ひとプロジェクト 第54回【前編】平成医療福祉グループ リハビリテーション部 副部長/裵 東海さん
リハビリテーション部
副部長
裵 東海 さん
Pei Tonhe
自身を取り巻く環境から、企業社会ではない生き方を模索した ディスカッションを重ねながら、リハビリテーション部門の組織強化に務める!
今回は、グループのリハビリテーション部で副部長を務める、裵東海(ぺいとんへ)さんです。強豪クラブチームでプレーするほどサッカーに打ち込みながらも、高校卒業後は理学療法士を目指した裵さん。その選択の背景には、自身を取り巻く環境を見つめた、強い決断がありました。前編では、裵さんが辿ってきた経歴を中心に、部門の副部長として取り組む組織強化についてもお聞きしました。ぜひご覧ください!
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企業社会ではない生き方を模索
自身の境遇から体得した仕事の仕方ご出身はどちらですか。
東京の吉祥寺です。
小さい頃はどんなことに夢中でしたか。
幼稚園の年長から、高校3年生までサッカーをやってました。高校生の時はクラブチームにいましたね。
かなり本格的にやられていたんですね。
そうですね。中高は私立の一貫校に通っていて、中学を卒業する時に強豪校からの推薦もいくつかもらっていたので、どこに行こうかと考えて、クラブチームに行きました。でも途中でクラブチームを辞めて、高校の部活に移ってしまって。
クラブチームは途中で辞めてしまったと。
場所がちょっと遠かったっていうのもあったんですけど、クラブチームはプロを養成するところだったので、やっていくうちに「自分がプロになれない」っていう限界が見えちゃったんですよね。
それが自分でわかってしまったんですね。リハビリの道に進んだのはどういうきっかけがあったのですか。
クラブチーム時代、チームに理学療法士(PT)が帯同してたんです。自分もけがをした時に接することもあったし「こんな仕事もあるんだな」っていうのをなんとなく片目で見て、この仕事を知ったんです。
PTの存在はそこで知ったんですね。どのような進路を辿ったのですか。
当時通っていた学校の方は、東大合格者を毎年何人も輩出するようなトップレベルの超進学校だったので、自分も受験をして普通に大学進学っていうことも考えたんですけど、僕は名前を見てわかるように、韓国籍なんですね。四半世紀前の時代背景を考えると、進学して一般企業に就職しても、難しいなと思ったんです。
高校生でそこまで考えるのも酷な話ですね。
父親はフリーのカメラマンなんですけど、父親が今までしてきた苦労も知ってますし。社会適応していくのが大変だろうなと思って。スポーツ選手になるか個人で独立するか、じゃないけど、本当にまだそういう空気が残ってる頃だったので。
お父さまのされてきた苦労や当時の世相を思って、企業社会に進まない選択をされたと。
大学もいつでも行けるんじゃないかって思って、まずは手に職を付けようと考えた時、理学療法士が浮かんだ、というのがありました。実際大学は、緑成会病院にいた8年前くらいに入って、心理学部を卒業しました。
社会人になってから卒業されたんですね! 今伺ったようなご自身の境遇が、働き方にも影響を与えたというところはありますか。
父親の影響はあると思いますね。フリーランスでしたから、自分で仕事を作らないと仕事にならないところを見てきたんで。ゼロベースから何かを作るっていう意識は、家庭環境が影響するところはありますね。仕事でも依頼に応えるだけでなく、プラスアルファを出すことは意識しています。
高校生で進路に悩んだ頃と、社会が変わった実感はありますか。
実習時代や働き始めた頃は、自分の名前のことで患者さんから拒否されたような経験もありましたけど、多分今は全然ないだろうし、良い方に変わっていったなとは思っています。もちろん今もなくなったわけではないと思いますけど、少なくとも人と人とで関わる場面では変わったなと。
良い方に変わったという意識があるのですね。
印象的だったのが、多分本人は覚えていないと思うんですけど、僕が入って2、3年くらいにグループの代表と話した時に「国籍とか関係なく、やれる人がやればいいんだから、自信持ってやりなさい」って言われたことがあって。立場を与えてもらって、仕事を認めてもらえたのは自分の経験として大きかったです。グループで働いていこうと思えたのはそういう経験も影響してますね。
