ひとプロジェクト 第57回【前編】平成医療福祉グループ総務部 課長/高橋洋介さん

平成医療福祉グループ総務部

課長

高橋 洋介 さん

一般企業から、医療の世界へ転身
ハードな現場も経験した事務長時代

今回は、グループの総務部で課長を務める高橋洋介さんにお話を伺いました。もともとは一般企業で営業職に就いていた高橋さんは、とある事情から一念発起して医療職へ転身。病院での事務局運営などの業務を経て、事務長として病院の新規立ち上げなど、体当たりでさまざまな仕事に関わっていきます。今回は、総務部に至るまでの高橋さんの経歴についてお話を聞きました。ぜひご覧ください!

  • 徳島から大阪へ
    音楽漬けで楽しんだ学生生活

    今回はグループ総務部から初の登場ということで、いろいろお話を伺わせてください。肩書きとしては課長になるんですね。

    総務部の課長と、グループの平成淡路看護専門学校の事務長も務めています。

    事務長も務められていると。ちなみに病院ではよく聞きますが、学校にも事務長という立場があるのですか。

    事務長は学校長の元で、事務のことや教員の人事の取りまとめや、行政との折衝、申請書の作成とか、細かい仕事を担当しています。

    総務部のみなさんは徳島の博愛記念病院内でお仕事されていますが、ご自身の出身も徳島ですか。

    僕自身は埼玉県生まれの徳島県育ちなんです。生まれてから小学校3年生くらいまでは埼玉にいて、親の仕事の都合で、両親の地元である徳島に引っ越しました。

    そのくらいまで住まれていたら、埼玉に地元意識がありますか。

    それが、あんまり埼玉時代の記憶がないんですよね(笑)。なので地元という感じもなくて。

    では印象としては徳島県の方が強いんですね。学生時代は部活など何か打ち込まれましたか。

    それが本当に何もやってなくて…高校生の頃も遊んでばっかりいました。

    卒業後はどうされたんですか。

    僕、大学受験で一回失敗して、一浪してるんです。その間も前半は遊んでたんですけど、「このままでは暗い未来しか見えない」と思って一念発起して、後半の半年間はものすごい勉強して大阪の近畿大学の経営学部に無事に合格できました。

    ではそこで大阪に出られたんですね。大学時代はどうでしたか。

    楽しかったですね。勉強よりも、いろんな人と出会いがあって、良い思い出がいっぱいあります(笑)。

    満喫されたと(笑)。特にどんなことをされていたんですか。

    周りに音楽好きが多かったので、音楽関係のイベントをしたり、ライブに行ったりしていました。

    当時はどんなものが流行っていましたか。

    ヒップホップやメロコア、ミクチャーが流行っていましたね。ライブは頻繁に行っていたんですが、Pete RockやBRAHMAN、Slipknot、全盛期の鈴木亜美のコンサートにも行きました(笑)。

    振り幅がありますね(笑)。ご自身では特にどういう系統の音楽がお好きでしたか。

    クボタタケシや川辺ヒロシの選曲が好きなのもあって、ジャンル問わずに聴いていたんですけど、一番はヒップホップですね。最初に購入したレコードは、A Tribe Called Questです。当時はUSヒップホップを多く聴いていました。

    ヒップホップのなかでも、当時のアメリカで流行していたものを中心に聴かれていたのですね。ご自身でもDJされたりは。

    下手なりにですがやっていました。レコードもたくさん買ってましたね。

    卒業後にどういう道に進もうということは、何か考えられていたんですか。

    このまま大阪に残ろうっていうのは決めていたんですけど、1社目に面接を受けた会社から内定が出たので、就職活動ではそんなに苦労せずに済みました。

    スムーズに決まったのですね。どんな会社に入られましたか。

    建築資材を卸している商社でしたけど、そこも深い考えがあって入ったわけではなくて、会社員になって営業職に就こうっていうことを何となく考えて入りました。会社の場所も大阪の良いところにあったので、それも理由のひとつでしたね。

再び徳島へ戻り
営業職から医療の道へ

大阪でいざ社会人として働き出してみて、いかがでしたか。

入った会社では、お得意さんを回るルート営業を担当したんですけど、当時はがんばらなくて物が売れてしまう時期だったんですね。会社が自分に合わないっていうことはなかったんですけど、それがそんなに面白くなくて。

ちょっと物足りなさがあったんですね。そこではどのくらい働かれたんですか。

ちょうど1年ですね。

1年やってみて、物足りなさがあって辞められたと。

それと、大阪で暮らしていて、当時の給料に対して物価が高いなと感じたんですね。駐車場代が月額2万円もしましたし、ここでずっと住んで将来家庭を築くのは無理だなって思って、早くに見切りをつけました。

