう可能性を、その人の力を信じられる、というケースをたくさん見させていただいたので。

    だからこそ、一緒に悩むわけではない、ということにつながっていくのですね。

    相談者の方が抱える問題なので、私としては一緒に苦しむというよりは、「苦しんでいることはわかっています」っていう存在でいいんだろうなって。

    なかなか時間がかかって難しかったというケースもあるわけですよね。

    そもそもですよ、カウンセリングは時間がかかりますし、そんな1回2回で解決することではないわけです。

    教育委員会でやられていたことは長く相談されることが前提だったと。

    相談される方が「卒業します」と言うまではお付き合いします。親御さんとしては、気持ちは先生に近いというか、なんとかしてもう一回学校に戻ってほしい、と思われる方も多かったですね。

    実際に戻られる方もいれば、ほかの選択肢を取られる方もいて。

    そう、いろいろでしたね。今は教育支援センター(適応指導教室)みたいな、フリー教室も増えていますし、選択肢は多くなっていると思います。

    10年程度働かれるなかで、取り巻く環境や空気の変化は感じられましたか。

    大きく何かが変わってきたわけではないけど、そういった学校に戻る以外の選択肢に対して親御さんが「選んでいいのかな」っていう葛藤が少し和らいで、ちょっと手を出しやすくなっているかもしれません。私自身は、そうやってたくさんの方にお会いするなかで「学校に戻ることだけが全てではないよね」って、本心で思えた気はします。

    ほかの道を選んでも「人生その後も大丈夫だよ」というようなことですか。

    そこまで楽観的にも考えてはいないんです。だから「学校に行かなくてもいいんじゃない」って無責任なことは言えないし、この人の人生を舵取りする、無責任なこともできない。だけど「どうしよう」って迷っているところに、並列として「学校に戻る以外の選択肢があっていいんだよ」とは思いますし。自分でそれを選んだっていうところを見届ける、みたいな、そんなイメージかもしれません。

    ご自身で考えて選ぶということが、大事なんですね。

    そう思います。社会通念や価値観じゃなくて、それが、その人らしさみたいなものなのかなって。

次回:患者さんの主体を大切にしながら「個」として向き合う。1から模索した、世田谷記念病院における心理士としての働き方。

後編を読む

profile

世田谷記念病院 臨床心理士・公認心理師/岡崎美帆(おかざき みほ)

【出身】神奈川県鎌倉市
【趣味】読書、散歩
【好きな食べ物】茶碗蒸し、お刺身

病院情報

東京都世田谷区野毛2丁目30-10

医療法人 平成博愛会
世田谷記念病院

内科・整形外科・リハビリテーション科急性期病院での治療を終えられた患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な治療とリハビリテーションにより、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としたPost Acute Care(急性期後の治療)を専門的に行う病院です。