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キャリアスタートは激しい職場
山間部の訪問や病棟で培ったキャリアグループ歴が長いと聞いていますが、どのくらいになりますか。
もう12年くらい経ってます。当時はまだ関東にはグループ施設が藤香苑(東京都西多摩郡日の出町)しか無かったですね。
最初の就職先はどんなところでしたか。
まずPTの資格を取って、就職先を探す時、実家から出て一人暮らしもしたかったので、家からちょっと離れた多摩地域の病院に入ったんですね。ベッド数は100床くらいで、内科、リハビリ科、外科があるような小さな病院でした。
そこではどういったことをされていたのですか。
当時のリハビリテーション課の課長が「時代は介護保険に変わる」っていうことをよく言っていて。2003、4年頃だったと思うんですけど、介護保険が始まってまだ3、4年目でそんなに浸透もしていない時期で。訪問リハビリに力を入れていて、PTが4人くらい訪問に行ってたんです。
当時から、介護保険を使った機能維持のためのリハビリに力を入れていて、訪問を強化していたと。
その点で、本当に先見の明がある上司だったなと思います。ただ、以前に医療事業部長の田村さんもこの記事で言ってたと思いますけど、めちゃくちゃな時代ではあったんです。休憩室にお酒やタバコが置いてあったり(笑)。指導も厳しかったですしね。(※)
医療現場っぽくないと言うか。ちょっと前の話ですけど、かなり雰囲気は違ったんですね。そこでは主に訪問をやられていたんですか。
最初は病棟にいたんですけど、そのうち訪問をやるようになりました。五日市市の方をさらに越えて秋川渓谷の方まで行って、片道40kmくらいあるようなところまで訪問していましたよ。今思うと山間部医療でしたね。
都内でもかなり山深いところですが、訪問してみていかがでしたか。
それはすごく魅力的で楽しかったですね。それこそ地域的にも家に行ったら玄関に鍵がかかってないようなご家庭も多くて(笑)。「元気?」みたいな感じで声をかけながら入って行く、っていうことはやっていましたね。
山間の地域ならではですね。
訪問したけど、ご家族が畑に行っちゃってるとか、布団をめくったら猫がいるとか(笑)。
のどかですね(笑)。
そういう東京っぽくないことを1年ぐらいやってくなかで、病棟も経験して、デイケアも半日担当して、いろいろと経験させてもらいました。それが上司の方針だったんでしょうね。
めちゃくちゃなようでいて、ちゃんと幅広く経験を積ませてくれていたと。
そう考えていたんだと思います。そういうことは後になって気付きますよね。「あの上司が言ってたことはこういうことだったんだな」って。その当時は、厳しかったし大嫌いでしたけど(笑)。
その頃はあまり良くは思ってなかったけれど(笑)。
実は8年くらい前に、がんで亡くなられたんですけど、その直前にも「あいつは元気か」って気にかけてくれてて、会いに行ったりはしたんで。そういう意味ではかわいがってもらってましたね。
どのくらいそこでは働かれたんですか。
その病院で働き出して3年経つ頃に、今度は特養を見てみたいなって思って、近くで通えるところはないかなって探したら、たまたまこのグループの藤香苑があったんです。
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グループ施設から緑成会病院の
リハビリテーション部のスタートへ
そこで、藤香苑に入職されたと。
1年間くらい藤香苑で楽しく働いて、特養での仕事にも慣れてきた頃に、ちょうど緑成会病院がオープンするという話が来たんです。
グループに経営が変わって、新たに開院するタイミングだったのですね。
それが10月1日オープンということだったんですけど、9月20日くらいに異動してほしいって言われて。
だいぶ急ですね。
でも、当時の自分としては良かったなと思いました。とりあえず何もわからずにこの病院の入り口に行きましたね。
もともとはどんな病院だったんでしょうか。
5、60年の歴史はある、都立の払い下げ病院だったみたいですね。もともとこの地域では、整形外科の名門だったんです。競輪選手とか力士とか、スポーツ選手の手術も多くやっていて、僕らの時代では入りたくても書類で落とされるくらいのリハビリ病院でした。
それが完全に経営も機能も変わって、再スタートということになって。リハビリテーション課の立ち上げに携わられたのですか。