1年目でそこまで先々を考えられたんですね。

厳しいなと感じてからは、決めるなら早い方がいいなと思って、それなら徳島で仕事を探そうと思いました。

では、当時のご自身の状況と生活環境をあらためて見つめて、徳島に根を下ろして働くことを選ばれて。医療の道を選ばれたのはどんな理由があったのでしょう。

できれば一般企業とは違う世界に進もうと考えたんですね。その時に、医療や福祉の仕事が、社会の役に立つ仕事として良いなと思ったんです。そこで、地元の博愛記念病院に事務職として入職しました。

いろいろ病院があるなかで、博愛記念病院を選ばれたのはどうしてですか。

実はグループの副代表が高校の同級生だったんです。なので、医療機関を検討するなかで相談はしました。ちょうど当時は博愛記念病院が大卒の事務スタッフを積極的に募集し始めていたところだったみたいで「採用試験があるから受けてみたら」という感じで。

では良いタイミングではあったんですね。

その後、試験と面接を経て入職することができました。

以前から博愛記念病院のことは知ってはいたのですか。

家族が併設施設に入所していましたし、お見舞いに来たこともありましたので、どんな病院かというところは知っていました。

  • 新人ながら事務局運営を掛け持ち
    さらに、業務責任者として東京へ

    博愛記念病院に事務職として入られて、どう感じられましたか。

    最初は、病院にもこういう仕事があるんだっていうことを知って、いい経験になりましたね。

    実際やられたのはどういうお仕事でしたか。

    いろいろやらせてもらったんですけど、僕が入りたての頃だと、事務局の運営ですね。

    事務局ですか?

    その頃、グループの武久代表は、徳島県の慢性期医療協会とか、徳島県内の老健とかケアマネジャーの協会とか、いろんな団体の中心で動いていたんですね。そこで僕は代表のもと、それぞれの協会の事務局運営を任されるようになりました。事務局の掛け持ちが徐々に増えていったある日、代表から「この全部の団体が一堂に会して、新たな協議会を発足するから」と伝えられた時の驚きは今でも鮮明に覚えていますね(笑)。そんなこんなで、最大で5つの事務局を掛け持っていました。

    事務局ってそんなに掛け持つものではなさそうですよね(笑)。当初は病院の仕事というより、そういった外部の団体に関られていたと。

    博愛記念病院が事務局運営を引き受けていて、その仕事を任されたという形でしたね。事務作業だけでなく、県知事に要望書を渡したり、官僚を招いて講演会を開催したり、5つもあると、なかなか大変な時もありました。

    関係各所への連絡や調整をそれぞれ行うとなると大変そうですね。

    でもそれが今も生きていて、事務的な資料を作ったり連絡をしたり段取りしたり、イベントをしたりということができるようになったのも、全てはこの時期の仕事のおかげかなと思います。外部の医師や看護師、ケアマネジャーの方などとのやり取りも多かったので、それでつながりもできましたし、みなさんに良くしてもらいました。

    未経験の新人のスタッフに任せるには、事務局の掛け持ちはボリュームが大きそうな気もするんですが、これを一任された意図は何かあったんでしょうか。

    おそらく当時の代表としては「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という方針だったのだと思います。それで、人がその時持っている力より少し上のことを任せるというのがあったのかなと思います。

    任せることで成長を促すということですね。その後の仕事の変遷はどのようなものだったのですか。

    事務局を担当していたのがけっこう長くて、おそらく6年くらいはやりました。その後もいろいろと仕事はしたんですが、大きなターニングポイントとしては東京に行ったことですね。

    どういったタイミングで東京に行かれたのですか。

    緑成会病院をグループで運営し始めた頃で、業務責任者として行ってほしいということで行くことになりました。その時はまだそういった仕事については何も習ってなかったんですけど(笑)。

    ここまでは事務局運営がメインだったわけですもんね(笑)。どのように進められたのですか。

    このインタビューにも出られていた平田さん(※)が前任者としていました。ただ、すぐに別の病院に移ってしまったので、一緒に仕事をしたのは少しだけではあったんですが。当時、同じ敷地内にあった緑成会整育園にも、関西のグループ施設から派遣されていた方がいて、同じような状況で働いていました。夜な夜な駅前の居酒屋に集まって、平田さんも交えて3人で励まし合っていましたね。あの時の骨せんべいの味は今でも覚えています(笑)。

    (笑)。最近のインタビューだと、リハビリテーション部の裵さんも(※)、近い頃に緑成会病院に移ってきたという話をしていましたね。

    僕も裵さんと一緒に仕事して、飲みに行ったりとかもしましたよ。実際に仕事はやりながら覚えていくのもありましたし、総務部の部長や、当時の上司に電話して常に相談していましたね。

    実際仕事をやられてみていかがでしたか。

    「こんな大変な仕事があるんだなあ」って純粋に思いましたね。特に、他法人から運営を引き継ぐ時は、その法人のスタッフしかいないところに入って行って、あれこれ指示をすることになるわけですし。ただ緑成会病院では、スタッフもいちからのスタートの人が大半だったので、一緒にがんばっていこうっていう空気が強かったです。