そうですね。病院に行ったら、今度は大型バスが2台ブワーッと来て、スタッフがたくさん降りて来て「関西から応援です」って(笑)。
心強いですね(笑)。開院以降、緑成会病院ではどんなことをされていましたか。
当時は外来と病棟とデイケアをやっていて、もともと働いていた病院でその辺のノウハウをかなり教え込まれていたので、それがちょうど時代と噛み合って、落とし込むことができたっていうのがありました。
以前の病院で、要介護者の方にリハビリをしてきた経験を落とし込むことができたと。
そこでのシステムを取り入れました。それと、この地域では訪問リハビリテーションを早く始められたと思います。データを元に、地域の動向を見ながら展開していきました。
では、この病院のリハビリテーションの基礎的なことは裵さんたちが作られていかれて。
4、5年はそうやってましたね。4年半くらいはリハビリテーション課の課長としてやっていました。
だんだんと裵さんの仕事も変わっていったんですか。
当時の事務長から「リハビリテーション課も安定してきたから、総務の書類仕事を手伝ってほしい」と言われて、物品購入とか車両や配管の修理とか、そういうところに関わる仕事を1年半くらいやりました。
病院全体の方の仕事に移っていったと。最初に話が出た田村さんもそうでしたけど、リハビリ職から総務職へのルートに進んでいったのですか。
実は田村さんは同期なんですね。当時既に多摩川病院で総務の仕事をやっていた田村さんから「総務の仕事にいったらいいじゃん」って言われたんですけど、僕は結局そちらには進まなかったという。当時、田村さんに何回か飲みに行って総務に誘われたんですけど「ヤダヤダ」って言ってました(笑)。
(笑)。リハビリの現場にこだわりがあったのですか。
田村さんの仕事を後追いしちゃって、後々に超える超えないっていう話になるのが嫌だったのはありましたね。結局僕はそちらに行きませんでした。
お互い別のところでがんばろう、ということですね。
総務の経験自体は生かせたので良かったです。病院で何かをしようとする時、総務をスキップして現場だけでやるっていうのはできませんから。リハビリの現場だけだと見えなかったところですね。いろんなことを経験させてくれるグループならではだなと。
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グループのリハビリテーション部の仕事も担う
部門の組織化を進めていく緑成会病院内の仕事から、今のようにグループの仕事に移っていくのはどんな経緯がありましたか。
6、7年前くらいに、グループの代表から「リハビリテーション部の人員もこれだけ増えてきたんだから、組織図を作ってほしい」という話が出てきて。
当時は今のように、グループのリハビリテーション部として組織だってはいなかったのですね。
まだでしたね。池村さん(※)がリハビリテーション部の部長として立ったくらいの頃で。そこから、関東、関西、中四国で副部長を立てるということになり、関東では僕が最初の頃からいたからか、副部長に選ばれました。
じゃあそこから各エリアで話をすり合わせていくようになって。組織だてていった意図としては、グループ統一のリハビリテーションの基準をしっかり設けようということでしたか。
それよりも、まずは全体管理ですね。当初は全体で管理の「か」の字もなかったので、まずは役職者用に、各エリア職員の名簿を作るところからでした。
まず自分のエリアにどんなスタッフがいるかを把握するところからと。
そこから始めましたね。
だんだん、緑成会病院の仕事から手が離れていったのですか。
そうですね。病院総務の仕事をしながら、リハビリテーション課のアドバイザー的な立場にいたんですけど、そういうグループのことにも携わっていって。そのうちに、世田谷記念病院のリハビリ部門を強化してほしいということで、そちらに移ることになりました。
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スタッフとディスカッションを重ね
各病院のリハビリテーション部門を強化では長らく勤めた緑成会病院を離れ、世田谷記念病院に移られて。
開院してしばらくの落ち着かない時期だったので、あらためてテコ入れをするために行きました。僕以外に、10人くらい応援を一緒に連れていこう、っていう提案もされたんですけど、受け入れる病院側からすると、グループから何人も来るって抵抗を感じるじゃないですか。だから「1人でいいです」って言って、100何十人といるところに1人で入っていきました。
そんな人数のところに1人で入られたんですか。
当然、抵抗もありました。だからもうひたすら会話ですよ。スタッフ一人ひとりに声をかけて会話して。あとは全員の顔と名前を覚えなきゃって思って、顔写真と名簿を付き合わせて覚えていきました。
今も残っている人はそれなりにいるんですか。
いますいます。だから今も行ったらみんな話しかけてくれますし、一番スタッフの顔と名前がわかる病院ですね。
じゃあそうやって話したのが良かったんですね。実際どんなことをされたんですか。
グループのやり方をあらためて落とし込むために行ったんですけど、最初の1年で、グループのことをわかってくれて動けるスタッフがいないか探して引き上げていって。次の1年でデータの見方や作り方、訪問リハビリの考え方とか、僕が持っているものを教えていきました。
そうやって、組織強化に取り組まれていかれて。
やり方は変わるので、どうしても嫌で離れていったスタッフもいたとは思うんですよね。ただ、それはそれで仕方ないかなとは思いながら話をしていきましたね。
当時はほかの病院についても並行して着手していたんですか。
最初は世田谷記念病院にいながらたまにほかのところにも行ってたんですけど、グループの副代表に「骨を埋める覚悟でやれ」とこっぴどく怒られました(笑)。「今までやってきたことだけじゃなくて新しく作れ」っていうことも言われて。1年間はずっとそういう指摘を受け続けていましたね。
その結果、以前よりもうまく回っていくようになったのですか。
僕のそんな様子を見て、周りのスタッフが「自分たちが一生懸命やらないと裵さんが大変だ」って思ってくれたのかもしれないですね(笑)。
(笑)。その後も関東の病院を順々に回っていくと。
次は多摩川病院に1年間行きました。
実際入っていってやることとしては、リハビリの手技などテクニカルなところではなく、どちらかと言うと考え方やシステムの話になるわけですか。
そうですね。現場のシステムを見て「ここってこうできるんじゃないかな」とか「なんでここではこのやり方なのかな」とか、ディスカッションしていって。自分が持っているリハビリのシステムの引き出しがあるので、各病院で合うものにアジャストしていきます。
各病院で全く同じものに統一するわけではなくて、現場の状況に合わせてっていうことですね。
ただ、大枠としてグループで掲げている理念やプロジェクトには沿っているつもりです。同じフォーマットで全部の現場に落とし込めるかっていうと難しくはあって。それぞれの病院でやってきたことがあるので、それと合わせながら、少しでもグループのスタンダードに近づけていくっていう作業が多いですね。
それぞれの現場でディスカッションを重ねた結果、折り合いがつかないこともあるんですか。
そこは折り合いをつけられるところを探します。「この部分は認めるから、こちらが主張するここについては認めてほしい」とかですね。全部を否定するんじゃなくて、いいところは残しながら。でも、以前はそんな感じでコミュニケーションしていたわけではなかったんですね。
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若手スタッフを育てながら、多様性を持ったリハビリテーション部を作っていきたい!
後編を読む

平成医療福祉グループ リハビリテーション部 副部長 裵 東海(ぺい とんへ)
【出身】東京都杉並区
【職種】理学療法士
【趣味】レザークラフト、ガーデニング、DIYなど多数
【好きな食べ物】徳島ラーメンとビール(最近はプリン体ゼロ)
病院情報

東京都小平市小川西町2丁目35番1号
一般財団法人 多摩緑成会 緑成会病院
内科・循環器内科・整形外科・リハビリテーション科・脳神経外科・脳神経内科回復期リハビリテーション病棟、医療療養病棟の2つの病床機能を有し、救急、急性期医療後の患者さんを迅速に受け入れ、入院早期からの積極的な全身管理とリハビリテーションを行い、できるだけ早く自宅や施設に退院していただくことを目標としています。また、在宅療養中や施設入所中の方の状態が悪化した際にも、後方支援病院として迅速に受け入れを行います。退院後も、外来診療のほか、訪問・通所リハビリテーションや施設訪問診療などを通し、一貫した取り組みで地域の患者さんを支えてまいります。