    緑成会病院ではどのくらい働かれたんですか。

    実際は3、4カ月程度だったんですけど、10年くらいいたんじゃないかっていうくらい濃かったですね。最初なのでわからないことも多かったですし。ちょうど改修工事の時期で、その段取りとか片付けとか、やりながら学んでいきました。

今も思い入れが強く残る
世田谷記念病院立ち上げの仕事

緑成会病院で3、4カ月ほど働いて、次はどういったところに移られたのですか。

その頃、世田谷記念病院が開院前で、その準備段階から事務長として関わることになりました。

今度は事務長として、開院準備に携わったのですね。地元から離れて東京で仕事を続けることについては、抵抗はなかったですか。

その時は若かったですし、いろんなことをしようと思っていましたので、特に抵抗はありませんでした。

準備は準備で、関わるとなるとまた大変なことがありそうですね。

大変でしたけど、多くのスタッフが準備で徳島からも来ていて、寂しさはなかったですね(笑)。仕事のことも直接相談できる環境でしたし。

新天地に1人で飛び込むのとはだいぶ違いますよね(笑)。お仕事としてはどの部分のウエイトが大きかったのですか。

新規開院でしたので、採用関係は大きかったですね。ただ、立地が良いからか、人自体は集まりやすかったです。僕自身も面接に入って、今も残ってくれてるスタッフもけっこういますよ。

特に大変だったのはどんなところですか。

全体的に大変でしたけど、僕よりも現場スタッフの方が大変だったかなと思いますね。僕の方は、届出準備とか、書類関係が多かったです。ちなみにこのインタビューに以前出ていた森元くんは、僕と一緒に働いてくれていました(※)。よく夜に、副代表と森元くんと私の3人で、金魚の世話をしていたのが思い出されます。みんな慣れない環境とプレッシャーで、金魚に癒しを求めていたのかもしれないです(笑)。

金魚が癒しの存在だったと(笑)。当時は開院を前にして、どういった意気込みでしたか。

初めて東京で、いちから新しい病院を開院して、回復期リハビリテーションを積極的にやっていこうということで、かなり力は入っていたと思います。僕としても、1日も早く満床にして、地域に貢献したいと思っていました。

どのくらい世田谷記念病院では働いたんですか。

3年くらいいましたね。初めから関わりましたし、個人的にも思い入れが強い病院ですね。仕事以外にも、東京で初めて生活していろいろと楽しめたところもあって、充実した期間でした。この時までは、博愛記念病院の所属だったんですが、その後は、グループの総務部の所属に変わっていきました。

  • 時には反発も…
    事務長時代の苦労

    高橋さんが務めてきた事務長の役割としては、運営が切り替わるタイミングとか、立ち上げのタイミングが多いんですね。

    病院運営がグループに切り替わるタイミングは大変ですね。前の病院から引き続き多くのスタッフ働いているところに、僕みたいな人が1人でひょこっと行くと、最初は良く思われないこともありますから。

    どうしても、外部から入ってくるということで、厳しく見られることはあるかもしれません。

    それもあるでしょうし、当然経営が変われば条件も変わってしまうこともありますから。例えば公営病院に近いところから民間病院に切り替わると、雰囲気もだいぶ違うものになりますよね。

    長く働かれていた方にとっては、環境の変化で戸惑うことも多いと言いますか。

    グループとしては目指すべき基準があるので、そのやり方をご理解いただくには、なかなか大変な時もありましたね。

    そういった時は、どのように物事を進めていったんですか。

    時には、反発を受けることも覚悟で押し進めることもありました。普段は穏やかに仕事をしているんですけど、いざという時は仕方ないと思って。その時は本当に1人ぼっちで入っていったので、当初はなかなか厳しかったです。特に譲渡前の時期は、電話中に別の電話がかかってくる、さらにその電話が終わるのを待っている人が目の前にいる、という漫画みたいな状況でしたね(笑)。たまに、心配して差し入れを届けてくれる方もいて、そういうことがありがたかったですね。その恩はいつか返したいです。

    それだけ大変な想いで仕事をされていたら、周囲の方が心を動かされることもありそうですね。

    そう思って気遣ってくれるスタッフさんもいましたし、がんばりを見てくれる人もいるんだなと思いました。かなり鍛えられた経験でしたね。

次回:自分の性格にフィットした、裏方としての働き方。見えない場所から病院を支える、グループ総務の仕事とは!

後編は2021/02/26公開予定

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平成医療福祉グループ総務部 課長 高橋 洋介(たかはし ようすけ)

【出身】埼玉県
【好きな食べ物】ミレービスケット、白バラコーヒー
【好きなラジオ番組】Creepy Nutsのオールナイトニッポン0(ZERO)